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フリオ・デ・カロ楽団が最初の音楽的ピークを迎えた1920年代後半は、タンゴにとって最初の黄金時代でもあった。だが、1930年代に入り、タンゴは混迷の時期を迎えた。1929年の世界大恐慌に端を発する不況と、ジャズに代表される(主に北米からの)外来文化の流入が、ブエノスアイレスの大衆音楽であるタンゴの存在基盤を危うくしたのである。そんな中、20年代から活躍を続けて来たアーティストたちも、変革を余儀なくされたのだが、デ・カロも例外ではなかった。そればかりか、デ・カロの恐らくは迷いながらの変化は、彼の音楽の本質を見失いかねない結果となってしまったのである。
例えばデ・カロは1936年に、オルケスタ・メロディカ・インテルナシオナル(インターナショナル・メロディック・オーケストラ)を結成している。これは、オルケスタ・ティピカの編成に木管楽器やドラムスなどを加えた大掛かりなもので、スウィング・ジャズの要素を取り入れた演奏を披露したものの、結果は散々だった。この時期のデ・カロはほかにも様々な編成での演奏を行っているが、どれも長続きはしなかった。デ・カロは、こうした試みとは別に、通常のオルケスタ・ティピカでも演奏活動を行っている。1930年代後半から1940年代前半にかけての録音を聴いてみると、当時人気を席巻していたフアン・ダリエンソ楽団の影響からか、テンポがかなり速いが、デ・カロ本来の雰囲気とは相容れず、性急な印象のみが目立ってしまう。
デ・カロ自身はそのように低迷していたのだが、その一方でタンゴ界には、1920年代にデ・カロの影響を受けたアーティストたちが次々に台頭していった。デ・カロ楽団で第1バンドネオン奏者を務めていたペドロ・ラウレンスは1934年、同僚のアルマンド・ブラスコ(バンドネオン)、ホセ・ニエソウ(ヴァイオリン)などを引き連れて独立し自分の楽団を作った。ここの初代ピアニストがオスバルド・プグリエーセで、そのしばらく後にはアルフレド・ゴビ(ヴァイオリン)も短期間だが参加していた。後にアニバル・トロイロ楽団のピアニストとなるホセ・コランジェロも在籍したことがある。ラウレンス楽団は、デ・カロの影響を受けつつ、ラウレンスの輝きのあるバンドネオンを中心に独自の個性を築き、1940年代から1950年代前半にかけて活躍した。ラウレンスはその後、オラシオ・サルガンらのキンテート・レアルのメンバーとしてスポットライトを浴びることになる。
1940年代以降の楽団で、デ・カロ以降の流れに属するものといえば、最初に名前が挙がるのはやはりアニバル・トロイロとオスバルド・プグリエーセということになる(両者については、それぞれの項目を参照して頂きたい)。特にプグリエーセは、デ・カロが編み出したスタイルの究極の表現者ということになるだろう。トロイロやプグリエーセの項目でご紹介した、それぞれの楽団出身者などのアーティストたちも、当然のことながらその源流はデ・カロということになり、もちろんアストル・ピアソラも例外ではない。そのほかでは、オラシオ・サルガンなどにデ・カロからの影響が強く感じられる。
そうしたフォロワーたちの活躍が目立つなか、当のデ・カロ自身も、1940年代末には息を吹き返した。デ・カロ楽団は1944年から5年ほど録音活動から遠ざかっていたが、1949年に録音を再開してからのサウンドは、往年の輝きを取り戻したばかりではなく、よりスケールの大きな世界が展開されていたのだった。デ・カロ自身は既にトップ・ヴァイオリンの座を降りて指揮に専念していたが、原点回帰したことで、デ・カロ本来の粘りのある力強いサウンドが甦ったのである。だが、それも長くは続かなかった。時代の流れに完全に乗ることが出来なかったデ・カロは、1954年にはタンゴ界から引退してしまう。
かくしてデ・カロは表舞台から去ったが、デカリスモ(デ・カロ的な感性)は脈々とタンゴ界に受け継がれている。オルケスタ・ティピカの時代が終わって以降も、例えば1970年代のセステート・マジョールやエンリケ・フランチーニ八重奏団、そして近年のオルケスタ・エル・アランケに至るまで、デ・カロからの影響を感じさせる楽団は少なくない。
(この項終わり)

エル・ムンド放送局に出演中のフリオ・デ・カロ楽団(1950年)
中央譜面台の向こうがデ・カロ。この写真では判別出来ないが、この時の第1ヴァイオリンはベルナルド・ベベル、第1バンドネオンはカルロス・マルクッチだった。
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