タンゴのアーティスト(13) 「改めてアストル・ピアソラを考える」その1

アストル・ピアソラは、タンゴの歴史の中でどんな存在だったのだろうか。まずは、ごく簡単な年表を作ってみよう。

 1921年 ブエノスアイレス州マル・デル・プラタに生まれる。
 1925年 家族でニューヨークに移住。
 1929年 父親からバンドネオンを買い与えられる。
 1934年 大歌手カルロス・ガルデルと邂逅。
 1936年 マル・デル・プラタに帰国。
 1938年 ラジオでエルビーノ・バルダーロ楽団の演奏を聴き、タンゴの可能性に目覚める。
 1939年 単身ブエノスアイレスに移住。アニバル・トロイロ楽団に参加。
 1941年 アルベルト・ヒナステーラに師事。
 1944年 トロイロ楽団から独立、歌手フィオレンティーノの伴奏楽団指揮者に。
 1946年 自身のオルケスタ・ティピカ結成。
 1949年 タンゴに限界を感じ、ティピカを解散。
 1950年 「パラ・ルシルセ」作曲。
 1954年 パリに留学し、ナディア・ブーランジェに師事。
 1955年 帰国後ブエノスアイレス八重奏団、弦楽オーケストラ結成。
 1958年 ニューヨークに渡り不毛の音楽活動。
 1959年 「アディオス・ノニーノ」作曲。
 1960年 帰国し、五重奏団(キンテート)結成。
 1962年 五重奏団にアントニオ・アグリvn参加。
 1965年 『ニューヨークのアストル・ピアソラ』録音。
 1969年 「ロコへのバラード」大ヒット。
 1970年 レジーナ劇場でロングラン・リサイタル(前年末より)。
 1972年 究極のアンサンブル、コンフント9で活動(前年末より)。
 1974年 イタリア移住、『リベルタンゴ』録音。
 1978年 五重奏団再結成。
 1982年 初来日公演。
 1984年 ミルバとのリサイタル。
 1986年 『タンゴ・ゼロ・アワー』録音。
 1989年 最後のグループとなった六重奏団(セステート)結成、半年間活動し解散。
 1990年 パリにて脳溢血で倒れる。
 1992年 ブエノスアイレスにて死去。

極めて簡単な事項のみを抜き出したつもりだが、それでもこれだけの長さになる。個々の説明は順次していくとして、とりあえずは概略だけでも掴んで頂ければと思う。

ピアソラを考える上で、多感な少年時代をタンゴの文化とは無縁の土地であるニューヨークで過ごし、タンゴを外側から見る視点が養われたことは重要である。そして、タンゴにとって黄金時代だった1940年代前半を、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったアニバル・トロイロ楽団のメンバーとして過ごしたことも、これまた重要である。もともとタンゴの異邦人だったピアソラが、タンゴのエッセンスが充満した環境に身を置いたこと、これが後の音楽家ピアソラを形成する上に大きな作用を及ぼした。また音楽的な影響という意味では、トロイロ以上にオスバルド・プグリエーセやオラシオ・サルガン、オスマル・マデルナらの存在が大きかった。もちろん彼らの源流にあたるフリオ・デ・カロからの影響も多大である。1940年代当時の慣例といってしまえばそれまでだが、ピアソラが最初に作った自分のアンサンブルは、オルケスタ・ティピカであった。それはまさにデ・カロ〜バルダーロ〜トロイロの延長線上にあるサウンドであり、1946〜48年にオデオンに録音したインストゥルメンタル全16曲中、フリオ・デ・カロ作品が5曲も含まれていたのは、異例ともいえる数である(うち1曲はペドロ・ラウレンスとの共作。そのほかにペドロ・マフィア作品も1曲ある)。ちなみに自作のインスト曲は「エル・デスバンデ」「セ・アルモー」「ビジェギータ」の3曲だけだった。

この項続く


Astor Piazzolla, Hugo Baralis, etc.
ホテルでくつろぐピアソラ楽団のメンバー(1948年頃、モンテビデオのホテル・アストルにて)
左からウーゴ・バラリス(ヴァイオリン)、アルベルト・フォンタン・ルナ、アルド・カンポアモール(いずれも歌手)、アストル・ピアソラ(バンドネオン)。バラリスの手前は作詞家のフェデリコ・シルバ。


<タンゴのアーティスト(12) 「ミゲル・カローとその系譜」その2>に戻る

<タンゴのアーティスト(14) 「改めてアストル・ピアソラを考える」その2>に進む

「タンゴ入門講座」インデックスに戻る

HOMEに戻る


Copyright(C)2001 Mitsumasa Saito, All Rights Reserved.
E-Mail: mitsumasa_saito@nifty.com