セルロイドの精霊
『新世紀エヴァンゲリオン』と『ルパン三世』
様々な作品からの引用や影響が指摘されるアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』であるが、ここでもひとつその元ネタと考えられる作品について書いてみよう。『エヴァ』第壱話「使徒襲来」を見て思ったのだが、これは『ルパン三世』と似てるのではないか? それも所謂「旧ルパン」つまり1stシリーズに。
最初に気づいたのは、第3の使徒サキエルと白乾児が似ているということだった。
白乾児というのは旧ルパン2話「魔術師と呼ばれた男」に登場した殺し屋。(白乾児(パイカル)は元来は中国酒の名前。ちなみに英字ではbai gangrあるいはbaiganrなどと表記される)
どちらも正体不明で攻撃をよせつけず、目標に向かってひたすら直進してくるという不気味な存在である。サキエルは掌から出るパイルと呼ばれる光で攻撃する際に相手に向かって手をかざすポーズをとるが、白乾児も火炎放射の際には相手を指差す。
どちらも空中に浮かぶ場面がある。サキエルはN2地雷で、白乾児は手榴弾でと強力な武器では一時的に行動を止められるが、やがて回復し再度侵攻をはじめる。使徒の身体はATフィールドで守られているが、白乾児の身体は超硬質皮膜で守られる。
というように類似点は色々あるが、何より似ているのは全体の雰囲気で、いきなり謎めいた不気味な存在がまったく唐突に襲撃してくるという不条理であり、その敵の非人間的な異様な存在感であろう。
エヴァ第壱話の冒頭は海中を進むサキエルの姿からはじまるが、旧ルパン2話でルパンの登場シーンにはルパンの乗るボートに蛸が這い上がるところが描かれている。(この話でルパンは蛸を見ただけで青ざめるほど恐れているという設定になっている。「魔術師と呼ばれた男」はモンキー・パンチによる原作7話「魔術師」とほぼ同じ内容であるが、この設定は原作にはない)つまり両作とも主人公の恐怖の対象が海からあらわれる。ルパンのほうは敵が蛸から白乾児へと切り替わるわけだが、舞台が海辺であり、不気味なものの現れる異界に接した場所という点で共通しているといえる。
そして、むき出しの皮膚でも銃弾を跳ね返す白乾児は決定的に非人間的といえるし、サキエルは巨大で一見ロボットのようでもあるが、それでいて、呼吸をしていたり知性があると語られるなど人間に近い部分もあるのが不気味である。
「エヴァンゲリオン」は円谷特撮作品からの影響がよく指摘されるが、西暦2015年という設定はケムール人の登場した『ウルトラQ』第19話「2020年の挑戦」を連想させる。また、サキエルの両肩のあいだに頭部がめりこんだシルエットは『ウルトラマン』第23話「故郷は地球」に登場したジャミラを思い出させる。ケムール人やジャミラはともに元人間だったものが変化した怪物でなのである。
一方、科学薬品によって強化された身体を持つ白乾児は、円谷特撮でいうなら映画では『美女と液体人間』や『電送人間』、テレビシリーズなら『怪奇大作戦』などの等身大の怪奇人間の系譜に連なる犯罪者といえる。白乾児とサキエルは、巨大か等身大かという違いはあれ、怪獣らしい怪獣とは別の、人間から変化した怪物の系譜に属しているのである。(もっともモンキー・パンチに円谷特撮から直接の影響があったかは不明である。雰囲気的にはむしろ『アウターリミッツ』などのアメリカのSFテレビドラマ(ハーラン・エリスンが脚本をかいていたような辺り)の影響があるのかもしれない。)
「エヴァ」と「旧ルパン」からもう一つ重要な共通点を挙げられる。
エヴァ第壱話で主人公シンジが初号機に乗って使徒と戦うよう要求される場面。突然の要求にシンジが躊躇していると、彼の父でもある司令官碇ゲンドウは代わりに、重傷を負って包帯を巻かれ点滴を受けている少女綾波レイを出撃させようとする。それを見てシンジはやっとエヴァに乗ることを決意する。この時シンジはレイと会うのははじめてである。これはまるで旧ルパン11話「7番目の橋が落ちるとき」のようである。この話で犯罪者ボルボは、ルパンに対して見ず知らずの少女を人質に取り現金輸送車襲撃を要求するのである。
つまり、エヴァ第壱話「使徒襲来」には、とにかく不死身の敵と戦わねばならないという大和屋竺的不条理と、なぜか美少女を救出しなければならないという宮崎駿的不条理が一話の中に同居しているということになる。
エヴァ的錬金術について、
あるいはシステムに介入するRPG
「新世紀エヴァンゲリオン」という作品について、一つ問題点を挙げるとすれば、それは、主人公シンジに、探偵としての資質がまったく欠けるということではないだろうか。
主人公が探偵でなければならないという決まりがあるわけではないが、この作品には「ネルフの目的とは」「使徒とはなにか」といった、無数の謎がバラまかれていながら、それらがなおざりのままというのは、このシンジの資質の問題であろう。必ずしもすべての謎に答えを出さねばならないということはないが、それでも、謎の解明へと迫まるモーメントは欲しい。
その点、『ルパン三世』のアニメ映画の初期二作、すなわち『ルパンvs複製人間』と『カリオストロの城』はよくできていたといえるのではないか。それぞれクローンやニセ札と歴史の暗部とのつながりが解明される過程がスリリングに描かれていたためである。
この二作がいずれも錬金術と関連しているのも偶然ではないだろう。マモーは人造人間を生成しながら賢者の石を求め、カリオストロは実在の錬金術師の名前である。そして錬金術師とは黄金造成だけを目的とするわけではなく、元来は世界の秘密の探求者のことなのである(詳しくは澁澤龍彦や種村季弘の本でも読みましょう)。
「エヴァンゲリオン」も、その物語構成は錬金術的なものとして解釈できる。
シリーズを通しての展開を大雑把にまとめればつぎのようになる。
使徒との戦いの反復→人類補完の発動
錬金術の基礎は四大元素の統合によって〈賢者の石〉とか〈第五元素〉と呼ばれる聖なる物質を生み出すことであるが、「エヴァ」の場合だと使徒との戦闘が元素(エレメント)の操作で人類補完が〈聖なるもの〉の顕現と見なすことができる。
あるいはこれはRPGに喩えることもできる使徒との戦闘の反復によって主人公は経験値を上げレベルアップしていく。ビデオゲームの場合ならレベルが上るとより強い敵と戦えるようになるだけだが、この錬金術的RPGでは、キャラクターが一定のレベルに達するとゲーム世界を構成しているシステムそのものにアクセスできるようになるのだ。(押井守の『アヴァロン』はそんな話)
問題はシステムに触れられるようになったとしても、それが即、世界を好きなように書き換えられることを意味するわけではないということだ。そこはそれまでいた地上とはまったく別の法則で動いている世界なのだから。だからテレビ版にしろ劇場版にしろ「エヴァンゲリオン」の結末がわけのわからないものになるのは、それなりの必然の結果なのである。
以下参考までに他の同じような構造の作品をいくつか挙げてみよう。
◇木曜の男(1908)
チェスタトンの小説。(最近出た新版は『木曜日だった男 一つの悪夢』というタイトル)アナーキストの組織に加わることになった男の話で、最後は花の精のコスプレショーのようなものが始まる。よくわからない話だったが、ここに挙げるにはふさわしいだろう。タイトルの「木曜」というのは主人公の組織でのコードネーム。19世紀のフランスの革命家ブランキの秘密結社で実際このような名が使われていた。(野阿梓のレモン・トロツキー第一作「眼狩都市」でも主人公の暗号名は「木曜」だった。)
◇殺しの烙印(1967)
殺し屋ランキングの階梯を上っていき、いよいよ幻のナンバー1と対決することになると、わけのわからない世界に突入する。これが一人の敵との対決の反復になると『荒野のダッチワイフ』になる。これらの作品のような映像で、使徒を殺し屋に置き換えて「エヴァンゲリオン」をリメイクしたらどんな作品になるだろうか?
◇エルトポ(1970)
元祖カルトムービー。監督アレハンドロ・ホドロフスキー。前半は砂漠での四人のガンマンとの対決、後半は地下に暮らすフリークスたちの救出が描かれる。錬金術などにも詳しいこの監督、前半のガンマンたちは四大要素をあらわしていると思われる。そして悲劇的な惨事へいたる結末は聖なるものの出現は簡単にはいかず、社会的な活動としては特に難しいということだろう。
◇うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー(1984)
押井守の出世作。学園祭前日という同じ一日が延々くりかえされるという話。この作品に登場する夢を作る能力のある夢邪鬼という妖怪が世界史的事件の黒幕であるかのように語られる場面もある。「エヴァンゲリオン」をサード・インパクト前日のドタバタのくりかえしと考えるならこの作品との相似性は明らかだろう。(エヴァの新しい映画シリーズは、よりこの「ビューティフル・ドリーマー」に近い構造になってるのかも?)
◇フーコーの振り子(1988)
ウンベルト・エーコの小説。解釈に解釈を重ねていくと、やがて解釈の暴走状態に陥る。それが陰謀論のメカニズムとして絵解きされている。〈聖なるもの〉など存在しないのだという話で、いわば錬金術の裏面としての陰謀論。じっさい錬金術はうまくいかないのが本当なのだ。
「7番目の橋が落ちるとき」について
高畑・宮崎コンビが演出を担当するようになってからお子様向けになったと言われる旧ルパンだが、この「7番目の橋が落ちるとき」は、まだ大隅正秋演出のトーンをひきずりつつ、それでいて後の「カリオストロの城」につながる宮崎アニメの雰囲気もあるという独特な位置を占める作品である。
いろいろ凝ったアイディアが盛り込まれた内容であるが、プロットの骨格は原作の14話「賞金稼ぎ」と17話「どじ」の複合で構成されている。「賞金稼ぎ」からはルパンと無関係の女を人質にして仕事をさせるという部分と、巨大な絵を使ったトリックで現金輸送車を捕獲するところ(小鷹信光の『私のハードボイルド』には、このアイディアの原型らしき古いアルセーヌ・ルパンの映画についての記述がある)、「どじ」からは橋の連続爆破によってルパンをおびき寄せるという部分が使われている。
原作マンガでは橋の爆破はアイウエオ順であったが、アニメでは現金輸送車のルートを変更させるためのものになっていて、これが後半の「賞金稼ぎ」の展開につながることになる。
原作「どじ」のアイウエオ順に事件を起こすというのは、アガサ・クリスティーの小説『ABC殺人事件』を思い出させるが、トリックの目的は別である。「どじ」の犯人は“白乾児の妻”と名乗る女で、復讐のためにルパンをおびき寄せたのだった。最後はこの女の投げた爆薬入りのナイフが爆発しルパンは黒焦げになるというギャグでオチになっている。タイトルの“どじ”とは爆薬の解除に失敗した次元のことであろう。つまりこの話ではルパンのほうが負けて終わりなのだ。
犯人が起こした事件によって主人公おびき出し復讐するという展開は、まるでボルヘスの短編小説「死とコンパス」のようでもある。これはいわゆる〈ミッシングリンク〉ものの応用で、その発見が同時に罠であるという逆説が描かれている。
本格ミステリ以外で〈ミッシングリンク〉テーマの応用では、ウルトラセブン第8話「狙われた街」がこのパターンだが、最後は、犯人であるメトロン星人が巨大化、セブンと対決しあっさり敗れ去る。まあ、これはお約束なので仕方がない。
この「狙われた街」の人間の凶暴化をレイバーの暴走に置き換えたものとして考えられるのが『機動警察パトレイバー』の劇場版一作目である(木造アパートへのこだわりや、当初は葬式の場面から始める構想だったという押井守の発言もあるので、じっさい意識していたと思われる)。さらに劇場版第二作は、橋の連続爆破というモチーフを「7番目の橋が落ちるとき」と共有している。いずれも最後は戦闘になり、結局主人公側が勝つのは「ウルトラセブン」と同じだが、この「パトレイバー」劇場版連作では《犯罪=映画》という観点を提示したことで、表面上の起承転結を問題としない別のレベルが開かれた。つまり、ある風景を見せる、あるいは状況を演出すること、これらを目的として犯罪やテロはおこなわれるということである。
「7番目の橋が落ちるとき」では、犯人の仕掛けた罠から脱け出るために、ルパンのほうもトリックを用いる。他人の演出を乗っ取って、自分の犯罪に書き換えてしまうのがルパンの戦い方なのだ。平面である絵に現金輸送車を飛び込ませ、水上スキーで逃走するこれらの方法には、奥行きや深みを求めず、問題をはぐらかし横滑りさせるという「ルパン三世」というシリーズの基本姿勢があらわれている。
「悪のり変奏曲」について
『ルパン三世part3』第13話「悪のり変奏曲」は鈴木清順が脚本を書いていて、独特な雰囲気の作品となっている。ストーリー自体は、原作や新ルパンの断片をつぎはぎにしたようなもので目新しいものではないのだが、やはりどこか奇妙な印象がある。(武器商人が出てくるところは照樹二作を意識した?)
テレビ・シリーズの中でこの回が異例なのは、次元がまったく活躍しないことだろう。登場シーン自体少ない。この話が多少ともわかりにくいとすれば、いつもはルパンの対話相手で状況の解説役だった次元がいないことが原因ではないか。
次元の代わりに出番が多いのが、カラスである。十字架にかけられたルパンを助け、川を流されるルパンの胸の上にとまり、滝の奥の洞窟ではルパンを襲うが逆に食われてしまう。そしてラスト、橋のポールからルパンを見下ろすカラスの姿も印象的である。
では、なぜカラスなのか。その黒づくめ姿から連想されるのは不気味なもの、不吉なものといったイメージだろう(ポーの詩「大鴉」のように)。
黒づくめといえば、いつもの次元のスタイルである。また、それは西部劇やアクション映画などではおなじみのキャラクターでもある。黒づくめのガンマンや殺し屋など、敵か味方かも不明のまさに不吉で不気味な存在である。
次元も、当初はそのような映画における〈不吉な男〉の系譜を引き継ぐ存在として意図されていたのではないか。
問題は「ルパン三世」のシリーズが進むにつれて、次元がたんなる解説役や、ルパンのピンチを都合よく助ける存在へと成り下がったことにあるのではないか。「悪のり変奏曲」ではカラスが、文字どおり食うか食われるかという緊張感のある関係のパートナーとなっている。
あるいは鈴木清順はたんに、美学的な画面づくりのためにはカラスが必要だと思っただけかもしれないし、それとも深い考えなど何もなかったかもしれない。しかしともかく結果として、次元の活躍が削られることになるということは、アニメ「ルパン三世」にとっての次元の描かれ方に対する批判という解釈が可能なはずである。
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