暗殺のグランギニョール
大和屋竺的世界について
大和屋竺の映画の主人公は、だいたい組織から狙われていたり、陰謀に巻き込まれていたりする。主人公は生き延びるため「外」を目指さなければならない。
映画の中によく映画が出てくるのも、スクリーンから「外へ」という運動と位置付けられる。
しかし結局、「外へ」と向かう運動は、最終的に映画という枠組みが定っている以上、その先へは進めない。夢から覚めたと思っても、かえって今もまだ夢の中ではないかという疑いを捨てられなくなる。
もし、あくまで「外」を目指すなら端的に画面から消えてしまうよりないだろう。『毛の生えた拳銃』の主人公司郎のように。
むしろ、「外へ」という運動は、それが不可能だと知らしめるために描きこまれているのではないか? そして、外へ出ることが不可能であると知った時、人間はオブジェになる、あるいは人形に。
『裏切りの季節』で突然地面の上を滑り出すコウモリ傘は、人形の目で見られた世界のようである。(『裸の銃弾』のラストもこの変形だった。)
『荒野のダッチワイフ』のダッチワイフ達も『愛欲の罠』の腹話術の人形も人間が演じていた。
復讐や殺し屋ナンバー1を目指すなど機械のように一つの目的に向かってひたすら邁進する主人公も人形的といえる。『毛の生えた拳銃』は司郎が消えた後、その意志を引き継ぐようにボスを狙って動き出す二人の殺し屋は、よりその人形的な自動性が強調されているといえるのではなかろうか。
大和屋の作品には、時に、ただ新奇な殺人トリックを見せるためだけに全体が構成されているかのようなストーリーがある。トリックによる殺人はいつでも見るものを惹きつける。トリックが実行される瞬間というただ一点のため全ての登場人物は奉仕させられ、その動作はどこかぎこちなく不自然である。だがその人形と化した人間の動きにこそ大和屋的世界の魅惑がある。
人形の目で見られたかのような世界で、人形と化す人間達。その異様さこそが大和屋竺の作品世界でなのある。
■大和屋竺脚本作品についての覚え書き
◇裸の銃弾(1969)
監督・若松孝二。ワン・アイディアによるシンプルな現金強奪モノ。復讐譚ともいえるが、それならば、主人公が最後に対決すべき相手は、あの車椅子のボスではないのか。そういえば、この作品にはいろいろとちぐはぐな所がある。冒頭の回想で登場したボスはその後まったく姿を見せないし、主人公・勝と再会した操はその後どうなったのか、そして本物の麻薬は結局どこに隠されていたのか。つまり、この脚本では伏線というものがまったく機能しないよう構成されているかに思える。唯一まともに機能している伏線が《小指=銃弾》というアイディアである。これは、ただ一つの伏線のみで物語を構成することは可能かという実験なのではなかろうか。
◇野良猫ロック・セックスハンター(1970)
監督・長谷部安春、脚本・大和屋竺、藤井鷹史。基地の町を舞台に不良少女のグループを主人公にした作品。〈体制への反逆〉といったテーマの物語であるとするならば、〈若者〉対〈大人〉から〈日本〉対〈アメリカ〉へと発展してもよさそうだが、じっさい描かれるのは日本人と混血児あるいは男と女の対立などで、つまりこれは本来、反体制側としてともに戦うべき勢力が内紛によって崩壊してゆく様態である。
このことはアレックス・コックスの『ストレート・トゥ・ヘル』と似ているように思う。この映画は銀行強盗が逃亡し、たどり着いたマカロニウエスタン風の町で破滅するまでを描いたものである。デニス・ホッパーが確か石油会社の重役にして武器商人といった役で、愛人にグレース・ジョーンズを引き連れて登場するが、その時のセリフが「一つの町に親分が二人」というようなことをくりかえしていた。これは『用心棒』そして『荒野の用心棒』での主人公のセリフの引用である。
『用心棒』『荒野の用心棒』は流れ者の主人公がある町を支配する二つの勢力のあいだを行き来しながら、ガセネタを流して両者を相争わせ双方ともに壊滅に追い込むというストーリーである(原型はハメットの小説『血の収穫』)。この主人公のセリフを言わせるということは、その人物が状況をコントロールしているという意味ではないか。だから『ストレート・トゥ・ヘル』では終盤かんじんなところで車がエンストしたり銃が故障したりするのである。
つまりこれは『血の収穫』的な状況をだまされる側の視点から描いた映画といえるのではなかろうか。この点で『野良猫ロック・セックスハンター』にも似た感触があるように思うのである。ならばしかし、この映画では、だます側の者はどこにいるのだろうか?
◇セックス・ハンター・濡れた標的(1972)
監督・澤田幸弘。この作品は復讐という行為の二つの相を描いたものと思われる。主人公・春彦は妹・夏子が米兵に暴行され縊死したことを知り情報を集めはじめる。そして事件の目撃者である滝と出会い復讐を決意する。滝は事件の様子を客観的な観察者のごとく淡々と語り犯人の米兵の名をフルネームではっきりと伝える。米兵たちもまた戦争により負傷あるいは戦死していることが明らかになるが、ともかく復讐は果たされる(このとき滝は麻薬を盗むのが目的で春彦を導いたのではないかと疑惑を持たれるが、真相は明らかにされない)。春彦は日常に戻り、バーテンとしてまじめに働いている。しかしその店でもう一人の被害者・悦子が、暴行された時と同じく身体に酒をかけられたのをきっかけに記憶を甦らせると、春彦は拳銃を持ち出し客たちへ向け乱射し始める。最初の復讐は客観的で理性的な情報に基づいて実行される。しかし復讐という行為にはそれだけでは飽き足らない部分があり、結末では主観的で情動的な復讐が相手を選ばずに開始されるのである。
◇番格ロック(1973)
監督・内藤誠。東映スケ番もの。脚本は前半を大和屋が、後半を山本英明が担当したらしい。山本英明は高倉健のヤクザ映画や『さらば宇宙戦艦ヤマト』などの脚本を書いている人で、この『番格ロック』も後半部は敵ながらの友情やタイマン勝負などそれらしくまとまっている。前半部はおもにスケ番グループの乱闘のくりかえしだが、その中で気になる仕掛けがある。主人公の由紀子が室内にいると、いつも部屋の外の響きが聞こえてくるのである。少年院から自宅に帰り自分の部屋にはいるとガチャコン、ガチャコンという父親の操るプレス機の音、再会した恋人でヤクザになっていた勝に部屋で抱かれている時には鉄道の音、そして隣室からはヤクザに犯されている少女の叫び声、警察の取調室にいる時は署内で乱闘を始めたスケ番たちの騒音というように(どこまでが大和屋脚本の指定か不明だが)。これは由紀子が少年院にいる際に、懲罰房で長く寒い夜を過ごしたという過去のため、部屋の外の響きにとくに敏感になったという設定なのかもしれない。
◇ルパン三世・ルパンvs複製人間(1978)
監督・吉川惣司。(2ちゃんねるで得た情報だが)この作品の脚本、じつはほとんどすべて吉川惣司によって書かれたらしい。大和屋が書いたのは「地上におる者みな死すべし」というマモーのセリフ一つだけなのだとか。それでもこの作品は大和屋的といえる。冒頭ルパンが絞首刑になるところから始まることを想い起こそう。これはアンブローズ・ビアスの短編小説「アウルクリーク橋の一事件」と同じ始まり方なのだ。だから、同じくこの小説を元ネタとして書かれた『荒野のダッチワイフ』の別バージョンとして見れるのである(!?)。
◇探偵物語・第24話「ダイヤモンド・パニック」(1980)
監督・小澤啓一、脚本宮田雪、大和屋竺。天本英世が殺し屋として登場。持ち主がつぎつぎ死ぬという呪われたダイヤも出てくる。つまりこれは『殺人狂時代』(岡本喜八)のパロディではないか。
◇傷だらけの勲章(1985)
監督・斉藤光正。ホルヘ・ルイス・ボルヘスとアドルフォ・ビオイ=カサレスが世界中から、とにかく短い物語ばかりを集めたという『ボルヘス怪奇譚集』の中に「ふたりの王とふたつの迷宮の物語」という一編が収められている。どんな話かというと、まずバビロニアの王がアラビア人の王を罠にかけ精巧な迷宮に閉じ込める。何とか脱出したアラビア人の王は仕返しに捕らえたバビロニアの王を砂漠の真ん中に置き去りにするというもの。『傷だらけの勲章』は迷宮のような東京とカイロの砂漠を舞台とした刑事もので、このエピソードを元ネタにしたのではないかと思われる。
|