始めに
この日記を書こうと思ったのはアメリカのニュージャージーに単身赴任をするのがきっかけでした。今まで家族と一緒に過ごすということが当たり前と思っていた(勿論長男の真が北海道に下宿しているとか出張が多くて家族の顔を見ることが少ないとかはありましたが)のがある日突然単身赴任という現実が私と私の家族に降りかかって来たのでした。始めはいろいろと悩んだりしたのですがこのことにも何か大きい神様の御心が働いているのだと言う確信とある意味で私と家族の関係を見なおして見る良いきっかけとなるのではと思ったりしたのです。単身赴任ですから今までよりも時間は自由になりますし、これまで造ってきたホームページも写真ばかりではつまらないと思い(下手な文章だともっとつまらないといわれるかもしれませんがそれはご容赦願います)フィラデルフィアとニュージャージーにきた思いを書いてみようと思って始めたんですが書いているうちに段々と自分の生い立ち、小さい頃の思い出を書き留め特に子供たちに伝えるという気持ちも出てきました。下手な文章ですがある人間のいろんな思い、半生の出来事を綴ってみました。皆様がこれをお読みになり少しでも楽しんでいただければ幸いです。
米国ニュージャージー州マールトンにて
2001年1月
つとむ
幼年期
私は今まで証というものは書いた事がありません。でも今度単身赴任という機会が与えられて(?)自分の時間が今までよりもたくさん与えられたのでちょと自分を振り返る意味でも書いてみたいと思いました。あまり証と関係の無い話もありますが自己紹介のつもりで書いてみました。
私は1948年7月7日に京都で生まれました。京都の大徳寺の近くだったと聞かされていますが生まれた家は見た事がありません。物心がついたときは京都の南にある宇治市の木幡(こばた)というところにある大きな家に住んでいました。その当たりは田舎で大きな家が沢山あり私の家も部屋の数が15−6もある大きな家でした。小さい頃は子供が掃除をするのが役目で毎週日曜日になると長い廊下の雑巾がけをやらされていました。また大きい家でしたが古くて雨が降ったりすると雨漏りで大変でした。家中総動員でいろんなところに洗面器とかバケツをおいて漏ってくる雨水を受けるのが常でした。
私は母によると小さい頃はとても気が強く母をいろんなことで困らせたようです。とくに幼稚園にいく事が嫌いで母はいった将来学校にいくようになったらどうなる事かと心配したようですがどういうわけか小学校に入ったらなにも言わずに学校にいくようになったそうです。私にも理由はよく分かりませんが人間は年と共に性格も気質も変わるという事でしょうか。
私が小学生の時だったでしょうか、母の事でとても印象に残った事がありました。その当時は戦争が終わってまだ米軍兵士がいろんなところにいた頃でした。その当時子供たちはアメリカの兵士がいるとチューインガムとかチョコレートとかいろんな物をねだっている光景が日常茶飯事でした。そんな時母が確か京都駅で汽車が出発するのを待っていたときだと思います。その時なぜか母がわたしがどこかで買ったヤドカリをそのとき子供たちに物を上げていた兵士に渡してきなさいと言ったのでした。私は言われた通りに子供たちをかき分けて兵士にそれを渡しました。この兵隊さんもヤドカリを渡されてびっくりしたと思いますがそのあとで私たちにアイスクリームをもらってきてくれたのを覚えています。でもこの時に私は母にとても大切な何かを教えられたというかもらったという気がします。子供を育てるという事は教育、しつけいろいろあると思いますが親の心というか信念というか何か自分の体に中に流れているある部分を伝えることが大切なのではないかと思います。私も子供を持って、育ててみてそのように私の中にあるもの流れるもの(もちろんこれは私からくるものではなく神様からくるものダルと思いますが)の一部を子供がみて受け取ってくれたらなあという願いを覚えさせられます。
また京都は台風が良く来て毎年台風がくると宇治川が氾濫して洪水になりました。私の家は幸いに浸水する事はありませんでしたが本当に近くまで水が来て家に水が入ったらどうなるかと心配した事も何回かありました。いつだったか忘れてしましましたが第二室戸台風というのが関西を襲い大変な被害がありました。私の家は大きかったので風でゆれるという事はありませんでしたが他の人たちの話によれば家が風でゆれてとても恐かったとのことでした。私たちも台風が来たときは風で長い縁側のガラス戸が飛ばされるのではないかという事でガラス戸を全員で押さえていたのを覚えています。後で聞いた話ですが隣は私の家の瓦が縁側の窓をぶち壊して飛んできて大変だったそうです。我が家は結局被害も殆ど無かったのですが近所の家の屋根全体がまるで誰かが持ち上げて横に置いたように吹き飛ばされていたのを見ました。この家はいつも新しくていい家だなと思ってみていたのですが瓦ではなく軽い木と金属の屋根だったので重くなかったので飛ばされたのだと思います。子供ながらに家なんて案外見かけが良く見えても駄目なんだなとおもいました。
家族は全部で5人一時は父のやっていた会社がうまくいっていたときもあり運転手とお手伝いさんがいたときもありました。父は東大の法学部の出身でとても見栄っ張りの人でした、事業がうまくいかなくなっても時々出入りしていた洋服屋さんに背広を作らせたり毎日クリーニングで糊の効いたワイシャツを着ておしゃれして出かけていきました。私の家は京阪電鉄という電車の宇治線が走っている近くにあり夜になると電車の音が良く聞こえていたのを思い出します。電車が通ると父がそのうち駅から帰ってくるのではないかと思いわくわくとして人が家の前を靴音を鳴らしながら通っていくのを聞き耳を立てて父の帰りを待っていたのを思い出します。父は良くお土産を買ってきたのを思い出します、その当時ロンドン焼き(どら焼きの小さいので中に白いあんこが入っていたと思います)というのがありそれをよく買ってきてくれた事が印象に残っており買ってこなかったときにはブーブーいったのを良く覚えています。今の子供たちはいつも欲しいものが手に入るので特にお土産が必要ないと思ってあまり買って帰ることはありませんが時々は私もお土産を買って帰るべきなんではと思ったりもします。
子供の頃から私は人の事が気になる性格で大きくなった(年取った)今でも八方美人とかいわれたりします。近所の子供たちに地域ごとにグループがあり私の家は丁度その二つのグループの真ん中にあり私は適当に両方のグループと付き合っていたらある日餓鬼大将がお前が両方のグループと付き合っているのはけしからん、どっちかにしろと言われました。私は先ほど言いましたようにどっちのグループにも悪く思われたくなくそれではどっちにも入らないとうとんでもない事を言ってしまったのを今でもはっきりと覚えています。
というような事件もありましたが小さい頃は近くの池で魚を釣ったり、やまでカブトムシを山ほど捕ったり楽しい思い出が一杯あります。
私は小さい頃からいろいろと物を作る事が好きで小学校の時から鋸とか金槌を使っていろんな物を作っていました。不思議な事に私も弟もそういうことが好きなんですが父がそういうことをするのは見た事がありませんでした。そしたら私の子供もあまり物を作ったりすることにはまったくといっていいほど興味はないようです。ということは私だけが特別で父と私の子供が私の家の本当の血筋であるという事が言えるかも知れません。
私が小学生の時は丁度テレビが出始めた頃でテレビのある家は近所の人たちが沢山夜になると見に来て大変な騒ぎでした。力道山が活躍していたプロレスの全盛期でそれが放映されるときはテレビのある家に入れきれないほど人が集まっていたのを覚えています。このころは町の本屋さん、電気屋さんがよく新しい百科事典がでたり新しいテレビとか冷蔵庫がでると売り込みに来て月賦でいろんな物を買うのが常でした。
家庭の雰囲気はどっちかというと母の性格が支配的だったのかもしれませんが明るかったような気がします。といっても父の会社がうまくいかなかった時は借金取りが電話をかけて来たりして母は大変だったようです。でも父は太っ腹というか無神経というかあまり気にする事もなうように子供の私には見えましたが本当はつらかったのではないかと思います。そんな時があったにしても概して言えば夫婦仲は良かったのではないかと今でも思っています。ある時家に泥棒が入ったときがありました。でも泥棒が入ったことは警察から連絡があるまで父も母も知らずお金が無くなっていた事も気のせいとでも思っていたようです。というわけで我が家は私が高校を卒業するまでは何とかいろいろとあったにせよ平穏な日々が続いていたと言えるでしょう。
父のこと
ここで証からは離れてしまいますがちょっと私の父のことについて触れたいと思います。さきほど申し上げましたように私の父は三高・東大というエリートコースをたどりそれ相当の地位までいったように聞いていますが詳しくは知りません。でも太平洋戦争で日本が戦争に負けてから公職追放というのがありそれで東京からどういう理由かこれも知りませんが京都に引っ越してきたようです。ちちは特に趣味はありませんでしたが碁が好きでした、時々大勢の碁の仲間が家に来て碁会というものをやっていました。特に碁を打つ以外はなにもしないのですが一日中大勢の人と碁をうって父はそれなりに楽しんでいたようです。またご存知の方もあるかもしれませんが旧制高校の同窓会が時々当時はありそれによく行っていました。いい年をしたおじさん達が大勢で寮歌を歌うのです。
父はよくお風呂に入ると三高寮歌の"くれないもゆる"とかを大きな声で歌っていました。また京都にいたせいかも知れませんが茶歌舞伎とうものに時々行っていました。これはみんなで抹茶をたててそれを呑んでどのお茶かをあてるとうなかなか今から考えてみると風流な遊びです。
私の子供はお父さんには友達がいないとよく私の事をつまらない人のように言いますが考えてみると私の父にもあまり友達はいなかったようね気がします。でも父には三校時代からの仲のよい友達がいてよくやはりいっしょに碁をやっていました。でもある時なんかの理由でおそらく事業がうまく行かなくなったときの問題からだと思いますが突然来なくなってしまい父が死ぬまで結局は交信が途絶えてしまいました。私の娘が小さい頃伝治おじいさんに会いたいといっていましたが、父も孫を一人も見る事無く亡くなってしまったので天国では是非会わせてやりたいと思います。
父には金盛という父親がおりました私にとってはおじいさんに当たる人ですがあまりおじいちゃんと孫というような関係ではなく時々知らないおじいさんが難しい話をしにくるというような印象しかありませんでした。でもある時このおじいさんが投じ大流行だったフラフープという大きなプラスティックの輪のようなおもちゃを持ってきてくれたときは私たち子供全員が大喜びした事を覚えています。
父は私にとってどういう存在だったかというと一言ではなかなか言えませんが尊敬できる部分とこうはなりたくないという二つの部分を持っていたと思います。人柄適にはなかなかいい父親で時々は私とキャッチボールをしたりしてくれましたし戦前のひとにしては母にもまあまあやさしくしていたのではないかと思います。でも金銭的な感覚はあまりよくなく従って事業も良いときはいいのですが駄目なときのほうが多かったようです。そのときの辛さは私たち子供より親のほうがよほどつらい事だと思いますが今から思えば辛かったことも良い思い出ですし私のためにもなったような気がします。ある時父の事業がどうしようもなくなって本当に父が困った顔をしていたとき突然父が私を抱き寄せ膝の上で体を揺すってくれた事をはっきりと覚えています。
父は私が会社に入ったとき亡くなりましたが最後は過労による肝硬変とのことだそうです。私はその時沖電気に勤めていて群馬県の高崎に住んでいました。死ぬ半年前ほどから容態が悪くなり入院していましたが母がずっとかかりっきりで大変だったようです。私に父の容態がおかしいと電話が入ったのは亡くなる一週間前の事でした、寮のおじさんに相談したらそれはやっぱり直ぐに行ったほうが良いと言われ京都の家に帰りました。そしたら一週間くらいした時急に容態が悪くなり私たち家族全員がいる前で亡くなりました。私が駆けつけたときはもう意識がはっきりしていなくて全然会話も出来ないような状態でしたがある晩家に帰ろうと思ってあまり表情もない父に挨拶をしたらどういうわけかその時だけニコッと笑顔を見せてくれました。
実は私の父は事業の失敗から借金を残していて私の給料も一部当時差し押さえられていました。ですから父の事もあまりよく思っていなかったのですがその笑顔を見たときにすべて私のうちにあったモヤモヤしたものが消えてなくなり、ああ本当にこの父親をもててよかったなあという感情が胸に一杯になりました。ちょっと比較は出来ないかもしれませんがイエス様の救いというものもこのような一瞬の出会いというか一瞬の間にすべてが和解され罪の世界から恵みの世界へと移っていくものなのかもしれません。
母のこと
母はこのような父でしたから経済的に苦労をした事が一番印象に残っているようで父との思い出はどちらかというと子供の私たちよりは良いものではなかったようです。
でも母の性格は明るいほうで物事に対して楽観的な見方をする方です。今でもそうですが冗談をいったり、ふざけた事をしたりして時々父をからかっていた事を思い出します。こんな事を言うのは少し照れくさいのですが、よく男の人は母親に似た人を奥さんに求めると言われます。私も母親が性格的に明るかったところが小さいときから好きであったようです、そして私の妻も性格は明るいほうでそんなところに引かれたのだと思います。母のことでいまだに思い出すことは母を苛めたことと言うか困らせた時のことです、その当時母に言わせると私は大変悪かったそうです。ある日どういうことでか理由は忘れてしまいましたが母のことを私がとても怒って家に入らせないように私が家の玄関で下駄を手に持って母が入ってこようとすると投げつけている光景が私の脳裏に今でもはっきりと残っています。今考えてみるとそんなに母のことを怒った自分がはずかしい思いです。
でも私は時には暗い雰囲気になる家の中を明るくする母が好きでした。
家のこと
私の家は京都の南にある宇治市にありました。住所は京都府宇治市木幡内畑八番地、電話は木幡の45番。その当時は自動的に電話は繋がるものではなく、大きな壁に取り付けてある電話機の横にあるハンドルを回して交換手を呼び出しで繋いでもらうのです。近くだとすぐに繋がるのですが遠く、特に東京なんかだとものすごく時間がかかるのです、時には半日くらいつながらない時がありました。
電車で来ると京都から京阪宇治線に乗り換えて木幡駅で降ります、降りて徒歩5分くらいのところです。私のうちはとても大きく(といっても私の家の回りの家も大きなところが多かったのですが)部屋が16室もありました。入ったところが玄関、直ぐに応接間があり、その横にはお手伝いさんが居る部屋(というか居たことがある部屋)がありました。それからお座敷、居間、鏡の間、神棚がある部屋、茶室、ガラス天井の部屋、などがありなかなかの家でしたが何せ手入れが行き届いていないので雨が降ったりすると雨漏りがあちこちからして大変な騒ぎでした。一時は家計が大変だったので学生用の下宿をしていました、それも貸せる部屋すべてを貸していたので私たち一家全員が居間に住んでいたことがしばらくありました。賄いもやっていたので食事時は一家全員で食事の手伝いをしたものでした。
私の小さい頃は水道が無く風呂を沸かすのが大変な作業でした。水を井戸から汲んで風呂桶に運ぶのです。ポンプも勿論手動式誰かがポンプを動かし他の人がバケツで水を運ぶのです、今ではとても考えられないことですが当時の私たちの家の回りでは当たり前のことで家によっては風呂も無い家があったくらいです。さて水が一杯になったら今度は木を燃やしてお湯を沸かすのです。新聞紙にはじめ火をつけてそれから木を燃やすのですが冬ともなると寒い家の外で火を焚かなくてはならず大変な作業でした。
この当時の楽しみと言えば紙芝居とラジオでした。紙芝居は一週間に一回、水飴とか子供の好きそうなお菓子を売ったり紙芝居を見せてくれるのですがとても嬉しかったのを覚えています。ラジオはNHKの子供用のドラマ笛吹き童子とか鞍馬天狗、怪人二十面相など時間になるとラジオの前に座って聞いたものです。
でもこの頃はだんだんと日本の社会全体がいろんな便利なものを次々と取り入れていった時代で新しく便利なものが家に来たりするととても興奮したものでした。水道が引かれた時、氷で冷やす冷蔵庫が来たとき、ステレオが入ったとき、テレビが始めて家庭で見られたときなどとても嬉しかったのを思い出します。
仕事について
小さかったときは
私は小さいときからいろんなモノを作ることが好きでした。小学校の時から木を鋸で切ったり接着剤でくっつけたりして自動車のおもちゃとか船を作ったりして遊んだものです。丁度良い木で出来た菓子の箱が家には結構あってそれが手に入るとあれやこれやといろんなモノを考えて作っていました。ある時父がいろんな発明をした人のことが書いてある本を買ってきてくれてそれを私はとても気に入ってエジソンとか無線を発明したマルコーニとか蒸気自動車を発明して得意になってその自動車を乗り回して事故を起こしていた人のこととかが印象に残っています。
小学校の頃は地下鉄というものが珍しかったせいでしょうか地下鉄の運転手になるのが夢で一日中地下鉄を運転していたら楽しいだろうなと思っていました。でも中学校の頃から私は大きくなったら会社に勤めてエンジニアになろうと思い出し始めました。私の家は父が事業をやっていたせいで家庭の財政状態が安定せず会社に勤めれば安定した収入が得られるのではないかと子供心に思っていたことも影響したのでしょう。
高校になって大学に進学する時期になると専攻科目を決めなければなりません、私は迷うこともなく工学部を目指しました。今から考えれば幸運にも大学を卒業することが出来て無事に沖電気工業高崎事業所に就職できたのでした。私が育った1960年代は日本が高度成長を遂げている真っ最中で私たちの年代は戦後のベイビーブームの一番ピークになったときに生まれたのでした。やはりその頃でもいろいろと悩みがありそれなりに葛藤も有ましたが今私の子供たちが経験しているようなものとは異なってもっと人生そのものが、田舎であったせいかも知れませんが単純であったような気がします。
大学生のときは
大学に入ってからも私は勉強の方はそこそこでラグビー部に入って毎日練習とマージャンそして安いお酒を飲む毎日を過ごしていたのでした。大学ではいろんな人に会いましたがたまに政治とか哲学っぽいことを話したりはしたもののあまり有意義な時間を過ごしたとは思っていませんが今の私を形成するためには必要な時間だったのだとも言えるでしょう。毎日がその日暮らしで何かこれといった目標の無い毎日でした。そして会社に入って仕事ができればもっと目的もあり有意義なやりがいの有る人生を送れるのではないかと思っていたのです。今から思えば私はなんとおろかな考えを持っていたことでしょうか。
今の会社に入る動機はすごく単純でどこかでこれからは情報社会だということを聞きつけてその関連の会社に入ろうと決めていただけなのでした。その当時は沖電気、富士通、日本電気といったところがこの関連の大手でした。四年生になって就職活動を皆は始めていたようです。でも私はアルバイトで忙しく会社を探し始めるのが遅くなってしまい就職の先生のところへ行ったときには既に富士通も日本電気も誰か先に就職を決めてしまっており沖電気ならまだ行けると言われました。沖電気は私の気持ちの中では一番最後の会社だったのでしまったと思って私のいた研究室の先生に相談しに行ったのです。そうしたらいろいろと人に聞いてくれて沖電気も結構頑張っていて良いそうなんだよ、といわれてその気になったのです。しかしそれは全く嘘でした。自分の一生にかかわることをこんなことで決めてしまったのですがそこでほかの会社に行っていればクリスチャンになることもなかったしアメリカにすむこともなかったかもしてないのでそれはそれで良かったのかもしれません。
いよいよ会社に入って
と言うわけで沖電気に就職が決まり私はあまり勉強をしたい方ではなかったので工場勤務を申し出たら変わってるねと言われ即座に高崎工場勤務が決まったのでした。入社式は今ではもう無くなってしまった品川工場の体育館で行われたのですがどう言うわけか私は間違って今まで私が勤務していた芝浦事業所の方へ行ってしまう間違いをしてしまったのです。
そこで守衛さんに相談したら入社式に行く車がもうすぐ出るからそれに乗って行きなさいといわれて言われたところに行ったらその車は後で社長になった橋本さんという事業部長さんの車だったのです。とにかく入社式を無事終えて高崎の寮に入り最初の出勤日が来たのですが何としたことか食堂で食事をしている間にバスが出てしまい初出勤で遅刻してしまったのでした。いろいろとあったのですがとにかく私のサラリーマン生活が始まったのでした。新入社員の時の給料は約4万円一人で暮らすのには特に問題も無かったのですがマージャンをして負けたりお酒を飲みにいったりして給料の半分位が無くなってしまうことも時々有りました。仕事はというと一日中じっと座っていたこと無いものですから午後なんかは新入社員三人で良く居眠りをしていたことを思い出します。勤務していた部署は設計第二課でラインプリンタという高速で印字する機械の設計を担当する部門でした。しかし設計などできるわけもなく図面のコピーしたり変更通知という設計を変えるための文書を作ったりしていました。
高崎での日々
そんなある日ちょっとした事件が起こったのですがそれは私の給料が差し押さえられたということでした。前にも言いましたが私の父は事業家でいろいろと事業を起こそうとしたのですがいつも何かがうまく行かなくなって失敗してしまうということの連続でした。と言うわけでいろんな人に保証人になってもらい借金していたのですが保証人になってくれる人が無かったのでしょうが私の名前を使って借金をしたらしいのです。本人の承諾が無くても保証人になってしまうという恐ろしいことが有りうるということを始めて知ったのです。でも私はそうことが起こってもあまりどういうわけかあまり腹も立たずにしょうがない親を持ったものだと思ったのでした。借金の額は70万私の年収より少し大きいくらいの金額でした。何年かかって返したか今は覚えていませんが総務の人とか上司が結構気を使って心配してくれました。今になって考えると私の父を少しでも助けることができたということが私の父に対する良い思いでとなったというのはちょっと人が良すぎるでしょうか。またこの頃から私には仕事に対して思っていた充実感が得られないと言うことから転職しようかとかなんとなくアメリカに行きたいという願望が出て生きて少し不安定な日々が続いていたのでした。
転機
そんなある年の夏休みに何をしようかと考えていたときちょっと気分を変えるために沖縄へ旅行しようと言う気になりいろいろと調べているうちにどうせいくならハワイにしようかなと思っているうちにじゃ思い切って憧れのアメリカ本土にいこうと決心したのでした。前にも言いましたように私の給料は一部差し押さえられていたので当然貯金もなくお金は会社の組合から借りることにしたのです、ところがどういうわけかこの話が私の上司の課長に伝わってある日呼び出されてあんた給料が差し押さえられてちょっと焼けくそになってるんじゃないかと言われてしまいました。
というのが大きな事件であったのですがそれ意外は毎日が仕事場と寮の往復で単調な毎日の連続でした。会社に朝行ってつまらいなー、と思いながら時々居眠りをしながら夕方には町をぶらぶらして時々は飲みに行ってどうやって帰ってきたかわからないといったようなことも時々有りました。また二日酔で会社に行くことも良くあって仕事中に気分が悪くなってトイレで長い間しゃがんでいたこともありました。要するに仕事にも身が入らないしガールフレンドが居て楽しくて仕方が無いと言うことも無いしダラダラと毎日を過ごしていたのでした。
そんなあるときこのままでは自分がだめになってしまうと気になり何かしようと思ったのでした。特に何をしようかということは無かったのですがとりあえず英語を勉強しようと思ったのです。そこで英検の勉強をしたり通信教育で工業英語を勉強したりするようになったのでした。ところがこれがあとで私の人生を大きく変えるきっかけとなったのですが人生は不思議なものです。ある日私はいつものように仕事を終わって友達と一緒に高崎の町をあてもなくぶらぶらと歩いていました。大体はどこかの喫茶店でコーヒーを飲みながら本でも読んでバスで寮まで帰るというパターンでした。ところがこの日はある若い女性がいきなり声をかけてきたのです。理由は簡単で何か物売りたかっただけのことでした。それは不思議なことに空気銃を買えというわけなんです。からかい半分で私は買う気もないのに話をしていたら結局は空気銃の撃ち合いをこの女性とすることになってしまったのです。
そして私が撃ち合いをして負けたら銃を買おうということになったのです。私は運動神経には自信が有ったんで負けるはずはないと思ってその射的場まで行ったのでした。そしてこの女性と撃ち合いの競争をしたのですが結果は見事に負けでした。まさか負けるとは思っていなかったので空気銃を買うことも無いと気にもしてなかったのですがとんだことになってしまいました。約束なんで仕方なく許可証を求めしかも保管場所まで確保しました。言い忘れましたがこのときもうひとつ大切な条件がついていたのですそれは私がそのころ英語の勉強をしていたので英会話のクラスを見つけるということでした。と言うわけでこの女性が高崎から電車で20分位の所にある渋川という町に住んでいるアメリカ人の宣教師が英会話のクラスをやっているということを探し出してきたのでした。
そこである日仕事を終えてからこの宣教師夫妻のすんでいる渋川の教会に行ったのでした。始めてアメリカ人の住んでいる家に行ったわけですが私はその家に入ってリビングルームの椅子に座ったときの不思議な感動は今でも覚えています。その家の雰囲気は確かに質素な家なんですが独特のアメリカの家という雰囲気が有って私は昔からアメリカのテレビドラマを見てあこがれていたものに少し触れたような思いでした。と言うわけで私の英会話教室通いが始まったのでした。そのころ私はエレクトロプリンターというアメリカからライセンス導入した高速プリンタの開発の仕事をしていました。このプロジェクトはそのころ会社の中でとても名高い評判を得ていましたがそれは残業が多いということなんでした。やっぱり新しいことをやろうとすると人一倍の努力が必要になりますがこのプロジェクトチームは年がら年中残業をしていて帰りは毎日12時を過ぎていました。
ちょうどそのころは石油危機の有ったころで寮のお風呂は時間が過ぎると火を止めていましたので帰る頃にはお湯がぬるくなってしまっているという寂しい生活が続いていたのでした。というわけで毎日冷え切った食事を食べ、ぬるいお風呂に入るというなんとも情けない日々の毎日でした。そんな時に毎週木曜日には英会話の勉強をしに行きたいと言わなければならなくなり一生懸命仕事をしている同僚にはすまないとは思いました。そう思いながらもやっぱり自分としては何か物足りない毎日を補うためにはこれが必要なんだと言い聞かせて許可をもらったのでした。ところで話は飛びますがこの頃ちょっとしたことが有ったのでその説明もついでにしておきます。そのひとつはマラソンなんです。この頃私の付き合ってる同僚がマラソンを始め毎日昼休みに工場の周りを走り始めたのでした。私も誘われるままに走り始めたのですが残業してる割には元気がある過ぎると思われ少し仕事の手を抜いているのではないのかとも思われたりしていたのでした。
アクシデント
二つ目は口髭なんです。何故口髭を生やし始めたかというと先ほど言いました高速プリンタを設計する仕事をしていた時いつものように設計ミスをしてしまったのです。自分で言うのも情けないんですが私は生まれつきおっちょこちょいでこの手のミスは良くありいかに皆に気づかれずにうまくごまかすかを仲間と競っていたものでした。ところがこの時は誤魔化しようがなく間違って余分に付いてきてしまった鉄の角パイプをグラインダーで切断することになったんです。そこでハンドグラインダーで角パイプを切断していたところグラインダーの一部が欠けて私の唇に当たったのでした。すぐに診療所に行って唇を三針縫うことになってしまいました。というわけ唇に包帯ではなくバンソウコウというなんとも情けない姿になってしまったのでした。仕方なくマスクをしながら会社を歩き回っていましたが食事の時味噌汁を飲むとバンソウコウが汁を吸って濡れてしまい困ったのでした。
という分けで1−2ヶ月程髭もそることなくバンソウコウとマスクに付き合って傷が治ってそれを取ったら口髭が出来ていたのでした。そこで記念にというわけでもなかったのですが髭を生やすことにしたのです。そんな有る日技術部の掲示板に髭を生やしてはいけないという趣旨のビラが張られたのでした。そのとき会社の中では私ともう一人髭を生やしている人がいたんです。どうしようかなと思っているうちにその人は髭を剃ってしまったんです。でも私はそうなると天邪鬼の性格でしたので私は絶対剃らないと決心したのでした。ところが総務からは結局何にも言われなくて済んでしまったんです。会社というものはいい加減なとこだなと思ったのは勝って過ぎるでしょうか。こんなことを書いていると私はその頃は結構風変わりで跳ね返り社員だったなあとこれを書きながら思ったりしています。
技術解説
ここでこのエレクトロプリンタとは一体どんな装置かということを簡単に説明しておきます。原理はインクの霧を発生させてその霧をアパーチャーという沢山の穴が空いている電極の上に流し下から上に向かってこのアパーチャーの穴からイオンを噴出してインクを紙の上にぶつけてインクのドットを造るわけなんです。いろいろと技術的には難しいことがあったわけでそれで私達は毎日苦労していました。その中のひとつの問題はインクの霧にイオンがついたものを紙の上に引き付けるために5000ボルトという高圧電源を使用していたのですがそれが時々スパークを起こすのです。そうするとインクには可燃性の溶剤が使われているのでインクに火がついて炎がでます。
プリンターから火が出ると言うのは実はなくは無いんですが原理的に火がつく可能性があるのは勿論許されないことでした。そこで抑止剤をいれるのですがこれがまた厄介なことに毒性があるものばっかりだったのです。当時私達が使っていた薬品とか溶剤は毒性のあるものが多くその中には後で知ったことですが発ガン性のものを含まれていたようです。それやこれやで作り上げた試作機を試験するんですがこれがまた大変、と言うのは一分間に7000行と言う高速なもんで15分ほどで2000枚入ったコンピュータ用紙が無くなってしまうんです。試験は徹夜でやりましたが普通は印字速度が遅いので徹夜試験と言っても時々機械の調子をみて紙を畳んだりする間は休めるんです。でもこの機械はそんな暇がなく重い紙の箱を次から次えと運ばないといけなかったんです。試験が終わり世が明けたころには部屋に紙箱の山が出来ていました。
ちょっと脱線してしまいましたが、こんな大変な装置を開発している最中に突然英会話教室に行くと言い出したんですから上司も飛んだ奴が入ってきたもんだと思ったかもしれません。でもアメリカの会社からライセンスしていましたから英語の文書は結構有ったりしましたしアメリカら技術者がきて私の上司がよく打ち合わせに出かけていましたので英会話の必要性は感じてはいたと思います。
それやこれやで英会話の勉強を始めました。その教室は高崎と渋川のちょうど間の新前橋とう所にあり私は毎週一回仕事を終わってからこの前橋カベナント教会に通いはじめたのでした。最初に行った時は始めから最後まで英語しか喋らない授業で緊張のあまり終わった時には頭がくらくらしたのを覚えています。
というような生活をしていたのですがその頃の会社には沢山の職人的な技術者がおられて私のような学校出たての新米には到底及びもつかないような仕事を皆されていました。私は機構設計だったので細かい機構部品の図面を毎日毎日書いていましたが私はとてもこのような仕事には向いていないなと思いはじめたのもこの頃です。元々英会話を勉強しようと思ったのもこういう人たちとまともに競争してもかないっこ無いと思って英語でも覚えれば少しは自分の会社での価値もあがると思ったからでした。でも今から考えてみるとこの決断は会社での自分の将来も個人としての人生の歩みも大きく変えた大きい決断でしたがその時にはそんなことは夢にも思い付くはずもありませんでした。
英会話教室で
ところで話をこの空気銃を売っていた女性に話を戻しますが実はこの女性は統一教会の信者だったんです。お聞きになった方もいらっしゃると思いますが当時統一教会はいろんな資金集めをやっていて空気銃と射的場もその一つなのでした。私は何回かこの射的場に通うことになったんですがそのうちに原理講を受けさせられました。それは要するに統一教会の教えを講義するものでしたが内容は聖書と合わせて彼らの原理、この世が2000年、2000年、2000年の三つに分かれて造られたというものでした。すなわちイエスが生まれてから2000年、旧約聖書の世界のアブラハムの部分が2000年、そしてそれ以前が2000年といったようなものでしたがはっきりとは覚えていません。また彼らは集団で生活していてその家にも行ったりして結構彼らも人間的にはいい人たちなんだなあと思いましたが彼らの教えというか信じているものは受け入れる事は出来ませんでした。
でも紹介された英会話教室にはまじめに通ったんです。そこには熱心な高校の先生がおられてクラスの中では喋り捲っておられました。私も最初の一年くらいはクラスで発言する事はありませんでしたがだんだんクラスにも馴染め会話も出来るようになっていきました。そしてある日このクラスの先生であるエンゲマンという宣教師さんが今度短期宣教師がアメリカからくる事になったのでこれからはその人に手伝ってもらいますと言ったんです。そしてそのうちにこの短期宣教師が来て手伝うようになりました。この短期宣教師というのはその多くが学生で1―2年日本に来ていろんな教会で奉仕活動をするのでしたが私たちの所に来たのは若い女性の短期宣教師で私の英会話に対する熱意も増さざるを得ませんでした。それまではエンゲマン先生が教会のことを紹介したりする事はあっても一度もあの最初の訪問依頼教会に足を踏み入れる事はありませんでした。
でもクリスマスが近づいたある日彼女たちがクリスマスに来てくださいと私たち生徒を誘ったんです。私は教会もキリスト教にも特に興味はなかったんですがこうして英会話の勉強を通してクリスチャンと接していると彼らは私には無い何かを持っているという気がしていたんです。それが何か分からないんだけどうらやましいと言う気持ちがありました。でもその何か自分にないものを求めたい気持ちは有ってもそれを手に入れたいという気持ちとこのままで良いという気持ちという二つの相対する思いが交錯していました。
という気持ちを抱きながら私はほとんど毎週と言って良いほどこの渋川教会に通い出し始めました。この教会はアメリカのスエーデン系の宣教師がいる教会で日本人の牧師先生は別にいらっしゃいましたがなんとなくアメリカの文化と言うか当時の私のような日本人にとってはなんとも言えないようなアメリカ文化の片鱗い触ることが出来ると言ったような憧れが抱けるような所でした。
赤城バイブルキャンプ
またこのこの教会が属するカベナント宣教団には群馬県の赤城山にバイブルキャンプがありました。そこでは季節の折々に教会の人達また宣教のためにバイブルキャンプが行われていました。私は1975年の夏にそこで行われていた英語バイブルキャンプに参加することにしました。このバイブルキャンプは数日間寝泊りしながらアメリカ人の宣教師や学生また日本人の先生と英語で話しながら会話を学べると言う私にとってはとても勉強になるキャンプでした。
そこで多くのアメリカ人のクリスチャン、宣教しに接しましたがそれは私にとってはとてもすがすがしい思いを抱かせるような経験でもありまた同時の私にとってそのようになりたいという願望を思い起こさせるようなものでもありました。またそこでは私のそれからの生き方に大きな影響を与えることになった清水氾先生にも会うことが出来たのでした。この先生は奈良女子大学の英文学の先生でこの方がバイブルキャンプの講師で聖書の事について私達日本人とアメリカ人とに講義をしていたのです。私にとって英語というか聖書はアメリカ人から学ぶ問うことしか頭に無かったので日本人が聖書についてしかも英語でアメリカ人に講義するということを目の当たりにみてかなり感銘と言うかショックを受けました。
と言う経験とか毎週の英会話を続けていくうちに私が働いていた高崎の工場でも英会話教室を始めようと言うことになって私がその責任者と言うか講師である当時アメリカから短期間の宣教師として来ていた人を紹介することになったんです。そして毎週一回工場の会議室をかりて英会話教室を始めることになりました。私としてはアメリカ人の先生を職場の同僚の前でいろいろとお世話をしたり授業のお手伝いをすると言うことで結構今となって振り帰れば得意になっていたような気がします。
いよいよアメリカに
そうこうしているうちに本当にある日突然アメリカの駐在員として赴任してくれという上司からの話が飛び出しました。私としてはもともとアメリカに移民したいと言うくらいの気持ちで英語を勉強し始めたのですからこれは願っても無い話でした。でも私にはその数年前にも同じような話が一度あってそのときには駐在する話がなんとなく消えていってしまった経験をしていましたのでそう言われても半信半疑でした。
この話があったのが1975年の秋で私はその年のクリスマスにエンゲマン先生という宣教師に洗礼を受けることになっていたのでした。アメリカに行くと言うこともそうですがその行く前に洗礼を受けると言うのも今考えて見ると神様の業であるとしか言えないと思うのです。この話が有ってから私の仕事も今までのエレクトロプリンタという大きな印刷装置から輸出ようの小さなドットインパクトラインプリンタというものに変わりました。この装置は小さな電磁石の先に針のような硬い金属で出来たものが横一列に付いていてドットをインクリボンを介して紙の上を叩くことによって字とか絵を描く装置です。この装置は沖電気が始めて本格的にプリンタを輸出しようとしていた戦略商品でした。この製品はアメリカの合弁会社との共同開発で電気回路部分はアメリカの担当そして機構部分は日本が担当していましたので専門が機械だった私がアメリカに行ってその機構部分の世話をしろということだったんです。
始めは年明けには行く予定だったんですが物事はそう簡単には進まなくて送別会をいろんなところでやってもらったにもかかわらず製品開発が思うように進まずなかなか出発できませんでした。そうこうしているうちに冬が過ぎて春になってしまい冬物以外はすべて現地に送ってしまっていた私は着るものが段々なくなってきて上司に何とかしてくれと泣きついたことを覚えています。
其のうちにとうとうその日がやって来ました、1976年4月17日に私は当時の国際線飛行場だった羽田からアメリカに向けて出発したのでした。当時はアメリカに駐在と言うと結構大事で親は勿論、会社の人、親戚の人、友達等が飛行場にまで見送りに来てくれたのでした。
本当はまっすぐニュージャージー(実際はフィラデルフィアの飛行場ですが)に行けば良かったのですがサンフランシスコ、シカゴ経由で宣教師に紹介された人を尋ねながら行きました。行く途中に時差があったので飛行機の中立ち寄った先で食事を取って一日に5回も食事をしたことを覚えています。着いたら現地の方が迎えに来てくれていて今では考えられないような安宿に案内されました、と言うのは同時はまだ日本にはお金がなく外貨の持ち出しも3000ドルまでという制限がありそこにはヒルトンというちゃんとしたホテルもあったのですがモーテルで最初のアメリカ生活を始めることになったのです。ニュージャージーに着いてもアメリカ人の宣教師が親戚の人を紹介してくれていて着いて2−3日後にはその人の家で食事をさせてもらうという大変有りがたいことも有りました。ですから私は他の駐在員の人たちとは違ってクリスチャンであったというだけでそのクリスチャンネットワークの恩恵を有り余るほど受けいていたのでした。
キリスト教と言うものは本来は魂の救いが主なんですがキリスト教が生まれ教会が出来てから2000年かかって人間が地球上のほとんどの国に教会と言う組織を作り出しました。これは大変なことだと思います。いろいろと問題があるにしてもこういう組織を使っていろんなすばらしい業を行うことが出来るわけなんです。でも悲しいことにそう言う素晴らしいことをやっている教会が多くある反面人間的な至らなさのために逆にいろいろと問題を起こすことも少なくないのは悲しいことですね。まあ人間明るい方を見ながら進んでいくと言うことで教会もなかなかいいことをしてるということでこれは大いに活用しようではないかといううことでいいのではないでしょうか。
アメリカでの一人暮らし
さてこのようにして私のアメリカ生活が始まりました。なんと言っても始めてのことばかり英語は一応出来たと言っても高崎なまりの英語で相手が聞く気になってくれれば通じるもののそうでなければなかなか難しいものでした。最初に困った言葉がMt. Laurelという地名。私の言った会社は当時は合弁会社で沖電気はどっちかと言うと現地の社長を始めアメリカ人にいろいろと技術・販売のKnow Howを教えてもらう立場そして駐在員といっても居させてもらっていると言ういわば下宿人という感じでした。
そして会社は中小企業のイメージで新米のエンジニアである私ともう一人の先輩のエンジニアは大部屋での仕事。普通に話している時はどうにか通じたのですが問題は電話。電話で私はいろんな会社に設計に使いたい部品とか材料を問い合わせるんですが一番の問題が住所なんです、Mt.は特に問題ないんですがLaurelと言う言葉にはlが二回とrが一回入っていてなれないとなかなか難しいんです。わたしが一生懸命電話で住所を何回も言っていると周りの人たちは聞き耳を立てているらしく途中で皆が噴出して笑ったりしたんです。
今となっては懐かしい思い出ですがおかげでMt.Luarelとう単語の発音はうまくなったんです。人間やっぱり苦労して覚えたことは忘れないものなんです。それからこれもくだらないことですが案外難しいのがマクドナルドです。この場合はlが一回しかないのですがイントネーションがちょっと日本語でいうのと違うのでコツを覚えないとなかなか通じません。
車について
アメリカは言うまでもなく車社会ですがこれも私にとっては良い経験と驚きの体験の連続でした。まず最初にしなければならなかったことっが車を買うこととアパートを探すことだったのです。当時のアメリカでは車のセールスマンはちょっと言いにくいんですが悪い人の代表的なものだったんです。そんなことは分かって悪い人の代名詞だったんです、でもそんなこと言われたってどうしていいかわからないというのが私の正直な気持ちで結果的にはうまく誤魔化されてスラングでいうレモン車を買うことになってしまったんです。
私と私の先輩である同僚と毎日昼休みに車を見に行ったんです。当時は会社の規定で、と言っても何もなかったという状態で今の駐在員よりも待遇は良くなかったんです、赴任時は3000ドルお金を会社から借りて車とか家具とかを買ったんです。車の値段は新車のアコードとかセリカが4−5000ドルだったので新車には手が届きません。勿論憧れのアメリカ車に乗るのが夢だったので日本車は買う気は有りませんでしたが。当時はハッチバックがはやっていてある日赤いフォードマスタングのハッチバックを見つけたんです。走行距離は20000マイルアメリカでは一年に一万マイルくらい乗るので走行距離はまあまあでした。
でもこれは真っ赤な嘘でオドメター(走行距離計)をいじることなんかは当たり前の世界ですから私が買ったマスタングがどれくらい走っていたかは全く分からなかったんですが私はとにかく赤いマスタングのハッチバックと言うことだけでこれが欲しいと心に決めたんです。皆さんもご承知の事だと思いますが何かが欲しいと思って買い物をしようとしたら相手にそれを悟られないようにしないといけないんですよね。でも当時の私はそんなこと全然考えなくて何回もそのディーラーに行って見てたんです。そしたら段々セールスマンの言っている車の値段が上がって行くじゃないですか。必死で値段の交渉をしたんですが相手はもうこっちがその車が欲しいと言うことが分かっているので勝負になりません。
結局相手の言う値段でこのレモン車を買ったんです。でも当時のアメリカでアメリカ製の中古車を買うということはよっぽどラッキーでなければ問題のある車しか手に入らないんですよね。と言うのも普通のアメリカ人は大体新車を買うと5年から10年ぐらい使うんです。だから2年ぐらいの中古というのは問題があって手放すことが多いんです。よくパーティーなんかで話することが無いと大体車の話をすると皆苦い経験を止めども無く話し始めるんです。ということで当時のアメリカ人は車が必要なんだけどその車にはほとほと手を焼いていて品質が良くて安い日本の車は大歓迎だったんです。でもそんな日本車もすぐに受け入れられたわけではなくアメリカのユーザーの要求に長い間かけて合うように改良を重ねていった努力の結果だったんだと思います。
そして苦労して手に入れた赤いマスタングはとても鮮やかで私のお気に入りでした。でもしばらく走っているうちに問題が続出してきたんです。でも私のは先輩のもっていたこれも赤いマーキュリークーガーというやっぱり当時の日本人なら映画なんかでみて欲しがるような5000ccもある大きな車の問題よりは全然大したことはありませんでした。この先輩とは一年間の短い間でしたがいろいろと楽しい経験をさせていただいたんです。でもこの先輩ちょっと変わっていてある日車が例によって故障でガレージに修理に出してたんです。仕事の帰りにこの先輩が車を貸してくれというんで良いですよといったら私の来るまで先輩の車を取りにいったんです。そしてなんと言うことか私の車を置いて自分の車で帰ってきてしまったので結局私はまた人に頼んで置いていかれた車を取りにいく羽目になってしまったと言うちょっと不思議な性格の方でした。
結局問題があったんですが二年間ほどこの車に乗って借金が返済し終わったころにトヨタのカローラの新車を買いました。それからはほとんど車の故障で苦労することは無くなりましたがムスタングではいろいろ車を自分で治したりしたので良い車の勉強にはなりました。人間なんでも苦労するといい勉強になるのでレモン車を買うのもまんざら悪いことばかりではないと言うことと言うのは言い過ぎでしょうか。
教会生活
私にとって教会生活は人生の中で本当に重要な部分を、特にアメリカに来てからは、占めて来たといわざるを得ません。ではなぜそうなったのかは以前に説明したので省きますがニュージャージーに来てからの出来事、それから私の中で何が起こったかをうまく説明できるかどうかわかりませんが書いてみたいと思います。
ニュージャージーに来て始めてすんだのはAllison Apartmentsというところ。ニュージャージー州バーリントン群イヴィシャム町、通称マールトンと言うところです。会社から車で十分とかからないところ、なぜこのアパートにしたかというと特に理由はなく私の仕事場の先輩が住んでいて私もそこが気に入ったからでした。そこは木造2階建でしたが外はレンガが貼ってあり建物もそうでしたが回りの環境も当時の私としてはプールがあったりテニスコートがあったりして夢のような環境でした。アパートの構成はいわゆるワンベッドルームでキッチンとリビングがついていました。家具も一応前に居た人たちが残していってくれたのがあったのでアパートの体裁が整っていました。こうして私が会社に入ってから夢に見ていたアメリカでの“独立”生活がスタートできたのでした。
このアパートには結局独身生活を5年間することになったのです。そして結婚してまもなく一戸建ての小さい家を買ってアメリカの地でマイホームを実現するのですがそんなことはその当時夢にも思っていませんでした。
前にも言いましたがアパートの部屋はベッドルームが一つ、リビングが一つとそしてダイニングがついた台所という構成でした。それまでは沖電気の高崎にある4畳ほどの単身寮でしたからそれはそれは大変な進歩でありました。何といっても私が気に入ったのはアパートにプールやテニスコートがついていたということや、それから大きな木に囲まれていてアパートの周りにはリスとかウサギが飛び回って緑が豊かにあったということです。泳ぎがあまり得意でない私はアパートのプールは利用しませんでしたがこのテニスコートには良い友達にも恵まれて大変なお世話になりました。後で分かったことですがこのアパートに主のようなテニス好きの人がいてその人も私が行くことになった教会の会員で本当にこの人とはあちこちテニスコートと仲間を探してテニス三昧の日々を経験させてもらいました。この人は当時50歳くらいでしたが体を壊して既にリタイヤー、毎日のんびりアパートの前に座ってアパートの前を通りすぎる人に声をかけ仲間を探してはテニスに興じると言うなんとも羨ましい生活をしてたんです。
さて教会生活ですがまずどの教会に行くか決めなければならないのでどんな教会があるのか見て回ることにしました。このマールトンと言う町は小さいそれこそ人口一万人もいないような田舎というかアメリカの郊外に良くあるのんきなゆったりとした小奇麗な町なんですが教会は結構いっぱい回りにありました。
まず町のメインストリートにはバプティスト教会(メインストリートと言ってもセブンイレブンとCranberry Scoopというアイスクリーム屋があったった程度ですが)とWeiley Church、ちょっと外れたところにChrist United Presbyterian(長老) Church、Lutheran Church(改革派でドイツ系の人が多く行っている)、それからMethodist Churchなどがあり大体の教派はそろっていました。
そこで毎週日曜日試しにいろんな教会に行き始めたんですが結局長老派であるChrist United Presbyterian Churchに決まったんです。理由を言うと、
牧師さんが女性であった(これは始めての経験で印象に残った)
名前が気に入った、キリストにより繋がっているとはなんと素晴らしいことか。
始めていったときにそこの長老の人が家に呼んでくれてご馳走してくれた。これは結構利きました、やっぱり人間って人の親切には弱いですよね。
と言うわけでこの教会に行き始めたんですがいろいろとびっくりすることや学ぶべきことがありました。
この教会では毎週牧師さんが子供たちを集めて礼拝中に子供の説教をやっていました。子供達は礼拝の最初の部分が終わると教会学校なんですがそれまでは親と一緒に礼拝に出ます。そしてこの子供の説教が終わると教会学校の教室に分かれていくんです。なんとなく子供達と大人の一体感とか交わりがあるような気がしてよかったと思います。
それからさっきの女性の牧師さんは実は臨時の牧師さんだったんです、前にいた牧師さんは実は教会員の女性が好きになって一緒にどっかへ行ってしまったというとんでもないことがあったようです。当時の私にはとってもショックなことでしたが、実はこのようなことはアメリカの教会では珍しくないと言うこともないですが決して少ないないということをまたあとで別の教会でも経験することになるのでした。
この教会やあとで紹介するもう一つの教会の人たちとの交わりは私の人生にとっても大きな影響を与えることになりました。人間ってやっぱり人との交わりで影響もされるし、元気付けられるし、またがっかりもしますよね。私が当時うけた交わり、恵み、そして喜びを今の私が他の人たちにお返しできているかということを考えるんですが、残念ながらまだまだ至らない自分を感じてしまいます。でももっともっと回りの人々に喜んでもらえる自分そして教会を目指して励んで行きたいと思わされるのはやっぱりキリストによって繋がれた人々にあったイエス様の愛と言うか恵みの力なのではないでしょうか。
ところで知っている方も多いとお思いますが日本の教会では女性の信者が多いんです。アメリカではといいますとその傾向はありますが結構家族、独身者、子供達、老人とバランスがとれていて羨ましいとおもいました。
この中で言っておかないといけないことがありますがそれは未亡人のことです。日本も最近はそうなってきつつありますがアメリカの白人社会では結構平均寿命が長くおばあさんでは90歳近くまで生きられる方もいらっしゃいます。でも残念ながら男性はもっと早くなくなられる方が多く未亡人が必然的に多くなってしまいます。聖書にも出てきますが今の教会でもこの未亡人を大切に扱うと言うことが大切だと思います。
私の行ったこのマールトンの長老派教会でも何人か未亡人の方がおられ寂しい生活をしておられました。寂しいと言っても生活自体は子供さんたちや孫に囲まれて年金等で生活して不自由はないんですがやっぱり一人暮らしはつらいようです。これは不思議なんですが日本人ならこういう状況になったら同居すると思うんですが、勿論そうする場合もあるんですが親も子供も遠慮と言うか一線を引いていてお互いの独立を守ろうとするということはおもしろいというか感心させられました。
ここで私のアメリカ生活で大きな影響を後に残すことになる二人のおばあさんを紹介したいと思います。
この二人の名前はフローレンス・メイヤーとヘリーン・ウイリアムスです。一人はスコットランド系、もう一人はドイツ系のアメリカ人です。
ヘリーンは数年前になくなりましたがフローレンスはまだ少し衰えはしましたが元気で一人でお孫さんの世話になりながら暮らしています。普通は老人ホームに入ってしまうのですが家族と毎日過ごせるのは幸せなことだと思います。
ちょっとこの二人のことを紹介しますとフローレンスは無類のおしゃべり好きで全く息をしていなかのように早口で機関銃のようにしゃべります。自分でも自分は考えるより早くしゃべれると言ってたくらいですから本人も相当意識していたようです。かなりやんちゃと言うか我の強いところがあっていろんなところで人とぶつかってしまう傾向があります。そして寂しがりやなのか男友達が大好きでいつもボーイフレンドを見つけてきては紹介してくれていました。
でも本当は好きな人がいてその人を射止めようと大変な努力をしていたようでした。でも残念ながら結局結ばれることはありませんでした。フローレンスは片付けなんかはあまり得意ではない様でしたしまた料理もあまり好きでなくTVディナーというかインスタント料理をよくご馳走してくれました。そしてブリッジ、やスクラッブル(文字が書いてある木のタイルをボードの上で並べて言葉造る遊び)をが大好き。友達と一緒に毎週のように昔はやりましたが母国語が英語でない日本人なので勝つこともありましたがだいたいは負けてました。あるとき昔話に花が咲き、子供の話になってある時子供達がキャンプに行きたいといったんだけどいろんな事情で行けなくて結局リビングルームにテントを釘で打ち付けて家の中でキャンプを子供達にやらせたら喜んだと言ってました。まあかなり型破りのおばあちゃんです。
それからヘリーンの方はやっぱりドイツ人らしく質実剛健、しっかりしていてて料理が得意、ボランティアなんかもして何時も小奇麗で上品な未亡人という感じでした。この二人は結構対抗意識があってお互いに相手のことを批判するような場面もありましたが、かわいいというかいじらしいとも受け取れました。と言うわけで私はこの二人にとてもお世話になりよく食事をご馳走してもらったりいろんなことを学ばせていただきました。
さてこのChrist United Presbyterian Churchに話をもどしますがこの教会は長老派の教会でかなりリベラルな感じで皆なんとなく日曜日には教会と言う様子でした。教会員が聖霊の働きに燃えて伝道に励んでいるといった感じでもありませんでした。でもこの私の印象というか考え方は後で間違っているということが分かり自分がなんと未熟なクリスチャンであったということ知らされるのでした。
この教会に来てというかアメリカに来て驚いたこと。
クリスチャンってお酒とかタバコを飲んだり吸わないものだと思っていたがそうでもない。
教会に来る人は皆イエス様を信じているかと思ったらそうでもない。
Are You Born Again?という風にはっきりと信仰告白をしたクリスチャンと生まれてから家庭とか国中がキリスト教なんでなんとなくクリスチャンだと思ってただ習慣的に来ているクリスチャンがいた。(キリスト教の檀家制度とも言えるのでは)
教会学校にも夏休みがあった、学校が休みになる6月頃になると皆夏の家に行ってしまうので礼拝に来る人が半減する。
牧師というのは職業であり必ずしもクリスチャンでもない牧師がいるということ。これはさっきも言った日本の仏教と檀家制度を当てはめて考えると丁度当てはまるのではないでしょうか。
教会の奏楽者も掃除をする人も立派に給料をもらっていて場合によっては牧師さんよりも給料が高い。
この教会に来始めたのが5月頃、といっているうちに夏休みになり教会学校も休みになった。それで9月のレーバーデーの休日が終わってから教会学校が始まると思っていたら急に日曜学校の先生をやってくれと言われてしまった。私は当時クリスチャンになり立てで一年もたっておらず日曜学校なんか日本でも教えたことが無かったのでいやだと言ったが結局やることになってしまった。担当したところは3年生と4年生。結構大変な年頃のクラスであった。最初は何をやって良いのか全く分からず苦労の連続でしたが今から思えば本当に楽しかったし良い経験になったと思います。でも新米のクリスチャンでしかも外国人に日曜学校の先生を頼むなんでアメリカと言う国はすごいなーと感心したことを覚えています。
ここで一緒に日曜学校の先生を手伝ってくれたのがRosenbergerさん。とても穏やかないかにもアメリカ人の紳士という方でした。日本の先生と言うのでいろいろと折り紙とかアパートでパーティーをやってあげたりして結構生徒さんには気に入られた思います。やっぱり教会と言うところは行って楽しいところでないといけないと思います。ここは今の日本の教会で考えないといけないところの一つではないでしょうか。子供達そして大人も教会に行ってこんな良いこと楽しいことがあるだというような教会生活だったらどんなにか伝道しやすいでしょうか。
ところがある日さっき紹介したドイツ系のおばあさんがこんなことを私に教えてくれたんです。“つとも”(このおばあさんが私を呼ぶとこんな風に聞こえたんです)この教会でね土曜日の夜に他のクリスチャングループが集会を持っててねずいぶん沢山集まってるらしいよ。と言われて私も興味をそそらて良く何かわからなかったですが兎に角行って見ることにしたんです。
そこで私はある土曜日の夜にその会場に行ってみました、といっても何時も日曜日に行っている教会なのですが。するとそこは日曜日の教会とは全く違った様子だったのです。このマールトンにあるChrist United Presbyterian Chuchの会堂は建物の前方が少し高くなった段がついていてそこで日曜日には牧師さんが説教をされるので椅子はそちらの方向を向いているのです。やはり少し高くなっているほうが話しやすいのでしょうか。でもこの土曜日の集会は同じ高さの場所から会衆に向かって話すべきだという理由からわざわざこうしたのでした。
先ずこの集会の場所に入ってすぐに感じたことがありました、それは何とも言えないのですがとても暖かく包まれるというか、安心できるというか何となくそこにいることが苦痛でないという感じだったのです。これはとても大切なことだと思うのですがクリスチャンの教会にいってとても場違いなところに来てしまったと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。やはり教会というところはすべての人に開かれているべきで知らない方が入ってこられたときにその方が来てよかった、きて自分にないものとか必要なものが与えられるということを感じ取ってもらえるような教会でありたいと思います。
とにかく私はその場所に入ってそう感じたのでした。そうしているうちにヘリーンおばあさんが話しておいてくれたおかげである人があなたがツトムかと言って近寄ってきました。この人はLew Boldwinといってそのころ40歳くらいの人でしたが若い人たちをとてもよく世話をしていた気のやさしい人でした。この教会はせるグループ方式というかすべての会員(といっても特別に会員名簿もないんですが)というかメンバーが各地でもたれているそれぞれの家庭集会に属するというやり方をとっていました。
とにかくLewに案内してもらって席に着くとしばらくしてから誰が始めるともなく賛美が始まりました。ここの礼拝は先ず賛美が7時頃から始まり一時間くらい続きます。賛美は誰が始めるともなく自然に始まります。歌詞のかいた紙も、プロジェクターで歌詞を映すこともなく皆が歌詞を覚えているようでした。一つの賛美が終わるとまた誰かが賛美を始めそれが自然に繰り返されるのです。またそうかと思うと誰かが異言で話し始めたり、証しをしたり、予言したりします。とに角始めの一時間ほどは自由というかフリーフローなんです、これが聖霊に導かれているというのでしょうか。
そうこうしているうちに牧師さんがまえにでてきて説教を始めます、この説教が長くそしてみんな熱心にノートを取りながら一生懸命聞いているんです。これはせっきょというよりもキリストの教えまた聖書の講義というほうが正しいかもしれません。これが一時間ほど続くと集会が終わります。そうすると皆それぞれ友達と話し込んで三々五々帰っていくかと思うとそうではなく近くにあるクランベリースクープというアイスクリームパーラーにいくのです。クランベリーというのは沼地にできる木の実でそれそ収穫するときに梳君ですがその道具のことです。そのスクープを壁に飾ったパーラーがマールトンの中心にあるのですがそこに皆で繰り出します。
よるの十時ごろの大勢の大人がアイスクリームを食べにいくのですからまあ日本人の発想とはかなりかけ離れています。そして皆で楽しく話しながら大きなアイスクリームを食べながら四方山話をするんです。皆熱心なクリスチャンと言ってもそこはただの人間ですからさっき聞いた説教のことなんかはこのころにはどっかへすっ飛んでいます。というわけであるとき牧師さんが、いつも集会の後で楽しい交わりの時間を持つのはいいがたまには聞いたことをよく心にとどめるために集会がおわったらどこへも寄り道せずにまっすぐ家に帰って教えの意味を考えましょうといっておられたのを覚えています。牧師さんの思いはどこでも同じだなと思います。
この教会のやり方はメンバーがそれぞれの家庭集会に属するといいましたが毎週水曜日に家庭集会が持たれていました。そこで土曜日の集会で話されたことを皆でそれがどういう意味かを話し合ったりいろんな事を祈りあったりするのです。
私はこの土曜日の集会も賛美が美しく教えも良く好きだったのですがこの家庭集会に属することによってとてもよく皆と知り会いになることが出来てよかったと思っています。この家庭集会では毎週食事をしながらいろんな事を話したりまたフットボールを一緒にしたりしました(フットボールといってもタッチプットボールでタックルはしません)
この家庭集会には若い人たちが大勢いていろんな事をやっていましたがボランティアというかコミュニティー活動も活発でした。アメリカではご承知のように離婚が多いのです、ある私が勤めている会社のかたの子供さんがアメリカに赴任となり学校へ行って友達と話したらあなたには何人お父さんがいるのかと聞かれてびっくりしたといっておられました。アメリカにはお父さんが二人いて週末にはその二人目のお父さんのところで過ごすという子供たちが多いのです。そして勿論未亡人や一人暮らしのおばあさんが大勢いらっしゃいました。秋になるとわたしがいたところは紅葉がとてもきれいですでもそれが冬になるとすべて落ち葉になってその落ち葉広いが大変な作業なんです。毎年秋になると落ち葉を大きな袋に何十も詰めて道路においてトラックに持っていってもらいます。そしてこの集会のメンバーのおばあさんの所の落ち葉拾いを皆でやったりしていました。
というわけで私のアメリカ生活はこのLivinig Word Communityというカリスマ的な教会のメンバーになることによって大きく変わっていったのです。
こうしてこのグループに入ってメンバーの一員として色んなことをやっているうちにある大きな出来事が起こったのです。それはベトナム戦争が終わったことによって発生した大勢のベトナム難民をフィラデルフィアでも受け入れるということでした。
この章続く
単身赴任
単身赴任という言葉は私にとって近くでそういう境遇にある人は多くあったとしても今までは無縁のものでした。それが現実に自分に対する切実な問題となったのは今年の6月の事でした。私の会社の社長が変わりそれと共にいろんな組織そして制度が変わりました。その仲の一つが米国にマーケティングセンターを創設するというものでした。そのメンバーの一人として私が指名されたわけです。我が社も私ぐらいの年齢(52歳)になるとなかなか生き残り競争が厳しくポジションをああだこうだと我侭を言う事は贅沢なことです。それにしても私がアメリカに(しかもこれが前にいた事のあるニュージャージー)行く事になるとはと言うのが正直な私の気持ちで、家族はどうなるかとかどうやって独りで暮らしてい行くのかとかいろいろと思いが交錯しました?子供たちに聞いてみたら案外あっさりとあまり迷う様子もなく行きたくないという。従って妻は子供の面倒を見るのがプライオリティーNo.1で結局あっさりと単身赴任と言う事に。私の上司もやはり米国勤務でしかも今までも単身赴任をいろんな国で経験している方です。私は最初日本からの出張ベースでこの任務をやれるかなと思い上司に単身赴任でなくても日本から出張ベースで毎月2週間ほど来てやろうと思っているんですがと聞いてみたらやっぱりそれはダメ。
結局あきらめて単身赴任がめでたく決定。最初は私の心になんで私が問いう思いが何度も出てきました(今でも多かれ少なかれそんなところがありますが)でも赴任の時期も迫ってくるしビザも申請しないと行けないし、荷物も送らないといけないしと焦る気持ちがいっぱい。そうこうしているうちにまずは出張で米国勤務開始ホテルに結局二ヶ月ほど泊まりながら組織の編成、仕事の立ち上げ、アパート、車探しを始めたのでした。ある時デボーションの本を読んでいたら人は持っていないものを求め持っているもがどんなにすばらしいものかを見ようとしないとありました。これが私の心にグサッと突き刺さりました。私は自分の身に起こった自分にとっておもしろくない出来事にばっかり気を取られ今私に神様が何をしようとされているのか、いかに神様が恵みを私に豊かに与えてくださっているかを見る事が出来なくなってしまっていたのでした。毎日いかに自分にとって少しでも良い生活環境を整えようとあれこれ日本から送る物とか食料とかを考えたりアパートを捜したり、車を見たりモノ、物、ものしか頭になかったのです。そして私が神様から頂いた何を日本から持ってくるとか、神様が何をこの出来事を通して私と家族に言おうとされているのかをすっかり忘れていたのです。そこで私は神様にこれを通して何を私にいわんとされているのかを祈り求めてみました。そこで示された事は、主がしもべ達にその能力に応じて5、2、1タラントを与えて旅に出かけられた例え話です(マタイ25章14−30)。主は確かにあるものには多くまたあるものには少しタラントを与えておられます、しかしここではその量が問題では無いのです。問題なのは私たちにその必要に応じて、状況に応じて必要な量が与えられているという事です。ところが私たちはこのようなときに問題のをすり替えてしまい何で量が違うんだという事や人の事に気を取られたりして本当の神様の御旨を知らずに見過ごしてしまうことが多いのではないでしょうか。神様の御旨を見る事が出来るよう心を静めて、十字架をみて、祈り求めて神様の御心がなんであるのかを見つめながら歩んでいきたいものです。
ところで結局神様からアメリカでの生活の中で示されたものは、
企業に勤める日本人へ神様の恵みを伝える事、
(以外と駐在員の生活仕事以外でも接触が多く私的な部分に触れることが多くみんな悩みとか苦しみを持っている事がわかるのです)
フィラデルフィア日本人教会に繋がる家庭集会を持つ事、
Big Brother, Habitatなどのボランティア活動に時間を割く事、
ですがどれくらい出来ますか?日本の皆さんそしてフィラデルフィア・ニュージャージーの皆さん宜しくお願いします。
2000年10月30日
宮本努
信仰とボランティア
私は昔からボランティアというものに興味を持っていました。それが信仰を持つ前か後か定かではありません。多くの人はそれぞれ趣味を持っています、スポーツとか料理とか家庭菜園また庭造りとかです。理由はそれぞれ違うと思いますが、それをすることによって何か自分のうちに達成感とか満足感が得られるからではないでしょうか。例えばスポーツでは勿論良い運動になることやテニスとかゴルフの腕があがるとかまた人と知り合えるという事もあるでしょう。私がボランティアに興味を持ったのはやはりそういう理由があったからでボランティアをすることによって自分のうちに誰かの役に立っていると言う満足感が得られるしまた活動を通して人とも知り合えるということでした。今やっているHabitatについて言えば家造りをすることによって家の建て方を勉強することが出来ると言う至極実用的な目的もあったからでした。
去年の8月からニュージャージーに来て以前行っていた家庭集会(何と25年前に行っていた家庭集会にまた行くことになったのも驚きと言うか神様のお導きと言うしかありませんが)にまた行き始めたらそこのリーダーの夫婦がHabitatに行っていると聞いたのがきっかけでした。ご承知の方もおられると思いますが、これはなかなか自分では家を建てることの出来ない人のためにHabitatというボランティア団体が家を建ててあげる仕組みのことです。でもこの組織の良いところと言うか感心したところはただ建ててあげると言うことだけではなく他にいろんな良いことがあるということです。例えば建ててもらう人はただ安く家を手に入れることが出来るということだけではなく自分もボランティアになって何時間か自分の時間を使って作業をする、学生はボランティアの時間が学業の一部になっている、また会社は会社としてボランティアの組織的な活動をサポートしているとかです。そして勿論教会もグループでボランティアを送りこんで奉仕をしています。こういう組織的な動きはやっぱりアメリカの方が日本よりも進んでるなという印象を強く持ちました。
さて信仰とボランティアについてですがキリスト教の根本は神様を愛し隣人を愛すると言うことですから自ら自分の時間や特技を生かして人の為に奉仕すると言うことはその教えにかなっていると思います。以前ある人に言われたことですがそれは信仰と慈善とは違うことなんだということです。それは確かにそうであって信仰を持つことに行為は必要とされません。心に信じて告白すれば救われます。(ロマ書10章10節)問題は信じた後どうなるかということだと思います。信じて告白したからもう一番大切な救いはここで完成しているのです。信仰を持ったときいままで呪いの世界に閉じ込められていた古い魂が恵みの世界へ開放されたんだと思います。ですから信仰を持つ私たちは恵みにあずかって喜んでいるんですその喜びを分かち合いたいと言うのが奉仕の働きであるべきだと思います。ともすれはボランティアも月一回行けばいいという義務的なそしてボランティアすることによって自分も何か満足感を得るというか実利を得ようとする気持ちが働いたりします。そういうことは私達罪の束縛から逃れられないものとしては当然の思いだと思いますしそれ自体は悪くないことだと思います。しかしイエス様が教えておられる自分の隣人を愛せよということまたそれを心から喜んでしなさいということがまず先にあるべきだと思います。ともすれば始めは喜びからはじめたボランティアでもマンネリに陥り義務感が先走りしてしまう危険性があります。そんなことの無いようにイエス様の愛をいっぱい受けつつ喜びをもってボランティアを続けていきたいという今日この頃の心境です。皆さんも家造りのボランティアやりませんか?