下駄の歴史


履物はいつの時代から作られ、履かれてきたのだろうか、いまは生活のなかで
欠かせない物であり服装の一部にもなっているが、遠い昔の人は裸足であったろうし、
それが暮らしのうちに生活道具として考え出され、作られ、様々な趣向が取り入れられてきた。
気候、風土のそれぞれを異にした生活に応じて生まれ伝えられている。一口に履物といっても、
その分布や、範囲も、また住むところによってその形は様々であるが、足に履く全ての物を
言っているのである。
履物が下駄や草履など足に履く物をさすようになったのも平安時代頃からである。
身体につける服装からみると、頭にかぶる、身体に着ける、足に履くという表現が用いられるが、
このうち「はく」という意味には、腰巻きや、ズボンなどの衣類を身につける場合にも「はく」であり、
履物も「はく」である。すると、「はく」はアシ(脚、足)に「はく」であり、本来はとくに足だけに限ら
れていなかった。
   
古代
履物の起源としては、まず足の保護が重視されたことに端を発したものと考えられる。
太古の人々はもちろん裸足であったと思われるが、歴史時代に入ってからも素足の歩行は甚だ
多く、履物は特殊の上層階級にのみ許されたにすぎないのである。
かの有名な邪馬台国があったと言われる三世紀より一世紀前の二世紀あたりから田下駄が発見さ
れている。
この時代、普通の下駄の使用は一般に普及していなかったと思われる。
田下駄は水田か深田の耕作に使われたとされている。また、この当時の物として左右の区別された
下駄も発見されており、祭儀用か、またごく階層の高い人が用いたかもしれません。
田下駄のような農耕具としての下駄は別とし、履物として、よほど身分の高い人が使用した可能性が
あります。

   


奈良平安時代
古墳時代から奈良時代に入ると、中国の影響を著しき受けた沓(くつ)が宮廷を中心とした身分の高
い人たちに履かれるようになったようです。


この当時の沓とは、動物の毛皮や布などを縫い合わせて作った物から、鳥皮や藁で作った物まで、
身分に応じて履かれたようです。
平安時代に入ると、日本文化が独自の発達をみせはじめ、履物も豊富に日本化したようです。


宮廷、公家、僧、武士、庶民とその階層の用途によって発達したが、下駄の前身足駄(あしだ
が民間からおこり、武士や婦女子にも履かれたようです。
足駄は台の形は楕円形で、材質は杉、歯は銀杏歯(上から下へ反って広がっている)で一つの木材
から刳って作ったものである。また、この頃から、真っ黒に塗った塗下駄や、台に表を打ち付けた
表付下駄も履かれるようになった。
   
鎌倉室町時代
鎌倉室町時代になると宮廷、公家だけの履物と、新興武士たちは草鞋や草履などを履き、また一般
大衆も履物を履く風習が普及しだした。
日本独自の履物「足駄」が初めて世に現れてから、徳川時代以前まで木製履物は形の上で、殆ど
変化しなかったのは、打ち続いた戦国乱世が、その余裕を与えなかったためである。
   



江戸時代
江戸時代に入って、泰平が続くにつれてようやく形状に変化を示し、駒下駄の現れた元禄以降に
おいては、下駄の発達は最も著しいものがあって、世俗が遊惰となるにしたがって様々なものが現れた。
      


安永、天明時期には、世の女性だけでなく、男性まで着物で踵をおおい、女性のように塗下駄を
履いて、しゃらしゃらと流し歩くようになったので、一段と下駄の需要が増加した。



こうした下駄の大衆化にともなって、流行の先端を行く通人の間では、同じ下駄の好みながらも一般
の者とはいささか好みを異にしたようだ。
だが、一般の人たちが普段に下駄を履くということは未だ数は限られていたようで、文政一年に刊行
された「江戸買物独案内」をみると、草履屋や雪踏屋は記載されているが、下駄屋という専門店は
一軒もない。
履物はこのころ草履.雪踏が一番多く履かれていたということができる。
一般に都会では幕末までは草履が主であったし、地方ではほとんど自給していた。
自家製品の種類を全国的にみる、藁草履、竹の皮草履、雪踏、草けい、ごんぞ、ずんべ、深ぐつ、
ふんごみ、甲掛けに木製の駒下駄、高下駄であり、多く雨天などで田畑に出られない時につくられた
ものである。
また、背の高い差し歯の下駄を履いて、糞尿の排泄時に足元を汚さないように使用されていたのも
事実である。




元禄時代に多く塗下駄が現れたが、宝永の末頃から、黒、朱、青など本塗し、歯はバチ形に反ってい
る塗下駄が、大阪商人の手で江戸に売りさばかれ、大衆化し、さかんに履かれた。
当時、大阪、京都の塗下駄は優秀品の代名詞であったらしい。
この時代江戸では、高いのを足駄といい、低いのを下駄というが、二つとも差し歯である。
下駄も足駄も江戸では男子は角形を専用し、京都、大阪は高低ともに下駄、あるいは差下駄とい
い、また男女ともに丸形を専用する。江戸では、女性用は丸形である。
差し歯の高さによって京差しと大阪差しがあった。歯の高さが、三寸が京差しで、二寸二分が大阪
差しである。大阪差しより低い物を日和下駄と言った。
また、この時代、世を風靡した、歌舞伎役者や京都の島原、江戸の吉原の花魁道中下駄など流行
も様々である。大阪の俳優中村歌右衛門が履いた芝かん下駄や、江戸の女形岩井半四郎の
半四郎下駄などが流行品となった。
江戸時代の三大改革の最後の天保の改革では、老中水野忠邦が消費面に厳しい統制を加え、
それが、履物まで及んでいる。
一、百姓共下駄はき候義無用に候、但杉又は椎の木にて免切いたし木履と唱候類は格別の事
一、雪踏駄履類は決して相成ず候事
このように、江戸時代では下駄もかなりの奢好品だったようだ。

明治時代
明治に入ってからは男物は堂島が喜ばれ、これに日光下駄、女物は島原形で、さらにとじめ形・
二段小町・丸ぶち・小町・万年形に吾妻下駄が二十五年頃から履かれ、三十四年頃には駒下駄は
畳付を晴用として、男には堂島・両繰があり、書生の薩摩下駄は、粋むきの後丸とともに盛んに用
いられ、新橋形は芸人や、しゃれ者の履物であった。
女物は半四郎下駄がすたって小町・に段小町・万年形・両繰・堂島・あと角になり、子供用にポック
リがあった。日和下駄は種類がふえて角形・丸形、つま切があり、婦人には丸形や後歯が用いら
れ、日和に畳を付けた吾妻下駄は学校通いの女学生に好んで用いられた。




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