Tanka  

 「男らしさの呪縛」 ─『塔』2002年4月号

 

1.「男らしさ」とは何か
 さまざまな分野で女性の社会進出が進み、性差についての議論も深まってきた現在、それでもなお「男らしさ」という概念は一定の価値を持っているように思われる。「男らしさ」という価値観は、例えば「男らしくない」という否定形が百パーセント悪い意味でしか使われないことからも伺うことができよう。これは「女らしくない」という言い方が、良い意味でも悪い意味でも使われるのと比べる時、大きな違いのように感じられる。
 そもそも私が「男らしさ」について考えはじめるようになったのは、自作の短歌についての他者の評を聞いてからのことである。
 『短歌』二〇〇〇年十一月号の角川短歌賞選考座談会において、私の作品「靴箱」に関して、選考委員の馬場あき子氏は「つまりこの人は男なんだけれど女っぽいうたい方をしているんだよね。」と述べ、同じく岡井隆氏も「いまはどちらかというと男性が女性っぽくうたうのがトレンドだから、それをやっているわけなんだね。」と述べている。
 他の選考会の場においても「中性的」「両性具有のような」という指摘があり、さすがに私も自分の歌が男っぽくないこと、そしてこれが重要なのだが、それが彼らの期待に沿っていないことを思わないではいられなかった。つまり「男は男らしい歌を」という、裏に隠された要求を感じてしまうのである。
 このように男性歌人の短歌に「男らしさ」を求める傾向は、何も選考会に限らず、短歌の読みや評論の場でしばしば見られることである。一例を挙げておこう。
  いまどき大和魂とか丈夫振りとかを、殊更言ったら笑いの対象になるかもしれない。しかし私は多くの認識とは別に、いま歌の上でも復権させねばならぬものは、心の中にやさしさを持った、一般的に言えば女性的ともいえる繊細な心づかいをもったところの、丈夫振りであり、お男の子の魂であると思っている。
  (岩田正『現代短歌愛のうた60人』)
 けれども「男らしさ」や「男っぽさ」という概念は、はたして普遍的な内容を表すものなのだろうか。最近のユニセックスなファッションや話し言葉を見ても、男女関係のあり方を考えても、それは多分に作られたものでしかないと思うのである。時代の移り変わりとともに家族や社会の仕組みが変われば、「男らしさ」の表すものや男性像も変わっていく。それは短歌の世界においても同じことだろう。
 では、なぜ今なお男性の作る歌に従来的な「男らしさ」を求める人々がいるのだろうか。これを「世代による男らしさの違い」と「男らしさという戦略」の二点に絞って考えていきたいと思う。他に、韻律や語彙、文体、口語の問題も、短歌における「男らしさ」を考えるに際しての大きな要素であるが、今回は触れないでおく。
 
2.世代による「男らしさ」の違い
 まず世代による違いに関してだが、先に挙げた選考座談会の発言がともに一九二八年生まれの馬場・岡井によるものであり、例として挙げた文章が一九二四年生まれの岩田によるものである点を考えないわけにはいかない。時代とともに社会が変化しても、個人個人の持っている価値観はなかなか変わらないもので、世代によって「男らしさ」のとらえ方が異なるのも当然だろう。そこで、最近出た歌集の中からそれぞれ世代の異なる七〇代の岡井隆、五〇代の島田修三(一九五〇年生)、三〇代の大松達知(一九七〇年生)の作品に表れている違いを見ていきたいと思う。男らしさについて見ていく場合、それが最もはっきりと出るのは、異性(女性)との関わりにおいてと思われるので、それぞれ妻の歌を二首、そして自分自身に関する歌を一首ずつ選んでみた。
  若き妻のいやがることをすこし言ふ草いきれする臓器のことを  岡井 隆『E/T』
  いしゆみ石弓もてアルバトロスを撃つやうな海光なのだおれの渚は
  あぶら匂ふアトリヱは隣にしづまれり妻から筆をうばつて久し
  冷や飯を電子レンヂにあたためてゐる憂愁のますらを俺は  島田修三『シジフオスの朝』
  さい妻とこ娘を新装開店「河童鮨」に率ては来たるがの仰けから不味い
  喰ひて飲み酔ひて衰ふるシジフオスの朝こんこんとさい妻に諭さる
  妻の傘にわが傘ふれて干されゐる春の夜をひとりひとりの眠り  大松達知『フリカティブ』
  疲れゐるわれに気づけり授業するわが声の高くなりゆくときに
  妻のシャンプーにて髪洗ひたるのちは妻の香帯びてねむるなりけり
 妻に対して優越的な立場を保ち、男であることに対して何の疑いも持たない岡井の世代。若い妻との生活という図式を意図してうたっている歌集だけにあまり単純なことは言えないが、それでも「いやがることを」や「うばつて」といった表現に、従来的な「男らしさ」が無意識のうちに表れているように感じる。
 これに対して、島田の世代は古い男性像や「男らしさ」に対する憧れが残りつつも、現実にはそうはいかなくなってきていることが伺われる。つまり「ますらを」でありながら「冷や飯を電子レンヂであたためてゐる」し、「妻と娘を率て」意気揚々とやって来た店は美味しくないし、諭すべき相手と思っている「妻」に諭されているのだ。「妻」を「つま」ではなく「さい」と読ませている点にも、微妙な屈折が感じられるように思う。こうした島田の歌からは、憧れと現実との差を自らを戯画化することで何とか乗り切ろうとしている姿勢が感じられる。これは一見、「男らしさ」とは対極にあるもののように見えるが、実はこれもまた裏返しの「男らしさ」なのではあるまいか。自らを過剰に戯画化する中に、従来的な「男らしさ」の価値観が見え隠れする。
 一方の大松の歌はどうだろう。一首目の「妻の傘」は「夫の傘」に代えても成り立つと思うし、三首目の「妻の香帯びて」には従来的な「男らしさ」にはなかった、受け身な気分さえも感じ取れる。この世代にはもはや従来的な「男らしさ」に対する憧れなどないのであって、憧れと現実との差に苦しむことなく対等な男女関係を受け入れているように思われる。二首目の「われ」にも「男は〜でなければならない」というような意識はなく、ごくごく自然体だ。そして私がこの三世代の歌の中で最も共感するのは同世代である大松の歌なのである。
 もちろん世代の違いだけで、「男らしさ」のすべてが説明できるわけではない。従来的な「男らしさ」の価値観が世代とともにこのまま消えていくのかと言えば、そんなことはない。それはこうした無意識の「男らしさ」以外にも、「男らしさ」が意識的に打ち出されている場合があるからだ。次にこの点について見ていこう。
 
3.「男らしさ」という戦略
 例えば「男歌」という言葉が単に男性の作った歌というだけではなく、男っぽい歌いぶりや強い男性性を示唆することからもわかるように、「男らしさ」は短歌において一つの戦略として用いられている側面がある。その代表的な歌人は何と言っても佐佐木幸綱(一九三八年生)だろう。
  ゆく秋の川びんびんと冷え緊まる夕岸を行きしず鎮めがたきぞ  『群黎』
  たちまち朝たちまちの晴れ一閃のおごころ雄心としてとべつばくらめ  『直立せよ一行の詩』
  殴る男夢見る女あかあかと朝日射す街に帰り来たまえ
  泣くおまえいだ抱けば髪に降る雪のこんこんとわがかいな腕に眠れ  『夏の鏡』
 こうした歌は今ではいささか時代がかって見えるが、これを単に一九七〇年・七二年・七六年刊行という時代のせいとだけ見るわけにはいかない。大岡信が「『群黎』に寄す」の中で「佐佐木幸綱の歌は一言で形容するなら、《男歌》である。オトコウタであり、オトコノウタである。」と書いていることからもわかるように、これらの歌は既に当時から、ありのままの自然体な男性像というよりは、「男らしさ」を強調している歌として受け取られていた。つまり、あえて男っぽく歌っているという側面を見落とすわけにはいかないのだ。
 いずれの歌も、「とべ」「帰り来たまえ」「眠れ」といった命令調や「びんびんと」「こんこんと」などのオノマトペによって強い韻律が生み出され、意志の強さを感じさせる歌になっている。一首目の断定の助詞「ぞ」や二・三首目の初句六音の勢いのある入り方の効果も見逃せない。ただ、冷静に歌の内容を見ていった場合、例えば三首目の「殴る男夢見る女」というのはあまりにも単純な男女の図式に基づいていると思うし、四首目の男性像女性像にも演歌の世界一歩手前の危うさがあるように感じる。
 「男らしさ」ということについて佐佐木自身は、『佐佐木幸綱の世界6』の書下ろしエッセーの中で、
一九六一年にヘミングウェイが猟銃を口にくわえて自殺、翌六二年にモンローが睡眠薬で自殺した。ともに、二十代の私に衝撃的な事件だった。この二人の自殺で、男らしい男、女らしい女の時代は終わった、というのが私の見方である。(中略)政治家の生き方から家庭内における父親の自覚に至るまで、たとえば、かつて男の美学と呼ばれていた質のそれは急激に影をひそめた。〈頑固〉とか〈我慢〉とかは別のコンテクストで読まれるようになった。私は、まあなんと言われようと、この点では古い男女観でいいや、という思いであった。
と書いている。つまり、そうした問題意識の表れとして、従来的な「男らしさ」が短歌の中に強調された形で用いられていると考えることができる。
 こうした手法は世代を越えて現在にも引き継がれているようだ。同じく「心の花」に所属する三十代の田中拓也(一九七一年生)の歌を見ていきたい。
  麦の穂を揺らす風音に耳澄ます坂東太郎の厚き耳たぶ  『夏引』
  強き語尾持ちたる男 あかあかと鮭のぼる夜の昔を語る
  鉄打てば鉄匂い立つ人抱けば人匂い立つ ぬばたまの闇
  辛口の酒酌み交わし語らえば男と男 冴えわたる月
 歌集『夏引』の解説で佐佐木幸綱は、巻頭の「晩夏の川」一連について〈また、一九六〇年代以降男女の差異が縮小しはじめて、四十年を経た現在では男っぽさ女っぽさという価値があったことさえ話題にならなくなった。こういう時代に、「晩夏の川」は男っぽさをうたい、(後略)〉と書いている。「男っぽさ」が他の歌人との差別化を生む一つの特徴となっていると見ているわけだ。
 確かに一首目の下句の重厚な表現や二首目の「強き語尾持ちたる」という捉え方など、「男っぽさ」が魅力を高めているように思える歌も多い。しかし、逆に三首目のような対句表現は一歩間違えれば俗なものになってしまうだろうし、四首目など明らかに既成の「男らいしさ」のイメージをなぞっているだけの歌になっているだろう。このように、必ずしも歌の良し悪しと「男っぽさ」とは関係があるわけではない。
 いずれにしても、田中はかなり意図的、意識的に「男っぽさ」を強調した歌を作ろうとしているように感じる。その証拠に、同じ歌集の比較的若い頃の作品には、特に「男っぽさ」を感じさせない歌も多い。
  シャガールの天使のように生きたいね 初夏の樹木の直線を恋う
  来年は海で会おうよ 灰色の空を見上げている渋谷駅
 
4.まとめ
 以上見てきたように、時代の変化とともに従来的な「男らしさ」の実体がなくなった後も、依然として「男らしさ」の価値観だけは生き残り続けているようだ。もうかなり以前から、女性が「女らしさ」という束縛を捨てて多様な考え方・生き方をするようになってきているのに対して、男性の方は相変わらず従来的な「男らしさ」に縛られているように感じる。男性が最後まで自らの拠り所のようにして捨てきれないものは何なのか。それはなぜ捨てることができないのか。私たちは自分自身で一度よく考えてみるべきだろう。女性も含めた私たち一人一人の心の中に「男らしさ」を求める気持ちや「男らしさ」に対する憧れがある限り、「男らしさ」は形を変えながら短歌の世界に生き残り続けるにちがいない。
 今の時点で一つだけ言えることは、「男らしさ」というものを何か普遍的で固定したもののように考えて、それを基準に短歌を批評したり評価したりするべきではないということだ。「男らしさ」という漠然とした概念ではなく、例えば力強い韻律・明確なテーマ性・動きのある表現といった個々の要素によって歌そのものをきちんと評価していけばいい。その方が作品の持っている良さが先入観なく見えてくるのではないか。
 最後になるが、私がこのような文章を書いてきたのもまた、自分自身「男らしさ」の呪縛からいまだに自由ではないことを意味しているのだろうと思う。「男らしさ」という問題は、現代においても非常に根深いものがあると思うし、さらに言えば今後ますます議論されるべき問題になっていくように思うのである。