Tanka  

 「もうニューウェーブはいらない」 ─『角川短歌』2002年12月号

 

 一九九〇年代半ばに短歌を作り始めた私が、最も大きな影響を受けたのは、穂村弘・荻原裕幸・加藤治郎らニューウェーブと呼ばれる人々の作品や歌論であった。その新鮮な感性や華やかな技巧は、何よりも私の憧れであった。穂村の『シンジケート』(90)の口語のポップな感覚、荻原の『あるまじろん』(92)の果敢な記号使用、加藤の『マイ・ロマンサー』(91)の大胆なオノマトペなど、そこには様々な魅力が詰まっていた。
 八〇年代後半から九〇年代前半にかけては、まさに彼らの時代であったと言えるであろう。岡井隆をはじめ多くの歌人たちが彼らから影響を受けた作品を発表した。その後、彼らがインターネット文芸集団「ラエティティア」を発足させ、オンデマンド出版「歌葉」を創刊し、歌葉新人賞など各種新人賞の選考にも関わるようになってきたのは、周知の通りである。そして今もなお若い歌人や、これから歌を作っていこうとする者にとって強い影響力を保ち続けている。
 しかし、私自身は次第に彼らの作風から距離を置くようになってきた。それは何よりも、彼らの作品がその後、明らかに輝きを失ってきているからである。行き詰っていると言ってもいい。それは、口語の使用や新しい技法の開発が一通り済み、次の一手が打てなくなってきたという理由とともに、バブル崩壊後の社会状況の中で、彼らの作る歌が現実生活の実感と大きく乖離してしまったことも影響しているのだろう。時代の流れが彼らを置き去りにしてしまったような印象がある。試みに、彼らの最近の作品を引いてみよう。
本当のおかっぱにしてって何回も云ったのに、意気地なしの床屋め
蛸といえば吸盤、冬といえば雪、永遠の愛といえば私たち
     穂村弘「手紙魔まみ、意気地なしの床屋め」(『短歌』二〇〇一年十一月号)
ネエ神様ソコニヰルナラセメテアノ一日ダケハ消シテ下サイ
観戦と参戦の差の烈しさは、いやヤンキースの話ぢやなくて
     荻原裕幸「えあろぷれいん」(『短歌』二〇〇二年三月号)
撞球たちまち散ってニューヨーク市民と恐怖を分ち***あわず
  炭疽菌事件という連鎖。
書き終えた手紙のくせに真っ白でまっしろでもうきっとこわれたい
     加藤治郎「ウインター・デイズ」(『短歌』二〇〇二年一月号)
 私は、こうした作品に、もはや何の魅力も感じることができない。穂村の歌は歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の続編だが、「まみ」の幼さと甘さだけが目立ち、閉じられた世界で自足している印象を受ける。荻原・加藤の作品は、九・一一テロ事件に関連する歌だが、どちらも世界的な大事件に対して、こういうアプローチの仕方が果たして有効なのか、疑わしく思わざるをえない。湾岸戦争・オウム真理教事件の時のように新鮮な印象は既になく、同じパターンの自己模倣に終始しているように感じてしまう。
 昨年、私は同人誌『勝手に合評』誌上で「ニューウェーブ世代の歌人たちを検証する」という特集を行って、彼らの作品世界と、その功罪を検証した。それは、彼らの一つ下の世代にあたり、彼らから大きな影響を受けてきた私たちにとって、今後自分たちがどのような歌を作っていくのかを改めて考え直すことでもあった。一つ前の時代をきちんと総括しないことには、先に進めなかったのである。そして、修辞に頼り過ぎるニューウェーブでもなく、またそれ以前の、生活そのままを詠む短歌でもない、第三の道を進むしかないという結論に達した。彼らの開発した口語・記号・オノマトペなどの手法は成果として取り込みながら、内容は大きく変っていくべきだろうと考える。
 私が感じていることを言えば、作品の中にやはり「私」が欲しいということだ。以前の私は、ニューウェーブの影響を受けて「私」を欠落させた歌を作っていたが、それが自分自身の心に少しも響かないことに次第に空しさを感じるようになった。「私」の存在が薄い歌を作り続けるうちに、自分が消えていくような不安を覚えたと言い換えてもいい。今ではむしろ、作品の中の確かな手触りや実感を通じて、自分の輪郭を取り戻したいと思うようになってきている。たとえ無様でもいいから、おしゃれな歌でなくていいから、何よりもまず自分の心に響く歌が作りたい。短歌と人生とが相互に影響し合うような関係でありたいと、今は思う。
 ニューウェーブ歌人に関してさらに危惧するのは、彼らが新人歌人のプロデューサー的な立場に立とうとしていることだ。新人賞の選考やインターネット上のやりとりを見ていて、そう感じる。短歌の実作者であるならば、何よりもまず自分の歌で勝負するべきではないのか。自らの行き詰まりを新人の発掘や若手に対する影響力の保持で補おうとしているようではどうしようもない。しかしそれが、かつてニューウェーブと呼ばれた人々の現在の姿なのだ。こうした姿勢は、無数のエピゴーネンを生み出すだけに終わるだろう。
 また、彼らの文章や発言を読んでいても、同世代の歌人や自分たちの影響下にある若手歌人とのみ関わろうとしているように感じてしまう。先行する世代と断絶し、自分たちだけで固まってしまう態度。こうした傾向は彼ら自身にとっても良くないことだ。こうした中から、何か真にすぐれたものが生まれるとは、とても思えない。世代や作風の異なる歌人が、それぞれの立場で競い合い、論争し合う中でしか、短歌の未来は開けていかないのではないか。
 ニューウェーブ以降の世代である私たちは、彼らのこうした現状や態度を、しっかりと認識するべきなのだと思う。そして彼らの行き詰まりの原因を一度よく考えてみる必要がある。その上で、真に良い歌を作ろうとするならば、たとえ保守的・復古的というようなレッテルを貼られようとも、彼らとは違う道を選ばざるをえない。ここ数年に出た歌集を読む限り、多くの若手歌人が既にそのことに気付いている。ニューウェーブの時代はもう終わったのだ。