Tanka  

 「青春彷徨の自画像」(三枝昂之) ─『塔』2002年4月号

 歌集巻頭が「フリーター的」四八首、その一首目が「フリーターですと答えてしばらくの間相手の反応を見る」である。これはこの歌集の導入として強く働くから、読者はフリーターの世界というちょっと変わった色彩を持った歌集として、一冊を読むことになる。そうした先入観がこの歌集にとっていいことなのかどうか、まずその点を考えたい。

 フリーターは社会問題になるほど、今日のホットなテーマである。つい半月ほど前に文部科学省は労働厚生省とタイアップして、高校生の就職支援の緊急体制を組み、そのための集会を東京で開いた。昨今の就職難が特に高校生において深刻化している事態を受けての企画で、遅すぎるぞとも思うが、まあ泥縄でもやらないよりはいいとは言える。そこでテーマとして取り上げられた一つが、高卒者のフリーター化防止対策である。役所の研究員が熱心に説くのは、フリーターが生涯収入の観点から見たらいかに不利か、それを高校生に自覚させてほしい、ということである。そんな自明を教師から聞かされて改心するフリーター志願高校生がいるとも思えないが、ともかくやっておけば改心する奇特な高校生もいるかもしれない、と思い直しもする。

 かようにフリーターという存在は、深刻さを増している今日の社会問題であり、そうしたフィールドからの異色歌集としての性格を『駅へ』は持っている。しかも巻頭歌の「フリーターですと答えてしばらくの間相手の反応を見る」は、「しばらくの間」という表現に上目遣いに相手を観察するフリーターの内面が示されていて、一冊の主題の面からだけでなく、作品の出来の面からも魅力あるフリーター歌集と思わせる。フリーターという若者用語が歌語として広がる発端の歌集としても話題になるだろう。そのことはいいとして、そういう観点ばかりからこの歌集が読まれるのはもったいないのではないか、というのが読後の私の印象である。例えば次の二首はどうだろうか。

紳士服売場にならぶ何ひとつ記憶のしわを持たないスーツ
オムライス食べながらふと母親の口癖なども思い出されて

 売り場に並んだスーツに皺はもちろん一つもない。商品だから当然ではあるが、その整然たる姿に松村は〈記憶を持たない〉という空っぽを見た。これからさまざまな記憶を刻んで行くはずのピカピカ振りではないその感じ方は、スーツを眺める〈私〉の中に記憶のおぼつかなさがあることを示唆している。それを〈フリーター生活の内面〉として味わってもいいが、作品はそう理詰めに読み解くものではない。フリーターか否かを措いて、自分の中に記憶の手応えのなさがあり、それが記憶の皺を持たないスーツという発見に結びついた、と読めば十分だ。そんな形で表現された孤独感に私は詩的センスを感じる。

 二首目はオムライスの効果が抜群だ。なぜオムライスを食べながら母親の口癖を思い出すのか。そこはうまく説明できない。ただ、カレーライスを食べながらよりもオムライスの方がはるかに収まりがいい。卵焼きでくるんであって、中からケチヤップで染められたライスが出てくる。その黄色と赤の彩りのほんわりとした楽しさが、母親のあたたかさに広がることを自然だと思わせるのである。チャーハンでもハヤシライスでもない感触。ここでは何よりも、オムライスを選んだ、そのぴったり感に立ち止まりたい。詩語のこうしたセンスが松村の世界をきらりと光らせる。母親から離れているさびしさをそこに読み、さらにフリーター生活の孤独に広がることも可能だが、まあそれは作者を読む読み方であって、作品そのものを読む読み方ではない。

 歌集を通読すると、松村は文字通り、北から南へ、日本各地を転々としたようだ。各地でさまざまな歌が生まれたが、吉川宏志は歌集解説でそれらに共通する特徴を「風土性はほとんど感じられず、どの町も同じような表情をしている」と指摘している。的確で大切な指摘だ。この指摘を受けて私が思い出すのは浜田康敬である。記憶だけで語ると、北海道生まれの浜田は神奈川県に住んでいた昭和三十年代、角川短歌賞の賞金でふらりと目的のない風来坊の旅に出て、宮崎市の大淀川に架かる橋の夕景に会ったときに、その風景に打たれて、そのまま宮崎に住みついた。

 浜田と松村はどう重なって、どう違うことになるか。土地に根付かない風来坊振りの部分は重なるが、浜田は大淀川に何か決定的な啓示を受け、松村は土地からはそうした磁力をなにも受けていない点が異なる。それで松村の作品における町は、函館も大分もなぜ同じような表情をしているのか。彼の歌が見ているのは、町ではなく、自分の内面だからだろう。内面の反映のように歌の中に現れる町の風景、それが彼の歌の特徴の一つであり、そうした作品に心打たれるものが多い。

夕焼けに腰かけて見る街並みの一つ一つがその場所にある
可能性ばかり広がる空っぽの町迷いつつ歩みゆくのみ
夕焼けのままで止まっている町の六階書籍売場へ向う
山も木も象形文字へと還りゆく冬 理髪店の鏡に向かう

 一首目の「一つ一つがその場所にある」という感じ方は〈その場所〉を持たない心を示して、青春彷徨の切なさを思わせる。可能性ばかりという感じ方にも、まだ何もつかんでいない素手状態が示されている。三首目は町全体が夕焼けに包まれた印象的な場面。しかし六階という中空に向かう姿からは、自分が止まったままであることを自覚したあてどなさが滲み出る。輪郭を露わにした冬の山や木を「象形文字へと還」ると捉える。つくづく魅力的な感じ方だ。風景のこうした受け止め方ができるか否か、そこに歌人としての大きな分かれ目があると私は考える。象形文字へと還る風景の中で理髪店の鏡に向かう。この応え方もいい。『駅へ』という青春彷徨の物語の終わりを暗示しているのか、さらに孤独の底に沈む自分を自覚しているフレーズか。そこはどちらにも読める。

 どちらに読んでもあるがままの自分を見つめる内省は変わらない。そうした内省的で当て所ない青春の自画像に、この一冊の大きな特色があるように私は感じた。函館時代に石川啄木の歌集を読んで、松村は歌を始めたようだ。自問自答の中の自己観察に啄木の特徴の一つがあることを思い出すと、松村の発端は目立たない形で彼の世界に生きているように思われる。

ひらがなのむすび優しくほどかれて春のおみなとおのこになりぬ

 孤独なフリーターが男女という単位になったときの歌だろう。やわらかで楽しく、読んで心が緩む。青春彷徨の末のこうした豊かな緩みがどう展開するか、期待して待ちたい。