Tanka  

 「寂しさと安らぎと」(秋場葉子) ─『塔』2002年4月号

 それ以上言わない人とそれ以上聞かない僕に静かに雪は
 テーブルを挟んでふたり釣り糸を垂らす湖底は冷たいだろう

 歌集『駅へ』には、こんな寡黙な二人が多く出て来る。時間と場所を共有しながら、多くの言葉を交わさない。あるいは、核心に触れるひとつ手前で言葉を閉じてしまう。一首目は実際にあったかもしれない場面だが、二首目は登場人物の半身が別の世界へ溶けこんでいるような幻想的な絵を見せてくれる。配されている「雪」や「湖」といった清浄な言葉が、二人の思いの純度を暗示しながら、混じり合わない未来を宣告しているようだ。

 部屋中のものが見ている 布団から首だけ出して寝ている僕を
 むしろ当り前のさびしさなのでしょう食後二錠とでもいうように

 しかし、全編を貫くこの淡い寂しさは、何かに流されるようにして生じたものではない。「定住しないフリーター」という境遇。歌集を読み進めて行くうちに読者は、それが確かな意志をもって選択されたものであることが分かってくる。松村は自分の選択の結果を見極めるように、何度も角度を変えながら寂しさの手触りを確かめているようだ。その作業過程には、どこか安らぎさえ感じさせる。

定職のない人に部屋は貸せないと言われて鮮やかすぎる新緑

 画面の明暗の入れ替わりが、まさに鮮やかな一首である。例えば結句を社会批判や内省の方向へ持って行くやり方もあるだろうが、松村は視線を新緑の光へと解放した。そこが技術とも言えるが、これも「自己の選択結果の確認による安堵」と地続きにあるものではないだろうか。

 「まだ」と「もう」点滅している信号に走れ私の中の青春

という歌があるが、この歌集の魅力は「まだ」と「もう」の中に生まれるゆらぎの美しさであり、その振幅の中で繰り返し行われる自己確認作業のひたむきさなのだと感じた。

エキストラばかりが歩く雑踏の空へ逃げ出せ青い風船
薄暗い部屋で私を出迎える洗濯ばさみのAの倒立
君はどこへ行くというのか非常口マークの後ろ姿となって

 技術といえば、新緑の歌だけでなく、作者には心象風景を印象的にシンボライズする力があるようだ。手法というよりも、松村にはまわりの風景がこんなふうな記号として見える瞬間があるのではないか。これは今回歌集を通読して再発見したことであった。

山も木も象形文字へと還りゆく冬 理髪屋の鏡に向かう
ゆうぐれに君は女の人なれば女の人のように手を振る

 定型を守り、難解語を徹底的に廃したスタイルをとりながら、松村の歌にはどこか掴みどころのない奥行きがある。いや、掴みどころのない気持ちを手渡すために、逆に平易な言葉が選ばれたのかも知れない。『駅へ』の中には目立たないが、人間観察の鋭さ、一風変わったユーモア、幻想美など作者の幅広さを感じさせる歌が見られる。第一歌集は、素材的にも技術的にもゆとりを残して閉じられたようだ。家族と定住という新しい境遇を得た松村は、次にどんな世界を展開してくるのだろう。どういう可能性もあり得るだけに、待つ楽しみも大きい。