星子(2)

 

                                    三船敏郎

 

 

 

                                    (序編)

 

 僕らは天国への階段を手を携えて登りつつあった。  

『敏郎さん。天国はまだなの。遠いわ。星子、もう足が疲れたわ。』

 僕は座り込もうとした星子さんを背負って再び階段を登り始めた。僕の背中に星子さんの柔らかい躰と体温が伝わってきていて僕は幸福だった。

『でも、僕ら早過ぎたのかもしれないね。お父さんやお母さんが悲しんでるよ。天国へ旅立って行った僕らをとても悲しんでいるよ。僕ら、あんまり早過ぎたのじゃないのかな?』

『敏郎さん、何処なの、天国の門は何処なの、見えないわ、ずっとずっと階段が続いているだけで天国の門なんて見えないわ。』

(僕も星子さんを背負いながらいつまで経っても見えて来ない天国の門に疑いの心を持ち始めていました。僕が今巡っているのは本当に天国への階段なのだろうかという疑いがありました。)

 ----もう僕はどれ程この階段を登ったことでしょう。もう千段も、少なくとも数百段は登ったようでした。僕の目の前の光景はだんだんと薄暗くなりつつありました。

 僕は足が疲れているだけでどうでも良かったけど、星子さんは僕の背中ですすり泣いていました。天国だと思った処がどうも天国ではないようでした。それで星子さんは泣いていました。僕は歯を食い縛りながら一歩一歩と登り続けました。

『敏郎さん、何処なの。天国は何処なの?』

(僕も星子さんを背負っていて疲れ切っていました。もう星子さんを降ろそうかな、とも思いました。そうして一人で走っていって天国へ辿り付こうかな、とも思いました。)

 

 遠く星が見えるだろ。

 あれが天国の門なんだ。

 遠くて遠くてあまりにも遠いだろ。

 引き返そうよ、星子さん。

 もう届きはしないよ。

 僕ら、あんな遠い所へは行けないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 海の中で君の苦しさと僕の苦しさが溶け合って、黒い水の中に僕らは沈んでいっていた。星空がそんな僕の目にぼんやりと映っていた。

 何度も海面へ浮かび上がり助けを求めた。僕の意識は喪われてきていた。そしてもう一息もう一息と僕は水を飲んでいたようだった。

 

 誰かが僕の首根っこを掴んだ。とても力の強い人だった。僕はそうして気を喪ったらしかった。

 

 

 

 

 

 悲しみの夜は更けていっていた。眠れない夜は更けていっていた。家に帰ってきて風呂に入ってもまだ僕の体は寒かった。冷たい黒い海のなかで僕の体は冷えきっていた。そして窓から星子さんの家の灯りを(いつまでもいつまでも今夜は灯っている灯りを)いつまでもいつまでも眺め続けた。

 

 僕も死のう。朝になったら僕も死のう。僕はそう思ったけれど、下へ降りていって仏壇の前へ座って題目をあげたら元気が出てきてそして僕は

 そして僕はもう戻ってこない星子さんとの楽しかった日々の思い出を思い出しながら題目を朝まであげ続けた。ほんのちょっぴりの、本当にほんのちょっぴりの思い出かもしれないけれど。

 

 僕は死んで海のなかから引き上げられた方が良かったのかもしれない。抱き合いながら、僕らは屍となって引き上げられた方がよかったのかもしれない。

 

 ゴロも涙を溜めて見送っていたし僕も僕も涙をいっぱい溜めて見送っていた。黒い星子さんの棺が霊朽車の中に運ばれるとき、星子さんのお母さんは泣きながら棺に駆け寄って泣いた。僕は、星子さんを殺した僕は、ただその光景を悲しく見遣ることしかできなかった。

 

 君はいつも優しかった。本当にいつも苦しんでいた僕も励ましてくれていた。

 いつも元気だった君。いつもくよくよしていた僕。そんな君が死んでしまうなんて僕には信じられない。あんなに明るかった君が、とてもとても明るかった君が。

 

 寂しかった、寂しかったからなの。私が死んだのはただ寂しかったからなの。病気が苦しいのでも何でもなかったの。ただ寂しかったからなの。

 

 君も必死だったということを僕は忘れていた。君は寂しさとの戦いに必死だったということを僕は忘れていた。僕は勉強に必死だった。でも君の寂しさとの戦いほど必死ではなかった。

 

 

 

         (ある者の証言)

『ズボンッ』

 と桟橋から海に何か大きいのが落ちる音が聞こえました。それは何か人魚か何かが月夜に浮かれ出て桟橋に上がり月見をしていたら人が来たのでやっぱり海の中に戻ったのだと私には思われました。何かが落ちたのではなく何かが海の中に戻ったのだと私には思われました。

 春の夜の幻聴のようにも思われました。私は再び縁側からテレビのある部屋へと戻りました。テレビでは“プロゴルファー猿”があっていました。

 やがて寝転がってテレビを見ていた私の耳に今度はかすかに再び桟橋あたりから『ボスッ』と海の中に飛び込む音が聞こえました。私は何気なく立ち上がり再び襖を開けて遥かに桟橋あたりの海を眺め始めました。海面を何か河童のようなのが泳いでいるようでした。私は再び夢見心地のような気分になりふらふらとしながら襖を跨ぎテレビの部屋に戻りました。そして再びごろっと横になりテレビを見始めました。

 

 

 

          

               ☆☆(1行空き)☆☆

『死ぬなら私も一緒よ。』と君は言った。でも僕は死ななかった。そして君がその2ヶ月後に死ぬなんて、冬のあの厳しい日に僕は君はそう言っていた。

 

 僕たち、二人で遠い所へ旅立ったけど、いつまでもつづく階段に僕らもう疲れてしまった。天国があると僕らは聞いていた。でも冷たい階段がいつまでも続いているだけだ。いつまでもいつまでも

 

 遠い遠い星から、僕らを救いにやってくる星が一つあるだろう。僕らを救ってくれて、僕らを天国へ連れていってくれる、遠い遠い一つの星が。

 

 苦しくなると、僕は夜空を見上げて、ああ、あれが星子さんの星だなあ、と、夜の帳が降りたばかりの外に出て、僕はため息をついて思う。あれが星子さんの星だなあ、あれがゴロの星だなあ、と。

 

 僕も苦しんできたのに、僕も苦しいときも何度も何度もあったのに、頑張り屋の星子さんが死ぬなんておかしいな、おかしいな、と、僕はもう死んでしまった冷たい躰に抱きついたまま泣いていました。僕だって、僕だって毎日の学校生活は地獄のようだったのに、それなのに死ななかったのに、僕の方がもっと苦しんできたものとばかり思っていたのに。星子さんの方が僕よりずっと楽なように思えていたのに。

 

 

 もう眩しい朝日が照りつけているのに、もうこれからの日々は星子さんの居ない今までとちがう日々になるのか、と思って僕は泣けてきていた。

 今日の朝日は今までとちがう朝日のようで、僕の胸にポッカリと空洞が空いたようで、僕はとても淋しくてたまらなかった。

 

 僕は君と一緒に死ねてたら、こんなに淋しい朝は迎えなかっただろう。とってもとっても淋しい朝で、僕は君のお通夜に行く前に、再びあの海の中に飛び込んでしまいたい。でも僕は。

 

 

 

 

 

(星子の机の中から出てきた手紙)

 敏郎さん、本当に4年間ありがとうございました。本当に4年間、楽しかったです。本当にありがとうございました。

 星子はもう疲れきりました。淋しかったのかもしれません。私には本当の友達はいなかったし(敏郎さんだけでしたものね)敏郎さんだけが私の親のほかに私のことを本気で思ってくれてました。

 敏郎さん本当にありがとうございました。いつもいつも長い丁寧な手紙ありがとうございました。敏郎さんの手紙とっても真心がこもっていて私一番始めの手紙からちゃんと全部大切にとっています。

 敏郎さん、ありがとう。私のような体の女の子のことを相手にしてくれてありがとう。敏郎さん、本当にありがとう。私、14年生きてきて本当に満足です。ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 君には自分さえ良ければいい、といった考えがあったんだ。君をここまで育てあげてきた君の両親のことを思うと君は死んではいけなかったんだ。それなのに君は生きることを嫌った。明るく生きてゆくことも辛いと思うようになっていた。

 明るく楽しく生きてゆくように努力することも君は辛いと言っていた。明るく振る舞うことも君は辛いと言うようになっていた。君よりもっと辛い絶望的な境遇にある人だってたくさん居るのに君は贅沢にも死を選んだ。それが一番楽な方法だと思って。

 

 

 疲れ果てていた。星子さんのお通夜に行くのが辛かった。僕は夕暮れの中で横たわり続けた。もう行くまいと思っていた。星子さんの両親に合わせる顔がなかった。電話が鳴っていた。たぶん星子さんの両親からの電話だろうと僕は思っていた。

 二度目の電話が鳴っていた。でも僕は起き上がる気がしなかった。このまま闇の中にずっと心ゆくまで横たわり続けたい、と僕は何度も思った。

 苦しんで生きてゆくよりも死ぬ方を選んだ星子さん。僕もその方が正しいような気もしていた。本当に僕はこのまま横たわり続けたかった。

 二度目の電話のベルは八回ほどで切れた。あとには静かな静寂だけが残っていた。僕の親から僕に星子さんのお通夜に出るように電話したのかなあとも思えてきていた。

 

 海を見つめていると、哀しい星子さんの歌声が聞こえてくるようだ。一月前亡くなった星子さんの哀しい歌声が、潮風とともに聞こえてくるようだ。

 

 辛い毎日に、僕も挫けそうになるけれど、僕はひたすらただ題目を唱えて耐えている。僕はひたすら題目を唱えて、勉強したりしている。

 

 僕は生きることの意味が解らなくなりかけていた。僕は医者になって僕と同じような病気で苦しんでいる人たちを救っていくのだとは思いながらも、真実というものが何か? 真理は何か? そうして創価学会の信心に疑問を持ち始めてきていた。また『人のために生きよう。』という僕の決意も“死んだ方が楽だ”という悪魔のささやきに負けつつあった。

 僕が星子さんに手紙を書かなくなったのは自分から“情熱”といったものが無くなりかけていたからかもしれない。僕は毎日の図書館での勉強にも疲れを覚えるようになってきていて、それまでは必ず終館まで居たのにもう6時ぐらいになると勉強に集中できなくなり家に帰って来るようになっていた。勤行を惰性でしていた。心ばかりが焦り、星子さんの手紙を書く暇が十分ありながらも“勉強しなければ”という観念とともに僕は11時ぐらいになるともう床に就いていた。ノドの病気を治したかったし、またそのためには充分、睡眠を取ることが大事だと思って一日八時間眠っていた。

 毎日の学校はとても辛かったし、僕は落ち込み果てていて自殺まで考えてきていた。勤行も怠りがちになっていたし、2日程『フッ、』と勤行をやめていた時もあった。

 星子さんが死んだのはその罰だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 僕の正義感が足りなかったのかもしれない。あのとき、海の中に沈みつつあったとき、僕は楽しい美しい楽園の光景を見ていた。もう意識がなくなりかけていたとき、僕は星子さんを救うことを忘れ、あまりの苦しさに自分は星子さんを抱いたまま暗い海の底へと沈んでいっていた。

 本当に美しい光景だった。花が咲き乱れていた。

 

 

 

 

 

 

                

 いつか僕も負けかけたことがあった。でも僕は負けなかったし、その悔しさをバネにして僕は今生きている。一生懸命生きている。

 

 

 

 

 

 

         (星子さんの星)

 ここにはまだ清純だった魂が白い天国へと舞い上がっていった。『なぜ死んだんだい。星子さん。なぜ死んだんだい。』

 星子さんはあまりにも純粋だった故に、心は傷つき果てて死んだんだ。星子さんはあまりにも純粋だった故に、心は傷つき果てて死んだんだ。星子さんはあまりに純粋だった故に、この世に居るのが辛くてたまらなくなって、星子さんはあまりに純粋だったが故に。

 あまりにも純粋だった星子さん。星子さんきっと星になったんだろう。今、夏の夜空にきっと輝いているよね。どの星かなあ、星子さんの星は。星子さんが死んで一つ星の数が増えたはずだけどどれかなあ?

 星子さんの星ってどれかなあ? 星子さんみたいな星ってどれかなあ。僕今までも

この丘から星子さんの死ぬ前からゴロを連れて星空を見上げていたけど、どれなのかなあ。無数にある星だからどれだか解んないや。

 するとピカッ、と光ったんだ。まるで星子さんの黒い大きな瞳みたいにその星が揺れた。あっ!あれなんだなあ!って僕、解ったよ。あっ、あれなんだなあ、って。

(星子さん、明るい大きな星になったね。星子さん、とっても大きな星になったね。ゴロ、あれが星子さんの星だよ。あの美しい星が。

 僕は傍らに寝ていた黄土色のゴロのわき腹をつついた。ゴロ、あれが生前僕が愛していた女のコの星なんだ。ほら、あの車椅子の。でもとっても綺麗だった 僕が文通していた星子さんの星だよ。

                (ペロポネソスの丘にて  ゴロと)

 

 

 

 

 

 

 夜、キラリッと星が光って流れ星となって消えていった。あれは星子さんの星のようだった。ゴロも星子さんのいなくなった海辺を歩きながら悲しげにその星を見遣っていた。

 海辺は、もう星子さんの居なくなった海辺は、久しぶりに来た僕とゴロを悲しげにいつもの波の音や浜辺の香りとともに迎えていた。図書館で勉強してからの散歩なので辺りはもうまっ暗だけど、哀愁というか、星子さんが霊になってこの浜辺にとけ込んでいるような気がしていた。

 月の光だけに照らされたこの浜辺は、浜辺じゅうにいっぱい星子さんの霊が満ち溢れているようだった。そして浜辺全体が螢のように輝いているような気もしていた。

 

 その日の帰り、僕は桟橋に立ち寄る気なんて少しもなかったのだけど、桟橋の横を素通りしようと走っていたらゴロが突然、桟橋の方へと必死になって行きたがった。星子さんが死んで始めての散歩だったからゴロは僕らの四日前の出来事を見たかったのだろうか。僕らの恋の名残りがまだその桟橋に残っていたのだろうか。ゴロは狂ったように爪を立てて僕を桟橋の方へと、僕はあまり行きたくなかったのだけど、引いていった。

 桟橋に立つと四日前の出来事がありありと思い出されるようで僕は頭を抱え込みそうになった。ちょうどこの時刻だった。今は僕と星子さんが助け出されて人工呼吸を受けていたのと全く同じ時刻だった。

 ゴロは桟橋から対岸に見える星子さんの家の方に向かってとても悲しげに聞こえる遠吠えを何回も繰り返した。僕は自然に涙が溢れてきた。星子さんの死ぬときの悲しみがとても痛々しく僕に伝わってきたようで。

 あのときの苦しさや冷たさが思い出されて。そして星子さんはもっと苦しく冷たくそして死んでいったことを思って。僕の何倍も何倍も苦しく冷たかったのだろうと思って。

 

 

 

 

 

 

 それからちょうど一週間後、星子さんが死ぬなんて。僕はとても予想もしていなかった。あの分厚い別れの手紙を読んでから僕は一週間、失恋と罪悪感とがごちゃまぜになった複雑な気分のまま茫然と過ごした。

 今も助けられずに星子さんと一緒に死んでいた方が良かったような気がする。でも僕は星子さんや親の期待に添うように立派な医者になって僕と同じような病気で苦しんでいる人たちを救ってゆくんだ、という気持ちで必死に勉強している。きっと医学部へ入らなければ、と僕は必死になって勉強している。

 

 まるでこの雨は星子さんの涙のようだった。8日前、死んでいった星子さんの涙のようだった。

 星子さんが天国から白い雲に乗って下界の僕を見つめて激しく泣いているようだった。

『星子さん』

----僕はそう空に向かって心のなかで呟いた。『星子さん、僕死ななくってごめんね。通りがかりの人が黒い港の水のなかに沈んでゆく僕と星子さんを本当によく見つけてくれたから、本当によく気付いたと思うけど、僕はまだこうやって生きている。

 でも学校がきついな、毎日の生活がきついな、という気持ちは今も変わらない。

 

 

 

 

 

 

            (僕)

 僕は罪悪感に打ちひしがれ、部屋のなかで頭を抱え込み続け、そして唸ろうにも唸れず、石のように固くなって横たわり続ける。体を丸くしながら。

 

 そして僕も星子さんの後を追って死のうかなあ、と思った。あのとき、星子さんが網場の桟橋から見投げをして死んだとき、あのとき僕も死んでたら良かったんだ。死んでたらこんなに罪悪感に沈まなくて良かったんだ、と思えて僕を助けてくれた会社帰りの○○さんにかえって恨みがましい思いを抱いていた。

                  

 

 

 

 

 

 

 あの日、ずぶ濡れになって家に走って帰ってきたあの日、僕は風呂のなかで泣いた。僕は、警察や消防署の人から『帰ってもいい』と言われて僕は濡れた体のまま来たとおりの道を通って寒さに震えながら来たときの速さぐらいの速度で家へと帰った。

 父や母や姉ももう帰ってきていてもう風呂が湧いていた。僕は家に入るとすぐに風呂場に駆け込んだ。父や母や姉もまだ今日の出来事を知らないであろう。僕が殺したんだ。僕が殺したんだ。という自責の念が強い罪悪感となって僕について廻っていた。

 

 

 

 

 

 

 君がスフィンクスのようにペロポネソスの浜辺に立っていた。車椅子に乗ってスフィンクスのように立っていた。もう君は死んだはずなのに、だから君の霊かもしれないけどそっくりそのままに、君が浜辺に車椅子のまま出ていた。

 

 

  君は赤い太陽に向かって飛んでいた。お星さまでなくて、赤い太陽に向かって、何故か君は飛んでいっていた。

 

 

 君は僕が助けに来てくれることを知ってたんだろ。でも僕は胸への痛さに耐えかねて何度も倒れた。血も吐いた。僕は自分の喉や胸がこんなに悪くなっていることは知らなかった。君は僕が来るのが遅くて、失望して、そうして死んでいったのだと思う。僕は必死に走ってきたのに。這いながらも進んできたのに。

 

 

 

 

 

 

※(星子さんの死んだ翌日、僕の家のポストに入っていた星子さんの手紙)

     (敏郎さんは強いかたです)

 敏郎さんは強いかたです。2月のあのピンチをくぐり抜けられてきた敏郎さん。私だったらとっくに死んでいたと思うのに敏郎さんは堪えてこられて、今明るく生きていらっしゃるようです。本当に敏郎さんは強い方だと思います。

 それなのに星子は弱い女です。星子の苦しみは2月の敏郎さんの苦しさに比べたら何分の一にしかならないと思います。それなのに星子は苦しくて明日敏郎さんに電話してから死のうと思っています。

 敏郎さんは本当に強い方です。敏郎さん、小さい頃から苦しんできたから、だから強いんでしょうか。私は小さい頃、パパやママにとても甘やかされて育ってきたから弱いのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

            

 僕の顔は砂だらけになって泣いていた。傍にゴロが居た。僕が殺したんだという罪悪感でいたたまれなくて僕は泣いていた。でもいくら泣いても僕の罪は消えそうになかった。傍でゴロがじっと僕を見つめていた。

 波の音。

 

 

 

 

 

 

        (夢の中で)

 あれが北斗七星。あれがカシオペア座。そしてあれが北極星。見えるだろ。僕の指先をずっと見ていくとその星が見えるだろ。

『南十字星は。星子の好きな南十字星は。』

『南十字星は僕もどこにあるのか知らないんだ。たぶん、日本からは見えないんだ。インドや南極近くの国に行かなければ見えないんだと僕は思うよ。』

『私、南十字星が見たいわ。私、南十字星が見たいわ。』

 

 

 

 

 

 

  ※(星子の死の前の日のことである)

 

 星子さん。そんなに謝らなくっていいんだ。僕が悪かったんだから。二ヶ月近くも手紙を書かなかった僕に星子さんが怒って当然だ。(小鳥になって星子さん、僕の部屋の前の桜の気の枝に止まって鳴いてるけど)僕が悪かったのだから、だからこんなことしなくってよかったのに。僕が悪かったのに。

 ----星子さんの小鳥は鳴いていた。悲しげにとても悲しげに星子さんの小鳥は鳴き続けていた。

 

 

 

 

 

 

                 

 波しぶきの向こうに、たくさんたくさん小魚たちが居て、僕らを迎えてくれるようにも思ったのだけど。僕らを幸せに導いてくれる小魚たちが、僕らを待っているような気がしたのだけど。僕は桟橋まで懸命に走りながらそう思ったのだけど。

 

 

  岬の向こうに美しい世界があって、僕らは将来そこで一緒に暮らすんだ、と言っていた。でも僕は岬の向こうにも石垣だらけのここと同じような処であることを知っていた。でも僕は星子さんには黙っていた。僕は星子さんの夢を壊したくなかった。

 

 

 僕がよく魚釣りに行って釣って来た縞模様のあるちっちゃな美しい魚はあの岬の先端には居ないんだって。僕はそのことを君に告げていなかったと思う。あの岬の先端には大きなクロぐらいしか居なくて、綺麗な縞模様をしたちっちゃな魚は居ないんだって。

 

 

 

 

 

 

   (君が死んでいった桟橋の脇に腰かけて)

 

 君が死んでいった海を眺める僕の目は、もう涙は出ない。ゴロもいつもここへ来るとしょんぼりして海を見つめている。僕らは最期のときに始めて抱き合い、そしてそのとき君はまだ生きてたような(そして僕に君から抱きついたような気がしてならない。

 君はあのときまだ生きていて、僕がその冷たい暗い夜の海に飛び込んでくるのを待ていたんだね。薄れゆく意識のなか、海の中で僕は君が僕に抱きつくのを覚えた。たしか君はあのときまだ生きていて、もしかするともう死んでいて君の最後の怨念が君を動かし疲れ果てて泳いできた僕に抱きつかせたのかもしれない。僕にはそうとしか思えない。

 そして僕は君を連れて陸地へと泳ぎ始めた。薄れゆく意識のなか、僕は途中で沈みかけ、また浮かび出て、そうしてまた泳ぎ始めた。そういうことを何回となく繰り返しているうちに僕は本当にあのとき意識を喪って海の中へ沈んでいき始めたんだと思う。そして僕がそのとき必死で叫んだ声を聞きつけた田中さんという人が僕らを助けてくれた。でも君は死んでしまった。

 

 

 

 

 

 

 僕らの苦しみはもう終わったんだね。

----僕は星子さんと抱き合いながら黒い水の中を沈んでいきながらそう思っていた。僕はそう思って安心していた。今までの苦しかった毎日の学校での生活がもうなくなることを思ってとても幸せな気持ちに陥っていた。

 …僕ら、生きているとき、とても苦しんできたけど、僕ら今ようやく苦しみから解放されるんだね。本当に苦しかったね。星子さんよりも僕の方が何倍も何倍も苦しかったかもしれない。星子さんはみんな理解してくれてたけど僕は理解されてなかった。だから授業中なんかとても苦しかった。

 …僕らの生涯は本当にほかの人に比べて炎のような生涯だったかもしれない。毎日、炎のように辛い日々だった。

 僕は走りながら何度も倒れて、もう星子さんを救いに行くのはよそう、もう間に合わない、と何度も何度も思った。僕はそのまま倒れていたら良かったのかもしれない。それとも傷ついた膝や肘を抱えて家へと帰っていたら良かったのかもしれない。

 そうしたら僕は少なくとも父や母や姉を悲しませずに済んだのかもしれない。でも…でもそうしてたら僕の苦しい毎日の学校生活は少しも変わっていなかったと思う。

 

 

 

 

 

 

             

 

 恵まれた者どうしは恵まれた者どうしで幸福な愛をしていたらいい。でも僕と星子さんは、誰よりも幸せな恋をして、そうして星子さんは死んでいった。でも僕らはとても幸福だった。

 

 君は岬に向こうに幸せな世界があると言ってたけど、僕は岬の向こうにもこの浜辺と変わらないような世界が広がっていることを知っていたけど、

 黙っていた。

 君の夢を壊したくなかったし、

 君を落胆させたくなかった。

 

 

 岬の先には美しい魚がたくさん居て、

 僕らを迎えてくれると君は言ってたろ。

 でも本当は岬の先には30cmや40cmぐらいの大きなクロばかりいて

 君の想像しているような処ではないことを

 僕はずっと前に知っていたけど

 たしか中二の頃ぐらいから知っていたけど。

 

 

 

 

 

 

 浜辺に耳を当てると、もう死んでしまったはずの星子さんとゴロが、楽しそうに遊んでいる音が聞こえてくる。本当に楽しそうで、僕はやっぱり行かない方がいいみたいな気がする。

 毎日の生活に疲れ果て、苦しみに疲れ果て、何も信じれなくなった僕は、高校時代や中学時代の頃に戻りたいと、懸命だ。

 

 

 君は寒い日に死んでいった。春だったけどとても寒い晩に、僕に「さよなら」の言葉を残して、静かに死んでいった。

 海の中に消えていった。眠るように楽に、僕らの幸せのため、自ら自分の仕事を去っていった。

『君、寒いだろ。とても寒いだろう。』

『ええ、とても寒い。冬の海のようにとても寒い。』

----僕はそうして星子さんと二人で寒さに耐えた。

 

 

 君は来ちゃダメだと言っていた。でも僕は来た。寒い夜の闇の中を、僕はつっ切ってやって来た。

 

 

 敏郎さん。今までの日々は何だったの。今までの私たちの毎日は何だったの。

(星子さんは悲しげにそう尋ねていた。でも僕には解らなかった。星子さんに何て答えていいか僕には解らなかった。)

 僕らは、僕らは本当に今まで苦しんできたけれど、そうして苦しみ抜いたまま死んでゆくのかもしれないけれど、でも僕らにも楽しい時もあったし、それに

 

 

 苦しかったからなの。苦しかったからなのよ、敏郎さん。私、苦しすぎたの。

----海の中に沈んでゆきながら目を潰った星子さんからそう言われたようだった。(苦しかったからなの。苦しかったからなのよ、敏郎さん。)でもそれは僕も同じだった。君よりも僕の方がずっと苦しかったのだと以前も思ってきたし、僕は君が死んでいこうとしている今もそう思っている。

 

 

 

 

 

 

             

 夜の闇に包まれて君の家を見ていると、とても君がもう死んだなんて思えない。でも君の部屋には灯りがなくて、君がもう死んでしまったことを教えてくれる。

 

 

 

 

 

 

                 

 ゴロも寂しそうな目をしている。君の居なくなった浜辺は、誰も居なくて、とても寂しい。

 

 

 

 

 

 

           

 苦しみに満ちた年月だったかもしれない。でもそれは僕らにとって、僕らにとって罪を償うためのものだったんだ。それを君は放棄した。いや、僕も放棄しかけた。あの黒い海に自分一人で、そして最後は君と二人で沈んでゆくとき僕の心のなかは安堵感に包まれていた。明日から学校へ行かないでいいという安堵感に包まれていた。

 このまま海の中へ沈んでゆくことは本当に楽な気がした。もし僕が根性を出して君を岸辺まで連れていってたなら君にまた苦しい毎日を送らせることになったのかもしれない。でも僕はあのときもう根性を出し尽くしていた。今までこれほどまで根性を出したことがなかったぐらいだった。

 

 

       (夜の浜辺にて)

『敏郎さん。真実の星は何処にあるの?』

『真実の星は、見えない。真実の星は僕にも解らない。』

 

 

 敏郎さん。生きるの辛いの?

 ああ、でも生きなくっちゃ。辛くても生きなくっちゃ。

 

 

 

 

 

 

             

 浜辺に君が居た。もう死んでしまったはずの君が、僕がゴロと夕方、雨に濡れながら浜辺まで走って来たとき、君が居た。大きな瞳で君は僕らを見つめ、僕とゴロは石になった。雨のなかで、僕とゴロは、石になった。

 石になった僕らはそして雨のなかで20分か30分ぐらい過ごした。僕らは雨に打たれながら、微笑む君の姿をとても眩しく見つめ続けた。

 夜、僕は考えた。君は雨の日にはペロポネソスの浜辺に出ているんじゃないのかと。雨の日に君は雨水となって天国から降りてきて、思い出のペロポネソスの浜辺で結晶して生まれ変わるんじゃないのかと。たった一時間や30分ぐらいなのだろうけど、雨の日には夕方、君はあの浜辺で結晶して人になっているのではないのかと、僕は思っている。

 

 

 浜辺に君の涙が溶けていって、君は今この浜辺に居るんだろう。僕にはちゃんと解るんだ。この砂浜の中に、君がちゃんと居るって、僕にはちゃんと解るんだ。僕が立っているこの浜辺の中に、君が溶けていることを、僕はちゃんと知っているんだ。

 

 

 

 

 

 

                

 今見えるこの海はもう星子さんの絶望に満ちた悲痛な電話での叫びを幻のように思わせてくれる眩しい夏になりかけた海です。ひと月経って僕の心もやっと落ち着きを取り戻しつつあります。ただひたすら勉強に明け暮れる日々を僕は送り始めました。

 始めて抱いた星子さんの躰はちいさくて、とてもちいさくて、僕は本当にこれが僕が文通してきた、いつもいつも綺麗な字で僕を励ましてくれるために長い手紙を書いててくれた星子さんなのかな?とちょっと不思議に思いました。

 

 

 

 

 

 

               

 不安が僕を襲うとき、僕は窓を開けて海を見るけど、君はもう居ない。僕は淋しさに疲れ果て、毎日の学校生活が辛くて、僕は一人ぼっちでいじけて、僕は喋れなくて、僕は大きな声が出なくって。

 

 

 

 

 

 

                

 君の居なくなったこの浜辺を僕はゴロと一緒に寂しく歩いている。もう梅雨になってずっと雨や曇りの日々が続いています。明日から期末試験だけど日曜日だし、ゴロの散歩もしなくてはいけないので一週間ぶりだと思いますけどこの浜辺へやって来ました。今日も県立図書館で5時まで勉強していました。そしてさっきバスに乗って帰って来てすぐゴロとこの浜辺へ来た訳です。

 雨で濡れてて滑りやすいけれど、ゴロは平気で僕を引っ張りながら進んでいきます。僕は朝9時から5時まで途中で30分ぐらい昼ごはんのとき休みを取っただけでずと勉強していました。もちろんバスの中でも勉強していましたし、家からバス停までの道でも勉強のことを思い出したりしていました。

 

 

 

 

 

 

               

 夕暮れの海の上を君は幽霊のように漂う。僕に微笑みかけながら、君は東望の方へと風に吹かれるように行っていた。青い海の上を、夕暮れで暗くなりかけた海の上を

 

 僕もゴロも夕暮れの海の上を東望の方に揺れながら動いてゆく君の姿を見つめていた。ゴロも無言だった。僕らはそうしてずっと君の姿を見送り続けた。缶詰工場の裏の防波堤に僕らは立って、風に吹かれるようにして動いてゆく君の姿を見えなくなるまで見送っていた。

 

 

 君はあの日寂しく死んで行った。もしもう少し君の飛び込むのが遅かったなら、そして僕が気管支の病気を持っていなかったなら、もしかしたら君は助かっていたのかもしれない。そのことを思って僕は今日、ゴロとペロポネソスの浜辺で悲しみにうち沈んだ。君が生きてたなら、せめてあと一年ぐらい生きてたなら、僕は恥ずかしさをかなぐり捨てて、君のところへ走っていって、君と喋ったと思う。何もかも、僕のそのままをさらけ出して、君と喋っていたと思う。

 

 

 君の涙が溶けているようだ。このペロポネソスの浜辺には、こんな僕を愛してくれた、君の涙が溶けているようだ。こんな、こんなつまんない僕を、一生懸命愛してくれた君の涙が、この海の中に、溶けているようだ。

 

 

 淋しくてたまらなくなったとき、僕は桜の木に繋がれているゴロのところへいって、そうしてひもをほどいてやって、僕は星子さんと出会った浜辺へ行くけど、星子さんはいつもいない。僕はひとりきりで、ゴロを抱きしめながら海を見つめる。ずっとずっと海を見つめる。

 

 

 

 

 

                  

 輝いて見える。君を奪った海なのに、輝いて見える。僕はゴロと岸壁に腰かけて、君の美しかった笑顔を思い出している。

 

 

 僕は、いつも君と一緒に歩いてきたつもりだった。僕が中一の夏からずっと、四年間も。でも君は逝ってしまった。僕を誤解し、僕に悲しい手紙をくれて、君は逝ってしまった。悲しい、悲しい誤解だったのに。

 

 でも僕らは今もゴロと一緒に歩いている。僕らが出会った思い出のペロポネソスの浜辺を。ゴロはとても元気で、星子さんが死んだことを知らないみたいだ。ゴロは元気に浜辺を走り回っている。君が亡くなる前と同じように、元気いっぱいに走り回っている。

 

 

 ゴロ。夜空のてっぺんに、星子さんの笑顔が見えるだろ。僕らを見降ろしている、大きな大きな星子さんの笑顔が見えるだろ。

 

 

 

 

 

 

        

 僕は君の幻を見ながらこの浜辺に立っている。春、五月の始めの日に死んでいった君。僕は駆けたのに。一人で出てゆく僕をものすごくゴロは泣き叫んでいたのに。

 もうあれから3ヶ月が経って、僕の心も、やっと落ち着きを取り戻してきている。辛かったあの夜。寒かったあの夜。眠れなかったあの夜。

 

 

 

 僕とゴロは魚になって、岩や藻のあいだをかき分けながら星子さんを捜すだろう。

----『星子さん、何処だい。出ておいで。』----

 でも僕のその声も星子さんには伝わらないだろう。伝わっても星子さんは海の水の冷たさにぶるぶると震えていて、僕の返事にも答えきれないだろう。

 

 僕とゴロはやっと星子さんを見つけた。星子さんは藻の間に隠れて必死に体を暖めていた。僕とゴロはそのとても寒そうな姿に何と言っていいか解らなかった。

 

 星子さん寒そうだった。とても寒そうだった。僕とゴロは何と言っていいか解らずに息がつづかずに星子さんの前から海面へと浮かび上がった。

 

 僕は星子さんに背を向けて泳いでゆきながら、なぜ僕がこんなノドの病気になったんだろうと思った。そうしてたぶん、このごろ思ってきたように中一の冬、市の中等部の部員会で司会をするようになって今まであまり熱心にやってなかった勤行・唱題を一生懸命やるようになったからだろうかと思った。僕はそうして僕を信心に立ち上がらせた石川さんを憎んでしまった。

 

 寒そうだった星子さん。僕は家に帰って毛布でも持って来てやりたいな、と思ったけれど、海の中なので毛布も濡れてしまって役にたたないと思ってそうして僕はゴロと泣きべそをかきながら家まで帰ったっけ。まっ赤な夕陽が僕たちを照らしていて、そしてさっき見た星子さんの可哀そうな姿のことを思ってどうしようもなく悲しかった。

 

 家に帰って僕は思いっきり星子さんの幸せを勤行しながら祈って、ゴロは遠吠えをしながら星子さんの幸せを祈っていた。僕も夜ごはんまで懸命に祈ったし、ゴロも夜食までずっと遠吠えを続けた。僕はそして夜ごはんを食べ終わってからも再び仏壇の前に行って一時間近く星子さんの幸せを祈った。ときどきゴロの遠吠えもそのとき聞こえていた。

 

 君の可哀そうな姿はその夜、僕を3時近くまで眠らせなかった。ゴロもときどき起きて悲しげな遠吠えをしていた。

 

 

 君が死んだとき、僕も死のうと思った。あの君の葬式があってたとき、僕は体を震わせながら。

 

 

 

 僕は君と、この浜辺を君の車椅子を押して、行きたかった。ゴロも一緒に連れて、この誰もいない浜辺を、僕は君と行きたかった。

 

 

 

 海の底に沈んでいてとても寒そうにしていた。星子さんのために僕は題目を唱えていたけれど。次の日も次の日も学校から帰って来ると星子さんのために2時間あまりも題目を唱えていたけれど。

 

 

 

 海の中は冷たくって僕は40秒ぐらい潜っていてすぐに出てきた。星子さん、もう喋ることもできないようだった。このまえは僕やゴロの方を向いたのにもう今日は星子さんはうつろな目で僕を見つめることしかできないでいた。

 

 海から帰るとき、紅い夕焼けの中にお月さまが出ていた。学校帰りでもう遅かったから昨日見た星子さんの可哀そうな姿が忘れられなくて、バスを降りてからそのまま海へ来たから、いつもの水族館前でなくて網場のバス停で降りて、僕は海へ行ったから。

 

 

 

 

 

 

 

 君と一緒にゴロを連れてあの浜辺を歩いている光景が見えてくる。君は綺麗な足を持っていて全然普通の人と変わらなくて、とっても綺麗な足がスカートから見えている。

 僕も全然吃らなくて、それに声もちゃんと出せて普通の人と全く同じように喋れている。君の足はテニスをしている女の子のように綺麗な足で、僕が好きな○○ちゃんのような足のように綺麗で。

  ごめんね、ゴロ。今日はもうゴロを散歩に連れていく元気がなくって。とても疲れてしまって散歩に連れていく元気がなくって。

 

 

 

 君を死なせたのは僕の真心が足りなかったからだと、忙しいからといって手紙を書かなかった僕の考えが甘すぎたのだと、そして自分がエゴイストだったんだと、自分のことの方が大事だったんだと、自分の方が大切だったんだと、可愛いかったんだと、

 

 

 

『敏郎さん、また来たの。敏郎さん、また来たの。』

『ああ、寂しかったから。勉強しなければいけないと思ったけどまた来てしまった。』

(もう夕陽は山裾に隠れつつあった。補習が終わってから僕はバス停から学生服のままでこの浜辺まで来ていた。僕の靴は少し海水に濡れかけていた。)

 

 

 

 桟橋の向こうに星子さんの家があるけれど、もう星子さんの部屋は夜になっても灯ってない。もう何ヵ月になるだろう。君が電話で悲しい声をたてて死んでから、もう何ヵ月が経つだろう。

 

 

 

『この浜辺は思い出の浜辺だ。』と昔誰かが言った。でも今のこの浜辺は僕の少年の頃の思い出が詰まっている大事な大事な浜辺だ。俯いて砂を取ると僕の掌に星子さんやゴロが楽しそうに走っている夢を見る。この浜辺は思い出の浜辺だ。

 

 

 

 星子さん、そんなに寂しがらなくてもいいんだよ。ここは僕らの出会った思い出の浜辺だよ。耳を済ましてごらん。生きてきたときとそのままに波の音、風の音、そして沖を飛ぶカモメの声が聞こえるだろ。星子さんが死んでからもこの浜辺は全然変わらないよ。星子さん、少しも哀しまなくっていいんだよ。

                                  (浜辺にて。寂しい寂しい浜辺にて)

 

 

 

『僕らの青春は何だったのだろう。』

『私たちの青春は苦しんで苦しみ抜くだけ。みんなの冷たい視線や同情を受け続けるだけ。』

『でも僕らには希望が、希望がないのだろうか。』

『敏郎さんにはあるかもしれないですけど、私にはあまりないわ。ただ、敏郎さんと結婚できることが私の夢なの。たぶん駄目だと思うけど、それが私の夢なの。』

----僕は無言になってしまった。

 

 

 

 

 

 

 夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。

 

 

    (夢の中で)

 

 線香花火を僕と星子さんは桟橋の上でしていた。ゴロも寂しげに僕らの傍に立って同じ線香花火を見ていた。

『僕らの人生って、この線香花火のようだね。』

『ええ、この線香花火、私みたい。』

 ゴロが悲しげに遠吠えをした。ゴロの人生も、僕の人生も、星子さんの人生も、線香花火のようだった。

『線香花火って、可愛いけど、寂しいわ。』

『うん。可愛いけど、寂しい。』

 お月様が桟橋の上の僕らを照らしていた。悲しげに悲しげに僕らを照らしていた。

『私たちの人生って、ほんの少し、明るい時があるの。でも、いつもは暗いの。』

『うん、そうだ。僕らの人生って、線香花火のように明るいときもあるけど、ほとんど、いつも、暗い。』

 ゴロが再び遠吠えをした。線香花火の悲しさを打ち消すように、ゴロは何回も何回も遠吠えを繰り返しているようだった。

 

 

 

 

 

 夏の海の上に君の姿が見える。まるでかげろうのように、君の姿が浮かんで見える。

 

 

 

 

 

 

                  

 僕の一時の心の迷いは、一人の少女をこの世から去らせ、僕はゴロと、誰もいない夏の浜辺を、いつまでもいつまでも駆け廻る。もう僕らの背中には夕陽が照っている。

 

 

 

 

 

 

              

 僕が見つめる海は、燃え立つような真夏の海だ。陽炎のように星子さんの素顔が現れてきて、僕にソッ、と微笑みかけているような気がする。淋しさに打ち沈んでいる僕に微笑んでくれているような気がする。

 

 

 

 

 

 

           (一人ぼっちの浜辺)

               高校二年八月 ゴロと

                 ペロポネソスの浜辺にて

 

 僕は君の幸せを小さい頃から(たぶん小学5年の頃からだったと思うけど)祈ってきた。でも僕の祈りが足りなくなったとき(僕が勉強に熱中して君のことをあまり祈らなくなったときから)君の心は僕を疑い始めてきていた。

 僕の真心が君に伝わらなくなったとき、君は僕に恋人ができたのだと誤解して僕はただ勉強が忙しかっただけだったのに、それに僕は形だけでも手紙を出していれば良かった。いつもいつも3時間も4時間もかけて(もっともっと夜の3時ぐらいまでもかかって君に手紙を書いていたこともあったけど)何枚も手紙を書いていたのでたった一枚で出すのが良くない気がしていたし。

 僕のノドの病気や吃りが治ったときいつか君とこの浜辺で語り合おうと思っていたのにもう君は死んでしまってただ朝晩の勤行のとき君の冥福を祈れるだけになってしまった。

 

 君は早く旅立ちすぎて、僕は一人だけになってしまった。僕たちが始めて喋って始めて抱き合ったあの夜、あの夜からもう3ヶ月の月日が過ぎてしまった。もう動かなくなっていたけど暖かかった君の躰。冷たい夜の海の中でもう息途絶えた君を僕は始めて抱いた。僕はあの夜のことをまだ昨日のことのように思い出すことができる。でも僕は君と出会ったこの浜辺にはもう当分来ないと思う。今も僕は英語の本を持ってこの浜辺にやって来た。君を苦しめた病気や今も僕を苦しめているノドの病気や言語障害と戦うために僕は一生懸命勉強しなければならないしこの夏休みも毎日毎日県立図書館で閉館になるまで勉強している。

 

 

 

 

 

 ※(敏郎の机の中から出てきたメモなのだろうか? 小さな紙に走り書きめいて書かれてある。)

 僕は物心がついた頃から自分の喋り方が他の人とちがうことに気付いていました。僕は喋り方がおかしいので電話だけはどうかかけないでください。

 

 

 

 

 

 

                 

 僕は罪悪感に打ちひしがれて、今日も桟橋に佇む。近いうちに取りはずされると風の便りに聞いたこの桟橋はでも、僕を海に飛び込ませた思い出のある桟橋で、あのとき始めて抱いた星子さんの体の温もりが、今も僕のこの手に残っているようだ。悲しい2ヶ月半前のその思い出が、学校生活の苦しさや淋しさに暗くなりがちな僕の心をかろうじて支えているようだ。

 2ヶ月半前のあの悲しい夜、まだ冷たい5月の海の中に僕は星子さんが背中を見せて浮かんでいるのを見た。もう身動き一つしていなかった。

 月の光は隠れていて、僕は真暗な夜道を駆けてきて、桟橋から星子さんの名を呼んだ。傍には星子さんの乗っていた車椅子が置いてあって、車椅子には何も座ってなかった。打ち棄てられたようにして残されていた車椅子と、かすかな波の音しか聞こえない静寂が周りを覆っていた。

 怖しい孤独感が僕の胸をかすめよぎっていっていた。誰もいない夜の桟橋の上で僕は、これからは一人で生きてゆかなければならないのだろうか、と一瞬思った。やがて雲が晴れて月の光が差してきた。そして僕はかすかに揺れ動いている星子さんの背中を発見した。港の小さな波にかすかに揺れていた。でも身動き一つしていないようだった。

 

 

 

 

 

               

 君が砂の中でうごめいている。僕らの駆けるペロポネソスの浜辺の下で、君は現れようとうごめいている。小さな君の力で、一生懸命に砂を掻け分けているけれど、僕らはその上を駆け回っているし、君のか細い腕ではとても砂を掻き分けることができないでいるようだ。君は必死にまっ暗い砂の中から僕らの駆けているペロポネソスの浜辺へと現れ出ようとしているけれど、僕もゴロもずっとずっと駆け続けていて、君が砂の下に居ることを忘れてしまっている。君は一人ぼっちで砂の下に居るのに、もう一年近くもそのその砂の下に居るのに、君はまだ出ることができないで、ときどき走って来る僕やゴロの足音を聞きながら泣いているんだろ。僕にはちゃんと解るんだ。君は泣いているんだろ。悲しくて悲しくて泣いているんだろ。

           

 

 

 

 

 

 

 君が輝いて見える。海辺に映えて輝いて見える。車椅子の君だけど、でもとっても輝いて見える。

 

 君は砂の中から僕を呼んだって聞こえない。砂浜を駆け回る僕とゴロの耳には、砂浜からの君の声は聞こえない。僕とゴロは砂浜を元気一杯に駆け回るだけだ。

 

 砂が盛り上がってきて、君が現れてきて、僕に『こんにちは。』という。

 

 

 

 

 

 

 砂の中に埋もれて君は白骨化しながら僕の名を呼んでいる。ペロポネソスの浜辺から君は僕を呼んでいる。ペロポネソスの浜辺の砂の中から、君はまっ暗な中から必死に僕を呼んでいる。でも僕はゴロと何の気もなしにペロポネソスの浜辺を駆け回っている。でも僕はゴロと何の気もなしにペロポネソスの浜辺を駆け回っている。もう星子さんのことを忘れたように。

 

 砂の下から君は僕を呼んでいる。僕やゴロが踏みつけて痛いのだろうけど、君は耐えて、僕の名を呼んでいる。僕らが日が暮れて去ってからも、じめじめとした砂の中から寒いのに、僕の名を呼んでいる。月夜なのに僕の名を呼んでいる。

 

 

 

 

 

                

 浜辺に君が待っているけど、僕はもう駆けてゆかない。僕の心は、もう変わってしまって、昔のままの僕の心じゃない。僕の心は変わってしまって、あの純粋だった小学校や中学校の頃のあの純粋でひたむきだった僕の心ではない。僕の心は汚れて、打算に満ちて、僕の心はもう以前の美しい僕の心ではない。

             

 

 

 

 

 

 

 君と僕の約束があったと思う。海のせせらぎのように、僕と君だけの約束があったと思うのに、僕は思い出せない。君はもう死んでしまった。僕は思い出せない。

 

 

        (ペロポネソスの浜辺にて)   

 ゴロ。砂の中に耳を当ててごらん。星子さんの息づかいや心臓の音が聞こえてくるだろう。そして、星子さんの哀しい歌声も聞こえてくるだろう。泣いているのか歌っているのか解らない星子さんの哀しい歌声がかすかに聞こえて来るだろう。

 

 

 

 

 

 

                

 君は青い海に浮かんで楽しそうだ。真夏の海の上に浮かんでとても楽しそうだ。僕は苦しんでいるのに。毎日、学校でノドの病気やドモりのためにとても辛い思いをしているのに。

 僕も青い海の中に溶けてゆきたい。僕の傍にいるゴロと、砂浜を駆けて、君の元へと僕は走り始めた。真夏の眩しい陽の光が、走る僕とゴロを覆っていた。

 生きているとき、ただ夜の闇の中に君の部屋の橙色の光を見て、懐かしさや会いたさに涙ぐむだけだったけど、僕らはやっと会えた。

 

 

 

 

 

             

 白い砂浜がずっとずっと続いている。永遠に永遠にずっとずっと続いているようだ。君の頬のような白い浜辺が続いている。僕はでもこの浜辺をゴロと二人で、(君なしに、)歩いている。ずっとずっと続くこの浜辺を、僕とゴロは哀しみに沈みながら、君の死をまだ信じきれないで、歩いている。僕とゴロはずっと歩いている。

                  

 

 

 

 

 

 

 なぜかこの頃家を出るとき『もうこの家には帰ってこないんだ。』という気がしていた。