空(1)
(黄緑色のロードマン)
3月8日のことだったろう。たしか九大の合格発表のあった次の日のことだった。そしてカメ太郎は予想通り落ちていた。数学ができず(しかし今年の九大の数学は例年になくかなり難しかったそうなのでもしかしたら、という期待も抱いていたが、友だちの所へと福岡に行っていた姉からの午前10時過ぎ頃かかってきた電話は悲しみに満ちていた。カメ太郎と一緒にカメ太郎の高校からもう一人受けた○というのは上がっていた。そしてカメ太郎はその日一階で悶々と横になって寝ていると急に思い立って黄緑色のロードマンを中学校の下のカメ太郎の店のお得意さんだという同じ創価学会員である人の自転車屋さんからフレームにちょっと傷が付いているので一万円引きで店頭に並べてあったのを買った。
昨日から毛に病気があるのかとても汚い小犬がカメ太郎の家の玄関に住みついていた。カメ太郎の姉や母はそれを不吉な犬だと言っていた。また父は『中場のじいちゃんの霊がのりうつっている犬』と言って母をからかっていた。
その犬がカメ太郎が九医不合格の発表の前日の朝からカメ太郎の家の玄関に住みついていたので姉や母はそれを不吉だと言って嫌った。でもとてもおとなしく人なつっこい犬で、なんだか九医に失敗し浪人することになったカメ太郎を慰めるために本当に父が言っているように中場のじいちゃんの霊が乗り移っているようにも思えた。
カメ太郎はその黄緑色のロードマンを三万二千円で買うと早速東望へと出かけていった。ロードマンはツーツーととても気持ちよく走り、春の風をいっぱいに浴びてカメ太郎は浪人することになった自分の心が慰められるのを感じていた。
カメ太郎は自転車競技でオリンピックに出よう、と思ってその自転車を買ったのだった。自分に最も向いているスポーツは…自分でもオリンピックに出れるスポーツは…運動神経は悪いけど力は強いボクに向いているスポーツは…足は短いけど力は強いボクに向いているスポーツは…と考えた挙げ句、ボクは自転車が最適だと思ったのだった。
そしてその日からボクは主に東望で自転車の鍛錬を始めたのだった。青果市場周辺のほとんどクルマの通らない綺麗な道で…そして東望山公園に登る坂道で…ボクは桃子さんのことを思い浮かべて悔しさで心をいっぱいにしながら練習を始めた。
ノドの病気でなかったら…ノドの病気でなかったら…輝いていたはずのカメ太郎の中学・高校時代だったと思えて悔しくてたまらなかったから。またカメ太郎が九医に合格してたらノドの病気ゆへにまっ暗にさせられたカメ太郎の中学・高校時代の悔しさも慰められたのかもしれないのだった。
すずめの囀りが東望山公園の坂を満たし、カメ太郎は苦しい息の中、必死に桃子さんの笑顔を思い浮かべて自転車の練習に励んだ。カメ太郎は勉強で頂点に立つだけでなくスポーツでも頂点に立ってそして桃子さんとつき合える資格のある男になろうと懸命だった。
白い天使さま
カメ太郎は福岡の大濠公園で黄緑色のロードマンを横に一人寂しく池の水面を見つめていた。カメ太郎には失意とやるせなさと言いようもない倦怠感があった。空を見上げても長崎ではいつも飛んでいたトンビの姿は見えなかった。
するとカメ太郎はとても美しい少女が(高校生か中学生だろう、学校の制服を着ていたから)自転車で通りかかったのを見た。とても美しい女の子だった。学校帰りだろう。時計を見ると午後3時50分だった。
次の日、3時頃、寮を出て昨日の大濠公園の岸辺へ向かった。ちょっと遅かったかなあ、と悔やんでいた。公園に着いたのは3時45分ごろだった。
朝からトイレに行くぐらいしかせず(そして布団の中で昨日買っていたパンをかじっただけのカメ太郎には)自転車で行く博多の町がとても爽やかに感じられた。
もう夕暮れに近いのにカメ太郎にとっては朝のような景色だった。スズメの囀りが聞こえてくる。ツバメかな? スズメでなくってツバメかもしれない。
カメ太郎は公園の中をゆっくりと自転車のりーっという音をたてさせながら進んだ。昨日はちょうど今ぐらいだったから出会わないかな、と思っていた。そして出会ったら自転車で彼女のあとをつけてゆこう、そして喋りかけよう、と思っていた。
今吹いているのは福岡の風だなあ、とゆっくりと大濠公園の中を自転車で行きながら思ってきていた。風は天神の方、東の方から吹いてきていた。
それからカメ太郎は、西公園の傍の岸壁へと向かった。やはり彼女と会えなかったため寂しさが自転車の上のカメ太郎を覆っていた。そして過ぎゆく青春への焦燥感めいたものも。
カメ太郎は自転車を岸壁のコンクリートの壁に立てかけると、孤独な思いを胸いっぱいに秘めて、堤防の上へ上がった。見渡すと、もう赤みがかっている空だった。そして小さな漁船が川口を登っていっていた。
太陽は西の方に…ああちょうど長崎の方に沈んでいっていた。○○さんや○○さんは今頃どうしているのかなあ、と思った。今、クラブを(テニスを)しているのかな。それとも諏訪神社のバス停でバスを待っているのかな。それとももうぎゅうぎゅう詰めのバスの中に乗っているのかな?
やっぱり夕暮れ時って寂しいなあ…と堤防の上で膝を抱え込みながら思っていた。3時まで布団のなかでモヤモヤとしていたときには感じなかったのに。何故こんなに悲しいのだろう。
河口からずっと奥の方を眺めて見渡される福岡の町並みはなんだか死の町のように思えた。彼女はきっとあの町の中のどこかの家に住んでいるんだろうけど。そして町全体がピンク色に輝いてくるのを覚えた。さっき見遣ったばかりの時は灰色の死の町に見えたのに彼女のことを思い描くと急にその町の色が灰色からピンク色に変わるなんて。不思議だった。
彼女は何処に住んでいるんだろう。すると町のある所が濃いピンク色に変わってUFOが飛び立つようにそのピンク色の輝きが増したように思った。彼女が住んでいるらしいその地点が。
カメ太郎は寂しくって、岸壁に膝を立てて座り込み続けていた。
思えば不思議だなあ、と思っていた。あの女の子はカメ太郎が中二や高三のとき松山で見た白い妖精のような天使さまにとってもよく似ていて、その天使さまが福岡までカメ太郎を追ってきてくれたようにもカメ太郎には錯覚された。
思えば不思議だなあ、とカメ太郎は依然として堤防の上で膝をついて考えていた。福岡にも長崎の松山で見た白い妖精のような天使さまがいるんだなあ。天使さまはカメ太郎の周りにたくさんたくさんいるようだなあ。
カメ太郎は突然立ち上がってさっきの自転車の少女か長崎の松山での少女に向かって叫びだしたい衝動に駆られて夕陽を背にして立ちつくしていた。
カメ太郎に中二の頃から、そして高三と、そして一年たった浪人の今、カメ太郎の心を照らしてくれた天使さまのような白い妖精の姿。
天使さまの姿を真夏になりかけた紅い夕陽を背中に浴びて瞼にありありと想像していたカメ太郎は堤防の上でなんとなく自分のちっぽけな存在というものがとても不思議というか、自分は王子さまのように、夕陽にきらきらときらめきわたる王子さまのようにも錯覚された。
カメ太郎は王子様で、でも寂しさに打ち震えていて、そして王女さまが現れてカメ太郎の胸に飛び込んでくるのを涙をたたえながら堤防の上に立ちつくして待ち続けているんだ。寂しさで胸いっぱいになりながら待ちつくしているんだ…と思っていた。
○○さんへ
カメ太郎は夕陽を浴びながら心配のあまり胸の中が溶けていってしまいそうです。もしもあなたが優しく抱き締めて下さったらカメ太郎の孤独な心も癒されて…そしてカメ太郎の今までの少年期の苦悩もすべて灰となって消えて行き…カメ太郎はこれから幸せいっぱいに毎日を送れるようになるはずなのに…と思うとカメ太郎はとても残念です。
なんだかカメ太郎の胸の中は心配と孤独感で今にも溶けていってしまいそうです。カメ太郎の胸は夕陽を浴びながら今にも孤独感のため溶けていってしまいそうです。
(でも振り返って夕陽を見つめるとカメ太郎の目は更に幻惑し出し、本当にすぐ近くに白い○○さんが現れて…そしてカメ太郎の胸にポッカリと空洞の空いた一人ぼっちのカメ太郎をその優しい白い胸に抱きしめて下さって…そしてカメ太郎の苦悩も病気も孤独感も癒されるような気がしてカメ太郎はなんだかとても幸せな気分に浸った。
(○○さんが現れてカメ太郎を救ってくれる。夕陽にポッカリと浮かび出てカメ太郎をそのとても美しい微笑みでこっちに来るように誘って下さっている。とてもとても美しい白い○○さんが。
カメ太郎は狂いかけていた。二段ベットの上の方にカメ太郎は一日じゅう横たわり続けていた。頭を窓辺の方に向けて寝ていた。そしてこのままズルズルと窓から地下のコンクリートまで落ちられたら。カメ太郎の部屋は最上階の507号室だった。
ふと湧いてくる“このままズルズルと布団を這っていって窓から飛び降りよう…”という誘惑とカメ太郎は必死になって戦っていた。そしてもう夕陽なのだろうか? 太陽は紅く染まっていたしかなり傾いていた。
どっちが北でどっちが西なのかな?…とカメ太郎は混乱し始めていた。今まではカメ太郎の足先の方が北で、眠っているカメ太郎の右手の方が東だとばかり思っていたのに。カメ太郎は何がなんだかちょっと解らなくなり始めていた。
二〇歳
カメ太郎が仲間とカメ太郎の黄色いセルボに乗って
山の上の純心短大の文化祭に行ったとき
あなたは駐車場の整理係をしていた
カメ太郎は始めあなたが誰だか解らなかった
とても可愛い白い襟をした女の子が駐車場の係をしているなあと思っただけでした
なぜだか微笑みかけるあなたを
カメ太郎は全然気付きませんでした
無視してすみませんでした
カメ太郎があなたに気づいたのは
カメ太郎があなたの名前が書かれたロッカーを前にしているときでした
ロッカーに書かれた名前を見て
カメ太郎は自分の目を疑いました
そして駐車場でカメ太郎に微笑みかけた白い襟の服を着たとても可愛かった女のコのことが不審だったけど
あれがあなただったってことを始めて知りました
地獄谷
生きようかな。生きようかな、やっぱり。
(そうしてカメ太郎は半分眠りかけた目を必死に覚まして目をこすりつつトイレへと向かった。階段が揺れているようでカメ太郎は何度も階段の壁を叩いていた。)
そしてカメ太郎は倒れるようにしてトイレへ辿り着きそして必死に吐いた。黒い液体がたくさん流れ出ていた。そしてカメ太郎の意識は次第になくなっていった。
次の日、目が醒めると自分がちゃんと生きているのをスズメの囀りとともに知った。昨夜、トイレで吐いたあと、たしかカメ太郎は階段を上がっていった。そして布団の上に倒れ込んだのだった。
父や母は眠っている真夜中のことだった。午前1時のことだったと思う。
カメ太郎は涙を込めて出発した。カメ太郎は哀しくギアをニュートラルへ入れるとエンジンをかけた。カメ太郎の小さな軽のクルマが泣くように唸りをあげた。
そしてカメ太郎は出発した。雲仙へと向かっていた。『お父さん、お母さん、さようなら。』とカメ太郎は家に向かって心のなかで呟いていた。クルマはゆっくりと家の前の細い道を進んでいっていた。
カメ太郎は今朝、地獄のなかから起きたようだった。そして頭のなかはいつもと違っているようだった。いつもは酒に酔って寝ていた。しかし昨夜はタバコをコーヒーのようにして飲んで寝た。
クルマは諌早を過ぎ、愛野へと向かっていた。小さい頃、父に連れられてこの道を通って父の実家の加津佐まで休みの度に行っていたのを思い出していた。小学校6年までずっと続いたと思う。カメ太郎が大学に入学してすぐに喪くなったじいちゃんがカメ太郎をよく可愛がってくれていたから。
じいちゃんが喪くなってから1年半が経とうとしている。その間カメ太郎は創価学会をやめた。あれほど小学生の頃から一生懸命にやってきた創価学会だったけど。
じいちゃんがなくなってから加津佐へ行く事も少なくなった。まだばあちゃんとおばばちゃんがいたけど、父の姉妹も行くのを控えるようになっていた。あとを嗣いだ父の弟の嫁が今一家をとり仕切っていた。
カメ太郎はふらふらと歩いていた。地獄谷の肖気がカメ太郎の鼻元をくすぐっていた。
岩肌は肖気で黄色くただれ柔らかくなっていた。霜か何かで濡れた道をどんどんと森の方へ森の中へそして森の奥へと進んで行っていた。観光客が少しいてなんだかみんな霊界の人のような気がしていた。そして霞んで見えていた。
ここは地獄谷
カメ太郎の現世の最後の明るい所の地獄谷
黄色く変色した岩肌が眩しく
今から森のなかへ入るカメ太郎の目を幻惑した。
ここは地獄谷
カメ太郎の最後の地獄谷
そしてカメ太郎はこの地獄谷を奥へ奥へと進んで行っていた
やがて地獄谷はカメ太郎の背中の真後ろへ深く深く消えて行った
カメ太郎は現世を本当に旅立ち死界へ死界へと吸い込まれて行っているようだった
森へ入る道は死界へ通じる道のようだった。
カメ太郎はつかつかとなおも濡れた道や黄色く変色した岩肌を踏みしめながら地獄谷の奥へ奥へと進んでいった。
椎の木の枝に吊られた柔道の帯を前にしてカメ太郎はもう一歩のところで躊躇していた。カメ太郎は死ねないようだった。褐色の太い椎の木の枝はそして微かにうごめいた。白い柔道の帯もそして揺れていた。
カメ太郎は心のなかで過去に手を振っていた。笑みをいっぱい湛えて振っていた。
さようなら、カメ太郎の少年時代。さようなら、カメ太郎の青春。さようなら、カメ太郎の過去。カメ太郎は自分の今までの過去に決別して生きる決意をしていた。薄氷がカメ太郎の足元でさくっ、差くっ、と音をたてて崩れていっていた。大きな桟橋を見降ろす天草を周囲に散らばめた夕陽が紅く染まって桃子さんの肌のようだった。でもカメ太郎はその幻想をすぐに打ち消しふたたび目のまえの雄大な景観に浸った。カメ太郎の命を溶かし込んだような紅い夕陽だった。すでに薄暗くなりかけた周囲はカメ太郎を霊界へ溶かし込んでゆくようだった。
カメ太郎はゆっくりとセルボに戻ると久しぶりにタバコに火を付け始めた。大きな夕暮れの眺めは車窓からもよく見えていた。溶けるようにして落ちてゆく夕陽。まるでカメ太郎の魂のようだった。
カメ太郎の過去は呪われており今もやはり呪われていた。カメ太郎はタバコを半ば吸い終わっていた。カメ太郎を象徴するかのような今のこの周囲。道端には残り雪が積もっていた。
「地獄谷2」
(2月始め)
死ぬことばかりを考えていた。カメ太郎は雲仙の地獄谷を歩いていた。玉子の匂いがしていた。見渡す限りのこの光景はカメ太郎の死の光景のようだった。
カメ太郎は十字架に架けられた哀しいかかしのようだった。いやカメ太郎はかかしだった。雲仙の地獄谷の湯煙にあぶられにふたたびやってきたかかしだった。思えば2週間近く前もカメ太郎はセルボに乗って雲仙にやって来たのだった。でも死ななかった。カメ太郎はあの日雲仙からの雄大な夕陽を見ていて生きることを決意したのだった。
でもあの日から十日余りカメ太郎の心はふたたび荒んでいった。カメ太郎はふたたび死を決意してこの谷にやって来たのだった。カメ太郎は今度は本気だった。カメ太郎は地獄の樟気にこのまえとちがってすぐ近くまで近づいてそれに当たっていた。
思えばカメ太郎は今朝、自分はいったい何のために生きているんだろう、と思って家を出たのだった。その思いはあのクリスマスイブの夜からのものだった。
カメ太郎の多感な青春時代は 君とともに始まった。
そしてクリスマスイブの夜 何年かぶりに君に出会った。
そしてカメ太郎はいま死のうとしている。
君の思い出とともに死のうとしている。
カメ太郎は十日ほど前のように地獄谷の森を上がっていっていた。さくさくと氷った森の木の葉の折れる音がしていた。カメ太郎はさくさくと木の葉を踏みしめながら山を登っていっていた。すべてすべて十日ほど前のようだった。
カメ太郎はまたここに来た。十日ほど前、再生の決意を固めてこの雲仙岳を夕陽を見つめながらセルボに乗って降りたあと、ふたたび来た。カメ太郎はすべてに敗れ去り、もう生きる資格がないようで、ふたたび雲仙の山に来た。
カメ太郎はやはりどうしようかとても迷っていた。ふたたび来た地獄谷のこの森のなかで
カメ太郎はクルマから降りて黄色い大きな柔らかい石の上に腰かけて夕陽を見ていた。カメ太郎の存在ってあの沈みゆく夕陽のようだと思った。カメ太郎はそう何度も何度もくり返し思った。
カメ太郎はすごすごとクルマにひきかえし始めていた。カメ太郎は夕陽として生きてゆこう、と心のなかで何度も繰り返していた。カメ太郎は敗者として生きてゆこう。敗者として周囲に関心を払わずに生きてゆこう。カメ太郎は孤独だ。カメ太郎は幽霊のように生きてゆこう。浮遊霊のように地縛霊のように生きてゆこう。誰の関心も集めず、誰にも頓着せずに生きてゆこう。カメ太郎は生きる屍として生きてゆこう。もうカメ太郎は死んだんだ。現実のカメ太郎はもう死んだんだ。この夕暮れの雄大な景観の中に吸い込まれて行ったんだ。ちょうど一年半ほど前、この雲仙岳の麓の病院で死んでいったカメ太郎を可愛がってくれた祖父が胃ガンで死んでいったようにカメ太郎もここで死んだんだ。そして今ここにいるのは再生したカメ太郎なんだ。カメ太郎は再生したんだ。
そしてギアをニ�[トラルに入れるとエンジンをかけ雲仙の坂道をふたたび降りてゆき始めた。コンコンと2サイクルのエンジンが音をたてていた。
焦燥
何かが足りない、何かが足りない、と思いながらもそれが何なのか解らない。それは青春の何かであることはたしかなのだけどそれがいったい何なのかわからない。カメ太郎は昨夜それがいったい何なのかわからなくて一晩じゅうビデオやテレビを見ながら考えていた。そして今日、朝から後輩の下宿の炬燵の中に埋ずくもりながら考えていた。
カメ太郎に足りないのはいったい何なのだろう。
それは恋人なのだろうか。それとも宗教かマルクス主義かの信念なのだろうか。
何かが足りない、何かが足りない、と思いながらも心焦るカメ太郎は昨日は浦上川の川縁を旅してきたものだ。カメ太郎に足りないのはきっと恋人なのだろうと思って。
カメ太郎は夕陽に照らされながらずっと前の高校時代の思い出の女の子を捜し求めてさまよった。川縁を歩いているときっと向こうからその女の子が思い出のなかの微笑みを浮かべながら歩いてくると思って。
でもカメ太郎はほとんど日の暮れかかった頃、三菱の前からバスに乗って後輩の下宿にうなだれながら帰ってきてそしてバイクに揺られながら家へと帰ってきた。そうして晩御飯と風呂を済ませたあとずっと夜一時までビデオとテレビを自分の部屋で見づづけたのだった。親に隠している留年生活の重苦しさと窒息感がカメ太郎にはあった。そして毎日ほとんど誰とも口をきかない日々の羅列にカメ太郎は窒息しかけていた。
寂しい毎日だなあ、とカメ太郎はこの頃ようやく気づきかけていた。そうして足りないのは宗教でも信念でもなくって恋人なんだなあとカメ太郎はようやく気づきかけていた。
カメ太郎はこの頃恐ろしい倦怠感に陥っていた。22歳を迎えようとしていた。四年生の大学に行っている他の人たちは順調に行ってたらもう卒業だった。でもカメ太郎は再び九医を受け直そうかと思ったりまったくまだ卒業なんて遠い先のことだった。カメ太郎は自分の倦怠感はそこから来ているのだろうと思っていた。
ルドンの絵の中の幻の女性がカメ太郎の前に現れてカメ太郎を救ってくれる…カメ太郎はそんなことを思い始めていた。
カメ太郎は今日も来ていた。この松山の川縁に。でもカメ太郎には昨日のように秋月町目ざして歩いてゆく気力は湧いて来なかった。後輩の下宿からここまで歩いてくるのがやっとだった。
そして今日もまた暮れてゆこうとしていた。そしてカメ太郎は自分はいったい何のために生きているんだろうかという思いに囚われてきていた。留年していることやバイトをできないことでカメ太郎は親への罪悪感で胸がいっぱいになっていた。
“いったいカメ太郎は何のために生きてるんだろう”
朝はそんなに感じないその疑問も昼になり夕方になるにつれてだんだんと強くなってくるのだった。そしてカメ太郎はいつも夕方頃強い焦燥感に襲われて後輩の下宿を出る。
今年の春の合宿のとき知り合った高校生の女の子と夏頃から文通を始めたのだがカメ太郎が2回目の手紙を出したあとぷつりと手紙が来なくなっていた。その寂しさもあったのだろう。カメ太郎の胸のなかの焦燥感は22才の誕生日を前にして日に日に強くなっていた。
(五島灘)
打ち寄せる五島灘の白波。いやこれは東シナ海の白波なのだろうか。遠く煙って見える水平線の向こうにきっとある中国からの波なのだろうか。そこには十億も人が居るという。なんだかその大きな大陸は天国のようにも思える。白い白い雲に覆われて煙って見えるから。
でもそこでも人々はみんな苦しんでいるんだなあと思う。幸せな人はごく僅かで、みんなみんな苦しい毎日を送っているんだなあ、と思える。
天国って何処にあるのかな、とカメ太郎は思った。本当に天国って何処にあるのだろう。白い白い雲の上にあるのだろうか。
雲の下はみんな普通の世の中で、苦しんでいる人たちがいっぱいいる。でも空の上には、青い青い空の上にはきっと天国があるのだろう。
そこにはきっと、白い白いとても美しい天使さまがいてカメ太郎を迎えてくれるのだろう。 中二の頃、松山のあの通りで見た活水のチャペルの方から歩いてきていた白いとても美しかった女の子のように。
夢のような白く煙った思い出がなぜ今こうやって佇んでいる時に涌いてくるのだろう。あの元気だった中学・高校時代を今自分は知らず知らずに必死になって思い出そうとしているのだろうか。
中二の頃…あのテニスの試合の合間にカメ太郎は友だちとアイスクリームを食べに行ってたときにその少女を見たのだった。あれはたしか九月だった。そしてカメ太郎を見て微笑んだその女の子の姿は九月の眩しい太陽に照らされていて、今もカメ太郎の瞼の中に夢の中での出来事のように焼きついている。
ブタ子さんへ
ここはカメ太郎らの思い出の浜辺とちがって、中国大陸を遥かに望む浜辺だけど、カメ太郎らが眺めていた浜辺には雲仙岳がいつも白く煙っていてそして天草やそれに阿蘇山だと思われるちょうどここからの中国大陸の眺めが思い出されてきます。
カメ太郎はこの頃めっきりブタ子さんとの思い出の浜辺へ行かなくなりました。そしていつも250ccのバイクであてもなく…そしていつもたった一人でぼんやりといろいろな処へ行っています。
愛子
カメ太郎には怖しい生きることへの懐疑感がある。そうしてカメ太郎は生きてゆく価値のない人間なんだと…。
愛子はのほほんと暢気でいいなあと思います。でもカメ太郎はこの東支那海というか五島灘を見つめていると“自分が崩壊する、自分が粉々になる…”といったような恐怖感にとらわれてしまう。
この夏、愛子と遊びたかったです。でも夏休みは過ぎ去り、愛子たちは忙しくなったんでしょう。でもカメ太郎は孤独で暇をもて余しています。
――カメ太郎は次々と心の中のカメ太郎の恋人に胸の中で静かに手紙を書いていっていた。カメ太郎の心の中の不安や焦りはそうして自然に癒されていっているようだった。遠くの遥かに霞んで見える中国大陸の風景と一緒に。
(五島灘2)
いつもいつも一人ぼっちのカメ太郎。いつもいつも人から遠ざかってきたカメ太郎
カメ太郎は『おーい!』と西の海に向かって叫んだ。足元から崩れてゆく土。まるでカメ太郎の心のように崩れてゆく土。
寂しさで満ち溢れた日曜日のカメ太郎の心。
カメ太郎はバイクの所へ帰ってバイクのシートにうっ伏してしまった。このままでは崖から飛び降りて自殺してしまいそうにも思えたから。それにこの高さならたぶん死ねず不具者として一生生きてゆかねばならないようだったから。
カメ太郎の胸のなかは寂しさで満ち溢れ、今にも破裂してしまいそうだった。カメ太郎の胸は今にも割れそうな赤い風船のようだった。
五島灘を前にしてカメ太郎の胸は張り裂けて、そしてカメ太郎の苦しかった今までの人生は終わって、そして霊界での一人ぼっちの人生が、暗闇の中に膝を抱えて一人うずくまっている寂しげな自分の姿が瞼に描き出されていた。
生きることの意味が掴めなくてカメ太郎は倒れ伏したまま青く生い茂っている雑草をぎゅっ、と掴んだ。いつもいつも一人ぼっちで寂しいからこうなのかもしれない。でもカメ太郎は喋れないから…。言語障害でしかもノドの病気のカメ太郎は…。
カメ太郎はアルバイトをできないから。カメ太郎はそれに頭が締めつけられるから…。人と一緒にいると緊張して頭が締めつけられてとても疲れて、そして教室に30分もいたらもう頭が混乱してしまうから。
青い海と空はそうしてバイクの横に倒れ伏したカメ太郎を眩しく包み込んでいた。カメ太郎はこのまま太陽に照らされながら消えてしまいたかった。どこか四次元の世界へと。
「夏の日の幻視」
死のうと、思ってバイクを買った。友だちから400ccのセバハンのバックステップの昔の赤いカタナを車検一年付きでぼろぼろの白いフルフェイスのヘルメットと手袋つきで8万5千円で譲り受けた。そして留年の決まった2日後の今日、カメ太郎は雲仙にやって来たのだった。たしかもう何年も前になるだろう。桃子さんとクリスマスイブの夜に合コンで偶然出会い虚しくふられたときも、そのときも一人でふらふらと雲仙にやってきたのだった。あのときは黄色いセルボだった。そしてあのときはヒーターも入っていて寒くはなかった。そしてクルマの中で辞世の詩をたくさん造った。あの書いた紙は今頃どうなっているのだろう。うす高く積もるほど書かれた辞世の詩の束は。
そしてカメ太郎は何年後かの今日、今度は失恋でなくて吃りゆえに留年させられた絶望感ゆえに白いぼろぼろの(でも買ったときは3万円した白いショウエイの)ヘルメットを被ってここまでやって来た。寒かった。でも久しぶりだな、と思っていた。
道端にはところどころに雪が積もっていた。カメ太郎は何年かぶりにここに今度は赤いカタナでやってきた。バイクのうしろに縛り付けられた黒い布製のバックには白い柔道の帯が入れられていた。
もうこの白い帯は何度カメ太郎から死出の旅に連れられて来られただろう。でもそれもすべて使われずに(あるときは手に握られて森の中をさまよったり、あるときは胸の中に隠し持たれて森の中をさまよったりするだけだった。)
雲仙の道端からの光景はカメ太郎の死後の世界のようだった。
遠くに煙って見える天草の島、そしてカメ太郎が住んでる日見も見える。以前、南串山の母の実家の近くの釣り場から夏の暑いある晴れた日に日見が望遠鏡を使って見たようにありありと見えたことがあった。真夏の磯辺で魚釣りをしているときだった。中学3年か高校一年ぐらいのときだったろう。そうして大きな目をした桃子さんの美しいスカート姿がありありと見えたのだった。
あれは少年の頃に特有の幻視だったのかもしれない。いま日見は煙って何処にあるのかもよく解らない。いくら夏の真昼だって南串山の海岸から日見の手塚金物店などの建物がありありと見えて、そして桃子さんがミニスカート姿で美しく遊んでいる姿が見えてくるなんて。カメ太郎があの頃視力が2.0だったにしても。
真夏の青い海の向こうに桃子さんの姿が見えたあのころはすばらしかった。今思えば輝いていた季節だった。そして今、雪混じりの風が吹くこの雲仙の谷の上に立っている自分。自分はもう21になった。あの美しい幻視を見たあの中学3年か高校一年の夏は遠く過ぎ去っている。
でもカメ太郎の目にはさっき思い出していた少年の頃の懐かしい夏の日の幻視が蘇ってくる。まぶしい少年の頃の夏の日差しが暗い森の中の道を歩くカメ太郎を照らしたように思えた。
目の前には少年の頃に見た夏の日の青い海が揺れている。小波の音と遥か彼方に幻視される少年の頃に見た日見の光景とミニスカート姿の桃子さんの中学生の頃の姿。
それらがいま、枯れはてようとする森の木を前にして思い出されていた。
カメ太郎はさくさくと森の中に入りつつあった。枯れ葉が凍り付いてカメ太郎の靴の下で音をたてて砕け散っていた。まるでカメ太郎の魂を吸い取るような木の葉の砕け散る音だった。もう、カメ太郎の魂は少しづつ少しづつその木の葉の砕け散る音に吸い取られつつあるようだった。そして首�吊るときのカメ太郎はもうずいぶん軽くなっていて、木の枝もあまりたわわないだろうと思えた。
カメ太郎は静かに中学高校時代の思い出を思い出していた。あの苦しかったけど明るかった中学高校時代を。
死神がカメ太郎が首を吊ろうと目をつけた木に浮かんでいるようだった。でもカメ太郎を背中から引っ張るものはカメ太郎の中学高校時代の思い出だった。苦しかったけど輝いている中学高校時代の思い出だった。
夏の日に見たあの青い海の輝きと幻覚が死神にとりつかれていたカメ太郎の目を覚まさせたようだった。美しい幻覚は、あの夏の日の眩しさの中に見た幻覚はカメ太郎を“生”へと引き止めてくれたようだった。
カメ太郎は静かに背中を引かれるようにその木に背を向けて歩き始めた。カメ太郎は生きる決意が付いているようだった。知らず知らずにあの少年の日に見た幻覚がカメ太郎を生の世界へと引き留めてくれたようだった。
(12月25日)
悲しみの夜が明けたとき、カメ太郎は一時間ぐらいしか眠ってなかった。枕元にカミソリを置いていたし、これから西海橋へ行って死のう、とも半分考えていた
(クリスマスイブの次の日の夜)
カメ太郎は君を見たくなかった。君はもう永遠に長崎の空のなかへ溶けていってカメ太郎の前に現れてほしくなかった。
そしてカメ太郎の心のなかに少年時代の綺麗な夢として永遠に残っておいてほしかった。
人はみんな争っているようだ
テレビをつけるとボクシングがあっている、野球があっている、
みんなみんな争って生きているようだ
生きることは何なのだろうかと思いを巡らせたとき
カメ太郎には何だか解らなかった
でも風にそよぐ稲の穂と
見えてくる海の波が
カメ太郎に生きていることを実感させてくれた。
(加津佐にて)
鏡にボーッ、と映っているカメ太郎の顔は、もう死人の顔だった。
カメ太郎は淋しさに打ちひしがれて久しぶりにこの浜辺に来ている。もうブタ子さんはいないしゴロも居ない。懐かしい幸せだったあの頃はもう遠い過去のものとなっている。
桃子さんとの合コンでの劇的な出会いは失恋に終わり桃子さんはカメ太郎の友人に走った。そしてカメ太郎は正月明けのこの日、一人でバイクに乗ってこの浜辺にやってきた。久しぶりのこの浜辺だった。
(1月4日)
青い海も 青い空も 見えてくる。眠くなって 疲れきって横たわったとき カメ太郎の目に 十数年も前のことが蘇ってくる。まるで夢のように。ゴロの声と一緒に。カメ太郎に向かって走ってくるゴロの姿と一緒に。そしてもう亡くなったブタ子さんの幻のような姿と一緒に。
(1月)
中三の頃からカメ太郎は君を思ってきた。一年間の浪人のあと大学へ入ってからもカメ太郎は君のことを忘れてはいなかった。少しずつ少しずつ忘れかけていたけれど でもカメ太郎には恋人もできなかったし やはり君のことをずっと思っていた。君を最後に見たのは浪人のときの十月のことだった。ちょうどおくんちがあっていて10月の8日だったことを憶えている。カメ太郎は急行のバスに乗っていて諏訪神社前のバス停に立っている君をカーテン越しにそっと見続けた。
そしてそれから2年一ヶ月余り経って君と出会うなんて。カメ太郎はほとんど君のことを忘れかけていた。いや、ちょうど君のことがカメ太郎の少年時代の思い出になろうとしている頃だった。
(天使さまへ。底抜けに明るい天使さまへ。)
一九八七・七・十八
天使さま。憂欝に沈むカメ太郎を救ってくれる天使さま。カメ太郎を救って下さる天使さま。ポッチャリとしていて目が大きくて弾けるような天使さま。透き通る肌をした天使さま。とても明るい天使さま。悩みを知らない天使さま。カメ太郎に生きる勇気と力を与えて下さる天使さま。
天使さま。カメ太郎は死ぬことばかりを考えています。なぜ最近こう沈み込んでばかりいるようになったのでしょう。
その天使さまはカメ太郎が大学一年のとき小学○年生だった○○子にもなぞらえられるし、カメ太郎が大学4年目のときの木村さんにもなぞらえられる。また愛子にもなぞらえられるだろう。
いつかカメ太郎の目の前に本当の天使さまが現れて、カメ太郎を救ってくれるであろう。今まで3人の天使さまとちがってカメ太郎の青春時代に確固とした思い出として残って下さる天使さまが。再びカメ太郎の胸をときめかしてくれる天使さまが。久しくときめくことを忘れてしまっているカメ太郎にかつての生きる意欲と力を与えて下さる天使さまが。
それからカメ太郎が大学一年目の12月ごろ(今から6年近く前になりますけど)天本さんがいたころ、夜の7時半ぐらいに浜ノ町を一人で映画を見に行こうと歩いていたら高橋(?)さんという総科大の人から誘われて料理教室のビルの4階へ連れてこられてそこで天本さんの奥さんかどうか知らないけどおなかが大きくて赤ちゃんを身ごもっていた女の人がいて、そのひとが賛美歌を歌いながら炊事場で茶碗を洗っている光景を見てカメ太郎はとても衝撃を受けたことがあります。とっても神聖な感じでそれに綺麗で。あれもしかすると○○さんだったんですか? とてもよく似ていたようですけど。それとも○○さんのお姉さんだったんですか。それとも全く別の人だったんですか? 今でもそのときの光景はカメ太郎の瞼にしっかりと焼きついています。
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佐賀市愛敬町6-7
世界基督教統一神霊教会内
○○京子様
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○○さんへ
お元気ですか? もう2年3ヶ月も会ってないと思います。今頃こんな手紙を書くのはおかしいようですけどカメ太郎の心を救ってくれる天使さまの姿は…(カメ太郎の瞼に浮かんでくる天使さまの姿は…)どうしてでもあの赤レンガのカルチャーセンターにいた木村さんの姿ばかりが思い描かれてきて、あの頃の懐かしい記憶とともに…(そしてあの頃の元気だった自分の姿を懐かしく思い出して…)なんだか涙がにじんでくるような気がします。
2年前の4月、○○さんがいなくなってから、カメ太郎はカルチャーセンターに行くのをやめました。カメ太郎は○○さんに会いたいためにそこに行ってたような気もします。(いや半分は宗教への好奇心でした。)そしてそれから2年3ヶ月ほどたちますけどカメ太郎の人生に於いてこの2年3ヶ月ほど暗かった時期はないようです。カメ太郎はあれから胸のときめきをほとんど何にも感じることができなくなりました。カルチャーセンターに通っていたあの半年ほどの月日はカメ太郎の青春時代の一つの分岐点だったようです。
よく考えてみると○○さんカメ太郎のこと憶えているでしょうか? あのおかしい医学生です。
カメ太郎は○○さんが佐賀に行ってからすぐ手紙を書こうとしたのですけど書いただけで出しませんでした。あの頃すぐに出していれば良かったととても後悔しています。
○○さんの美しい姿は今でもカメ太郎の瞼のなかで揺れています。そのためカメ太郎はどんな女の子を見たって“可愛いなあ”などと思わなくなってしまいました。それがこの2年3ヶ月の空白をつくったようです。
時の過ぎるのがあまりに早くて、自分がこのままダメになってゆくようで、この頃よく悲嘆に暮れてしまいます。カメ太郎は燃えつきた薪なのでしょうか。以前のように何事にも情熱を覚えることはできません。今日も老人のように何もなく暮れてゆこうとしています。世間が何だか牢獄のように感じられて…大きい大きい檻のように感じられてしまいます。カメ太郎は神さまから飼われているペットなのでしょうか。カメ太郎は最近、霊界や死後の世界の存在は間違いなく信じていますが神さまの存在に疑問を持ってきました。本当に神さまはいるのでしょうか? 世の中が矛盾だらけのように思えますし何故世の中の不幸はなくならないのでしょう。世の中はたしかに霊界から操られていますがその操っているものの正体は神ではなく精霊というかあまり良くない霊の方が多くて良い霊は少ないんじゃないでしょうか。神さまはあんまり悪い霊を野放しにしすぎじゃないでしょうか。
○○さん、まだ佐賀にいるんですか? もしかしたら長崎に帰ってきているかもしれない、とも期待しています。でもカメ太郎はこのごろ家に閉じ込もりがちで全然外で遊んだりとかせず、学校でもほとんど誰とも喋らず、最近切実に孤独感を覚えています。消えてしまいたい、このまま誰にも気づかれずに消えてしまいたい、などとも考えます。天使さまがカメ太郎の目の前にパッと現れてカメ太郎を天国に連れていってくれないかなあと考えたりしています。その天使さまの姿は○○さんのように目がパッチリとしていてとても明るい女の人で窓辺にうずくまって孤独に打ちひしがれているカメ太郎を天国へと手を取って連れていってくれるのです。底には何も苦しいことなんてなくて楽しいこと楽なことばかりで、そしてすこしも苦労なんてしなくていいのです。たぶんそこはカメ太郎らの魂の故郷であって、カメ太郎らはたぶん生まれるときそこから出てきたんです。この世で修行しなくちゃダメだ、と神さまから言われて。この世はやっぱり修行の場なんだから苦しいことが多いんですね。
やっぱり神さまはいるんだと思います。この頃よくカメ太郎の頭を支配する“神さまはいない。霊界はあるけれど。”といった考えは間違いのような気がしてきました。
自殺は絶対にしてはいけないんですね。この手紙を書いていて“やっぱり人生に勝利するんだ。この世に生まれてきた使命を果たすまで自分の命を粗末にしちゃいけないんだ。”と思うようになってきました。
でも天使さまが現れて、この世での生活を少しでも楽にしたいという気持ちはやはり強くあります。目が大きくてちょっとポッチャリしていて可愛い天使さまが窓辺に現れてきてカメ太郎を勇気づけてくれたらいいのになあとやっぱり思ってしまいます。
(違う紙ですみません。こんなに書くつもりじゃなかったので。)
もし良かったら○○さんの写真を下さいませんか? カメ太郎はその写真を綺麗に机の上に置いてそれを励みに生きてゆこうと思います。なるべく大きく写っている写真がいいなあ、もし良ければ一枚だけでなくって違う写真を何枚か欲しいなあ、と考えています。できれば○○さんの若い頃のがいいなあ、などとも考えています。ネガだけでいいです。ネガを送って下さったら大きく拡大して天使さまの姿として毎日眺めていこう、そうしてこれから明るく生きていこう、などと考えています。
でももう眠くなりましたのでこの辺で。
8月4日 AM00:03
P・S
カメ太郎は何か変なことを書いたでしょうか?
カメ太郎の幻の天使さまへ
〒851-01
長崎市界2丁目31番20号
三船カメ太郎
áп@0958-39-4557
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○○桃子さんへ
もうあなたは結婚されているのかもしれません。またカメ太郎のような男のこととっくの昔に忘れておられるような気がします。でもカメ太郎は今までの長かった青春時代を振り返ってみてあなたほどカメ太郎の思い描くマリア様の像に近い女性はおりません。窓辺に天使さまが現れて打ち沈んでいるカメ太郎を天国へと手を引いて連れていってくれるという幻想も湧いてきます。またその天使さまはカメ太郎を勇気づけてくれてカメ太郎のような病気で苦しんでいる人たちを助けてゆくべきだと励ましてくれるような気もします。生きなくっちゃいけないんだ…今までこのような病気で苦しんできたカメ太郎はそれ故に誰よりも生きなくっちゃいけないんだ…負けちゃいけないんだ。
でもカメ太郎を覆う孤独と憂愁の思いは重く、とても気が弱くなって、ふたたび窓辺を…天使さまが現れて…目が大きくてとても優しくて明るい天使さまが…カメ太郎を幸せな天国へと連れていってくれないかな…とよく考え込んでしまいます。
カメ太郎の病気は小さい頃から極度に筋肉の緊張が強くて、それ故に言語障害や音声衰弱症らしきノドの病気やそして高校3年生からの対人圧迫感というのがあります。人と接するときに表情がとても緊張してしまうのを高3の頃から自覚するようになってそれから対人圧迫感というものが始まりました。また音声衰弱症は中2の頃からです。言語障害は小さい頃からです。
カメ太郎は腹筋がとても固くて、どんなに人が力いっぱい叩いても、また100kgの人が乗ってその上で飛び跳ねても何ともないぐらいです。もしかすると軽い小児マヒかなにかじゃないのかなとも思いますけど。どうやら小さい頃カメ太郎はとても怖い経験をしていてそれが筋肉の異常緊張を招いているようです。先生たちもそう言います。カメ太郎はこのまえまで自分のようなのは研究所に行くしかないと思っていましたが、今まで苦しんできた自分の病気のためもあって精神科へ進もうと考えてきました。(高校の頃は耳鼻科になろうと考えていました)
カメ太郎は高校一年の頃とくにノドの病気で苦しんでいて、高校をやめようかな…そしてブラジルの密林へ行って農地を切り開くかそれともその頃の現国の教科書に載っていた『○○のジプシー』という小舟で何日も一人でタイなどを釣るりょうしになろうかなと考えていた時期がありました(10月ごろでした)。でもその頃、“医者になるんだ。自分と同じ病気で苦しんでいる人たちを救うため耳鼻科の医者になるんだ。”と決意しそれまで落ちこぼれで勉強もほとんどしたことのなかったカメ太郎はそれから別人になったように勉強のみに賭けるようになりました。
でも勉強し過ぎたせいか成績が良くなりすぎて現役のとき九医を受けて落ちてしまいそれから一浪ののちに失意のうちに長医に入ってこれで7年目になります。高一の頃はうしろから数えた方が早かったのですが小学校の頃は算数の天才と言われていたほどなので高二や高三の頃適当に遊んでやっていれば現役で長医に入って落胆することもなくスムーズに卒業できて今頃とっくに医者になっていたのにと考えていたたまれなくなります。また対人圧迫感も高三の2月ごろからなのであと一と月罹るのが遅かったら現役で九医に入っていたのにと思ってとても憂欝になります。
カメ太郎はいま5年生です。あとうまく行けば一年半で医者になれます。そしてカメ太郎はいろんな心身症や神経症に悩んでいる人たちを本当に救ってゆける医者になろうとも考えています。思えばカメ太郎は合コンにも何回か行きましたがあなた以上に理想の女性に近い女性はいませんでした。カメ太郎を救ってくれるのは優しい恋人しかいないことを最近カメ太郎はつくづく考えてしまいます。
カメ太郎は8月27日の6時ごろ新大工の好文堂で立ち読みするつもりです。カメ太郎は立ち読みは趣味でどうせその日県立図書館での勉強の気晴らしにそこで立ち読みするつもりですから来られなくても少しも気になさる必要はありません。また電話でも手紙でも結構です(電話はやっぱり苦手ですけど…)
もし良ければ○○さんの写真を一つ下さい。カメ太郎は机の上に花のようにそれを飾って置いて励みにして勉強するつもりです。
本当にご迷惑ばかりかけてすみません。
〒851-01
長崎市星空9の2
三船カメ太郎
TEL
39-4557
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福岡県筑後市前津2559 |
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○○香春様 |
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香春さんへ
今頃こんな手紙を書くなんてカメ太郎はどうかしているのかもしれません。でもカメ太郎は今夜どうしてでも眠れずふと布団から起き出してあなたに手紙を書くことにしました。
思えばカメ太郎はあなたに手紙を書こうと半年ほども前から思いついていました。でも大分は遠いし。そう思ってカメ太郎は手紙を書くのを渋っていました。
今、外では激しく雨が降っています。ノアの洪水のようになって長崎のカメ太郎と大分の香春さんが大洪水のなかをくるくる流されてカメ太郎たち手をつなげるんじゃないかな、と夢想したりしています。
カメ太郎は以前香春さんにそっくりの女の子と出会ったことがあります。カメ太郎が高校3年生のとき高総体のとき松山の国際体育館でのことでした。カメ太郎はうす暗い観客席に友人と2人でみんなから離れてポツンと座っていると活水のとても綺麗な女の子がカメ太郎の前に現れました。今思うと香春さんにそっくりの女の子でした。
カメ太郎はしかし彼女を無視してバスケットの試合ばかりを見るしかありませんでした。彼女はとても大きな目ととても美しい笑顔でカメ太郎を何分見続けていたことでしょう。でもカメ太郎は喋れなかったのです。カメ太郎は中二の頃ノドを悪くし大きな声が出なくなりました。小さなもぞもぞとした声しか出なくなりました。観客席は喧しくカメ太郎は無視するしかありませんでした。おかしいノドの病気のため幻滅され冷たくされることが目に見えていたからです。
カメ太郎はあまりにも神経質な故に、ノドの病気だけでなく、そのほかの病気にも小さい頃から悩まされてきました。カメ太郎は小さい頃から言語障害です。言葉があまりはっきりとしません。それに吃ります。そして高校3年生の頃からは人がいるところに入ると頭が締めつけられるという神経症にも罹っています。
うす暗い壁を背景にあなたの姿はいまもカメ太郎の瞼の中で揺れています。でもそれももうすでに4年近く前になります。時の経つのがあまりに早くてカメ太郎は悲しくていたたまれなくなります。
カメ太郎の言語障害も何もかもカメ太郎の緊張があまりに強すぎるために起こっています。このごろ精神安定剤を飲んで一時しのぎをしています。でも近いうちにきっと天使さまが現れてカメ太郎を救ってくださるという期待と確信みたいなものがこの頃あります。きっと近いうちに現れてくださる。それは香春さんでないかもしれません。でももう一月もしないうちに現れて下さる…そしてカメ太郎を救ってくださるという幻想じみた確信はカメ太郎の胸にいま静かに横たわっています。
すみません。こんなご迷惑な手紙を書いてしまって。すみませんでした。
〒851-01
長崎市界2丁目31番20号
三船カメ太郎
áп@0958-39-4557
ついこのまえ以前の写真を幾枚か現像しましたのでそれを添えます。
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カメ太郎にはでも高校の頃のあのまっ白い少女の姿が今も陽炎のように焼きついています。白くてちょっとポッチャリしていてとても目の大きかったあの女の子。活水高校の方から活水高校の服を着て歩いてきたあのコ。あの幻想は今でも消えません。カメ太郎に微笑みながら歩いてきたあのコ。
でもカメ太郎には一度口をきけば崩れ去ってゆくであろう彼女のカメ太郎に対する期待の崩壊が怖かった。だからカメ太郎、いつものように俯いて通り過ぎた。高校三年の春の日の熱い太陽が照っていた。松山のあの付近で出会ったカメ太郎らを祝福するように照っていた。
あっ、薬品棚の向こうにブタ子さんの顔が…
まるでお月さまのようについて回っている。
そして薬の瓶の間々からカメ太郎に微笑みかけている。
でも薬なかったよ。
カメ太郎がブタ子さんと同じところに旅立てるような薬なかったよ。
カメ太郎は麻酔薬を捜していたのに
みんな死ぬとき苦しまなければならないものばかりだった。
いいんだ。カメ太郎、もういいんだ。寂しくってもいいんだ。一人ぼっちでもいいんだ。
カメ太郎は一人で霊界へ入ってゆく。紫色の暗い霊界へ。
誰も見送ってくれないけど、カメ太郎、いいんだ。カメ太郎、淋しくっていいんだ。
(一九八七・十一・二十四)
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(笑顔がとても美しかった、カメ太郎があのとき靴を拾ってあげた、カメ太郎好みのちょっとポッチャリした女の子へ)
カメ太郎は25日の留年発表まであと一週間の命です。22日には試験が終わります。今は土曜日の朝です。土、日、月、火とこの4日間の勝負なのですね。そしてあとまる3日間の。
25日、ボク留年してたら死ぬつもりです。
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(カメ太郎の心も凧となって)
カメ太郎は凧になって飛んでゆきたい。冬の空に浮かぶ凧になって、遠く遠く雲仙岳の彼方へと、飛んでゆきたい。
カメ太郎の困った顔をした凧が、正月の風に吹かれて上がっている。大空高く舞い上がっている。
三度目の留年を迎え、孤独のうちに正月を迎えつつあるカメ太郎の心は、凧となって、この大空高く舞い上がってゆきたい。
そしてカメ太郎は凧になって正月の冷たい北風に吹かれながら考えるんだ。『人間は何のために生きるのか?』って。困った顔をして考え続けるんだ。
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カメ太郎は凧でそれが正月の冷たい北風に吹かれながら寒さに堪え忍んで考えている。人間は何のために生きるのか?って。そしてカメ太郎の存在って何なのか?って。
カメ太郎は凧で孤独な凧で3度目の留年をたった一人で迎えた孤独な凧でカメ太郎は寂しげな凧で。
カメ太郎は凧で。北風に吹かれながら困った顔をして考え続ける凧で。
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カメ太郎は迷える凧。カメ太郎は悩める凧。
飛んでゆきたい。この海を渡って。遥か雲仙岳へ登って、そして雲仙岳の森の中に落っこちて、そこで死んでしまいたい。
三度目の留年の試練は厳しくて、カメ太郎は孤独と挫折感にさいなまれつつ正月を送っている。楽しいはずの正月を孤独と憂欝のうちに送っている。
そしてカメ太郎は赤い400ccのバイクに乗って海まで来た。カモメが飛んでいる。白い白いカモメが幾羽も幾羽も飛んでいる。カモメが飛んでいる。まるでカメ太郎の孤独の心のように、淋しい魂のように、飛んでいる。白い白い身体を北風に乗せて飛んでいる。
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(そしてカメ太郎の心も凧になる)
カメ太郎は孤独のうちに冷たい北風の中を突き抜けて赤いバイクに乗って家まで帰ってきたけど、カメ太郎の心はやはり凧になって空を飛んでるみたいだった。カメ太郎の心が、カメ太郎の悩める孤独な心が凧となって空に舞い上がって飛んでいる。
カメ太郎は飛んでいる。孤独のうちに飛んでいる。家に帰ってきて自分の部屋に閉じ篭ったきりでテレビを見ながら心は空を飛んでいる。さっき見てきた灰色い孤独そうな冷たい空を飛んでいる。糸が切れた凧として、困った表情をした凧として。
そしてそのうちカメ太郎の困った表情をした凧を木村さんのような目が大きくて色白で ちょっとポッチャリしていてとても明るい天使さまが白いカモメとなってカメ太郎をくわえてくれないかな、と願っている。そしてカメ太郎の孤独が魔法のように癒されないかなと願っている。
そしてカメ太郎は迷っている。海の上を冷たい北風に吹かれて飛んでいきながら早く天使さまのような白いカモメがカメ太郎を(孤独のうちに舞っているカメ太郎を)くわえて捕まえてくれないかなと孤独のうちにひらひらと舞っている。
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(カメ太郎の理想境)
みんなの心が平和で、みんなが平等で、いろんな障害を持った人も平等に暮らせて、みんなみんな幸せで、競争なんてなくて、貧乏な人なんてなくて、みんなみんな平等な社会が実現するなら、カメ太郎は命を捧げて、すべてを捧げて、その活動に命を賭けるんだけど。
でもみんなが平等でも幸せでなければ何にもならないと思う。平等でなくてもみんなが幸せだったらそれでいいと思う。偽りの平等よりも、少し不平等があって、でもみんなが幸せな方がずっとずっといいと思う。
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留年者と進級者を貼り出した表を前にしてカメ太郎は白いヘルメットの中で失意に打ちひしがれていました。これで3度目の留年でした。対人恐怖症のカメ太郎は診断学の実習試験ですっかりあがってしまい全くできなかったのです。
そしてカメ太郎は柔道場の裏の森へと、柔道場の裏の森へと、歩いて行き始めました。夜の6時ごろでした。カメ太郎のジャンバーの袂には柔道の帯が隠し持たれていました。
カメ太郎はふらふらとその森を登って行き始めました。12月25日の夜のことでした。
カメ太郎は丘を登りつめてそしてどこかに首吊りをするのにいい木がないかな、と辺りを見回しました。でもカメ太郎の目に映ったのは自殺のための木の枝ではなく夜の闇に輝き渡る丘の上から見下ろせる家々の灯りでした。
その家々に灯りがとても綺麗だった。ああ、父や母がカメ太郎の帰りをケーキを買ってきて待っているんだな、と思いました。カメ太郎は昨日クリスマスケーキを食べなかったのでした。
そうして親の愛情が家々の灯りを見ていてとても懐かしくなってカメ太郎は泣けてきていました。そしてカメ太郎は親のために生きよう、と思いました。
カメ太郎は袂の柔道の帯を草叢の中に投げ捨てました。その柔道の帯は今も夜露に濡れて寒くて震えているでしょう。カメ太郎の身代わりとして。あのまっ暗な森の中で。
そしてカメ太郎は今も生きています。○○研究室に亡霊のように座り続けています。
三船カメ太郎
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(失望)
すべては失望となって消え去り、カメ太郎は昨夜どうやって帰ってきたのだろう。カバンは。カメ太郎の大切なカバンは何処にあるのだろう。そしてカメ太郎は変なことを言わなかっただろうか。
最後にダンスパーティーがあったけど、カメ太郎はそこで○○さんと踊ったっけ。カメ太郎は島田さんと踊ったろうか。またそのとき変なことを言わなかっただろうか。
すべてはあぶくとなって消え去り、今は失望だけがカメ太郎を覆っている。昨夜たしかに智恵子のクルマの後ろの座席に乗った。そして気がついたら午前5時の自分の部屋の布団のなかだった。
たしかに誰かと踊った。カメ太郎は燥状態にあったのではなかろうか。たしかに誰かを誘って踊った。
今もまだ頭がぼんやりとしている。飲み過ぎた。そして後悔だけがカメ太郎を覆っている。
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カメ太郎はあなたを見たことがあります。高校三年のとき、高校三年の高総体のとき、うす暗い体育館で。
カメ太郎は君と喋りながらそう言った。
夢のような話、夢のような。もうすぐ9年にもなる話じゃないの。夢のような話。夢のような話だわ。
そして君はカメ太郎の手を振り解いて席に帰った。音楽がガンガンと鳴り渡っていた。酒に酔っているカメ太郎はそしてホールの中央に倒れ込んでしまった。みんなが心配していて駆け寄ってきてくれた。カメ太郎は顔を青白くして倒れつづけていた。全く身動きもせずに。
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君はカメ太郎の瞼の中の女性にそっくりだった。ああ、でも君がもう結婚しているなんて。そしてもう4歳の子供がいるなんて。そしてカメ太郎は今の夫と以前はカメ太郎のバイクのようにバイクのうしろに乗ってツーリングに行ってたと昨日愛宕の町並みを見下ろしながらカメ太郎に言った。
カメ太郎の憂愁はそれから更に強まった。君が結婚していてもう4歳の子供がいると知ったときより更に。
カメ太郎は再び亡霊になり、また“死”を考え始めてきた。でも一ヶ月間楽しかった。君が結婚していると知る時まで。
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もうすぐ春ですね。----カメ太郎はポツリと愛宕の町並みを見下ろしながら隣りの○○さんに言った。
----ええ、今は寒いですけど。
----○○さんはチラッと大きな瞳をカメ太郎に向けて覗き込むようにそう答えた。
カメ太郎の心はあまりにも小さい器で、すぐ溢れてしまうんだ。すぐ水浸しになってしまうんだ。
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(涙で曇った青い空)
あのときのあのコは何処に居るのだろう。この青い青い空の下の何処かに居るにちがいないけど、いったい何処にいるのだろう。
もうすぐ9年も前になるあのコ。目がとてもパッチリとしていて大きくて、ちょっとポッチャリしていたあのコ。
高三の高総体のときカメ太郎に微笑みかけてきてくれたあのコ。何分間も、何分間も。
ああ、あのコは何処に居るのだろう。きっとこの青い空の何処かに居るにちがいないけれど。
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君の居る処は涙でかき曇って見えない。きっとこの星空のどこかに居るのだろうけれど。カメ太郎の目には涙で書き曇って見えない。
この手の指の数だけ、十人の人を救えるだけでいい。この手の指の数だけ人を救えるだけでいい。もう超能力者になろうなんて考えないようにしよう。信仰も共産主義も棄てよう。十人の人を救えればいい。この手の指の数だけ人を救えればいい。
(カメ太郎は駆ける)
カメ太郎は西に困っている人がいれば西へ駆けつけ、東に困っている人がいればトンボ返りにオートバイで駆けつける。いじめやいろんなことで悩んで苦しんでいる人たちを助けるために。
カメ太郎は自分の身を犠牲にして苦しんでいる人たちのために働く。いじめられっ子には柔道を教え、吃りの人にはトランキライザーを勧める。幻聴で悩んでいる人には幻聴を気にすんなと言い、カメ太郎のような対人恐怖症や言語障害などで苦しむよりかマシじゃないかと励ます。
カメ太郎は北に悩んでいる人がいればクルマで駆けつけ、暴れ回る亭主に酒をやめろ、それとも人生観を改めろと言い、自分のことばかり考えるな、と言う。
そしてカメ太郎は南に困っている人がいれば、自殺したら地獄へ行くんだぞ。天国へなんか自殺したら永遠に行けないんだぞ。自殺したらずっと地獄で苦しむことになり、そして子孫や兄弟に憑渭して子孫や兄弟をどん底の苦しみに陥れることになるんだ。自分が地獄の苦しみから救われたがって必死に自分