空(2)

 

 

 

 

 

 ブタ子さんへ

 カメ太郎は4月からこの福岡の予備校に来てこれで2週間ほどになりますけど…灰色の予備校の寮から眺められる福岡の重苦しい空…灰色の空…カメ太郎は茫漠とした不安にとらわれてしまいます。

 長崎に帰りたいな…とよくカメ太郎はこの頃一人ごとを呟くようになって同室の者からちょっと変に思われているようです。それでますます長崎に帰りたくなって。

 カメ太郎の寮は博多の天神のすぐ近くにあります。だから夜になると酔った人の声などがして喧しいのです。

 なんだかカメ太郎はここにいると白痴になってしまいそうで…博多の町はカメ太郎を白痴にしてしまいそうで怖いです。

 長崎から遠く離れて、たった一人で。カメ太郎は寂しいです。

 カメ太郎は高校3年のとき本当に幸せでした。毎日あなたと同じスクールバスに乗れてたから。それにいつもちょうどあなたはカメ太郎が座っているすぐ近くに立っていたから。そしてあなたの姿や話し声がカメ太郎をとても幸せな気持ちにさせてました。

 高校3年の頃は本当に幸せでした。でもカメ太郎は挫折し、今福岡の予備校の寮にいます。そして窓から長崎の空の方を見遣ってあなた恋しさに涙を流そうとしています。

 福岡の空は灰色の空です。長崎の空は、東高から眺めた空は、青かったでしょ。トンビが飛んでいて。でも福岡の空は、灰色です。そして死に絶えています。

 カメ太郎らが育った日見の空も青かったでしょ。なのに福岡の空は、灰色です。死に絶えています。

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎は午後よく福岡の町を旅した。黄緑色のロードマンに乗って西区や南区へと行った。

 舞鶴から大名、今泉、薬院、警国を下ると南公園に出ていた。その坂道もいい練習場になっていた。春の草葉の香りを匂ぎながら、カメ太郎は苦しさに耐えながら必死にその坂道を登っていっていた。

 いつもカメ太郎が南公園に行くときは朝や夜に雨が降ったときに行っていたと思う。だから木々の葉はいつも輝いていたし、空気も綺麗だった。

 ----近くに双葉学園という女子高があった。みんなとても綺麗に見えた。カメ太郎は練習の合間、よく双葉高校の前で女子高校生たちを見ていた。

 

 

 

 

 

 福岡の太陽。広い道。オリンピックでメダルを貰うカメ太郎の幻想。そしてプロでスターになるカメ太郎。

 四月の福岡でカメ太郎は駆けた。クルマのたくさん通る道もクルマと競争しながら懸命に駆けた。

 

 

 

 

                           (浪人 4月)

 福岡に居ると、もう波の音も聞こえてきません。今、カメ太郎は○○の埠頭にいますが、博多港は波一つなくって、そして長崎は遠く150kmも南西の方角にあるのだから、カメ太郎は淋しくって、黄緑色のボクのロードマンにもたれかかって、泣き出してしまいそうな気さえしてきます。

 沖には日見の海も(カメ太郎らのペロポネソスの浜辺も)そうだったように、白いカモメが飛んでいます。本当に元気に、海面に降り立ったりまた飛んでいったりしています。

 ハイセイコーもカメ太郎の祖母を噛んで保健所送りになったし、星子さんは死んでしまったし、カメ太郎は今本当に一人ぼっちのような気がします。新しい恋人を早く見つけなければならないのだけど、カメ太郎はノドの病気だから、声をかけたくってもかけきれなくていつも口惜しい思いをしています。

 でも近いうちにきっとカメ太郎にも新しい恋人ができて、そしてカメ太郎も幸せになれるような気がします。きっと近いうちに。近いうちにきっと。

 

 

 

 

 

 

 

                          (福岡にて)

 

 君はここにも居るのかい? 長崎から遠く離れたここにまで。カメ太郎を追ってやって来ているのかい? こんな遠くまでも、君はやって来てくれているのかい?

 

『カメ太郎さん、助けて。』『カメ太郎さん、助けて。』

----君は自ら死んでいった。自ら死んでいった君を助ける力はカメ太郎にはない。自ら死んでいった君を助ける力はカメ太郎にはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎は博多港の朝の道を題目を唱えながら歩いていた。博多の人たちみんなの幸せを願いながら朝5時半の博多の町を博多駅から長浜の寮へ向かって歩いていた。なぜか週に一回、長崎の実家に帰っていた。用務員のおばさんは『長崎に恋人がおっと?』とカメ太郎に言った。カメ太郎は何故だか本当に週に一回長崎に帰っていて(電車賃がもったいないのに)毎週月曜の朝、5時半ごろ博多駅に着いていた。そしていつも歩いて長浜の寮へと帰っていた。

 夜、11時45分発だったと思う。いつもその真夜中にカメ太郎は日曜の夜、長崎駅から汽車に乗っていた。夜遅い長崎駅の人けのほとんどない待合い室でカメ太郎はいつも3時間ぐらい勉強していた。ときどき心のなかで題目を唱えていたし、それにそうでなければ高校3年の9月半ば頃からの心のなかで燃えたぎる口惜しい思いを打ち消せなかった。

 汽車は今はたしか廃��ノなった『長崎号』という有名な汽車だった。天井や壁は木でできていたと思う。半分寝て、半分勉強していたと思う。汽車のなかはとてもすいていて、床に新聞紙を敷いて寝たこともあったほどだった。

 でもだいたいクッションのもうあまり効かなくなった2人掛けの長椅子に足先を向かい側の長椅子に乗せて寝ていた。ゴトンッ、ゴトンッというレールの音が

 

 

 

 

 

 

 

                        (決別の日曜日)

 

 その日カメ太郎は朝から落ちつかなかった。日曜日でまた寝ている同室の2人を起こさないようにとソッとベッドを抜け出し着替えたりしてカメ太郎は家を出た。その日カメ太郎はなぜだか朝から落ちつけなかった。

 カメ太郎は長崎を離れ福岡の予備校に来ていた。5月の8日だった。星子さんの三回忌の招待状が来たのだがカメ太郎は誰にも会いたくないから帰らないでいた。敗れ去ったピエロの顔を星子さんの両親や知り合いの人たちに晒したくなかった。

 白い招待状のハガキはそうしてカメ太郎の茶色の机の引き出しにしまわれたのでした。なんだか星子さんとの決別のような気もしていました。

 カメ太郎は天神の繁華街へと歩き始めていた。周囲は欲情に溢れた女子高校生や中学生がたくさんいた。でもその中にふと星子さんが車椅子に乗ってカメ太郎に微笑みかけている幻視を感じるのにハッとすることがあった。

 星子さん、カメ太郎に忘れられたくないんだな。星子さん、まだカメ太郎から思われ続けていなくちゃ気が済まないんだな。星子さん、甘えん坊で悪霊じみたようだな。

(星子さん今ごろ何してるんだろう)

 カメ太郎には星子さんが霊界で暢気そうに今も車椅子に乗ってゆっくりといろんな所をさまよっているようにも思える。たとえばこんな町なかを車椅子に乗った亡霊としてさまよっているように思えてならない。

 カメ太郎の名を呼びながら、まるで駄々っ子のようにカメ太郎の名を呼び続けながら町なかをさまよっているんじゃないだろうか。たとえば福岡のように見も知らぬ所を。延々と、休むことも許されずに。

(星子さん何してんだろう。きっと、今、あっ、やっぱり星子さんだ。)

 カメ太郎はそういう疑問と星子さんがここに居るはずがないという驚きを抱いたままフラフラと歩きつづけた。今日は日曜日でいつもより人通りが激しい。

 でもカメ太郎の横にいるのはやはり星子さんでした。死んだはずの星子さんがやはり亡霊として今日現れ出てきているようでした。星子さんの姿ボンヤリとしてまるで霧のなかの少女のようでした。

 カメ太郎はいつものようにまず始めダイエーへと行きました。大きな横断歩道を渡るとき星子さん、大股で急いで渡るカメ太郎に置いてきぼりにされそうと必死で両手で車椅子を漕いでいました。星子さん必死でカメ太郎その表情に笑いました。星子さんに気づかれないように前を向いたまま。

(カメ太郎、心の片隅には、もう星子さんとさよならしたい、もう星子さんの束縛から脱皮したいという気持ちでいっぱいなんだよ。)

 カメ太郎はそういう気持ちを押し殺したまま依然愛想よく星子さんに笑いかけ一緒に歩いていました。なんだか福岡に来てカメ太郎たちは始めて二人っきりになれたようでした。

 

 カメ太郎はなおもフラフラと歩き続けました。そしてカメ太郎はよく来る天神コアの屋上へと出ました。

 

 傍にじっと佇んでいる星子さんの実在感がいつも感傷的になるこの眺望をなお一層不思議なものにしていました。広告の気球が真向かいの岩田屋の屋上から一本、二本上がっています。

 午前十一時でいま法要のまっ最中であるはずなのにカメ太郎の傍にいる星子さんの実在感が星子さんの親たちに悪いような済まないような気がしていてそしてカメ太郎と星子さんがやっぱり恋人同士なんだ、恋人同士ってのはこんなふうに何もかも投げ出して一緒にいるものなんだ、というふうな感傷的な雰囲気にカメ太郎を浸らせていました。

 そしてカメ太郎は朝からまだ誰とも喋っていないことに気づいてふと星子さんに何か喋りたい気分になりました。カメ太郎の喉が鳥のようにわなないたようでした。

 幻の星子さんはそれを見てふっとカメ太郎を見つめ直し、さっきまで前方の眺望を眺めやっていた大きな大きな瞳をカメ太郎に向け直しました。

 でもカメ太郎が語らないのと同じように星子さんも何も喋ろうとはしません。カメ太郎らはなぜだか依然として無言のまま傍に寄り添いあっているだけです。

(カメ太郎さん、私、何もカメ太郎さんを束縛したくないの。カメ太郎さん、早く可愛い恋人を見つけて幸せな青春時代を送ってもらいたいの。でもカメ太郎さん、私が久しぶりに現界に帰ってきたらまだ恋人もつくってなくてそれに男の友だちもあまりいなくて一人ぼっちで淋しそうにしているから傍に来たのよ。カメ太郎さん、誤解しないでね。)

 カメ太郎は星子さんが語るその声が微かに聞こえたようでした。でもハッと振り向くと星子さんは依然表情一つ変えず前を見つめたきりです。心なしか寂しそうな表情でその美しさとともにカメ太郎は一瞬抱きしめたくなりました。

 するとそのときカメ太郎の頭を巨大な膜が包み込みキリキリと締めつけ、社会と断絶させるとする3ヶ月ほど前から覚えていた感覚を、カメ太郎は再び覚えました。歩き終えて佇んでいたからでしょう。いつも歩いているときは感じないこの感覚は机に向かったりなど静かにしているとき襲ってくるのです。

 星子さんがカメ太郎の手の届かない遠い所に去ってしまうような気もしました。それは赤紫色の膜でとても強靭な膜です。新しい呪いの発現じゃないかと自分でもうすうす感づいていました。

 膜の向こうにうっすらと星子さんが見えます。

 

 カメ太郎は星子さんに何か喋りかけなければいけないと思った。カメ太郎は数回口もとをわななかせたあと喋り始めた。

『星子さん、ここがよくカメ太郎が夕方来る所なんだ。午前中はいつも血みどろの自転車の鍛錬…そして午後からは図書館でぶっ続けの3時間の勉強。そのあとの空白の時をカメ太郎はよくここへ来て過ごすんだ。周りにはツッパリの女子中学生や女子高校生がたくさんいるだろう。カメ太郎は彼女たちを好きで彼女たちと友だちになりたいと思っている。彼女たちは長崎にいるブタ子さんなどを忘れさせてくれるし。』

 でも言いかけてふと振り向くと星子さんは悲しげだった。カメ太郎は余計なことを言ってしまったという後悔の念と自己嫌悪の念でいっぱいになった。星子さん、あれから二年経つんだね。星子さんが死んでから今日でまる2年だね。その間、カメ太郎にもいろいろなことがあったよ。だから許してくれよ。カメ太郎もカメ太郎なりに星子さんを忘れようと一生懸命だったのかもしれないし。

 カメ太郎の弁解がましい言葉は不思議にもますます星子さんの表情を悲しげにした。星子さん泣き出す寸前のようだった。

 

『私たちなぜ小さい頃から障害をもって苦しまなくっちゃならなかったのかカメ太郎さん知ってる?』

----突然星子さんがそう言った。カメ太郎らの間にできた気づまりな雰囲気を消すために星子さんはそう言ったらしかった。でもなんとなく星子さんの表情険しかった。

『私たち、魂を清めるために障害を持つことになったのよ。私たちの魂ちょっと良くなくて、障害でも持って苦しまなくっちゃ魂を清められないと神様が判断なされたの。だから私たち障害持っているからっていじけたりひねくれたりまして自殺するってことしてはいけないの。私、死んでからやっと解ったわ。でももう遅かったのね。私、それで神様から信用なくしちゃった。私、魂が汚れたままで、暗い暗い天界をさ迷いつづけているの。自殺したから神様から見離されたから。

 私、だから天国へ帰れないの。そこは何にも苦しいことなんてなくて楽しいこと・おもしろいこと・楽なことばかりで、そして少しも苦労なんてしなくっていいのです。そこは私たちの魂の故郷であって、私たちそこから生まれるとき出てきたんです。この世で修行しなくちゃダメだ、と神さまから言われて。だからこの世は修行の場なんだから苦しいことが多いんですね。

 でも星子は自ら命を絶って、苦しさに負けてしまって、修行を放棄してしまったの。神さま星子を見捨てなさったわ。星子、少なくとも千年は暗い暗い霊界をさ迷い続けなくっちゃならないわ。冷たい冷たいとても淋しい霊界を。暖かい暖かい天国に星子、少なくとも千年は戻れないのね。千年もよ。』

 星子さんの声は最後は激した様子に変わっていた。カメ太郎はうなだれて聞いていた。死ねないのか、という落胆と諦めがカメ太郎を覆い始めていた。

 この屋上から飛び降りて死のうという、最近考えてそのことを考えると思わず微笑みが浮かんでいたものだが、それができないと知ってカメ太郎の心は夜の闇のように暗たんとなった。

『私たちの魂の故郷は、湖みたいなところなの。とても綺麗なところで周りを林に囲まれていて、緑や赤や黄色で満たされていて輝いているの。みんな綺麗。宮殿があっていつもそこでパーテイ が開かれているの。綺麗な音楽が流れていてそれヴァイオリンみたいな音楽だわ。宮殿じゅう香水が撒かれているみたいでそれ花の匂いなのかな。宮殿のまわりに咲いている無数の花の匂いなのね。みんな微笑んでいるわ。暗い顔した人ひとりもいない。ワインなのかな、紫色の液体を男の人が飲んでいるのが見えるわ。小さな女の子がライオンに寄り添ってうたた寝してるし、湖に船を浮かべてキスをしているカップルもいるわ。空を飛んでる人もたくさんいる。白鳥がいてとても大きなランの花が湖畔に咲いている。』

 そう言って星子さんは涙ぐんでいた。そして手を顔に押しあてて必死に嗚咽の漏れるのを防いだ。カメ太郎は傍に寄っていって肩でも抱いてやろうと思うのだが体が動かない。神さまがカメ太郎のうしろにいてカメ太郎の両肩をものすごく強い力で押さえていてカメ太郎は身動きができないのだろう。そして神さまが呟いた。『ほうっておきなさい。ほうっておきなさい。

 カメ太郎はなぜ神さまがそう言われるのか解らなかった。手を伸ばせばすぐ届くところにいる星子さんなのだが、やはり煙っていて今にも消え入りそうだった。ああこうやって星子さんは常にカメ太郎の周りに居るんだな。今日の出現ももしかしたら実行するかもしれないこの屋上からの飛び降り自殺を、命日にかこつけて、特別にカメ太郎の前に現れてきてくれたんだな。きっとまたすべてを犠牲にして現れてきてくれたんだな。

 星子さんは今にも消え入りそうだった。

 

      (カメ太郎さんには新しい未来が待っています)

 カメ太郎さん。カメ太郎さんには明るい未来が待っているのよ。カメ太郎さん。カメ太郎さんはもう過去の思い出にとらわれているようではダメよ。とくに星子のことなんか、つまんない星子のことなんか忘れて、新しい未来へと羽ばたいてください。カメ太郎さん、とっても立派なお医者さんになって、たくさんの悩んでいる人たちを救っていくの。

 だから屋上から飛び降りるなんてバカなこと考えてはダメよ。カメ太郎さんは今まで自分が苦しんできたことを生かすチャンスがあるのじゃないですか。こんなこと、自殺しちゃった星子が言う資格はないことだと思いますが)私、どうしてでもカメ太郎さんに生きていて貰たいから、だから私、今日三回忌もすっぽかしてパパやママにも会いたかったけどカメ太郎さんの所に来たのですよ。死んじゃだめよ。死んだら何もかも終わりなのよ。霊界にあこがれることなんてダメ。この世の中で懸命に生きてゆかなくっちゃ。

 カメ太郎さん、頑張ってね。星子の分まで頑張ってね。

 

 

 ふと消えていった星子さん。手を延ばせば届くところにいた星子さん。星子さん。カメ太郎生きるよ。懸命に勉強して阪大の医学部に入るよ。カメ太郎はカメ太郎を苦しめてきた不思議な病気の本体を解明して世の中にもたくさんいるであろうカメ太郎と同じような病気で苦しんでいる人たちを救うんだ。

 カメ太郎はそっと立ち上がった。ゲーム機の金属音やベルの音が響き渡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ブタ子さんへ

 カメ太郎は今、福岡の寮にいます。九医に落っこちてカメ太郎はこの5月、やっと立ち直りかけてきた感じがします。5月の青い空を見ていると、カメ太郎も頑張らなければならないな、という気になってきます。

 カメ太郎は予備校の授業にはほとんど出ず、毎日、午前中は自転車の練習、そして午後は図書館で勉強しています。図書館には夜になるといつもブタ子さんにとてもよく似た女の人が来て勉強しています。よく考えてみるとその女の人は昼間会社で働いて夜、予備校の授業を受けに来ているんだなあ、と思います。

 カメ太郎はこの手紙をもうすぐ図書室が閉まる10時半に書いています。そのブタ子さんによく似た女の人はまだ勉強しています。2時間近くもう勉強しています。

 もうすぐ今日も終わることを思うと、カメ太郎はなんだか悲しいというか、焦りみたいなものに支配されてきます。

 その女の人に声をかけてみたいな、という気もしてきます。

 また、カメ太郎が今不意にあなたに手紙を書き始めたのは、去年の高総体のときのことを思い出し、そしてやっとあのときのあの女のコがあなただったんだな、ということに気付いたからです。(でももしちがっていたらとても恥ずかしいことですけど)

 高総体の一日目のことだったと思います。松山の国際体育館でとても目の大きいとても美しい女のコがカメ太郎を見つめて微笑んでいました。薄暗い人影少ない観客席での出来事でした。

 カメ太郎はそれが誰だかあのとき解りませんでした。でも今日、お昼頃、やっと解りました。あれはあなただったんだなあとやっと今頃気づいたカメ太郎です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブタ子さんへ

 ここは辛い辛い予備校の寮です。11時半になると消灯になり、それからは余り勉強できません。それでカメ太郎は毎晩11時まで(11時に寮というか予備校の図書室が閉まるからその図書室で勉強しています。午前中はずっと自転車の鍛錬ですし、それに一日三時間ほど地下の用務員室で創価学会のお勤めをしていますから時間がないので図書室ではとても気合いを入れて勉強しています。でも長崎に帰りたいなあ、という気持ちは強いです。福岡でのカメ太郎は孤独です。福岡の一番繁華街の天神のすぐ傍ですけど、聞こえてくる夜のざわめきもカメ太郎を孤独へ孤独へと陥らせるばかりです。

 長崎の静かなカメ太郎らの育った日見で勉強したいなあ、という気持ちが強く湧いて来ている今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

 

 幻の光がカメ太郎を優しく包み込んでいた。カメ太郎は窓から桃子さんの家の光を眺めながら幸せな気持ちになっていた。辛い一日がまた終わろうとしているけど、カメ太郎には耐えられる。カメ太郎には信仰がある。カメ太郎は辛さに耐えられる。

 

 

 

 

 

 

                           浪人 七月

 

 君が辛かったとき、カメ太郎は春の太陽に包まれて、たぶん高校三年間のうちで一番楽な日々を送っていた。教室は静かだったし、一文読みの現国の先生からも教わらなくなったし、カメ太郎はあの頃高校三年間の中で一番楽しい日々を送っていたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 桃子さんへ

 もう夏になりかけているこの頃です。桃子さんはどうお過ごしですか? 暑がりやのカメ太郎にはとても厭な季節が始まろうとしています。

 カメ太郎は勉強をしなければいけないという焦りと、家ではどうしても勉強する気が起こらなくて(図書館ではかなりやってますけど)、カメ太郎の心のなかは、自転車競技に賭けたいという思いと、いろんないろんな複雑な思いでいっぱいです。

 カメ太郎の成績は伸びず、かえって下降線を辿っているような気がします。

 そして孤独感と…  桃子さんがやはり福岡へ引っ越していた寂しさと。

 寂しいです。長崎でカメ太郎は一人寂しいです。一日、誰とも口を聞かないときもあります。創価学会だけがカメ太郎の心の支えになっています。寂しいとき、とても寂しいとき、カメ太郎は創価学会の拠点に行きます。そこには同じ信仰に命を賭けた同志が何人もいます。みんな人のいい人ばかりです。

 不幸な人を救うという希望にみんな燃えています。多少、倦怠感みたいなものも確かにあります。以前の燃えるような情熱を持っている人は少ないかもしれません。でもみんな同志です。この信仰のために命を捨てる覚悟のついているみんなです。

 カメ太郎も命を捨てる覚悟を決めている青年です。弘法のために命は惜しくありません。拠点に集まるみんなはみんなそうです。カメ太郎の孤独はそして消えてしまいます。温かい同志愛にカメ太郎は孤独なんて消えてしまいます。

 …でもやはり寂しいです。性欲の満たされない寂しさだと思います。満たされない性欲が、カメ太郎を寂しく孤独にしているのだと思います。カメ太郎も女の子と楽しく喋りたい。せめて女友達でもいいから欲しい。恋人でなくても。

 女の子と、カメ太郎と同じ歳ぐらいの女の子と喋りたい。友達でいいから。単なる友達でいいから。

 

 桃子さんが福岡に引っ越していて、カメ太郎が窓から夜遅くなんかに見ていた橙色したカーテンの光は別の人のものだったと知って、カメ太郎は少し愕然としています。あの光は桃子さんのものではなかったことにカメ太郎はショックを受けています。カメ太郎の心の支えになっていたあの光。橙色のあの光。桃子さんの白い丸い頬のようだったあの光。勉強に疲れ、また涙を流しながら題目を唱えた深夜に見ていたあの光。

 

 あの光は幻の、まったく他人の人の家の光だった。幻の光だった。

 蛍の光でも、なにの光でもなかった。でもカメ太郎は幸せだった。幻の光を桃子さんの住む家の光だと勘違いしていて。カメ太郎は幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

 日見にカメ太郎一人…長崎にカメ太郎一人…残して桃子さんは福岡の南区の大池に旅立っていった。カメ太郎は毎日喋る相手もほとんど居らず孤独感に打ちひしがれています。

 博多の予備校に戻ろうかな?という気もしています。そうして毎日でなくても週に一ぺんでも桃子さんに会えたらどんなにいいだろう、と考えたりしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブタ子さんへ

 牛乳配達の音が聞こえてきます。カメ太郎は一ヶ月半ほど前、福岡の予備校をやめて長崎に帰ってきました。そして毎日県立図書館や市民会館などへ行って勉強しています。この前は諌早の図書館へも行きました。

 今、朝の6時です。ブタ子さんはもう起きているのかなあ。でもテニスで疲れてきっと7時近くまで毎日寝ているのだと想像しています。

 博多の町は死んでいました。でも長崎に帰ってくると、たしかに長崎は生きています。青い空や生きてる海(とくにカメ太郎らの日見なんかは)。

 でも長崎に帰って来たら途端に誰とも話すことがなくなって(長崎は自然がいっぱいで生き生きしてますけど)却って孤独になったような気がしないでもありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 桃子さんへ

 カメ太郎は福岡駅から長崎行きの真夜中の夜行列車に乗りました。夜12時35分発の長崎に明日の朝着く普通列車でした。一つの駅に20分や30分も停車するゆっくりとした列車です。長崎に朝6時頃着きます。それから長崎駅前バスターミナルからバスに乗って家へと向かいます。カメ太郎らのあの日見へと。海や山に囲まれたカメ太郎らの日見へと。

 

 博多のその真夜中の駅は人影少なく、そこで汽車が来るまで英語の単語や熟語を憶えたり、数学の勉強をしたりしています。カメ太郎には高三の9月から燃え上がるような口惜しさがあると手紙に書いたことがあるでしょう。その口惜しさがカメ太郎を懸命に勉強に向かわせているのです。

 ノドの病気にならなかったら輝いていたと思われるカメ太郎の中学・高校時代。中二からのノドの病気がなかったらカメ太郎は桃子さんかブタ子さんかまたはほかの女の子とつき合えていたのにと思えて。

 その口惜しさがカメ太郎を勉強へ勉強へと向かわせているのです。腹綿が煮えくり返ってきそうな口惜しさが高三の9月からカメ太郎にあって、それがカメ太郎を勉強へ勉強へと向かわせているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 桃子さんへ

 今日はとても眩しい朝です。カメ太郎は2日前、やっぱり予備校に戻ろうと思って福岡に帰ってきました。別府橋のおんぼろな間借りに住み始めました。月一万円です。

 カメ太郎は今日ぐらい桃子さんのいる大池まで自転車に乗って行ってみようかな、と思っています。でも桃子さんは補習かクラブでやっぱり家にはいないだろうなあと思っています。でも桃子さんの家だけでも確かめに行こうかな、と考えていました。

 今日も8月の暑い日になりそうです。とても暑がり屋のカメ太郎にとってはちょっと厭な日になりそうです。

 でもここから南区の大池までどれくらいかかるかなあと思います。そしてカメ太郎は桃子さんが学校から帰ってくるのを待ち伏せているんだ。ただ桃子さんの姿を久しぶりに(3年半ぐらいになるかなあ)見るだけでカメ太郎はもう満足だから。

 

 

 イチョウの木の下で見たあなたの青白い翡翠のような美しい姿はカメ太郎の、中三の頃のカメ太郎の、幻だったんでしょうか。

 少しポッチャリとしたとても目の大きい砂場の横に立っていた体操服姿の輝くあなたの姿は幻だったんでしょうか。

 それとも、それはカメ太郎の目を幻惑させるために現れてきた精霊のいたづらだったのでしょうか。

 でもあなただった。たしかにあなただった。そして廊下ですれ違うときいつも大きな瞳でカメ太郎を見つめていたあなたの視線も。

 まるであなたはイチョウの木の下に咲いた青白い一輪のバラの花のようだった。9月に咲いた青白い大きなバラの花のようだった。少しピンク色を帯びた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

  カメ太郎はこの予備校に居るとき、ある夕方、幻のような電話を受けたことがある。そのときカメ太郎は夕方の勤行を地下の用務員さんのところでしたあと、地下から1階へと上がろうとしている階段でそれを聞いた。

『五〇七号室の三船カメ太郎君。五〇七号室の三船カメ太郎君。電話です。至急、事務室へ来て下さい。』

 ……幻聴ではなかった。大学へ落ちた失意のカメ太郎に、福岡の予備校に通っていたカメ太郎に、長崎にいるはずの京子さんから電話がかかってきた。

『いま福岡に来ているのよ。あなたの寮のすぐ近くに来ているの。出られる? 出られないのでしょ?』

 でもカメ太郎は今日ぐらい叔母から電話がかかってくる予定だったので『みっちゃん(叔母のこと)、みっちゃんね。』と言った。

 君は驚いてまた悔しそうに言った。『えっ、なんですっト。』馬鹿なカメ太郎はまた言った。『みっちゃん、みっちゃんやろ。』君は叫び声をあげて電話を切った。

 初めて聞いたあなたの声が、あなたの甘えるような色っぽい声が、今もカメ太郎の耳朶にこだましている。 

 

 

 

 

 

  あなたは叫び声をあげて電話を切った。それはカメ太郎の青春時代の、いや人生の終焉だったのかもしれない。

 カメ太郎は家の人にカメ太郎が予備校に行ったあとカメ太郎の行方を尋ねに電話してきた女の子がいなかったかと何度も聞こうと迷った。また、カメ太郎に女の人から電話がかかってきたと聞いたような気もする。でもカメ太郎はそのことを家の人に深く尋ねたりしなかった。

 

 カメ太郎は浪人の11月頃、お祈りを一時間ほどしたあと急に元気が涌いてきて京子さんの家に電話したことがある。

『はい、○○です。』

 女の子の声だった。京子さんの妹だった。

『あ、あ、あの、高校二年生の女の人呼んでもらいたいんですけど。』

『はい、ちょっとお待ち下さい。』

 そして受話器からいろんな声が聞こえてきた。妹と○○さんのおとうさんの声だ。

『高校二年生の人ってよ。男の人からよ。』

『男女交際は禁止されとるんだろう。』

 ○○さんのおとうさんの声だった。

『そうよ、そうよ。男女交際は禁止されてるのよね。』妹が相槌を打っていた。

 

 妹のその声とあのとき福岡の予備校の寮で聞いた女の人の声がよく似ていた。カメ太郎はやっぱりあれは京子さんだったんだと思った。

 

 やがて京子さんが電話に出た。

 

 

 

 

 

 空想はカメ太郎の過去を美しく彩り、それに沈潜しているはかない喜びは、はかないはかない幸せをカメ太郎に与えつづけていました。はかないはかない空想だと自分でも気付いていたのかもしれません。でもそれが単なる空想だと思うことはカメ太郎の過去――美しく彩られた過去を――カメ太郎は幻でもよかった。幻でもいい。信じていたかった。カメ太郎に寄せられるあなたたちの切ない真心を少年の日の美しい思い出として胸に秘めつづけておきたかった。 過去とはそして幻とはいったい何なのでしょう。同じなのではないでしょうか。過去も幻も同じだということを、カメ太郎は信じていたのです。カメ太郎の美しい少女たちの真心に彩られた美しい過去。そしてそのことごとくを踏みにじってきたカメ太郎の罪。美しい思い出でした。 

 

 

 

 

 

 

                          浪人 十一月

 

 “ハイセイコー”とは母が付けたのだと思う。その頃、流行っていた人気歌手の野口五郎の名をとって、たしか母が“ハイセイコー”と名付けたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 桐山部長さんへ

 

 カメ太郎は大学に入ってから半年間、いや、大学入試が終わった時点から、一生懸命活動に信心に励んできました。毎日一人との仏法対話を6月の終わりまでずっとし続けました。7月からも2、3日に一人ぐらいの割合で仏法対話をし続けました。

 結果として2人を入信決意させましたが2人とも途中で脱落してしまいました。勤行しても何も感じないと言うのです。カメ太郎の祈りが足りなかったのだと桐山さんは言われますけどカメ太郎もカメ太郎なりに一生懸命やってきたつもりです。

『人間革命』に書いてあってカメ太郎が描いてきた広布への理想像は4月5月と経つうちに次々と崩れていっていました。6月7月8月9月とその思いはますます強くなっていました。カメ太郎は長崎の学会を立派なものにしようと(福岡の学会はなかなか盛んでカメ太郎が行く必要がないようでしたから)浪人してまで目指していた九医をやめて長医を受けたほどです。カメ太郎が描いていた長崎広布への理想像は次々と崩れ出し、どんなに頑張っても一人さえ救えない自分が情けなく、このままじゃいけないんだと焦るだけでどうしようもありませんでした。

 みんな、宗教を否定していました。宗教なんて迷信なんだと言って話を聞いてくれませんでした。

 カメ太郎はそれで本を書こうと、誰一人として救えない学会活動に励むよりも本を書いて宗教が迷信でないことを世の中の人に解ってもらおうと思い図書館でそのために本を読み始めました。でもカメ太郎は九大名誉教授の○○さんの書いた『催眠』というものを読んで“信心で病気が治るのは催眠なんだ”と思うようになりました。カメ太郎はこれまでも“この宗教だけで病気が治ったりしているのだろうか?他の信心でも病気が治ったりしているのではないのだろうか?”と思ってキリスト教の会合に行きその会合の元気のなさにやっぱり創価学会は正しいんだと思ったりしてきました。でもその『催眠』の本はこの信心に疑いを持ち始めてきたカメ太郎にとって決定的なものになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 京子さんは休み時間毎にカメ太郎を見に来ていた。カメ太郎のクラスの廊下に京子さんはいつも来ていた。とても可愛い女のコの姿が、いつもカメ太郎のクラスの横の廊下にあった。彼女は教室の入口のところに立って、カメ太郎に微笑みを投げていた。いや、ずっと、ずっと、カメ太郎に微笑みを投げ続けていた。十分間も、いや、ときには昼休みじゅう、京子さんはカメ太郎のために、カメ太郎とお友達になろうと、そうしてくれた。

 でもカメ太郎は避けていた。徹底的に避けていた。カメ太郎は声帯がおかしかった。大きな声が出なかった。力を入れても、小さな声しか出なかった。だからカメ太郎は騒がしいところでは喋れなかった。男とは騒がしいところでも恥ずかしがらずに喋っていたが、女性とは、カメ太郎は恥ずかしくて、騒がしいところでは喋るのを避けていた。

 やがて京子さんはあきらめたのか来なくなった。カメ太郎の徹底した無視にあきらめたのだ。

 

 京子さんはこういうこともした。カメ太郎がどうしても彼女に声をかけてくれないので彼女はこっちから積極的に話かけていかなければだめなのだろうと思ったのだろう。彼女は三島さんという友達と、カメ太郎の席の横の窓(カメ太郎はそのとき廊下のすぐ横の席に変わっていた。星子さんが休み時間ごとに来ていたのは、カメ太郎の席が運動場側の席----つまり廊下側の反対側の席----であったときだった)を指でコツンコツンと----女のコらしい可愛い音がした----叩いた。カメ太郎とお友達になりたくてたまらなかったのだろう。彼女は明るい、積極的な性格の女のコだったようだ。

 カメ太郎はそれも無視した。代わりにカメ太郎の友達が窓を開けて二人に「こらー、なんばしよっとかー。」と言った。二人は苦笑いしながら帰っていった。その笑顔は寂しそうだった。

 その、窓を叩いた季節は、一月頃だったと思う。そうして、カメ太郎が卒業する直前、彼女はやっぱりカメ太郎を忘れてはいなかった。

 でもカメ太郎は無視していた。カメ太郎に喋りかけようと寄ってきてもカメ太郎は逃げるように教室に入って行き彼女を避けていたのだ。

 まっ暗い暗雲が、あの美しい星子さんとともに思い出される。中学の終わり頃は楽しくて輝く季節だった。でも、星子さんとお友達になれなかったことが今でも大きな悔恨となって、カメ太郎の胸を時々たまらぬ寂しさで満たす。

 その後、京子さんとの邂逅はあまりにも漠然としている。カメ太郎が高二の秋だったか高一の秋だったか……そうだ、高二の秋だった。京子さんたちは中三だろうに体育館から出てきたのを見て、カメ太郎は少し不思議がったのだった。中三になってしかも秋なのにクラブをしていたのだろうかと不思議がったのだった。カメ太郎はその夕方、中学の頃の友人である中島と二人で、中学校の運動場でサッカーをして遊んでいたのだ。京子さんたち八人ほどが体育館から出てきたとき、カメ太郎は砂場のへりに座っていた。中島は一人でサッカーコートにボールを蹴っていた。

 体育館から出てきた女のコは八人ほどだった。その一番先に歩いていた女のコが「あっ、三船クン」と叫んだのだ。とてもよく透る声だった。そうしてその女のコは立ち止まってカメ太郎を見つめていた。後の女のコたちも立ち止まり、カメ太郎たちを見ていた。カメ太郎は砂場のへりに座ったままうずくまっていた。カメ太郎は砂をいじり、うつむきつづけた。中島がサッカーコートの前で一人でサッカーをしながら「おい、ハブ※」と言ってサッカーをしようと誘うけれどカメ太郎は女のコたちの視線に恥ずかしくて動かなかった。いや、動けなかった。女のコたちは砂場のへりに座っているカメ太郎をじっと見ていた。カメ太郎はこんなに見つめられるとますます体が硬直した。やがてある女のコ(前から五人目ぐらいのところに立っていた少女)が中島の方を見てこう言った。「あの人誰?」するともう一人の女のコが冷たく「誰かな?知らないわ。」と言った。その会話を聞いた中島はいつもの剽軽さを出してクシャミするように「エヘン、エヘン」という鼻声を高らかに出した。

 そうしてこういう会話も聞こえた。「どうしたのあの人?」「変ねえ。」そうしてカメ太郎の名を呼んだ女のコが「いやらしかね」と怒ったように言った。

 女のコが「いやらしかね」と言い放つと女のコたちは帰っていった。三分か四分ほど、カメ太郎を見つめていたけど、カメ太郎はうつむいて無視していたので……。秋の夕暮れだった。女のコたちの声と、サッカーボールの音が、夕焼けの空にこだましていた。

「どうしたのあの人?」「変ねえ。」は中島に向かって言われたのではなかった。カメ太郎をじっと見つめて、非難するように放たれた言葉だった。そうして最後の「いやらしかね」という言葉は、無視してばかりいるカメ太郎への非難の言葉と思っていた。……でもこの頃その言葉は、その女のコを冷やかすか何かした女のコに言われた言葉ではなかろうかと思っている。

 ……カメ太郎にはその女のコたちが誰だったかはっきりとは解らなかった。カメ太郎は恥ずかしくて俯いていたから。いちばん先頭を歩いていた女のコは京子さんではなかったろうか。しかし、そう叫んだ女のコは少しぽっちゃり型で目が大きかったように見えたと記憶している。京子さんは少しやせ型で目はあまり大きくない。

 

 それから、ああ、カメ太郎はもう一度京子さんと出会った。それはたしか京子さんが中三のとき、つまりカメ太郎が高二の頃だった。秋から冬に変わろうとしている季節だったと思う。中学校の運動場での出会いからあまり月日がたっていなかったはずだ。カメ太郎はその日、学校帰りにクラスメートの坂井と、インベーダーゲームをしに行ったのだ。学生服のままゲームセンターに行ってはヤバかったので坂井の家へ行き坂井の服を借りて着ていた。カメ太郎は坂井の服が似合わず恥ずかしかった。カメ太郎はそういうみっともない格好で京子さんと出会ったのだ。

 カメ太郎たちが新大工町のバス停の前を通りかかった時だった。カメ太郎たちはゲームセンターでゲームをしてそれからどこかへ向かっていたのだろう。しかし、どこへ向かっていたのか憶えてない。玉屋だったろうか?図書館へだったろうか?

 新大工のバス停の前を通りかかったとき「

 

 

 

 

 

 

 

 あの日あなたが緑色のスクールバスに乗ってきたときカメ太郎は君を不思議なものを見るかのように…太古の昔に置き忘れてきた形見を垣間見るように…君のバスに乗る姿を捉えたのでした。君の大きな瞳は深い青い湖のようで虚空に結ばれた君の視線をカメ太郎はどんなに愛しく見たことだろう。そして君の大きな瞳は何故そんなに不安そうに見廻していたんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 山の端に沈みゆく宇宙船のように今日も太陽が沈んでいった。ああ…とカメ太郎は嘆声を漏らした。

 どこからか黒いカラスの鳴く声が夕暮れの背景とともに聞こえてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 いつの日かこんな日が来ることをカメ太郎は予測していたのかもしれない。カメ太郎だけ取り残されて星子さんのあとを追ってハイセイコーも天国へ行く日をカメ太郎は予感していたのかもしれない。こんな悲しい日が来ることを。

(この日、ハイセイコーが保健所に連れて行かれた。祖母に玄関でまた襲いかかったからだった。このまえの出来事だけだったならまた今日もハイセイコーは桜の木の幹に繋がれたまま、カメ太郎の帰って来るのを待っていたのに。)

 

----でもカメ太郎の疲れ切った姿を毎日ハイセイコーに見せるのは辛かった。毎日図書館に閉館まで居て8時40分ごろ、もう暗くなった道を歩いて来るのは辛かった。

 いつもハイセイコーは塀から顔を出してカメ太郎の帰って来るのを待ってたし、カメ太郎は朝からずっと勉強ばかりしていて(道を歩きながらも頭の中で物理の問題を解いたりしていたから)本当に疲れ切っていた。その頃学校が終わってから3時間ぐらい、県立図書館で休みなしに勉強していたから。

 

----前の部分はハイセイコーが保健所に送られた日の夜、書かれたものだろう。そして後のは、カメ太郎が大学一年の終わり頃(信心をやめたばかりの頃)高二か高三の頃を思い出して書かれたものだろう。----

 

 

 

 

 

 

 

 

           (君は笑っている)          大二・六月

 

 君は笑っている。カメ太郎は疲れ果てて五畳半の狭い下宿の部屋に横たわっているのに、君は笑っている。天国でカメ太郎を見て笑っている。

 

 

 

 

 

 

 

        

                             八月

 

 ときどき狂ってしまう。何が何だか解らなくなってしまう。とくに夕方ごろ、カラスの鳴き声が聞こえ出す頃。

 

 

 

 

 

 

           浦上川

                         S58・9・30

 

 胸のなかに寂しい風が吹いている。もう秋になろうとしている浦上川の川縁を歩きつづけているカメ太郎の胸に寂しい秋の風が吹いている。もう22になろうとしているカメ太郎の胸のなかに。留年して暇なカメ太郎の胸のなかに。まだ大学にはあと少なくとも4年は行かなければならないカメ太郎の胸のなかに、寂しい寂しい風が吹いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

                         10月

 

 哀しい川縁の歩みは、カメ太郎を元気だった高校三年生の頃のカメ太郎に戻せるけど、カメ太郎は誰とも出会わない。誰も高三のときのあのコのような女のコは歩いて来ない。カメ太郎は孤独に歩き続ける。もう夕暮れも押し詰まった10月のある日、カメ太郎は一人で歩き続けている。浦上川の黒い流れを見つめながら、そして川沿いのしだれ柳の下を歩きながら。

 

 誰も歩いて来ない。カメ太郎の孤独を救ってくれる人は歩いて来ネい。誰も歩いて来ない。誰も。しだれ柳がカメ太郎を慰めてくれるだけで、誰も歩いて来ない。黒い澱んだ水が、カメ太郎の目に映るだけで、浦上川の澱んだ水がカメ太郎の目に映るだけで、誰もカメ太郎の孤独を慰めてはくれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎には悲しい日曜日の思い出がある。あれはカメ太郎が高校三年の6月中旬頃のことだった。10日前の女の子を捜しにカメ太郎は秋月町へと向かった。

 地図を見ていてどうしてもその女の子が秋月町から来ているように思われたから。

 目のとても大きなその女の子はカメ太郎が今まで見たどの女の子よりも美しかった。異星人のように美しかった。

 カメ太郎は朝の9時ごろ家を出た。いつもなら県立図書館で勉強するために8時半ごろに出るのだったけれどその日は少し遅く出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あのとき、カメ太郎が大学三年目の秋に、君の住んでいる所を目指して歩いていったことはあれは夕陽がカメ太郎の心を孤独でいっぱいにしていたし、十月の木枯らしもカメ太郎の心を孤独感でいっぱいにしていた。夕暮れが孤独感でいっぱいのカメ太郎を包み込んでいたし、川縁のしだれ柳もカメ太郎の憂欝を誘っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

            S58、11月14日

 

有名な小説家になって大金持ちになったときのことを考える。

まず最初は お金を100万円ぐらい儲けて 400CCのバイクの新車を買う。SUZUKIのインパルスかHONDAのCBXの赤かKAWASAKIのグランプリのいずれかを買おう。そうしてまたもっとお金を儲けたらクルマの新車を買おう。シテイ ターボUを買いたいな。そうしてもっとお金を儲けて つまり映画化されたりして何千万か儲けたら大きな土地を買う。ボクはすでに買う土地の目星をつけている。小学校の下の 森川家と福田皮フ科の間の土地を買おう。そこは今の家のすぐ近くだし店のすぐ近くだし そこに二千万か三千万ぐらいかけて家を造る。今の家を一千万ぐらいで売ってその一千万がボクの親から出て残りの二千万をボクが出して三千万で家を建てよう。西洋風のシャレた家を建てよう。(そこならばクルマの出入りが楽になる。今の家のようにクルマが何列も並んでしまったりしてクルマでは出られないとはならない。) そうしてボクは大学をやめようかどうしようか迷う。またボクは友達に出世払いの年利一パーセントとしてお金を貸す。でもそのときボクはみんなとはウマが合わなくなってしまう。自分だけ別世界の人間となってしまう。あまりにも大金持ちとなってしまって、つまりボクはみんなより偉くなってしまい そうして孤独になってしまう。孤独になって淋しくなる。

 

お金持ちになったらボクは今のようにバイクの修理をしたりクルマの修理をしたりして時間を潰さないですむようになる。そして修理とか塗装とかなんかはほとんど専門家に任せる。お金がかかろうがお金持ちだから専門家に任せる。そうして今はクルマやバイクに修理とか整備に時間を割いているけどそのときになるとボクはバイクとかクルマとかにドライブとかツーリングとかそんな方面に時間を潰すようになる。そして今は走るか走らないかきわどいようなポンコツばかりだけどお金持ちになったらピカピカの新車ばかりを幾台も揃える。バイクも400CCをCBXの赤とグランプリの2台を持ち クルマはシテイーターボUとワーゲンのXVタイプとかポルシェとかを持つ。そうしてボクは気の向くままにそれらのうちの一つに乗っていく。

お金がたくさんできたらみんなはボクのお金のためにボクに媚びへつらうようになる。女も男もボクの金が目的でボクに媚びへつらう。そしてボクは孤独感に包まれる。みんなからちやほやされて しかしそれは自分の金だけのためだと知るからますます淋しくなって美しく装った自分の部屋で一人物思いに沈むだろう。

 

お金持ちになって余裕に余裕が出てくるとボクはその新しく造った家から朝夕小学生や中学生たちが家の前の道を通るのを眺める。小学校の下に家を造ったのだからそこはたくさんの小学生や中学生が通る。ボクはその中から何人かの少女に目星をつけ その少女を朝夕窓から顔を出して眺める。ボクには友達は一人もいない。ときどき一緒に遊ぶぐらいの友達はいるが 心を開いて話し合える友達はほとんどいない。ボクは贅沢な家と贅沢な家具と贅沢な衣服に包まれて窓からヌッと顔を出して小学生や中学生が通りすぎてゆくのを眺める。ボクの住んでいるのは長崎だから文壇の人との交流もほとんどない。ボクは一日じゅう贅沢な家と贅沢な家具と贅沢な衣服に包まれてたった一人で座り続ける。たった一人で……。みんなから孤立してしまったと思って淋しさに打ち沈みつづける。                  

 

 

 

 

 

 

        

 カメ太郎は勉強しているとなぜだかあなたのことが慕わしくなってきて、そしていたたまれなくなって手紙を書き始めました。カメ太郎はやっと学部にあがりましたが勉強するのが厭です。カメ太郎は今図書館で小説を書いてましたがボヤーッと考えごとをしているといつのまにかあなたのことを考えていました。

 カメ太郎は博多の町が恋しいのです。浪人のとき2ヶ月いて毎日のように自転車で博多の町をまわっていたときのことを思い出していました。筑紫女学院も恋しいです。二葉高校も恋しいです。どこまで行っても人家の絶えないあの大きな博多の町が恋しくてたまりません。

 カメ太郎は長崎の町に倦きました。実際ここにいると自分がダメになっていくような気がします。そこでカメ太郎はいろいろなことを考えています。でも今から大学を受け直して五浪になるし今このままここにいるのが一番よいようです。物理学者か哲学の先生になりたいのですけどやっぱりこのまま医者になってしまおうと思ったりしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界破滅感

 もしもこの世がなくなったらボクの母、ボクの父、みっちゃん、江島さん、それにボクの苦悩はなくなるんじゃないだろうか。ボクは現実の生活の様々な苦労、いたたまれないような不幸の数々を目の当たりにして、救ってやりたい助けてやりたいと思うけど、どう考えてみても絶望ばかりしか思い浮かばなくて、そうして不幸に苦しむボクの目はまっ暗になり突然世界が破滅して粉々に砕け散ってしまう情景がまさにありありと浮かんでくる。

 それは週に三、四回ほど、親の苦労などをもろに見たときなどに、幻のように湧いてくるボクの幻想なのだ。救ってやりたいけれども救いきれない、助けてやりたいけれども助けてやれない、どうしようもない、ボクは自分の苦しさならたいしたことはないが近親者の苦しみになると本人はそう苦しくないのかもしれないけれどはたで見ているボクにとっては気遣いでこっちの方がかえって苦しいのだろうか。心配のしすぎかもしれない。でもそれらを見て突然目の前がまっ暗になりボーッと湧いてくるまあるい地球が粉々に吹き飛ぶ情景はまさか未来予知だろうか、近い将来そうなるような気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スズメの音が辺りを覆っていた。今日は日曜日だろうか、水曜日だろうか、ハッ、水曜日だ。カメ太郎はあわてて飛び起きようとした。

 日曜日なら何時までだって寝ていられるはずだった。でも今日は水曜日だった。大事な大事な授業がある大変な水曜日だった。

 ああ、カメ太郎は起きたくなかった。体は鉛のように重かった。ああ、死のう、とカメ太郎は思ったほどだった。

 カメ太郎は眠い目をこすりこすり起き始めた。起きない訳にはいかなかった。

 

                                                      S59、6、7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ----もしボクが九医にはいってたら、そうしたらボクは赤いマントととんがりメガネをかけて通学していたことだろう。長崎のような生まれ故郷でもないから知った人もない。だから誰に気兼ねする必要もなくボクは個性をいっぱいに発揮させて振る舞える。

 そしてバックはこのまえゴミ捨て場で拾ったハロルドバックだ。赤いマントが500円、

とんがりメガネが1000円、なんと経済的なんだろう。大学の近くに月一万円ぐらいの間借りを借り、ボクは朝になると赤いマントを羽織って家を出る。そして大学までの五分ほどの道のりを赤いマントを旛めかせながら歩いてゆく。九大医学部の学生なんだ、化け物みたいな秀才なんだ、と自負して胸を張って歩いてゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎には何かが、胸の奥に渦巻いているようなんだけども、カメ太郎にはそれがいったい何なのか解らない。

 夕暮れとともにカメ太郎を包む哀愁。寂しさがカラスの鳴き声やスズメの囀りとともにカメ太郎を襲ってくる。カメ太郎はたまらなく寂しい。いつも夕暮れになると寂しさでいたたまれなくなる。

 一人ぼっちの夕暮れのとき、ある女子高校生の胸に抱かれることを思って、またこのまえ大学祭のとき知り合った小学六年生の女の子のことを思ったりして。

 過ぎゆく青春が哀しいと言うか、九大医学部に行ってたらもっと違う輝く青春を送っていたはずだという口惜しさ、カメ太郎は福岡で夕暮れに包まれたかった。また福岡でならきっとカメ太郎の傍に女の子が居てカメ太郎の今の寂しさなんてなかったはずだ、と思えて。

                            

                            学一 6月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もうこれが最後なの。もう食べるものがないの。もうこれが最後なの。(暗い海の底で星子さんはそう言っていた。とても寂しくて藻が生い茂った所だった。)

 

 哀しいの。私、哀しいの。カメ太郎さんがいつも一人ぼっちで寂しそうにしているから哀しいの。カメ太郎さん、友だちが少なくって、学校でもあんまり喋らなくって、

 

 カメ太郎さん。哀しいの。なぜ哀しいの。寂しいからなの。カメ太郎さん。なぜ哀しいの。なぜいつもそんなに寂しそうにしているの。

 

 ときどき死ぬことを思うんだ。大学病院の12階から飛び降りたりすることを思うんだ。

 

 寂しいの、カメ太郎さん、寂しいの、

 寂しいの、カメ太郎さん、寂しいからなの、

 

 薬で死ぬの、カメ太郎さん。あの赤い薬をたくさん飲んで死ぬの。一粒飲むだけでとても眠くなるあの赤い薬を飲んで死ぬの。

 

 水に流されて死ぬの。2年前の大雨のときのように大洪水に流されて死ぬの。

 

 赤い薬を飲んで死ぬのが楽だよ。水に流されて死ぬのは苦しいよ。あの赤い薬をもう一度手に入れて。

 

 でも星子は水の中で死んでいったのよ。冷たい冷たい水の中だったわ。そうしてとても苦しかったのよ。息ができなくてとても苦しかったのよ。

 

                            学一 6月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎も君と同じように苦しんできた。君と同じように辛い思いをしてきたつもりだった。でもカメ太郎は死ななかった。カメ太郎は21歳の今日まで生きている。辛かったけど、カメ太郎は生きてきた。

 

 カメ太郎の魂が網場の海に沈んで行った時、君の魂はとても寂しげだった。カメ太郎を見ても君はかすかに視線を動かしただけで、君は何処かを見つめたきりだった。君は寂しげに何処かを見つめているだけだった。

 

 海の中での悲しい出会いのとき、君は何故、空を見つめたきりだったのだろう。君はもうカメ太郎をあまり何とも思っていないようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎らの浜辺は、もう見えないよ、カメ太郎の目には見えないよ。

(カメ太郎は哀しげな視線を送りながら星子さんにそう言った。)

 カメ太郎さん、私たちの浜辺は… いつもハイセイコーちゃんが足に血をにじませながら駆けていた私たちの浜辺が見えないの? カメ太郎さん、見えないの?

(ああ、カメ太郎には見えなくなってしまった。そしてもうあの浜辺も、ハイセイコーのことも、星子さんのことも、遠い過去のことになってしまいつつある。)

 

(カメ太郎はそうして冷たい一瞥を星子さんに送った。カメ太郎の心は欲望に、欲情に支配されつつあった。

 

 

 川縁はとても冷たい

 浦上川の川縁はとても寒いし冷たい

 カメ太郎はいつも一人きりだけど

 川縁はいつも冷たい

                      学一、八月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎の心は真夏の海のようだ。何が真実か解らなくて、何が人を救えるのか解らなくて、思い悩んでいるカメ太郎の心のようだ。この青い眩しい海は。             

 

 白いカモメが一羽飛んでいる。まるで『真理』みたいに。白いカモメが一羽飛んでいる。きっとそれが『真理』なのだろう。でも『真理』はいったい何処にあるのだろう。『真理』は何なのだろう。

 

 “真理”は煙って見えない。真夏の蜃気楼のように“真理”の城は以前見え隠れしていた。でももう見えない。“真理”の城は見えない。

 

                          学一 八月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 孤独に打ち震えるとき、カメ太郎は空を見るけど、まっ暗で、何も見えない。

 何も見えない。カメ太郎の心の奥のように、まっ暗で、何も見えない。

 

                             学一 十二月

 

 

 

 

 

 

           『泥沼』

 

 泥沼、泥沼だった。自分はどこまで陥ち込んでいくのだろうと思った。そこから這い上がれるだろうかと思った。すべてが、大学入試の失敗によっていた。恋愛妄想などのために直前になって志望校を変えたりしたことなどがいけなかった。

 

 木村さんのあの目は何なのだろう。ボクを見つめるときのあの目はいったい何を意味しているのだろう。

 

 あのとき、木村さんが合同結婚のことでボクに厳しいことを言ったとき、あのとき木村さんはボクが末永さんを好きなのだと誤解していてそのことで頭に来ていて逆上していたのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

          4月27日の会見(つまりラスト)

 

『何見たの?』

『スティング』

『まあ、スティング、おもしろかったでしょ』

『うん、うん、まあね。』

『とってもおもしろかったでしょ?』

『うん、うん、まあね。』

 

『スティング見てどう思った?』

『うん、まあ、…あんなに芝居が上手になったらいいなあと思いました。』ボクはこの感想に女を口説くのがすばらしいほど上手になったらいいなあと半分思いながらそう言ってしまった。

 木村さんはウンウンとうなずきながらちょっとボンヤリして聞いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎はうなだれて浜ノ町を歩いていた。愛子も去り、木村さんも去っていった。カメ太郎は一人ぼっちになった。そしてもうカメ太郎は誰も頼る宛がなかった。

 アーケードの大理石様の道はそんなカメ太郎を包み込んでしまうようだった。カメ太郎の頭は淋しさで錯乱し、このままアーケードの真ん中で頬に手を当てて叫び出したくなるようだった。

 もう昼を過ぎているのにまだ二日酔いが残っているのだろうか。頭が異様に重かった。

 親に留年したことを内緒にしているカメ太郎は、10時ごろ家を出て2時間ぐらい県立図書館で本を読んだあとここにやって来た。県立図書館もカメ太郎を慰めてはくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天使さまはカメ太郎に黙って長崎を離れてゆきました。

 美しい美しい大きな目と白い頬で

 カメ太郎を魅了し続けた天使さまは

 黙って春、佐賀へと旅立ってゆかれました。

 

 カメ太郎は窓辺をボンヤリと『天使さまが再び現れて カメ太郎を天国へと または佐賀のカルチャーセンターへと運んでいってくれるという幻想が ほのぼのと 微笑みを伴って現れては消えていました。木村さんという6つ年上の白い白い天使さまは なぜカメ太郎に黙って長崎を離れてゆかれたのでしょう。

 

 半年前、白い白い頬と、大きな大きな縦の方が大きいような目でカメ太郎を見つめてカメ太郎を魅了した6つ年上の天使さまは とても若く感じられて カメ太郎と同じ年か一つ年下かと思いました とっても勝ち気な天使さまで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         天使さまの裏切り

 

 天使さまは手を離されました。

 カメ太郎はクルクル回りながら天空を舞い降り始めました。

 天使さま…カメ太郎をお見捨てになりました。

 天使さま…カメ太郎の対人圧迫感が厭になったのでしょう。

 

 カメ太郎はクルクルと天空を舞い降りつつありました。

 天使さまはそんなカメ太郎を大きな目で冷たく見据えておられました。

 カメ太郎はその天使さまの視線を感じながら悲しく舞い降りつつありました。

 

 カメ太郎はカメ太郎の神経症と心身症は天使さまの出現によって劇的に治ると信じていました。

 いや、天使さまとsexすることによって劇的に治ると信じていました。

 そしてあのコだ。天使さまはあのコだ。高三の高総体のときのあのコが天使さまだと信じていました。

 

 でも天使さまは手を離されました。カメ太郎はクルクルと舞い降りつつありました。天使さまはやっぱりカメ太郎をお見捨てになりました。そしてカメ太郎はクルクルと地獄へと舞い降りつつありました。

 天使さまの目は冷徹でマイナス190℃の冷たさでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

         ポプラの並木道

 

 秋月町のこの辺のどこかに

 きっときっとあのコがいるのだと思うのだけど

 カメ太郎はカワサキのFT250に乗って

 ずっとずっとあのコがこの道を歩いて来るのだと思って待っているのだけど

 もう夏になりかけた夕陽に照らされながら待っているのだけど

 もう20になったあのコが

 とってもとっても大きな瞳を輝かせながら

 きっとこの道を歩いて来るのだと思うのだけど

 ポプラの木に囲まれたこの道を。

 

 

 

 

 

 

 

         -------------------------------------------------------

          | 長崎市鳴滝町一--                            |           |    松○○敏様方                   ウラ         

6月9日書き直し |    松○○子様                  (白紙)                         |                                                                      ------                                          |          |60円|                                          |           -------------------------------------------------------

 

 

 

       松○さんへ

 お元気ですか。カメ太郎のことはとっくの昔に忘れていると思いますけど、でも淋しくてたまらなくなったので手紙を書くことにしました。ボクは電話では吃ってしまって恥づかしいので、どうしても電話をかける勇気がないのです。あれからもう10ヶ月近く過ぎたと思います。それなのに手紙を差し上げることになってすみません。

 去年の8月の終わりごろ、スズキのプレリュードで4人でドライブしたこと憶えているでしょうか。(ボクは前柔道をしていたという東高の一つ先輩のあの変な男です。)そのときのあなたの面影は一年近くたった今もボクの胸に残っています。あのあとすぐに電話すれば良かったのだけど…。そしてこの頃ふと手紙を書こうと思ってきました。

 

 もしよかったら6月15日と16日のP.M6:307:00にステラの好文堂で本を読んでますから来て下さい。洒落た喫茶店がいいとは思うのだけど、ボクはほとんど知らないしそれに来られなかったら恥ずかしいから…。

 

 ボクは今年また留年しました。挫折感に覆われ、それにやる気がなく、また医者になってもビジネスマンに過ぎない気がするし、ボクはできれば芸術家になりたいなあと思っています。でも親のために早く卒業しなければいけないなあとも思っています。

 ボクは非常に神経質な所があって、一人でいるときはいいんだけど人と一緒にいると非常に緊張してしまって、頭がグーッと締めつけられるような感覚にとらわれるほどです。それを治すためこの頃電磁波で病気を治す機械を作って自分で試しています。もしかしたら特許になるかもと張り切っています。(発明家になるのがボクの第2志望で、医者になるのは第3志望です)

 ボクは高三の終わり頃より心を怨念みたいなものに支配されてきました。でもこの頃やっと薄れてきたようです。今でもときどきその怨念みたいなものに支配されますがたしかに今ようやく立ち直りかけてきたように思います。

 …だんだん変なことを書きそうですのでこのへんでやめます。松○さんに迷惑かけているような気がして気がとがめます。15日と16日もし良かったら来て下さい。

 さようなら

 

                        長崎市界町9ノ2

                                                     ○○カメ太郎

                                                      39-4557

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎は家に居るとたまらない孤独感に襲われてしまう。だから浜ノ町へと出掛けていって好文堂で立ち読みをする。一日に2時間から3時間くらいも立ち読みをするだろう。そのうちに誰か綺麗な女の人がカメ太郎に声を掛けてくれないかな、と思いつつ立ち読みを続ける。

 カメ太郎はいろんな本を読んでいる。図書館にはない健康法の本を特によく読んでいるけど。もう統一教会にも行かなくなったし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       桃子さんへ

 

 6年前のあの狂気お許し下さい。カメ太郎はあれから廃人のように過ごしました。

 あれはやっぱり幻だったんでしょうか。カメ太郎が中学の頃見た砂場の横の青い美しい少女は。やはり少年期に特有の幻だったんでしょうか。

 燃えています。あのときの青い美しい幻はいま炎に包まれて燃えています。めらめらと。呪われたように。

 今雨が降っています。九月の淋しい雨です。カメ太郎は今も中学の頃住んでいた処に依然として住んでいます。まるで自縛霊のように。

 今思うとあの頃の日々は何だったんだろうか、と思います。何だったんだろう、カメ太郎の瞼に今も残る中学三年の頃の日々。燃えていた。なにもかもが新鮮だった。君の姿も。大きな目をクルリと回しながら廊下を歩いていた君。

 いったいカメ太郎の人生において、かつ世界にとってカメ太郎のあの頃の日々はいったいどういう意味を持つのでしょう。今では幻のようにしか思い出せない日々の影像。

 

 

 

 

 

 

 

        (繰り返す運命)

 

   浦上川

   黒い黒い浦上川

   カメ太郎の前を流れる浦上川

 

 

 

 運命は繰り返すものだという。それならばカメ太郎は以前、この川を原爆のとき流されていったのではなかろうかと思う。

 40年前の暑い日に、カメ太郎はそうして死んでいったのだと思う。

 昭和36年にカメ太郎は再び生まれ、今まで生きてきた。

 苦しいことが多かった。

 なぜ自分だけこんなに苦しまなければならないのだろうと幼な心によく思った。

 でもそれは運命なのだと思う。

 黒い浦上川の流れのような運命なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

                           夏

 

 美しい海の上に君の姿が見えている。もしもカメ太郎がノドの病気でなかったら君と送っていた楽しい日々や夏の日に泳ぎに来ていた海。もしも

 

(カメ太郎は2ヶ月半ほど前買った赤いプレリュードに乗って宮摺の海岸へ来ていた。楽しそうなみんな。カメ太郎は一人ぼっちで今日まだ誰とも口をきいてなかった。買ったばかりの70万円した赤いプレリュードがとてももったいなかった。あのコと来ていたならば、もしもあのコとつき合っていて今日この浜辺に来ていたならば。

 あのコはきっと赤い水着を着てカメ太郎の目を幻惑させたと思う。

 

 カメ太郎らは2人だけで宮摺の海水浴場のずっと手前にクルマを停めて2人だけで泳いだと思う。どこまでも澄み切った海を、カメ太郎らは幸せいっぱいに泳いだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 いつか君とこの海岸へ来て…この澄み通った海岸へ来て…二人だけで泳ぎたかった。もう君とは七年間も会ってないけれど…。君とはまだ口もきいてないけれど…。

 

 

 

 

 

           1987・8・18

 

 黒い川がカメ太郎を呼んでいる。寂しさに耐えかねているカメ太郎を呼んでいる。

 

 孤独だった。このまま青春が過ぎ去るのがたまらなく悔しかった。

 カメ太郎は再び来ていた。この思い出の黒い川に。カメ太郎はもう26になろうとしていた。思い出の黒い川は以前と少しも変��閧ネく流れていた。死神がカメ太郎の胸のなかを飛翔しているのがはっきりと感じられていた。このまえここへ来たときからもう何年になるだろう。カメ太郎はあのときは池田の下宿からずっと歩き続けてこの川縁を歩いていた。そして今は大学にクルマを止めてそのままこの川縁へ来た。いつからかジャンバーの内ポケットの中に綺麗に折り畳んで持ち歩くようになっていた白い自殺用の柔道の帯を忘れずにカメ太郎は持ってきていた。

 試験があと一ヶ月と迫っているのだが、カメ太郎は留年しそうな気がしてたまらなかった。カメ太郎は極度の不眠症に陥っていた。毎日2、3時間しか眠れなかった。そして悪夢ばかりを見て唸されていた。

 毎日毎日が孤独との戦いだった。カメ太郎は学校へ行ってもほとんど誰とも口をきかなかった。そしていつも教室の端の方に腰かけて石のように固くなって座り続けていた。

 誰もカメ太郎に話しかけて来る人はいなかった。たまにカメ太郎に声かけてくる友人もわななくカメ太郎の口唇と小さなかすれた声しか出ないためあまり会話にならなかった。そして友人もカメ太郎に喋りかけるのをあまりしないようになっていた。

 孤独だった。いつもいつもこの浦上川の黒い流れはカメ太郎の心を鏡のように写しているようだった。この川の流れはカメ太郎の涙のようだった。カメ太郎の悲哀感と寂しさをそのまま表現したような川の流れだった。

 カメ太郎はもう何年前になるだろう。カメ太郎は何年か前のようにふたたびこの川縁をあの秋月町の方向へと歩いていた。幸せはそこにあるような気がしていた。この川縁をずっと歩いていった果ての所に。

 思い出のその場所は、カメ太郎が高三の頃あの子と出会ってから一週間ぐらいして日曜日に尋ねていった所だった。結局あの子とは出会えずカメ太郎は寂しさを胸いっぱいに抱えながらバスに揺られて夕暮れどき虚しさとカラスの鳴く声に包まれながら家に帰ってきた。あのときのあの場所へとカメ太郎はいまふたたび向かっていた。なんだか高校の頃に戻ったような嬉しさも少し感じられてカメ太郎の孤独感は少し癒されていた。

 今度こそはあの子が大きな瞳をらんらんと輝かせながら両手をいっぱいに広げてカメ太郎を迎えてくれる。疲れ果てたカメ太郎を抱きしめてくれる、という気がいっぱいにしていた。

 彼女の白いふくよかな胸に抱かれてカメ太郎の26年近くの苦しい人生が報われる気がしていた。

 でも、ふっと湧いていたカメ太郎の幸せな幻想も冷たい北風が吹くとともに川面の方へと流されていった。川面の上であの子がカメ太郎に向かって手を振っているようにも感じられた。寂しげなとてもいたたまれないような別れの合図を。

 そしてカメ太郎は半分泣き被りながらふたたび川縁を秋月町の方へ、秋月町の方へと歩き続けていた。北風とともにカメ太郎の青春は過ぎ去ろうとしているようだった。背中に吹きつけてくる冷たい北風とともに。

 そしてカメ太郎はあの子の笑顔が風とともに吹き流されてゆくのを感じるとともに歩く元気を喪くしかけていた。足が重かった。何年前かと変わらないしだれ柳の下を歩きながらカメ太郎は自分がめっきり歳をとってしまったことを自覚していた。

 

 ああ、カメ太郎の頭が腐り始めている。毎日の深酒がいけないのだ。カメ太郎はこの頃3日か4日で1、8リットルのホワイトリカーを空けている。そしてそれでようやく2、3時間の睡眠をとれていた。

 カメ太郎はもう発狂寸前だった。カメ太郎はもう分裂病の一歩手前の人間になっていた。吃りはもうトランキライザーを飲んでも効かないようになり、少し緊張するとすぐにチックが出るようになっていた。

 カメ太郎は淋しく一人ぼっちで廃人になりつつあるらしかった。川縁を歩きながら自分がこのまま灰になって吹き飛ばされていきたいな、と何度も思った。

 

 

 カメ太郎の躰が灰となり

 浦上川の川面に散っていったら

 そしてカメ太郎の苦悩と寂しさもすべて喪くなり

 カメ太郎は白い翼を持って天国へ旅立てたら

 あの子の待つ天国へ

 旅立てたら

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎は白い蝶になって飛んでゆこう。遠い遠い道のりを。天国までの遠い遠い道のりを。

 星子さんへ

 もう冬になりかけた空を見ていると、カメ太郎の胸には高校一年の厳しい冬のことや、カメ太郎がその冬を乗り越えたあとに星子さんがあっけなく死んでいったあの5月の寒い日のことを思い出してしまいます。

 あのまっ暗い道を網場の桟橋目指して走っていったあの夜のことを。そしてまっ暗闇の海の中に飛び込んだあの瞬間のことを。そうして星子さんを抱いたあのときのことを。寒さで震えながらもう動かなくなっていた星子さんを始めて抱いたあの黒い海の中での出来事を。

 カメ太郎はそのことをまるで昨日のように…もう十年以上も経った今思い返しています。もう網場の港はすっかりさびれてもうあの桟橋はありません。カメ太郎らがあの日始めて抱き合った桟橋は。そして星子さんが電話したあの公衆電話も今はガラス張りの公衆電話に変わっています。

 時の過ぎゆくのが早くてカメ太郎はつい泣きそうになります。窓を開ければ冷たい夜気がカメ太郎の心を淋しさでいっぱいにしています。カメ太郎はただ一人今日もほとんど誰とも喋ることなく一日を終わろうとしています。いつもの淋しい一日が今日も終わろうとしています。

 

 鳥になりたい。鳥になって飛んでいって、この現実の苦しさから逃れたい。このまっ暗な現実の毎日から。

 

 みんなの喋り声は、カメ太郎には伝わってこない。カメ太郎はただ一人佇みつづける。ひとりぼっちでずっと佇みつづける。

 

(青い宇宙人)

 金色の空を見上げると、すると幸せが降りてくるという。カメ太郎を救う天使さまを乗せた宇宙船と一緒にカメ太郎を救う天使さまが。

 

 苦しい季節が通りすぎたら、カメ太郎は広いドアを開けよう。そこには幸せが待っているだろう。そしてカメ太郎はそこで苦しみから解放されるだろう。

 

 もしもカメ太郎が金色の馬車に乗って、思い出のペロポネソスの浜辺に現れたなら、星子さんはどういう顔をするだろう。そしてハイセイコーは駆け寄ってくるだろうか。

  きっとハイセイコーは唖然として立ちつくし、星子さんは悲しげな視線をカメ太郎へ寄こすだろう。 

 ずっと前、カメ太郎を愛してくれてた少女がいた。でも少女は春の夜の海の中に飛び込んで自ら命を絶った。ずっと前、もう十年も前のことになるだろうか。ずっと前、こんなカメ太郎を愛してくれてた少女がいた。こんなカメ太郎をも。ずっと前。

 

 カメ太郎は白い蝶になって飛んでゆこう。遠い遠い道のりを。天国までの遠い遠い道のりを。

 

 

 星子さんへ

 もう冬になりかけた空を見ていると、カメ太郎の胸には高校一年の厳しい冬のことや、カメ太郎がその冬を乗り越えたあとに星子さんがあっけなく死んでいったあの5月の寒い日のことを思い出してしまいます。

 あのまっ暗い道を網場の桟橋目指して走っていったあの夜のことを。そしてまっ暗闇の海の中に飛び込んだあの瞬間のことを。そうして星子さんを抱いたあのときのことを。寒さで震えながらもう動かなくなっていた星子さんを始めて抱いたあの黒い海の中での出来事を。

 カメ太郎はそのことをまるで昨日のように…もう十年以上も経った今思い返しています。もう網場の港はすっかりさびれてもうあの桟橋はありません。カメ太郎らがあの日始めて抱き合った桟橋は。そして星子さんが電話したあの公衆電話も今はガラス張りの公衆電話に変わっています。

 時の過ぎゆくのが早くてカメ太郎はつい泣きそうになります。窓を開ければ冷たい夜気がカメ太郎の心を淋しさでいっぱいにしています。カメ太郎はただ一人今日もほとんど誰とも喋ることなく一日を終わろうとしています。いつもの淋しい一日が今日も終わろうとしています。

 

 

 鳥になりたい。鳥になって飛んでいって、この現実の苦しさから逃れたい。このまっ暗な現実の毎日から。

 

 

 みんなの喋り声は、カメ太郎には伝わってこない。カメ太郎はただ一人佇みつづける。ひとりぼっちでずっと佇みつづける。

 

 

 

 

 

 

 

          孤独の森

 

 カメ太郎は疲れきった。疲れはてた。そしてクルマのドアをパタンッ、と閉めた。

  それは現世界との別れの音のようだった。黒い黒い闇がカメ太郎を覆っていた。午後6時半だった。

 

 冷たい風が音を立てて吹いていた。震えながら柔道の帯をジャンバーの下に隠し持って諏訪神社の森に入っていった。

 

 冷たい冷たい風だった。カメ太郎の頬を打つ風はとても冷たい風だった。

 

 カメ太郎は歩いた。諏訪神社の公園をぶらぶらと歩いた。ブランコや滑り台があっていい所のような気もしていた。

 でも寒かった。北風が激しく吹いてとても寒かった。

 

 カメ太郎は諏訪神社の森に入っていった。枯れ葉を踏みしめながら登っていった。

 

 哀しい泣き声みたいなのがカメ太郎の足元から聞こえていた。枯れ葉が泣いていた。カメ太郎の変わりに枯れ葉が泣いていた。

 

 カメ太郎は本気で死ぬ気はあまりなかった。でもいい枝があってそして誰にも止められないようだったら死のうとは考えていたけれど。

 

 カメ太郎はただ、カメ太郎の傍の斎藤由貴のような○○さんか○○さんか解らないような天使さまと一緒に手を繋いで歩いていた。

 

 高校の頃そのままの森だった。老木から聞こえてくる声も10年前と少しも変わっていなかった。

 

 孤独感がひしひしとカメ太郎の胸の中で揺れていて涙がそこで固まろうとしているようだった。冷たい北風が吹いてカメ太郎はこんな寒いなかで死ぬのは嫌だ、と思った。

 

 いま自分の歩いている森のなかは黒い闇に覆われているようだった。死んだらこんな世界に行くのかと思ってカメ太郎は恐かった。そしてとても寒かった。

 

 何だろう。星空の木漏れ日だろうか。それとも月の光が木の葉の間から見え隠れしているのだろうか。枯れ葉を踏みしめて歩くカメ太郎の頭の上に輝いているその光は。

  

 カメ太郎の踏みしめる道は微かに揺れていた。目まいのように揺れていた。

 

 森の精がカメ太郎に囁いた。それは樹齢何千年という曲がりくねった木だった。自殺者がなるとあるとき夢の中で星子さんがカメ太郎に教えてくれた老木のようだった。いつも夜霧に濡れて寒さに耐え続けている老木だった。

 カメ太郎に『帰りなさい。』と呟いているようだった。カメ太郎にはちゃんと感じられていた。

 そしてカメ太郎の傍に付いていた白い斉藤由貴のような女性もカメ太郎の手を引いてこの森から抜け出すように促していた。この白い天使さま、心変わりしたのかな、さっきまでカメ太郎を殺そう殺そうとしていたはずなのに。

 

 でもカメ太郎には青い水滴が見えた。青い青い水滴は星子さんの涙のようだった。3度目の留年生活を迎えたカメ太郎を慰める星子さんの哀しみの涙のようだった。

 

『カメ太郎さん。カメ太郎さん。』 

 悲しみに打ちひしがれて諏訪神社の森の中にうずくまって座っていたカメ太郎のところに白い翼を背中にはやした天使さまになった白い美しい女の子の姿が、星子さんだった、諏訪神社の森の中までカメ太郎を救いに来てくれたんだね、星子さん、ありがとう。

 俯いていた顔をあげて白い蝶のような星子さんにカメ太郎は少し微笑んだ。よく見ると星qさんはちっちゃくて本当に蝶のようだった。星子さん、蝶々になったんだね。そしてカメ太郎を天国からわざわざ助けに来てくれたんだね…ありがとう。

 

 死ぬのをやめて草叢に横たわったカメ太郎の顔の上に、星子さんが小さな紋白蝶となって飛んでいた。小さな小さな花びらみたいな蝶だった。そっと吹けば灰になって消えてしまいそうな蝶だった。

 

 諏訪神社の森はカメ太郎の友達だった。高校の頃から。高校の頃からこの森はカメ太郎を誘っていた。このうす暗い古い木立ちの森…

 

 でもカメ太郎は、生きようと思った。何回も何回もカメ太郎を誘い込んだ暗い森。カメ太郎はまた生きた。カメ太郎に死ぬ勇気は本当にはないかのように。  

 夜景が綺麗だった。そして家庭の暖かさというものをしみじみと感じていた。カメ太郎は生きようと思った。

 

 夜景だろうか。いつもいつもカメ太郎を救ってくれていたのは。カメ太郎の傍に天使さまがいて(斉藤由貴のように色が白くて目が大きくてとても可愛い天使さまがいて、いつもいつもカメ太郎を死の一歩手前まで連れてきて、そして笑ってカメ太郎の手を離すのは。いじわるなとてもお茶目な天使さまは。)

 

 

 

 

 

 

 

 

                                            1988・12・29

 

 カメ太郎は蝶になる、

 黒い黒い羽をした蝶になる

 そして真冬の空を舞い落ちる

 ステラの5階から舞い落ちる

 

 カメ太郎は黒い蝶になり

 夕陽に紅く染まりながら舞い落ちる

 カメ太郎はステラの人混みのなかに舞い落ちる

 

 そしてカメ太郎の周りは人垣で溢れ

 そして初めてカメ太郎の孤独が癒される

 

 

  死ぬときが来た、と思っていた。カメ太郎はうつむいて浜の町を歩いていた。ステラのビルへと向かっていた。そこの屋上から飛び降りようと思っていた。もしかしたら歩行中の誰かの上に落ちてその人が死にカメ太郎は身体障害者として生き残るようになるかもしれないなと思っていた。ちょうど星子さんのように…

 再び学部の三年生をやり直さねばならぬ屈辱感を思うと(また同じ講義を、そして病室実習をしなければいけないと思うと)やりきれなかった。死んだ方がずっといいようだった。それに今死ねばカメ太郎のことは(吃りゆえに自殺した医学生)として有名になり、カメ太郎の下手な小説も不動のものとなるような気がしていた。今だ、今だ、とばかり思って焦っていた。

 

 死ぬときはたしかに今のようだった。黒紫色のヴェルが浜の町を歩くカメ太郎の頭上に覆い被さっているような気がしていた。いや確かにカメ太郎の背後に従いて回っていた。カメ太郎を自殺させようと躍起になっている悪魔が…

 

 首吊りの方がずっと楽なような気がしていた。ステラの屋上からみんなの見ている前で飛び降りるときの怖さ。そして柔道でうまく絞められたときのように気持ちよく気を喪うことなどを比べると首吊りの方がずっといいような気がしていた。でもカメ太郎は留年の屈辱のため大学まで行きたくなかった。それにわざわざそこまで柔道の帯を取りに行く気力が湧いて来なかった。

 

 赤い400ccのバイクがユニドの横のパチンコ屋の屋上に乗っかっかってカメ太郎を待っている。でもカメ太郎は彼を置いてきぼりにして今日ステラから飛び降りるんだ。そして重い400ccの赤いバイクは雨に打たれカメ太郎を待って泣きつづけるんだ。そしてナンバプレトから持ち主が調べられてカメ太郎の父が慣れないそのとても重たいバイクをパチンコ屋の人に謝りながら悲しげに動かしてゆく姿が見えてくるようだった。

 

 カメ太郎はそのことを思うと、あとに残された父や母のことを思うとやはり死にきれないような気がした。でもカメ太郎の心は重く沈みつづけていた。中国のある湖畔に沈む水晶球のよう駄名と思っていた。

 

 12月29日だった。昨日姉が山口から夫と一緒に来ると言っていたのに来なかった。今日ぐらい来るかもしれないなあと思っていた。そして夕暮れが浜の町の思案橋へ向かう電車通りの歩道の上を歩くカメ太郎を優しく包み込んでいた。まるで母や父のカメ太郎に対する愛情のようだった。

 

 カメ太郎は夕陽を見つめながら空想のなかのカメ太郎のもう死んでいった恋人に心のなかで手紙を書き始めた。今にも飛び降りそうでいながら飛び降りれないカメ太郎は空想のなかで作り上げたカメ太郎の少年時代の恋人に胸のなかで万年筆を走らせ始めた。

 

 インクの壷から涙が滴っていました。カメ太郎の胸のなかで書かれる空想のなかのカメ太郎の少年時代の恋人への手紙に。

 ポツン、ポツンと滴り落ちていました。

 中学の頃、激しく燃えた文通だけだった恋。

 あの美しい恋の思い出をカメ太郎は夕陽を見つめながら懐かしく思い出していた。

 そしてカメ太郎の躰は紅く紅く夕陽に彩られていた。

 

 

 

 カメ太郎はステラの屋上から夕陽を見ていた。ああ、カメ太郎の人生もこれで終わりか、と涙ぐんでいた。そして心のなかで泣いていた。 

 このまますっと落ちてゆきカメ太郎の人生はそこで終わりになるんだな、と思った。

 

 

 

 終末の太陽のようだった。今、カメ太郎が見ているこの赤い太陽は。

 ああ、やっとカメ太郎に終末のときがやって来たな、と思っていた。燃えて溶けるように落ちてゆくその太陽はカメ太郎の魂のようだった。

 

 不安の巨大な手がカメ太郎の背中を押しているようだった。その手はこげ茶色の手でカメ太郎の背中を押していた。でもカメ太郎は必死に耐えていた。階段の手摺りに捕まりながら必死に耐えていた。

 カメ太郎は耐えながらもカメ太郎が今こうして必死に自殺の誘惑と戦っているのはカメ太郎の人生の縮図のようだな、と思っていた。

 カメ太郎の背中を押すまっ黒い悪霊の手と、欄干にもたれながら必死に耐えるカメ太郎。

 明るく生きようかな、とも思った。やっぱり元気いっぱいに生きてみようかな、またそうしたら姉も父も母も喜ぶだろうな、とも思った。

 不思議な太陽だな、と思っていた。こんなに急にカメ太郎を心変わりさせるなんて。 でもやっぱり死のうかな。そしてカメ太郎は再び下の方をそっと見た。

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎はふと『このまま死ぬのはもったいないな。このまま死ぬのはもったいないな。』と思いました。そしてカメ太郎は森を引き返し始めたのです。雪男のように速く。

 

 

 

 

 

                  1989・1・7

OOさんへ

(まだ見たことのあるのかないのかあまり判然としないカメ太郎の瞼のなかのOOさんへ)

 

 なんだかこの橋の欄干を手にして佇んでいると、高校の頃の、中学の頃の日々が懐かしく思い出されてくるようで、カメ太郎はとても懐かしくなってきます。

 燃えていたあの中学・高校時代。そして灰に燻っているような浪人・大学時代。長い長い大学時代。

 

 

 ----カメ太郎はまた留年しました。ああこれで三度目の留年です。カメ太郎の前途はまっ暗なような気がします。でも燃えてます。カメ太郎の中学高校時代の日々は。懐かしく燃えて光っています。そして目の前がまっ暗になって自殺まで考えているカメ太郎の心を赤く照らしてくれています。

 それはカメ太郎を再生させようとする天使さまの炎なのかもしれません。カメ太郎をいつもギリギリのところで救ってくれていたカメ太郎をそっと見守っていて下さる天使さまの微笑みのようにもカメ太郎には思えます。

 白いとても美しい高校一年生ぐらいの天使さまがカメ太郎の前に現れて下さってカメ太郎に生きる力を与えて下さる。何年留年してもくじけない気力をカメ太郎に与えて下さる。そんな気がしてなりません。

 

 カメ太郎はいま、松山の国際体育館の橋の上にいます。孤独がすっぽりとカメ太郎を覆っています。武道館の前の川縁にカメ太郎の赤い400ccのバイクを止めてカメ太郎はここへやって来ました。なんだかここはカメ太郎に生きる力を与えてくれそうで、それに家にかごんでいたらこのまま死んでしまいそうだったから。

 カメ太郎は死ぬのは厭だ。カメ太郎はやっぱり生きたい。中学高校の頃のような元気をもう一度取り戻したい。

 カメ太郎は確信していた。きっと現れる、きっと現れる、カメ太郎を救って下さる天使さまがきっと現れる。

 カメ太郎はそう思って立ち続けていた。今日は1月の7日で冬休みの最後の日のはずだった。きっと今頃カメ太郎を救ってくれる天使さまは遊びに夢中なんじゃないのかな、きっとそうだろう、今頃遊びに夢中になっているのだろう。

 するとポツンと川面にカメ太郎の涙が落ちた。メダカがカメ太郎の涙にびっくりしてカメ太郎を見上げていた。

 カメ太郎を一人ぼっちにして遊びに夢中になっているんだろうなあ。カメ太郎はそう思って悲しくて悲しくて泣いたようだった。

 この橋の欄干はカメ太郎の涙で濡れていた。カメ太郎は通り過ぎる人にないてる所を見られないようにと俯いて川面を眺め遣っていた。

 午後3時の太陽がカメ太郎を照らしていた。ちょっと眩しいなあ、と思っていた。そしてカメ太郎はふと向きを変えた。

 誰も、まっ白い天使さまのような少女は歩いてきていなかった。誰も、誰も、歩いてきていなかった。

 

 

 もう夕暮れになりつつあった。冬の日は暮れるのが早いなあ、と思った。カメ太郎は橋の欄干から離れてバイクの上に腰かけて両足を川縁の棒の上に置いて居眠りを始めようとまでし始めていた。もう夕暮れであの子も冬休みの最後の日を惜しみながら、泣きながら送ってるんだろう、と思った。

 やっぱり死のう、とも思ってきていた。あの子は来るはずがないし、カメ太郎を救ってくれる天使さまは本当に現れてくれるのだろうか、カメ太郎は自信がなかった。

 そしてカメ太郎にはやはり死しか残されてはいないようだった。カメ太郎にはこれからも生きてゆく気力というか自信はまったくなかった。やはりもう死ぬしかないようだった。

 でも死ぬ方法が、なにか楽に死ねる方法がないかなあとカメ太郎は川縁の草を見つめながら考えていた。

 天使さまが現れて来ないからカメ太郎は死のう、と考えていた。

 天使さまが現れてきたらカメ太郎は生きられるかもしれないし、でもその天使さまが暗かったら、そしたらその天使さまを道連れにして一緒に心中しよう、とカメ太郎は赤いバイクに腰かけてそう考え始めていた。

 

 ああ、カメ太郎には青春と呼べるものがなかったな、と考えていた。赤い夕陽がカメ太郎を包み込んでいた。

(そしてカメ太郎はふたたびその少女へ向かって手紙を書き始めた。夕陽に包まれながら胸のなかでカメ太郎は万年筆を走らせ始めた。なんだかカメ太郎は中学や高校時代に戻ったような気がし始めていた。)

 

 

 

       白い天使さまへ

    中学2年の頃と高校3年のとき、ちょうどこの松山で会った白い白い天使さまへ

 

 カメ太郎はいま死にかけています。バイクの上に腰かけて浦上川を眺めつつ、冬休みの最後の日の真っ赤な太陽に照らされながら、ずっとあなたのことや、そしてこれからの自分のことなどを考えていました。

 中学の頃や高校の頃この松山で出会ったあなたはもうきっと結婚されてるか婚約されているのにちがいありません。でもカメ太郎はいまとても泥沼で死のうか死ぬまいかとても悩んでいます。明るくなりたいです。中学や高校の頃のあの辛かったけど元気だった日々に戻りたいです。

 そしてあなたの微笑みを。落ち込んでいるカメ太郎を救ってくれるのはふたたびあなたのような白い白い天使さまのような女性が現れることが大切なのだと思います。カメ太郎を救ってくれるのはふたたびあなたのような美しい女の子がカメ太郎の前に現れてくれることだけしかないのだと思います。

 

 なんだか浦上川の流れを見ていると中学時代や高校時代の頃からの日々の流れを、辛く一人ぼっちだった日々の流れを、カメ太郎に彷彿と蘇らせてくれるというか、なんだかこの流れはカメ太郎の幼い頃からの人生のようなものにカメ太郎は思えます。

 そしていま夕暮れ時だから。川の流れはカメ太郎に自殺を呟きかけているようにも思えなくはありません。

 いま川の流れは夕暮れに紅く染まり、カメ太郎の人生の終焉を象徴しているかのようです。ほかの人たちはいまごろ結婚して新しく第二の人生を歩み始めているのですけど、カメ太郎にとって第二の人生とは霊界へ旅立つことでしょうか。

 それとも劇的に生き残って辛い日々でしょうけれど耐え抜いて生きて行くことでしょうか。

 

 赤く染まる川の流れはカメ太郎のいままでの孤独な少年時代と(そして青春時代と呼べるかどうか、カメ太郎にとって高校を卒業してからのこの8年ぐらいの年月は“青春”と呼べるものじゃなくって、打ち続く少年時代、といったような気がします。晩年の少年時代なんだと。少年時代の残り火がずっとずっと8年間もくすぶり続けていて、カメ太郎には青春って呼べるものはなかったんだと。いやカメ太郎はずっと少年であり続けたんだと。今までも。少年時代からずっと。あなたと出会ってからずっと。あなたの微笑みに、天使さまのような白い白い輝きに出会ってからずっと。)

 

 呪われていたカメ太郎の人生を洗い流してくれるような浦上川の紅い流れ。カメ太郎の苦しかったいままでの人生の苦悩を洗い流してくれてるようなこの流れ。カメ太郎は君ともう出会わずにこのままこの流れのなかに溶けてゆきたいです。いや、カメ太郎はこのまま夕陽のように生きてゆこうと思います。カメ太郎は紅い夕陽として、紅い夕陽のような存在として、これからの人生を耐え抜いて、歯を喰いしばって生きてゆこうと思います。

 

 でも、カメ太郎はやっぱりもう駄目なような気もします。いまから医学部の柔道場へ行ってふたたび柔道の帯を持って生協の裏の森で首を括って死のうかなとも思います。カメ太郎の対人緊張はもうどうしようもないように思います。医者になるまでもう一年留年しそうです。そしてカメ太郎は何もできなくて。

 

 頭が締めつけられて勉強しようにもできないのです。あなたが現れて(でもあなたはもう結婚されてるようにも思えるから、だからあなたに似たもう一人の白い美しい女の子が現れて)白い手でカメ太郎の病気を癒してくれたら。そうしたらカメ太郎はまた生きれると思います。

 悲しいです。カメ太郎をいままで苦労して育ててくれた親にすまなくて、カメ太郎は死ぬにも死にきれません。

 

 どうしたらいいかなあ、と思います。本当にどうしたらいいかなあ、と思っています。

 夕陽が、まるで君の瞳のように見えて、カメ太郎を慰めてくれているように思えるけれど、カメ太郎は悲しくって、今からでも柔道の帯を持って生協の裏の森で首を括って死んでしまいたいです。

 

 夕陽の近くからカメ太郎の白い天使さまがサンタクロースのようにトナカイに引かれた馬車に乗り、赤いふわふわとした洋服を着ていてカメ太郎を出迎えに来てくれる。そんな幻影が湧いてきていました。ああ、ありがとうございます。天使さま。カメ太郎をお救いに来てくれてありがとうございます。

 

 そしてカメ太郎は天使さまの胸に抱かれて、カメ太郎の孤独の心は癒されてカメ太郎は久しぶりに明るくなり笑いを取り戻し、カメ太郎は中学や高校時代に戻ったように明るく元気になり、そうしてあなたと楽しくお喋りしながら天国へ旅だってゆくのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

           愛宕の丘より

 

 やはりもう死ぬしかないようだった。死なないでも良さそうだった。しかしもう生きるのに飽きた。

 カメ太郎はさくさくっと男子病棟の裏の林の中を歩いていた。さっきまで吹雪が舞っていた。なぜカメ太郎が死のうと思う日はこんなに寒い日が多いのだろうと思った。

 ○○さんが結婚しているのを知った。カメ太郎は寂しくもう誰も帰った職員室から愛宕の町並みを見下ろしていた。

 もう死ぬしかないように思えた。失恋して死ぬことはクリスマスから正月にかけてのあの危機よりとても幸せそうな…楽な気がしていた。

 カメ太郎の目の前に3年ぶりに現れた天使さまは以前の○○さんのように結婚していた。そしてどうしても叶わない恋だと知ってカメ太郎の胸の中のあるものは喜んだようだった。

 でもカメ太郎は○○病院の裏の竹林の中を歩いていた。白い柔道の帯をジャンバーの袂に隠し持って。

 いつ死のう、いつ死のう、とばかり考えていた。暑い夏だったら市民会館の7階から飛び降りて死ぬだろう。あの白い美しい建物から飛び降りて死ぬだろう。7階の青年の窓から飛び降りて死ぬだろう。

 でも今は冬だ。寒い寒い冬だ。なぜいつも冬にばかり死ぬことが来るのだ��、と思った。

 夏だったら寒くないから尻ごみせずにすぐに死ぬのになぜ冬にばかり死ぬようなところまで追い込まれるのだろうか、と思った。

 夏、カメ太郎は熱い太陽を見ていると生きる勇気が湧いてくるのだった。でも冬になるとカメ太郎はなぜかよく“死”を考えてしまう。

 夏に死を考えたことは今までなかったと思う。冬…冬にばかりカメ太郎は死を考える。冬はカメ太郎には死の季節のように思える。

 もしも今、冬が夏に変わって太陽の光り輝く季節になったら、カメ太郎は生きる価値を見出すだろう。でもカメ太郎の踏みしめる大地は冬の凍った森の大地だった。凍った枯れ葉の鳴る音がカメ太郎の耳に突き刺さるように響いていた。

 死ぬことは悲しいことのようだった。カメ太郎の耳に久しぶりに響いてきた遠い昔のはかない恋の思い出が…どうしたことだろう、真夏の夕陽の赤い輝きとともに思い出されてくるなんて…。

 カメ太郎はそしてやはり今夜は死なないような気がしてきていた。

 

 星子さん。カメ太郎やっぱり夏赤い夕陽に照らされながら市民会館の7階から飛び降りた方が良いみたいだ。カメ太郎やはり夏まで生きて、今夜の夏まで生きて、生き抜いて、夏の熱い夕陽に照らされながら白い綺麗なお城のようなビルから飛び降りた方が良いみたいだ。

 カメ太郎は夏、市民会館の七階からひらひらと蝶のように落ちてゆくんだ。美しく夕陽に照らされながら赤く落ちてゆくんだ。

 

 カメ太郎は立ち止まっていた。寒い寒い森の中で黒いジャンバーを着て立ちつくしていた。前の竹林の中に星子さんの姿を見たような気がしていた。

 

 カメ太郎は夏まで待てるだろうか。そして夏まで持ちこたえることができるだろうか。やっぱり今死んだ方が良いのだろうか。

 袂の柔道の白帯に手を差し伸べていた。

 自殺することが自分の使命なんだ、という考えがあった。自殺することがカメ太郎の使命なんだ、という悪魔めいた考えがカメ太郎にはある。

 そしてカメ太郎は柔道の帯を取り出して歩き始めた。自殺するのが…今夜…この寒い今夜…こうして自殺するのが自分の使命なんだ。

 自分の使命なんだ、自分の使命なんだ、と心の中で叫びつつカメ太郎は柔道の帯を木の枝に掛けようとしていた。でもなかなかうまく掛からないのだった。

 カメ太郎は“自殺するのが自分の宿業なんだ”と思っていた。

 “自殺すること”それがカメ太郎が生まれたときから…いや母の胎内にいたときから決まっていたような気がする。“自殺すること”…カメ太郎の使命なのかもしれないとさえこの頃毎晩酒を飲みながら思っていた。

 自殺したらカメ太郎は何処に行くのだろう。星子さんの待つ霊界へ行くのだろうか。それとも自分一人っきりの孤独な処に木となって何十年も何百年も過ごすのだろうか。

 自殺して幸せなところへ行けたらカメ太郎は今でも少しもためらわずに自殺するだろう。でもいろいろな本に書いてあるのは自殺したら地獄に行くということばかりだった。だからカメ太郎は死なないでいた。

  

 

 

 

 

 

           浜辺に佇む

 

 中学や高校の頃の元気だったカメ太郎はもう戻って来ない。星子さんと文通していた頃の元気だった明るかったカメ太郎はもう戻って来ない。カメ太郎はもう27歳になろうとしている。そして卒業できずにもう3年も留年を繰り返している。今のカメ太郎には星子さんと文通していた頃悩んでいたノドの病気や言語障害のほかに対人緊張という新しい病気が加わって今はこのことに一番悩んでいる。教室に居ても緊張してしまって勉強ができない。カメ太郎はすっかり自信を喪くし、もう2年近くも抑欝状態が続いている。

 元気になりたい。あの頃のカメ太郎のように。希望を取り戻したい。あの頃のカメ太郎のように。

 

 

 

 

 

 

今は冷たい水の中にいるあのコ

幻でいい

幻でいいから

もう一度浮き上がってきてくれたなら

 

 

 

 

 

                                                   S63,9,6

 

(『星子さん。赤い堤灯が身えるって嘘だったね。星子さん。赤い堤灯はどこにもないよ。』

 『ええ、ごめんなさい、カメ太郎さん。でもそう言わなかったらカメ太郎さん来てくれなかったでしょ。私、一人ぼっちで淋しかったの。ごめんなさい、カメ太郎さん。』)

(そうしてカメ太郎らは手を繋いで森の中を駆けていました。カメ太郎らはとても速く走っているのに全然きつくないのでした。薄暗い森の中で古い大きな木や草や花がたくさんありました。地面は濡れていて光っていました。カメ太郎らはスケートをしているように気持ちよくスイスイと滑っていました。

(『カメ太郎さん。私が呼ばなかったら死んでたでしょ。今日にも首を吊って死んでたでしょ。だから私、呼んだのよ。嘘をついてまでも呼んだのよ。カメ太郎さん、死んじゃだめよ。もう一息で卒業でしょ。もうアルバイトしないでいいから勉強だけに打ち込んでそうして早く立派なお医者さんにならなくっちゃ。

(カメ太郎さん、いつまで落ち込んでいるの。カメ太郎さん、歩くのも億劫なくらい落ち込んでいるみたい。私の手を握る力もとても弱いわ。カメ太郎さん、頑張って。死んだらだめよ。カメ太郎さん、今度からはちゃんと学校に行かなくっちゃ。カメ太郎さん。』

 …星子さんの励ましの言葉も声も今のカメ太郎には虚しくしか聞こえない。カメ太郎はもう死の淵に足を一歩踏み込んでいる。

(『カメ太郎さん、死んじゃダメよ。カメ太郎さん、死んじゃダメよ。』

 星子さんはそう言って死の池に足を一歩踏み込みかけていたカメ太郎の手を激しく揺すった。カメ太郎は、目が醒めたようになり、一回、その泥沼から足を引き上げかけたが再び、カメ太郎は沼の中に足を入れかけたのでした。するとまた星子さんが激しく手を引いてカメ太郎が沼の中に落ち込むのを妨げたのでした。

(『でもカメ太郎は、クルマのことなど親に対する罪悪感が強くって、カメ太郎は苦しくって、カメ太郎はもう死にたい。ごめんね、星子さん。ごめんね。』

 

 

 

 

 

 

                           大学五年留年 九月

 星子さんへ

 カメ太郎はよく土曜日早く帰ってきたときなんかとても悲しくなります。窓から外を眺めてももう星子さんはこの世にいないし虚しさというか淋しさにとてもとらわれてしまいます。

 カメ太郎は2年前からクスリを飲むようになってクスリを飲んでる間は吃らないから電話でなら楽に喋れます。でも高校三年のときからとても強い対人緊張にとらわれるようになって直接会って喋ることはかえってできなくなりましたけど。

 カメ太郎の淋しさはこの日見じゅうを覆っているようです。カメ太郎はとても淋しいです。

 そしてカメ太郎は星子さんが亡くなってから十年余りを生きてきましたけど長いような短いようなこの十年余りです。そして一人ぼっちだった十年余りでした。

 

 もしも星子さんが生きてたなら、今頃カメ太郎らは結婚してそうしてもうそろそろ子供が産まれてて幸せな家庭を築けたと思うんだけど。もしも星子さんが逝ってなかったならば。もしあのときカメ太郎がもっと早く桟橋に着いてたならば。そしてもっと早く星子さんを見つけていたならば。

 そして今カメ太郎は一人ぼっちで苦しまなくても良かったのに。もしも星子さんが生きてたなら。カメ太郎は一人でなかったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎は、星子さんの編んでくれた鎧のようなセーターを(ちょっと大きすぎてとてもとても困ってしまいけど)本当に鎧のように着て、県立図書館にこのごろ勉強しに行っています。もうすぐ一学期のテストがあるから。学校にはあんまり行かないで県立図書館で勉強しています。

 県立図書館には高校生が(主に学校帰りになる東高生が多いけど)たくさんいます。そのなかで勉強しているとカメ太郎まで高校時代のように元気になってくるような気がします。

 だから県立図書館で勉強していると楽しいです。元気になるし、周りの女子高校生が美しくカメ太郎に生きる勇気というか元気を与えてくれます。

 

 生きることが楽しいということを県立図書館の女子高校生は教えてくれます。彼女たちのいろいろな話を聞きながら勉強するのはとても楽しいです。

 生きる意欲を喪くしかけ落ち込みがちなカメ太郎にはとてもとても楽しい話ばっかりです。

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎は星子さんのくれたセーターを着て消えてゆこう。この重たいセーターを着て消えてゆこう。もう苦しむ必要のない何処へと。

 深い森の中でだっていい。苦しむ必要のないところへと消えたい。

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎は久しぶりに取り出したずっと前星子さんから編んでもらったそのセーターを手にして『まるで星子さんの遺影のようだな。』と思っていました。今年こそは着ようかな、と思って取り出したセーターだったけどやっぱりちょっと大きすぎて恥ずかしくて。それに今年は冬の間もずっとバイク通学するつもりだから。

 カメ太郎はそうしてそのセーターをしまっておいた箱の中に再び入れてタンスの上に上げた。悲しい音がしてその箱は元のところに収まった。そして部屋のレイアウトも悲しく元のようになってしまった。

 やっと外は白みかけてきていた。時刻は6時15分だった。カメ太郎はまだ病院へ行く訳にもいかずあと45分近くの時間をどうやって過ごそうかなと思っていた。

 

 

 

 

 

 

(死神が襲ってきている。カメ太郎には解る。カメ太郎は苦しい。死神が手招きをしている。)

 

  いつもいつも冬だ。カメ太郎が死のうとするのはいつも冬だ。

 

 

 

 

 

 

 カメ太郎はもう駄目かもしれない。暗い闇のなかで休み続けたい。カメ太郎はもう疲れ果てている。カメ太郎は永遠に横たわり続けたい。静かな所でカメ太郎は横たわり続けたい。

 

 

 

 

 

 君とカメ太郎の思い出は、今もカメ太郎の枕元に静かに残っている。美しかった君と、日曜日に空想のなかで君と戯れた。そして図書館へ行き、君の姿を見て、その美しさに、自分は罪悪感に震えていた。

 

 

 

 

 

                       

 

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