体験談のつもり

 

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 中学1年の10月頃から、1月15日に催される00市の中等部の会合へ向けて、僕は一日2時間の題目を上げ始めました。中等部の責任者から1月15日まで一日2時間の題目を上げるよう指導されたからです。勤行も合わせると一日3時間近くのお祈りを始めました。中学1年生は純粋です。そしてその頃はそういう指導は普通のことでした。

 しかも『力を込めて上げないといけない。』と指導され、その通りに勤行唱題を行いました。しかし親は『近所に創価学会ということが知れると恥ずかしいから大きな声でしてはいけない。』と言います。自分はその狭間で苦しみました。

 『力を込めて上げないといけない。』『大きな声でしてはいけない。』その両方を成り立たせるためには、力を込めながらも小さな声でする、という手段を執らざるを得ませんでした。

 11月、もう僕の声は嗄れて大きな声が出なくなりました。友達と学校で騒いで遊べない、苦しみが始まりました。1月15日に催された00市の中等部の会合では声がとても嗄れてしまっており非常に苦労しました。

 それから現在41歳まで、この喉の病気に苦しんでいます。大きな声が出ない、嗄れた声しか出ない、現在もそのため騒がしいところへは行き難く苦しんでいます。恋もこのために出来なかった。自分の声が小さすぎるので会話が成り立たないのです。悲しい恋の物語ばかりを経験し、現在、結局、10歳年上の学会員でない女性と結婚し、子供はいません。子供は出来ません。

 しかし、自分は中学1年・中学2年の時にそれだけ頑張った。御本尊様から賞状を貰いました。過去世の謗法の罪を消すという賞状を貰いました。また、その頃から、月末には僕の貯金箱も姉の貯金箱も空になっていたほど貧しかった自分の家の家業は急に繁盛し始め経済的に非常に恵まれるようになりました。また父と母の喧嘩もほとんど無くなり、一家和楽となりました。

 中学2年の時は睡眠時間を一日5時間に削り、一日1時間40分の力を振り絞った題目とそして勤行を一年間真面目に続けました。中学1年と中学2年の秋と冬、つまり寒い時期の半年間ずつ、僕は心因性の発熱と、喉頭炎に苦しみました。しかし、それによって僕は過去世の謗法の罪を消すことができました。

 辛かったはずのあの頃、しかし僕の胸の中は法悦に湧いていました。嗄れた声しか出なくても、とても元気でした。廊下を歩いていて友達と出会うと手を挙げて『よっ、よっ。』と挨拶していたぐらいでした。それほどその頃の自分は元気でした。

 毎晩11時半まで勤行唱題をして一日1時間40分の力を振り絞った題目とそして勤行を行い、11時半から仏壇の掃除を10分近く、それから御書の勉強や聖教新聞を読むことを12時過ぎまで行い、それから2時半まで池田先生の写真を置いた机で中国語の勉強と学校の勉強をしていました。中国語は『世界に羽ばたけ』という池田先生の中等部に対する期待を実現しようと勉強していました。

 ですから睡眠時間はぴったり一日5時間でした。朝は五座の勤行と10分ほどの唱題をして毎日走って中学校まで行っていました。そしていつもぎりぎりで遅刻しないということを繰り返していました。

 辛かったけど元気一杯だった日々でした。そして中学3年のとき、“自分のような喉の病気をしているのが創価学会員ということが解ると法を下げる”と考え、中等部の会合には一切、行かないようにしました。(その当時は“法を下げる”という言葉がよく使われていたはずです。)考え過ぎだったかもしれません。また座談会は自分の親が真面目に信仰をしていなかったこともあり、連絡は来ていないのか座談会にはほとんど出席したことはありませんでした。

 また、自分が中学3年生になって中等部の会合に行かなくなりましたが、それから高校3年の終わりまで4年間、中等部や高等部の会合の連絡は一度もありませんでした。聖教新聞にこれからは新体制で行くということが書いてありましたので、中等部や高等部は無くなったのだろうと思っていました。

 でも全く会合の連絡のなかった4年間、僕は隠れ創価学会員として勤行は滅多に欠かさず、そして唱題もたくさん上げて過ごしました。一度も御本尊様を疑ったことはありませんでした。その当時、もし、広宣流布のために死ぬように言われたら死んでいたと思います。喉の病気のことなどで辛い4年間でしたけど、自分は挫けませんでした。喉の病気のことで口惜しくて泣きながら家に帰っても、御本尊様の前に座り題レを唱え、次の日には元気に学校に行くということを繰り返していました。

 御書に『各々・随分に法華経を信ぜられつる・ゆえに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとえばくろがねをよくよくきたえばきず(疵)のあらわるるがごとし、』

『文の心は我等過去に正法を行じけるものに・あだをなして・ありけるが今かえりて信受すれば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば未来の大苦を招ぎこして少苦に値うなり、』

『涅槃経に曰く「横(よこしま)に死横(しおう)に罹(かか)り呵責(かしゃく)・罵辱(めにく)・鞭杖(べんじょう)・閉繋(へいけい)・飢餓・困苦(こんく)・是くの如き等(とう)の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」等(とう)云々』

『涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今世につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦しみぱっときえて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、不軽菩薩の悪口・罵りせられ杖木瓦礫をかほるも故なきにはあらず、過去の誹謗正法の故かと見えて其罪ひっちと説れて候は不軽菩薩の難に値う故に過去の罪の滅するかと見えはんべり』

『般泥おん経に曰く「善男子、過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに是の諸々の罪報・或いは軽易せられ、』

『及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に因る故なり』

 

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自分は“宿命と戦う医師”として出ていた者です。

 

 高校一年の九月から自分は“吃り”でも苦しむようになりました。そのための登校拒否、何度か行いました。高校を中退しようと考えました。その頃は大学検定はほとんど知られていない、また行う人も少ない頃でした。しかし、自分には御本尊様がありました。どんなに苦しくても御本尊様の前に座って題目を心ゆくまで上げると元気になることを知っていました。自分はそして高校中退を行わず、医学部へ行こう、自分と同じような病気で苦しんでいる人たちのため医者になろう、と決意し勉強を始めました。この信仰故にそう思い直すことが出来たと信じます。落ちこぼれで留年すれすれの成績でしたが、勤行唱題根本に勉強を行い、その高校始まって以来の成績急上昇を果たし、00の伝統のある進学校で489人中485番の成績でしたが、次第次第に成績は上昇して行き、489人中1番にまで上昇しました。

 そして大学二次試験の直前(一日題目3時間上げていました)、僕は対人緊張を発症しました。そして現役のときある元帝国大学医学部に落ち、結局一浪して二流の国立00大学医学部へと失意の内に進みました。

 二次試験が終わった日から一日最低1人の仏法対話を始めました。そしてそれが三ヶ月半続きました。170人は仏法対話し、先輩の応援で2人入会決意しましたが2人とも毎日の勤行指導の途中でダメになりました。その頃は勤行を一人前に出来るようにならないと御本尊様をいただくことが出来なかったのです。そして自分は燃え尽きるように11月20日頃、退転しました。中学時代、人間革命の本を読んで抱いていた広布への理想を実現することの難しさにとても煩悶していました。そして行き詰まり果て、どうしようもなかったのです。その退転は創価学会に復帰しようとする度に魔が競い、7年半の長きに亘りました。

 今も対人緊張に苦しんでいます。今はこれが一番の悩みです。対人緊張のため大学を5年も留年しました。大学最後の年にはバイクの事故でヘルメットをしっかりと被っていたにも拘わらず、頭蓋骨骨折し生死をさまよいました。現在、その後遺症のため人の名前もなかなか憶えきれないようになっています。クスリの名前もなかなか憶えきれません。

 先生と始めてお会いしたのが1994年11月23日の福岡ドームでのアジア文化祭です。このとき誓いました。今こそ、こんな恥ずかしい自分ですけど、今度お会いするときは先カの弟子として恥ずかしくない立派な自分になっています、と。辛いときには、その『11・23・1994』と心の中で唱えて耐えています。また、電話が掛かってくると『11・23・1994』と心の中で唱えて気合いを入れて受話器を取るのが習慣になっています。

 4年前から過労とストレスで軽いうつ病にも罹患しています。勤行も唱題も行うことが難しいです。いつも、仕事帰りに壮年部のブロック長の処へ寄って一緒に方便品・自我解の勤行をさせて貰っています。うつ病のため朝、起きるのが辛く、なかなか起きれなく、朝の勤行は通勤途中のクルマの中で行っています。会合には最近はほとんど行けていません。丹田呼吸法で克服しようと努力しています。丹田呼吸法のホームページを造っています。

 

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