以前、インドに旅したとき、少し当惑したことがあった。インド人と話していると、当然「イエス」と肯定するはずのところで首を左右に振るのである。私はびっくりする。
けれどよく観ると、彼らは首を左右に振りながらも、その呼吸は吸う方が盛んである。この動作で、私の言うことを呑み込んでゆくようである。これは私たちが首を縦に振って呑み込んでゆくのと同じなのである。
一般に誰かの話しを聞く時など、その話し振りや内容を好ましいと感じると、聞く方の呼吸は吸気の方が盛んになる。逆に嫌なら、呼気が盛んになりがちで、嫌の度合いが増進したら唾でも吐きたくなったり、吐き気すら催すことだってある。
このように表面にあらわれたものは真逆でも、実は同じ原理が働いている。
もう一つの分りやすい例を挙げる。
手招きの身振りである。欧米では人を招き呼ぶとき、手のひらを上に向けて、指を相手の方から自分の方へ、くい、くいと曲げる。一方、日本では、手のひらを下に向けて、指を自らに向けて、おいで、おいでをする。これは、欧米では「あっちへ行け」と追い払う身振りとしてとられかねない。
ここで鍵になるのが、手のひらである。手の甲が、いわば自分の外側なのに対して、手のひらは、手の内、身の内側を表わす。日本でも欧米でもそれは変わらないのである。
この内外は単に表象的、記号的にそうなのではない。掌中の珠とか、掌(たなごころ)を指すように明らか、とか、剣と身心が一つになった名剣士の状態を「手の内」が自在だ、とかいう。すべて己の身の内、中心側との結びを示している。これらは文学的な比喩のようにも思われるが、元々、生理的、体構造的、運動学的な根拠をもっている。手のひらと内と外の原則︱ここにも洋の東西を問わず、共通の原構造がある。
それは、武道や舞の技の極意にもなり、日常の起居動作の身振りを支え、同時に言語的な表現にもなる。
インドと、日本や欧米の首や頭の動作の表側はまったく異なっていても、見えないところ、つまり表層でない深層では肯定と否定で同じ身体活動の論理、構図が働く。西と東、手招きの身振りは異なっていても、掌は自己の内側や中心として用いられている。∞気流法は、このような深層の構造に着目して、もう三十年以上、それを「身体の文法」と呼んできている。(最近では「からだの文法」と呼んで、身体を論じている人もいるようであるが)
この「身体の文法」︱本来は「深層の身体文法」とでも呼ぶべきだろうが︱は、もちろん民族のちがいも、身体活動のジャンルの枠もこえて共通している。
立ち、歩き、坐り、息せき切り、溜息をつく、声を出す、遠くを見る…。誰でもどこでも、ほとんどが何気なく行なっている日常の動作や振る舞い。
それに対して、意図的に〈わざ︱技〉を〈わざわざ〉行なう、芸術、芸能、武道、健康術、儀式などの所作手順、身振り。
このように人の身心活動は、日常動作とアート(術)の二つに大ざっぱに別けてとらえられる。けれど、この二つの世界に息づき活動するのも同じ一つの身体で、共通する法則性のようなものに支えられて働く。それも「身体の文法」なのである。
一般には言葉、とくに母国語を読んだり話したり書いたりする際、文法はほとんど意識されず、役に立つとも思えない。けれど、何か言葉を用いる時に難しい局面になったり、それまでにない程高度に自由に表現しようとする際に「文法」の心得が支えになったり、役立ったりするだろう。
「身体の文法」もそれに似ている。人は通常ごく当たり前のように、人に出会い、仕事をし、休み、技を工夫すれば充分だろう。けれどより創造的に、より高度に、深くものごとと取り組もうとする時、あるいは何か行き詰まりそうになった時、そこを乗りこえる時、そういう時こそ、この「身体の文法」とそれを自覚、活用する∞気流法は役立つことが分る。
「身体の文法」のその元の本、源の一つは、ヒトが直立二足歩行をはじめて人となって、特有の意識や空間認識や言葉に目覚めつつ人間としての活動を始めた、その原点中の原点に遡る設定になっている。
直立二足歩行と共にヒトは言葉と想像力を働かすようになったとされる。そのことは嬰児から幼児への成長過程をたどって推測できるとされる。
その原点に立ち戻りつつ、そうすることで未来を拓こうとするものである。
つまり人間の身心の可能性を汲み出そうとするものである。
実際のそういうエクササイズについては、ここでは詳述できないが、その一つは、深く全身をリラックスしつつ、体の内側からもゆるめつつ、「自然体」で立つことを目指す。重力(引力)に沿いつつ、重力(引力)を活かす、エクササイズである。(障害などで直立が困難な人でも、立つことによってヒトが人となったそのことは本質的には共有しているのだから、同様のことは可能である。)
このように、直立してヒトとなる以前の生き物としての由来の構図も含みつつ、ヒト︱人間の成り立ちにこそ、人の営みの構図の原点、基軸を見出してゆける。そういう発想が∞気流法であり、その発想の源になる「身体の文法」なのである。
あらゆるジャンルに共通、あらゆる民族に通底するということも、それで理解されると思う。
身体について、あらゆる民族、人類に共通と述べると、それはもちろん、例えば「食」とそれと対になる「排泄」、あるいは性やエロスの問題になる。民族にかかわらず男女は結ばれて子孫を成し得る。もちろん生物、動物として同類、同種ではあるから。そういう共通基盤に関しては基本的に了解されやすい。けれど一般には「身体の文法」という見方は、少しとらえにくい。それは一つには表相が異なるからである。また身心の活動や術などで、ジャンルが異なると、お互いにがないように思われてしまう。専門別に各々の世界に深く入り込んでしまうと、他のジャンルを振り向かず、他の世界に関心を喪い、他の世界の理解のための感度や知性さえ摩滅させてしまう。
現代はグローバリゼーションということで、特に、科学技術や経済、通信、交通の面では共通の場が否応無しに形成され世界中の人間はその中に巻き込まれてゆく。
一方、かけがえのないとされるお互いの個々の命の素であり〈場〉でもある「身」は、かけがえのないという掛け声と反比例するかのように、組織化され、情報化される世界の中でくずの一片となって埋没してゆく。
存在(イノチ︱とルビを振って読みたい)と身(ミ)の出会い、交流はその充実すべき道とその方向をいよいよ喪ってゆくようにも見える。(村上春樹の作品の中には、そうした身(ミ)の交流の喪失のテーマが仄見える、と私は思っている。また、たとえば、イタリアでも圧倒的な人気のある作家、吉本ばななも、別の意味で。)
「身体の文法」は、民族や宗教、風習のちがいをこえ、人間の生きることの共通基盤を見出し、実感し、体得してゆくための発想である。
生物、動物としての人間の共通性の知識は、科学を通して解明されてきた面が多い。けれどそうして解明されてきた知識の集積の成果は、真にその意義がとらえられているとは思えない。何かとてつもなく遅れている。ずれている。
これまで宗教や政治思想や信条、イデオロギー等が「愛」とか「神」とか人間の共同性のあり方の理想を掲げてきたし、普遍性(ある意味でのグローバリゼーション)も強調してもきている。けれどそれらは常に組織化され、それを受け容れる人間や民族が集団化し、とたんに、他を受容するのが難しい頑なものになりかねない。これは人間の業(ごう)と言いたくなる程だが。
私たちはまず、「身(ミ)」に還ってみることではないか。「身」に耳を澄ますことではないか。
「身」は必ずしも物としての肉体という意味に限定されてしまわない。御身お大切にと言ったり、その身になってみる、という際の身である。
「身体の文法」は、物理的、動物的、生理学的な体を含みながらも存在(イノチ)、あるいは身(ミ)の構図を明らかにしてゆこうとするものである。
誰でも、自分の部屋で一人になった時、あるいは友人と共に、時には必要があれば講習の場で、身体の実感を媒介にしつつ、その身の裡に含まれている構図や理(コトワリ)をとらえる。そのようにして世界や人について汲めども尽きない興趣を深めつつ、新たに活々と出会ってゆくことを目指すのである。
まず、自らの身体と出会うところからはじめてゆく。
あらゆるジャンルに共通、あらゆる民族に通底するということも、それで理解されると思う。
○ 身体の文法︱「舌」のこと︱赤児の命がけと達人の技
生きることは味わうこと
舌こそは人の身心活動の源である。赤児は全身全霊で、無我夢中で母乳を吸飲しようとする。この唇と舌の運動こそが最も一所懸命、命がけでしかも基本的には深い安らぎが伴っている。そして多くの場合、赤児の手足などの他の運動も、その舌の運動を可能にするためにある、といって過言でない。
人は、精神統一とか集中とかを追求するが、瞑想や武道、舞、様々の世界の達人でも、赤児のこの舌の運動の集中の純一さや深さにはなかなかかなわず、赤児や幼児の状態を、技を行なう時の境地の理想に掲げる例も多い。
ところで、バスケットの神様と言われたマイケル・ジョーダンは、ドリブルで敵の妨害を避ける時や、飛躍してすさまじいゴールを入れる時さえ、その大きな舌をダラリと出していることが多かった。沢山の写真やビデオ映像に記録されている。対抗の極の場面や、集中、緊張の極と思われる一瞬、天才ジョーダンは舌を出す。
これは決して彼の癖とはいえないのである。
実は、これと同様のことが、鎌倉時代の前から続いているとされるある流派の剣術に伝わっていて、私はその一部を伝えられている。それは敵の攻撃に対してパッと身を沈めて避ける際、舌をダラリと出すのである。
この感じは誰でも試してみれば割に簡単に会得できる。武術にこだわらず、単に自然体で立つ姿勢から、すっと身を沈める動作を、通常通り行なってみる。そして、次に舌をダラリとして同様の動作を行なってみるのである。すると、後のケースは前に比べて相当素早く身を沈めるのができやすいのを感じるだろう。
マイケル・ジョーダンは決して舌出しを「方法」としていたわけではない。その証拠にこれを誰にも方法として伝えていない。天才だから、そのような舌を用いた「身体の文法」を自ずと実行してしまっていた、としか言いようがない。
この舌のことは、実は野球のイチローも、知ってか知らずか行なっていると思われる。彼はバッティングの際、一瞬、頬をプッとふくらませるが、こうすると舌に力みがなくなり、かわりに手や足にしっかりした必要な力が働くのである。この他、たとえば、フランスの発声法では発声、呼吸のために舌を操る方法を発表している。これも試すとすぐ納得できる。
このように身体の論理というものがある。あるいは身体にある種の理性がある。それは通常あまり意識されないが、私たちの生の豊かな構造を司っている。
舌の「身体の文法」について、その実践法を述べたが、その先にさらに大切な意味がある。
漢字の研究の碩学、白川静氏によって強調されるのが、漢字の始源の多くは、私たち現代人の目から見ると呪術的なものや霊的なものにかかわって生じた、ということである。
たとえば、「美」という字の上部は、見事な羊を示すが、それは元々神霊に供する犠牲になるものである。捧げる羊は美しくそして味が上々でなければばらない。善や義も羊や羊に似た動物にかかわっていて、似た事情をもつ。つまり、美、善、義など精神的な価値の最も大切とされそうなものも、生きることの基本である味覚と通じるものといえる。
仏教の祖、釈迦でさえ、その最終的なサトリ、解脱がなされる前、苦行と断食で衰え果てそうになっていた体の様子に、通りがかりの若い女性が同情し、手にしていた「粥」を与えた。釈迦はそれを食し、気力を回復して禅定に入って、七日の後サトリは開けた、とされる。その後世界に影響を与えつづける深遠至極とされる釈迦の思想の源にも、このように「舌」の裏付けが欠かせない。その他、儒教の孔子や西欧哲学のカント等にしても、その文献に残された「表通り」の思想や語録の中にちらりと見えるエピソードなどを通して、実は「味」や「舌」の働きがその思想にも欠かせぬことが窺われる…。
∞気流法の「身体の文法」では「舌」の感覚とその動きとリラックスの状態を、あらゆる運動、エクササイズ、身体技の具体的な方法に結びつけてとらえている。
舌は、人が生き物として、宇宙・自然・世界と最も純粋に出会ってゆく場であり、器官である。
「舌」につづく「身体の文法」
◯「薬指」のこと︱西欧ではリングフィンガー、日本では歌舞伎役者が口紅をさす指の働き。なぜに指輪は多くこの指に嵌めるのか、等々…。
掌の先にある手指は、人が世界に触れる先端である。各指はそれぞれの役割をしているが、なかでも薬指の役割は存外と忘れられがちである。
ピアノの演奏等の時、薬指はもっとも操りにくい、とされる。剣術などでも小指は強調されても、薬指はもう一つ役割がはっきりしない。が、私は、明治に生きたある流派の柔術の名人の孫と親友で、彼からその名人の言っていた「薬指の極意」を聞き、三十年間くらい少しずつ研究し、明らかにしてきた。
◯「気」のこと︱「気」という生体エネルギーのとらえ方など。
元気、病気、気配、殺気、活気、気配り、気性、血気、気迫、天気、景気、生気、人気(にんきとひとけ)…等々〈気〉という言葉ほど頻繁に用いられるものは少ない。それなのに必ずしも「市民権」を充分得ている訳ではない。東洋医学やインド医学(アユル・ヴェーダ、ここではプラーナと呼ばれる)、武道などでは経験知として実践上用いられ続けているのに、その存在や働きは科学的な充分な証明のもとでは認証されていない。けれど「実体」としての〈気〉をどう考えるかは別にしても、〈気〉という発想は大切である。ここに〝言語〟の働きが微妙に関わってくる。
◯「息」のこと︱呼気、吸気とその間、その「構造」に沿って少しずつ呼吸をコントロールする。
呼吸法にする前に、息をどのように、呼吸をどうとらえるか。私は息の構造をあきらかにした。呼気、吸気とその間、それと身体の動きや集中との関係。そのような「構図」に沿って少しずつ呼吸をコントロールし、活かすという風になっている。
◯「円相を描く」︱人のもののとらえ方に働く〈円相〉は瞑想・武道・文学・心理学、様々なとこ
ろで実践的に用いられてきている。それは生命と宇宙の観想法であり、また具体的な実践法である。
◯「動作を流れとしてとらえる(自然の中に直線はない)」
◯「重力(重さ)に沿って重力を活かす」
◯「中心と脱中心、バランスとオフバランスの原理」
◯「体のポイントと動きとリラックスの筋道」
……等々と挙げられる。(詳細については拙著及びブログを参照して下さい。)
繰り返すが、こうした「身体の文法」は、単にこれを知識としてもあまり意味がないのだ。
ある現代フランスの哲学者は次のようなことを述べている。
「身体の実感と訓練は、世界をとらえる基本条件になる。」(坪井・意訳)
一方、発句の心得として、芭蕉の有名な文がある。
「松のことは松に聴け、竹のことは竹に習え」と。これは、私たちに「身体のことは身体に聴く、体のことは体に習う。」という発想を促す。
そして、東西二つのこのアドヴァイスは対照的で、また相通じている。
∞気流法エクササイズの基本の第一︱実践に向けて
さて、ここまでも繰り返し述べたがこれらの「文法」は、その文法の感得法とその応用の実践法に結びつく。つまり、それぞれにエクササイズがある。一つのエクササイズに、複数の「文法」が融合している場合もある。
ここでは、通常私たちがエクササイズの場で行なっている基本中の基本を一つ挙げておく。ここ二十年来、必ずはじめに行なっているものである。
リラックスと集中を徹底する「3R」のエクササイズ
3Rとは、Relax, Relation, Realization の三つ、リラックスとつながりと実感・集中の三側面である。
たとえば両手をできるだけゆっくり上にあげてゆく。これは手の動きのようだが、深くリラックスして集中して実感してゆくと、この両手の動きが、脇腹、下腹、腰へ…とつながっているのが感じられる。こうして両手の運動は実は全身の運動でもあることが実感される。体の各部の部分的な運動は他に呼応してゆく。そのように実感されると、逆に全身(の各部)から両手へと動きが伝わることにもなる…。
つまり、これで体の各部へあいさつしてゆくのである。部分は全体に連結している、ということが実感できてゆく。実感できてゆくと、実感できた体の部分があいさつしてくる。あるいは、各部同士が互いにあいさつをはじめる…という具合になる。両手を上下に動かして、これを両手の運動だ、と決めるのは、言葉、あるいはそれによる観念の働きである。その言葉や観念の枠をとらえつつ、それをこえてゆくのである。すると両手の動きが各部と連結した動きになり全身の動きになる。こうしていわば意識のネットワークが全身に及んでゆく。
「3R」は形がないからやりにくいと思う人もいる。しかし形がないわけではない。体の形(型)は決められていないが、言葉の型、つまり、リラックスする、集中して実感してゆく(リアライゼーション)、するとつながり(リレーション)がとらえられてくる、という三つの言葉の型がある。言葉の型に沿って動いて、通常の言葉の壁(たとえば両手を動かすと両手の運動と自ら決めつけて、他のつながりや他が動いていることを無視する)をほどいてゆく。芭蕉の「松のことは松に聴け…」のアドヴァイスが効くところである。
この「3R」のエクササイズだけ行なっても、とても大きな変革が身と心に起ってくる。
歌手や武道家や舞踊をする人や医療家や、あるいは一般の通常身体運動には関わりのない人でも、普段の身ごなしや仕草が自ずと変容してくる。歩き方も呼吸も変わってくる。何十年も歌っている歌手も、外国で道場を開いていた五十歳過ぎた熟練の武道家でさえ、身構えや呼吸がさらに精妙になるのが自覚された例がある。
「3R」は自分が身体としても生きていることを実感し直し、全身心を大きく一つにしつつ、各部を自由に柔らかくして行動してゆく基本になるのである…。
まずこの「3R」に基づいて幾つかの「身体の文法」によるエクササイズの型に入ってゆくのである。
エクササイズの形自体は極めてシンプルだが、行なえば行なう程、日がたてばたつ程、味わいは深くなるようになっている。そして、何度も、あるいは何年も、この「3R」のエクササイズを重ねていると、次のような想いも生じてくる。
リラックスの窮極とはどういうことか? 実感の窮極とは? 窮極のつながり(リレーション)とは?
もし望むなら各々の身体と心、各々の立場とテンポでこれを自らの身心で問い、探ってゆくことができる。
それは、もちろん身体のことに終わらない。「3R」は言葉と想像力を新たに、豊かにしてゆく働きをするはずである。