それは明らかに自分のミスだと分かっていることだったのに、どうしてか気を使われて、挙句の果てにかばわれて‥‥うなだれたまま席に戻ることはできたけど、目を上げることはできなかった。 後ろの方で、誰かが呟いたからかもしれない。 「うらやましい」と。 せめて、きちんとミスを指摘して欲しかった。その上で叱るなりやり直させるなり、そういう、対処をして欲しかったのに、私に与えられたのは気の毒そうな声音と、仕事を任せることはできないという、無言の決定‥‥。 これから先のことはわからない。けれど、もう誰も認めてはくれないという予感が、頭の片隅に根を張った。
外に出ても、重苦しい気分は消えなかった。それどころか、狭い歩道を行く人々の速度に気圧されてますます気が滅入ってくるのを、ただ受け容れることしかできなかった。 コートに埋め込んだはずの首筋が冷たくて、手袋をした両手をこすり合わせたけれど、温もりはやってこなかった。 鞄と一緒に自分自身を抱き締めるようにして歩いていると、まるで自分が幼い子供で、なにか恐ろしい怪物から必死に逃げようとしているような気になってくる。 満ちてくる夕闇の向こうで、風が凍えた音がした。 自分の吐き出した息はまるで迷いこんだ雲のようで、僅かに残された温もりだけが愛しくて、少しでも腕に取り戻したくて、わけもなくため息を撒いた。
街燈の下に佇む私に、彼はいつものように片手を軽く挙げ、それから首を傾げてみせた。 「どうしたの?」とも「なにかあった?」とも聞かず、彼はただこう言った。 「‥‥海でも、見ようか?」 ごく当たり前に発せられた言葉と優しい声音がたまらなく辛かった。 そうと気づかないうちに手をひかれて、いつの間にか車にいた。 座りなれたシートのくぼみと、見慣れたパネル‥‥ごく小さく絞られたラジオの音が繰り返しくりかえし、誘うように漂っている。もしかしたら、海の底はこんな風なのかもしれない。 目の前を流れる街燈の明かりが、いくつもいくつも過ぎていった。 出るときに買った缶コーヒーは甘ったるい香りを放っている。 うっすらと立ちのぼる湯気を見ていると、心地良い眠りの波紋に触れた。 瞬間、真っ黒な海に横たわる自分の姿が瞼に浮んで、目が覚めた。 ハンドルを握る彼の横顔が、いつもより遠くに思えた。
車から出た途端、正面からの風に思い切り煽られた。 ガードレールを掴んだ指先がちぎれるようで、慌てて手袋をはめた。 「雪がね、降るといいんだけど」 隣で腕をさすっていた彼が、ぽつりと呟いた。 誰かに聞かせようとするでもなく、彼は静かに言葉を続ける。 「真夜中に降る雪にはね、始まりがないんだよ。青を煮詰めて作ったような黒い空から、音をたてずに降りてくるんだ」 息をするたび、白く濁った熱が現れては消えていく。 「こんな夜に降る雪は、昼間のよりずっと白いような気がするんだよ。色んなものを、夜の中に置いてきた、一番綺麗な雪のような気がするんだよ。 ‥‥でも、ちょっと寒いね」 そう言い終わると、彼の熱が近くなった。 まるで小さな子供にするみたいに、前をはだけたコートで、首だけだして、しっかりとくるまれていた。両肩にまわされた腕の重みが、温かかった。
「あ‥‥」 ぼんやりとした街燈の下で、なにかが光った。 とても細かい光の粒が、ゆらゆらと舞っているような、不思議な光だった。 見上げると、吸い込まれそうな暗闇の向こうから、白い雪が吹いてきた。 ゆるやかな螺旋を描くように降りてくる雪は、けれど地面に触れず、どこへともなく消えていく。差し伸べた手のひらさえ透けていくように、ただ、音もなくそこにあった。 単色の黒ではなく、なにか他の色を濃くしていったような空と、真っ黒で時折り銀色に光る海とに挟まれて、雪は居場所をなくしたように舞う。 塗りつぶされたような空と、塗り込められたような海。 始まりも終わりもない、雪の旅。 なぜだろう、胸元が締め付けられるように苦しくなった。けれどそれは決して嫌なものではなく、苦しさと痛みが増すにつれ、自分の腕ではない、確かな重みを感じられた。 彼の温かな指が頬に触れると、水滴が滲んだ。 いつの間にか自分が泣いていたことを知った。 夜に降る、雪‥‥夜を、経る雪‥‥。 そんな言葉が浮んで消えた。 悲しみも憎しみも、喜びも幸せも、全てを濾過されたから、この雪はこんなにも白く、清い。そう思った。
「‥‥ねえ」 「ん?」 「ありがと」 「うん」 「それとね」 「ん?」 「好き」 「‥‥知ってる」
指先にこめられた力が嬉しくて、頬が新しい涙に濡れた。
ため息が出るような素敵な情景です。 本当は、もうずいぶんと前に、これを頂いていたのですが、凄く凄く作業が遅れてしまった 事をお詫び申し上げます。 空弧さんの文書は、時に柔らかく、時に鋭く、私を捕らえて離しません。 沢山の言葉の中から心にフィットするものを選ぶ才能がうらやましいです! 小作品も素敵ですが、空弧さんの詩もまた格別に素晴らしいです! 紡ぐと言った表現がぴったり!そんな空弧さんに頂いた作品です。
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