-胸にともる火-
エルと口論を交わしてから、相変わらずの日々が続いていた。
朝はドリップコーヒーから立ち上る香ばしい香りで目覚め、綺麗に掃除された部屋と
使いやすいデスクに整とんされた書類達。床などはピカピカと輝いていた。
食卓もきちんと整えられ、まるで否の打どころもない。エルは毎日毎日、良く働く。
秘書と家事の両立を見事にこなしている彼に、増々出ていけなどと言い出しにくくなっていた。
それにもう一つ、私の中にある変化が起きていた。毎日、忙しく働いていると言うのに、気がつけば、エルの事を考えている。
彼の背景に何があるか知りたい気持ち。彼を突き放せない自分の気持ち。彼がいったい何を考えているのかという事や、甘いものが好きな彼の為に、ケーキまで買っている自分の事......。
きっとそれは、はたから見れば単純に愛が芽生えつつある状況なのかもしれない。けれども愛と言う言葉にも色々な意味合いがあるように、彼に対する気持ちは恋人などに対する気持ちと少し違っているように思えた。
確かに恋人に対する気持ちにも似てはいたが、父のような気持ちも、友人のような気持ちでもあった。そしてそれは、家族としての愛のようでもあった。
自分の中に、いつも、自ら望んで捨てた家族が住み着いている。ドライな気持ちと裏腹に、家族を求め、愛情に飢えた自分が見えかくれする。
そんな自分に気付く時、私はどうしようもなくやるせなくなる....。
どことなく垣間見える彼の反骨精神と、それに似つかわしくない寂し気な表情に、
私は惹かれた。
彼の中に、私は己自身を見ていた。それはとても不思議な愛情だった。
そう言った様々な気持ちが入り乱れ、順調に仕事をこなしつつも、内心はざわざわと波立っていた。
それは自分にとって重大事件だった。いついかなる時も、心の奥はいつも冴えざえとして冷たかった私の奥の奥、ちろちろと燃えている火の暖かさに私は動揺していた。
こんな事になるのなら、最初から彼をこの事務所になど連れて来るべきではなかった。何度も何度も私は後悔した。
その時の私は、その訳の分からない動揺が、彼を切り離す事で解決すると、単純に思っていた。
そして私は、ある間違った決断をしようとしていた。
-輝かしい未来の為に-
積もりに積もっていた仕事も優秀な秘書のおかげで、トントン拍子に進み、オークションで競り落とした例の家への引っ越しがようやく実現できそうだった。
私一人なら、こんな小さな事務所の引っ越しに小1年もかかる所だが、引っ越し業者の手配から事務所の整理、身の回りの物の荷造りなど、エルは二日でこなした。
その日の夜には人間の方も引っ越しできる筈だったが、私が帰宅したのは既に午前様だった。荷物の方はもう向こうに行ってしまった様で、綺麗さっぱり片付いた何もない事務所の隅っこで、エルは子猫のように丸まって、小さな寝息をたてていた。
何も疑わぬ純真な子供のような寝顔に、いったいどんな過去があると言うのか.......。
それを思うと、その健気で儚な気な風情に、またあの不思議な愛おしさが込み上げた。
(このまま、彼を私の手許におこうか....)
ふと、そんな気が起こる。
けれどそんな気持ちは一瞬ですぐに消えた。彼はここにいるべきではない。
彼にはもっと別な、輝かしい未来があるかもしれない。自分の気持ちに正直に生きて来た私が始めて相手の幸せな未来だけを願っていた。
父親のように兄のように親友のように。そして.........恋人のように。
床に一枚だけ取り残された毛布を彼にかけてやると、私はそっとその場を離れた。
私は駐車場に止めた自分の車に戻ると深く溜息をついた。ポケットを探ると、くしゃくしゃになったタバコの包みから最後の一本を出し、静かにライターで火を付けた。
ゆっくりと一服する。自分のはいた煙りの行方を目で追いながら、私の手が携帯電話を探った。
相手はなかなか出なかった。気持ちが萎えかけ、切ろうと思った瞬間に繋がった。
「あ、俺だけど....分る?久しぶりに明日会えないかな..........」
-住処-
コンコンコン....
車のガラスを叩く音で私は目覚めた。外はもう明るかった。寝とぼけた私の目に、毛布を羽織った天使が、怪訝な顔で車の中を除き込んでいるのが映った。
私はリクライニングを起こし、窓を開けた。
「どうしたんですか?!こんな所で...。戻ってらしたなら中に入ってお休みになれば良かったのに」
素頓狂な顔をしながら、それでも心配気に私を気づかう。
私の中に、ある企てがある事を知らぬ彼の顔は無邪気で、夕べの胸苦しさがまた、私をしめつけた。それでも私は笑顔を作った。
「床で寝るより車の方が寝心地よかったからね、君も良く寝てたしね」
私がそう言うと、エルは肩からずりさがっていた毛布をおずおずとした仕種で羽織りなおした。
「毛布、すみません....」
伏せ目がちにそう言う彼の頬に少女の頬にも似た紅がさす。
「さ、行くぞ!」
胸の痛みをふっきる為の言葉の筈が、私には憂鬱な一日の始まりを告げる号令のように響いていた。ともかくも、頭を切り替えて今日を乗り切る事に私は専念しようとしていた。
「最後の確認、お願いできますか?」
そう言うと、エルは、私に事務所の鍵を渡した。
最後の戸締まりをして、まわりをもう一度見渡した。狭い筈の事務所兼寝ぐらが、今は広く見える。物事にさほど執着する方ではなかったが、ここを離れるとなると、今回ばかりは何故か寂しい気持ちになった。
ただの汚い住処が、最後にきてようやく、"家"らしくなった。
それはエルが来てからではなかったか?私は本当の家族を手に入れたのではないのか?
ふと、そんな事が頭を過る。
(これはエゴだ...。私の身勝手な妄想だ)
その時の私はそう信じて、長年の住処に静かに鍵をかけた。
そして一路、新しい家へと車を走らせていた。
-オーリ-
ロンドンの中心街を抜け、ハムステッド・ヒースのあたりまで来ると、嵐が丘の舞台のような懐かしい風景に出会う事が出来る。新しく植樹された針葉樹林の中の国道を行くと、やがて茶色い建物が見えて来た。壁には石がまばらに埋め込まれ、重厚な感じの建物だった。表から見るには、差程広くもなく、狭くも無いが、男やもめの住まいとして見れは、ちよっと贅沢な家なのかもしれない。
「さ、着いたよ」
ロンドンからたいして離れていないが閑静な場所。少し小高い所に立つこの家は、2階の窓からならばロンドンの街が見渡せるだろう。立派な煙突からは煙りがたっていた。
「煙りが.....」
エルは不思議そうに呟いた。
玄関のわきのガレージは既に開いていた。車4台はたっぷり置けそうな広さだった。
二人の乗った車が入って行くと、真っ赤なベンツが置いてあるのが目に止まった。
この家の主よりも先に何者かがこの家に到着している。
「誰か来てますよ?」
怪訝そうなエルに答えずに私は車を降りた。
「誰か訪ねて見える予定とかあったんですか?」
スタスタと玄関に急ぐ私の後をエルの小さい歩幅が追いかけるようにやって来る。
私は躊躇する気持ちを一気に切り裂くようにして、美しく細工された小さな蝶の呼び鈴を押した。
ドアはすぐに開いた。
「お帰りなさいダーリン。お久しぶりね」
グラマラスでゴージャスなイタリア女が私を出迎えてくれた。
「オーリ....元気だった?」
そう言うと、熱い包容を交わした。
「さぁ、入って...お茶入れるわ。エル君、あなたもどうぞ」
突然、見ず知らずの女性に名を呼ばれてエルは戸惑っていた。
「あの.....」
居場所の無い顔をしたエルが私を見た。
「話した事なかったね、私の内縁の妻だ...前の住処があんなんだったからね、これがいい機会だと思ってね」
私は彼の目を見ずにそう告げた。
「あなたの事はダーリンから聞いてるわ、臨時の助手さんね。オルキデア・ブレッサよ。オーリって呼んでね」
冷たい手がエルの手に触れた。
「さ、あなたも入って。皆でお茶をのみましょう」
エルは一言も言葉を出せずにいた。その後のエルがどんな表情をしていたのか私には分からない。彼の顔や表情を私は見る事が出来なかった。
-ソレカラ?-
その日は、オーリの入れたお茶と、手製のマフィンを食べながら、彼女がこの前旅行に行った日本の事など、新しく出来た油田王の友達など、おおよそどうでも良い話や、午後になって荷物の整理などをして過ごした。
オーリは世話やき女房宜しくこまごまと働らいた。夕食を作り、したたか酒も入り、何度も新しい家に乾杯をした。
そして私も御機嫌なふりを続けた。
久々の妻との出会いに何度も口付けを交わし、酔いつぶれて二人がソファーになだれ込む頃、エルはそっと部屋を出ていこうとしていた。
「とりあえず君の部屋はこの部屋の隣だ。ベッドはあるからなー」
もつれた舌で私はうめくように、彼に告げた。
「....おやすみなさい...」
消え入りそうな声でエルがそう言った。
酔えない筈の私が今日は本気で酔っていた。こんな事は人生何回もある事じゃない。そうでもしないと、自分を誤魔化す事が出来そうもなかった。
「オーリ...オーリ...」
酔った勢いで女を抱いた。
もうお前がいなくても生活には困らない。食事も掃除も洗濯も....。
この新しい住処にお前の居場所はないんだ。頼む、ここを出ていってくれ!
親元に帰って学校へ戻ってそれから......。それから.........。
-いい女-
頭が重い.....。
目覚めた気分は最悪だった。夕べ半分やけで飲んだ酒が抜けていないようだった。夕べはオーリとソファーで眠りこけてしまった。ソファーの周りには夕べ飲んだと思われる酒瓶が散乱していた。それにしても随分飲んだ。
オーリの方を見ると、私に背を向けて寝ている。すべらかな裸の肩が剥き出しになっていた。
私はソファーの端に座って、空の酒瓶を手にした。頭をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら腕時計を覗いた。午前6時。暫く重い頭を抱えて呆然としていた私に背を向けたままのオーリが話し掛けて来た。
「ぼうやさっき出てったわよ」
「....そう....」
感心なさ気な声で私は答えた。自分で仕向けた事なのに、彼の為を思ってした事だと言うのに、この後味の悪さは何だろう。
「本当にこれでいの?こんなやり方、あなたらしくないわダーリン」
私の方に向き直って彼女が私をじっと見た。
「何言ってんだよ、邪魔な子供を追い払っただけじゃないか」
余裕を見せようと笑ったつもりが、苦笑いになってしまった。
「ねぇ、あなた幾つよ、こんな子どもじみたあなたは見た事ないわ。いつも冷静で、大人の中の大人って顔してるあなたが、可笑しいわよ。自分の気持ちも気付かないの?百戦錬磨のあなたが、こんな馬鹿げた事するくらい、あなた、あのおチビさんに本気なんじゃないの?」
「それは私のエゴだ!彼はまだ未成年なんだ。ちゃんと両親の元で学校に行って、沢山学んで、よりよい人間になるチャンスを私の所にいたために潰す権利は私にはないんだ!」
いつになく声をあらげた私に、びっくりするような目でオーリは見た。
「驚いたっ!あなた価値観も狂っちゃったのね。世間ではそう言うの正論って言うんでしょうけど、それはあなたの言葉じゃないわ。隣のおじーさんの言葉聞いてるみたいよ!今のあなたって全然魅力的じゃない」
彼女の勢いに私のテンションも上がった。
「私はね、私は彼の親でも保護者でもなんでもないんだ!子供一人の運命をどうこうなんて出来ないんだ!」
「そうよ、子供よ。その子供をあなたはこんな酷いやり方でほっぽり出したのよ。いいの?このままで....。あなたは絶対に後悔するわよ」
部屋のすみに彼に掛けた毛布が空しく置き去りにされていた。
どっと私の中に、後悔の念が押し寄せて来た。本当にオーリの言う通りかもしれない。
憔悴した顔の頭をオーリは優しく抱いた。
「あなたの欲しかった家族がやっと見つかるかもしれないのよ。あの子も家族を求めていたんじゃないの?素直になりなさいよ」
「ごめんオーリ.....。君をダシに使ったりして。みっともないな私は....」
「早く追いかけてあげて、戻って来るまでに私は消えていてあげるわ」
そう言うと、オーリは私の背中を押した。
脱ぎ散らかした洋服を無造作に着ると、オーリに親愛をこめてキスをした。
「君はいい女だね。どうして私は君にプロポーズしなかったのかな」
「愛人一号にはなれても家族にはなれなかったからよ。もう行って....」
-途切れた言葉-
私の人生でこれ程慌てた事はない。オーリに背中を押されてもやもやした霧が一気に吹き飛ぶようだった。
そうすると、私の本当の気持ちや、間違っていた私の選択や、酷い小細工の事が鮮明に見えて来る。
今はとにかくエルを捕まえて、謝らねば、そして自分の気持ちを伝えなければ。例えそれで彼が離れて行ったとしても、それはそれで仕方の無い事なのだ。
けれども何故か、そんな事にはならない気がしてならない。
ここ数カ月、引き合う糸を感じていた。けれどそんな考えを押し殺して来
たのだ。
でも今なら分かる。彼もまた私を父親のよに、兄のように、家族のように、そして恋人のように思ってくれていた....。
自惚れかもしれないが、どうしても、そんな気がしてならない。それを確かめたい。その一念で、今私は車を走らせていた。
この家の近くにはこの道一本しかない。行くならロンドン方面しか考えられなかった。昨日来た道を辿る。
針葉樹の林を抜け、ハムステッド・ヒースを過ぎた所で私はとうとう彼を見つけた。センターラインの真ん中をとぼとぼ歩く小さな姿。
反対斜線の車にクラクションを鳴らされても、すれ違う車に怒鳴られても
そのままフラフラと歩いていく。
風になびく柔らかな髪、小さな肩、時に弱く時に強く見える背中。伸びやかな手足、少女のような面ざしやバラのような唇。いつも伏せ目がちな寂し気な瞳。それらが何故かとても懐かしい。
後ろから彼に追い付つくと急いでウィンドを開けた。
「エル!」
振り返えりもせずにうつむいてエルは歩き続けている。その顔は泣いているように見えた。黙々と歩く彼の歩調に合わせて私は車を走らせた。
「エル!許してくれ、頼む、話しを聞いてくれないか」
エルは歩調を速める。私の車もそれに合わせて走る。車通りの少ない道とはいえ、後ろの車がすぐに追い付いてくる。クラクションを鳴らされても、私はエルにぴたりと寄り添って走った。
「酷い事をしたと思ってる、君にどんなになじられても構わない、けど君を家に帰すのが一番良いと思ってたんだ...だから........」
エルは振りかえる事なく歩き続けた。
歩道を歩く人も何事かと怪訝な顔をしていた。車は迷惑そうに私の車を追いこしていく。このままロンドンまで走っても拉致が開きそうもなかった。
私は焦れて、エルの前に回り込むと、車を真横に止め、車を降りると、彼の肩につかみかかった。
「一緒に暮らしてくれないか、今更と思うだろうが....。やっと自分の気持ちに正直になれたんだ!」
エルは私の顔を見ずに、かすかに唇を動かした。
「でも、もうオーリさんがいるし....僕のいる必要なんて........」
「そうじゃないんだ!オーリは....遊び友達だった...。君を遠ざける為に私が頼んだ。妻なんかじゃないんだ!」
私は必死に説明した。けれども、どれもが言い訳じみた言葉ばかりだった。言葉を見つけられずに私は彼を強く引き寄せた。すっかり冷えきった華奢な体を感じた時、彼をどこまでも守っていきたいと言う気持ちが膨れ上がった。
「君を守りたいよ」
何も考えず、ふわりと口をついたその言葉に、やっとエルは涙でくしゃくしゃになった顔を上げると、私の首に両腕をまわして来た。
「好きです。何もいりません。ただ僕はあなたの........」
その時、大きなトラックがけたたましいクラクションを鳴らしながら通った。言葉は途切れ、何か言っているエルの唇を私は見ていた。
ただ僕はあなたの.......。
その後に続いていた微かな言葉を、私は聞いた気がする。
ただ僕はあなたの.......。
ただ僕はあなたの.......。
あれはなんと言う言葉だったのだろうか。
「OH NO...」第一部完結
最終更新日12/3
お話はまだまだ第2部に続く....
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