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-プロローグ-
「クリスマスはロンドンだね?」
ミルクココアから立ち上る湯気の向こう、まだ明け切らぬ空を、窓越しに眺めながら幸せそうにエルが呟いた。
静かな音楽と香ばしい珈琲の香り。パチパチと爆ぜる暖炉の音が、連日の仕事の疲れを癒してくれていた。
「君はロンドンっ子だからね、ついでにママにも会って来るといいよ」
私は新聞に目を走らせながら珈琲の最後の一口を飲み干した。
「ご冗談でしょ。あんな家には帰りません」
何かと複雑な家庭環境にあるエルは強がってみせた。
大人ぶってみせる彼の顔が見たくて、私は時々わざと彼をからかうのだ。
「さて、それでは行きますか」
私は煙草をもみ消した。
ドアを開けると、空気は一気に霧に変わる。躊躇する私をしり目に、タンッと、軽やかな足取りでエルは外に駆け出した。彼の銀色の髪も透き通るような肌も冷たい空気にスッと溶けた気がした。海岸沿いを走り出したエルが、ふと、足を止めた。
「雪...」
上空の冷たい空気にさらされて白い結晶になった雪の綿。それをまるで待っていたかのように、海の水面が抱きとって行く。こんな風景はちょっとないくらい美しい。
これはなんだろうか?この心のわだかまりは。こんなに素直に美しいと言えるのに何かが心に引っ掛かっている。耳元を遠くからやって来た風が唸りを上げた。
「.....ているの?」
風の音に混じってエルの声が聞こえたように思った。
「似ている?」
再び私にエルが問いただした。
「何がだい?」
そう言いながら私はゆっくりと波うちぎわまで歩いた。広い歩幅についてくるエルの子供のような足音に、私は突然、この"わだかまり"が何であったか思い出した。
昔に、私はこんな風景に出会った事がある。私の捨てた故郷。自由の為に沢山の人間が血を流し、そして今は誰もが行ける国になった。肉親を恋人を、全てを諦めたあの国。私の心をズタズタにしたあの白いロシアの大地。
嗚呼、ドーバーに降る雪一面の、美しい筈のこの風景がこんなにも苦い.。
いつになく神妙な顔の私を気づかわしげに、エルは再び同じ言葉をくり返そうとはしなかった。
そして私達はただ押し黙って、海岸線を駅に向かって歩いていた。
-本当の自由-
私の名はアイザム・ジルド・リュドミリア。探偵業を営んでいる。
私の経歴は少しばかり変っていた。私はまだロシアがソ連と言われていた頃、モスクワの近郊で生まれた。父は早くに病で亡くなり、母と妹。そして母方の祖母が、共に一つ屋敷に暮らしていた。
遠いながらもロシア最後の皇帝、ニコライ二世の血縁と言う事もあり、革命後の私達の生活は、常に誰かの目に怯え、ことさら慎ましく、密かに暮らす日常だった。
生まれてこの方、自由と言う言葉の意味を知らなかった私の、"自由"への憧れは思春期に入るとますます強くなった。全てに反発し、反社会運動にも手を染めるようになったのは、私としてはごくごく自然だったのかもしれない。16才にして私は立派な思想犯になっていた。
自分の思想や正義の為に、家族さえ捨てても構わない。いつかは自由な国に行ってやる。まだ幼かった私には理想や理念、何よりもまだ見ぬ"自由"が家族よりも輝いてみえたのかもしれない。
ところが、私に一大転機がやって来た。ひょんな事から西に渡れるチャンスがこの身の上にあっけなく訪れたのだ。
相変わらず悶々とした日々を過ごしていた私は、仲間との集会帰り、路上で車に跳ね飛ばされた。事もあろうか、その車はイギリス大使館の車だったのだ。
当時、ソ連と、イギリスの間に何やらことさら難しい問題が起こっていた。その対処に、過敏になっていた大使館側としては、今まで慎重にソ連側との交渉をまとめて来たというのに、こんな些細な事故一つで味噌をつけたくなかったのだ。
千載一遇のチャンス。私はそう思った。イギリス側の不都合を逆手に取った私は誰にも喋らない事を条件に、イギリスへの亡命を申し出た。
既に傷を見るために、イギリス大使館に駆け込んだも同然の身だった。本人の亡命の意志が確認されればイギリス側はそれを飲むしか無い。
こうしてあっけなく、ソ連から私は消え去った。かけがえの無い家族や恋人をいとも容易く私は捨て去った.....。
-ロシア人のイギリス貴族-
私の追い求めた自由は私が想像していた以上に刺激的だった。まるで光りのトンネルを猛スピードで走り抜けているような気分だった。
私を監視する目も、路上で政治家の悪口を散々吐いても、止める人間はもはやいない。いつも見えない鎖に苛められた日々。大きな手の平の上だけを歩けと言われた日々から私は解放されたのだ。
そんな開放感が千年の灼熱のように私の身を焼いた。
酒・SEX・ギャンブル・薬。そして何より自由と言う「言葉」に溺れた。ありとあらゆる快楽に身を踊らせる日々。そこにはかつて理想や理念に燃えた自分など微塵もなかった。ただ自由と言う言葉を履き違え、浮かれ飛んだ馬鹿者が一人路上に酔いつぶれてねっころがっているだけだった。
そんな時だ、あの男に出会ったのは....。
いつものように夜っぴき遊びつかれて路上に這いつくばっている時だった。誰かが私の脇腹を突いて来た。
「情けない、お前は遥々ソ連から自由に弄ばれに来たと見える」
当時私の事を知らない者は殆どいなかった。ソ連から亡命して来た青年として、テレビや新聞にでかでかと顔が載っていたからだ。
老人は再び私の腹を、持っていたステッキで突いた。
悔しい事にその時の私は不様に寝っころがって、僅かに顔を上げるのが精一杯だった。
老人は高い鼻に銀色の髪。少し古風だが一目で仕立てが良いと思われる服に身をつつんでいた。昔見た絵本の中のイギリス人そのものだった。
「おい、お前、わしについて来い。お前に正しい自由の使い方を教えてやろう」
この出会いが、もう一つの私の人生の転機になった。
彼はイギリス王家の縁戚にあたる人物だった。貴族の称号の中でも最高位の称号を持つ孤高の老人。その名をシーク・エストレル・リュドミリア公爵と言った。
まさかその後、私が彼の養子にるなど誰も想像だにしなかった。
ロシアから亡命して僅か2年足らず、こうして私はロシア人のイギリス貴族になったのだった。
-血の繋がらない本当の家族-
「貴族なんてものは今となってはただ浪費するだけの時代の亡霊だ。時代に不必要なものはただ黙って立ち去る。それこそが神の御心に叶う事だ」
公爵が口癖のように言っていた。
もはや大貴族でもないかぎり、貴族と言う肩書きでは生きて行ける時代ではない。広大な敷地に巨大な屋敷。その維持を考えれば大変である。資金運用の下手な者は容赦なく没落していく。
大貴族とは言えど、跡継ぎのいないこのリュドミリア公爵家も、間もなく消え入る蝋燭の灯火だった。
彼がいなくなれば全てが無くなる。代々受け継がれ続けたこのリュドミリア公爵家も時代の露と消えていくだろう。その事をじゅうじゅう承知している公爵ではあるが、一つだけ気掛かりな事があった。
それは自分の死んだ後の後始末をどうするかと言う事だった。
おかかえ弁護士もいるにはいたが、彼は弁護士と言う職業を好まなかった。計算高い彼等に先祖が永々と築いて来た財産を何の感情もなく、右から左へと、事務的に処理される事が、彼にはどうにも面白くなかった。
それならばいっそ、自分で幕を引こう。そう彼は考えていた。
残り僅かな人生を持て余していた彼に、気紛れで引き取られた私ではあったが、お互いの孤独を埋めたかったのか、いつしか私達いはお互いを慈しむ気持ちが生まれていた。
それは偽物ではあったが、家族という物に良く似ていた。
私は心から彼の良き息子になろうと勤め、公爵もまた、私を血を分けた息子のようにに接してくれた。
私は彼との暮らしの中で、様々な事を学び、今度こそ本当の"自由"を知ったのだった。
それから間もなく彼は天寿をまっとうする事なく、不慮の事故で亡くなった。
朝の散歩の途中、居眠り運転をしている車に追突されたのだ。
彼の遺言状によって、私は公爵家のすべてを託される事になったのだと、生前、彼があんなに嫌っていた弁護士によって聞かされた。爵位を捨てても良いし、財産を何に使っても良いとあった。私は敢えて面倒な爵位を受け継ごうと覚悟した。
貴族は時代の亡霊。消え入る事が神の御心と聞かされていたし、公爵家を存続する事が彼の意にそう事ではなかったかもしれない。
けれども私は彼が生きていた証が欲しかった。血の繋がりの無い本当の家族を持っていた事を、この身に深く刻みつけたかったのだった。
-大人の遊び-
私が爵位について間もなく、私は広大な土地と、巨大な屋敷を売却した。一人で住むには不便だし、何より維持費が莫大だった。それについては後ろめたい事などは何もなかったのだが、ゴシップの好きなイギリス人には、私は恰好な話題を提供してしまったようだった。
ロシアからふらっと亡命してきた何処の馬の骨ともしれない男が、今日はイギリスの貴族になっている。貴族も貴族、由緒正しき公爵家の跡取りになっていたのだから....。
それに加えて先代の公爵は不慮の事故で突然亡くなり、土地や建物までその怪し気な男が売却したとなると、それはもう口さが無い人間達の恰好の餌敷と言うものだ。
普通ならば、ほとぼりが覚めるまで静かに暮らすところだろうが、そんな事に、私はいっこうに頓着しない男だった。面の皮が厚かったとでも言うべきか、花も実もある男盛りに大人しくしていろと言うのは無理と言うものだ。
亡き公爵のお陰で随分まっとうになったとは言え、二年間つちかった遊び癖がまたまた顔をもたげて始めていた。
破滅型の遊びは卒業したが、今度はちゃんとした大人の余裕をもって遊ぶ事に私は熱中した。
自分で言うのも何なのだが、ルックスは悪い方ではないし、金もあるとなれば、当然女が寄ってくる。女だけではない、男までもが寄ってくる。据え膳喰うほど子供ではないし、様々な人間と方々で浮き名を流した。
今日はベニス、明日はニース。はてはモナコにラスベガス。けれどもそんな蝶よ花よの毎日にも私はとうとう飽きてしまった。
散々遊んだ私は別の刺激を求めはじめていたのだった。
人間は食べる為に仕事をする。けれど私は退屈しのぎの為に仕事をしようと考えていた。それが今の職業である探偵業だった。
別の所で名を馳せていた私は、幸いにも最初から依頼に不自由する事はなかった。浮気調査が殆どを占めると言われるこの業界だと言うのに、実に様々な依頼を受けた。
元々遊びの延長上の様な軽い気持ちで始めた探偵業だった。けれども他人の人生に深く関われば関わるほど、真剣になる自分がいた。いつしか自分以外に興味の無かった私も、他人と深く関わりたいと思うようになり、こうした様々な人々との出会いが私に人間としての深みを与えてくれたのだった。
けれどもそんな事とは裏腹に、仕事が忙しくなればなる程、人間らしい生活から私はかけ離れていった。
眠れる時に眠り、食べられる時に食べる毎日。忙しさに身を任せる事が気持ち良いとさえ思っていた私も、とうとう助手の必要性に迫られた。
私がエルと出会ったのは、そんな多忙を極めていた時期だった。
-落ちて来た少年-
その日、私はロンドンのハウスオークションの会場に足を運んでいた。手狭になった事務所兼寝ぐらを新たに購入する為だった。幸いにも、お目当てだった家を、その日私は射止める事が出来た。決して安くはない物件だったが、私の希望を備えた瀟洒でこじんまりとした屋敷だ。
気分も上々に私はオークション会場を出た。そして何を思ったか、もう一度オークション会場を振り返ったその時だ。その建物の二階の窓から落ちる人陰を見た。咄嗟に私はその人間を抱きとめるべく数メートルを走った。
ザン!!
見事受け止めた腕の中、その意外な軽さに私は驚いた。
慌ててかいなを見降ろすと、みごとな銀色の髪が私の目に飛び込んで来た。 年は15,6だろうか、まだ幼さの残る華奢な体つきの少年。一目で北欧系だと分るその端正な顔は、まるで少女のようだった。
その表情は恐怖の為に凍り付き、透き通るような白い肌は白と言うより青かった。大きな緑色の瞳は一点を見つめ、長いまつげが微かに震えていた。
「大丈夫か!なんであんな所から落ちたんだい」
私も咄嗟の出来事に慌てふためいていた。
周りにはばらばらと人垣が出来始めていた。
取りあえず何処にも怪我らしき物はない。
落ちて来た窓を見ても、心配して覗きこむ人陰や慌てて外に飛び出してくる両親もいない。
私はそれを確認すると、彼を怯えさせないように、どこか静かな場所に連れていく事にした。取りあえず、思い付くのは自分の事務所だ。車で五分たらずだし、あそこなら、ここよりは静かに話しができる。私は路上に駐車してあった車の助手席に手早く彼を座らせた。
車は滑るように走りはじめたが、ちらっと見る横顔は、唇が小刻みに震え、瞳は瞬きもせずにじっと足下を見つめていた。
けれどもなんであんな所から落ちて来たのか。いや、そもそもあんな所にこんな子供が一人でいること事態不自然だ。何か訳があるに違い無い。探偵業ではなくても、なんとなく何か訳があるのだとさっしがついた。
「大丈夫。私はこの近くに探偵事務所を構えているんだ。取りあえずそこへ行って落ち着こう」
名も素性も知らない少年を乗せたまま五分間を走った。その五分間、私は彼に、ある種自分と同じ匂いを嗅ぎとっていた。何かが私に似ていた......。
-予兆-
私の事務所は仕事の場であると同時に、私の生活の場でもある。仕事机と長椅子と、小さなテーブル。そしてキッチンらしき物がついた味気ないワンフロアー。けれど独身の男が暮らすには都合の良い寝ぐらだった。
部屋の中はいそがしさにかまけていつもぐしゃぐしゃだったが、誰も文句を言う人間がいないので、常に汚い状態だ。
せめて掃除のヘルパーくらい頼んでもよさそうなものだったが、様々に入り乱れている汚い部屋の中には、私物とゴミと、仕事の物が混然一体となって微妙なバランスとっていた。
以前、一度ヘルパーを頼んでえらい目にあったので、私は好んでこの汚い部屋に住んでいるのだ。
成り行き上とはいえ、この家に人を連れて来たのは初めてだ。
ドアを開けた瞬間、彼をここに連れて来た事を私は後悔していた。
「ま、汚いけど座って、今コーヒーでも入れるから....」
取りあえず彼を長椅子に座らせようとしたが、その場所が無い。慌てて、上にあった物を下にどかし、やっと、彼の座るスペースを開けた。長椅子の背もたれには沢山の服が、使われた年代順につくなっている。
人生には色々な事が起こる。決して人を招き入れる事は無いと思っていた
ゴミ屋敷にも、今日、こうしてふいに来客する事がある。
やはり、部屋は綺麗にしておくべきだったと、思い知らされた。
「悪いね、インスタントのブラックしか無くて」
本来私はコーヒーが好きだ。できれば、きちんとしたコーヒーを飲みたいくちだが、一人で入れる気にもなれず、結局インスタントの濃いヤツをガブ飲みするのである。
間もなく湧いた湯をたっぷりとしたマグカップに注ぎ入れると元気のいい湯気が立ち上った。
「熱いから気おつけて」
少年の目の前にカップを差し出した。
その時、初めて彼の目が足下以外の物を見た。恐る恐る熱いカップを受け取ると、しばらくその感触を味わうように、両の手の平で包み込み、膝の上にその手を置いた。
暖かい飲み物から立ち上る湯気が、彼の緊張感もときほぐす。
緑の瞳からは、まるで溶け出した凍りの粒が落ちていくように、溢れる涙が頬をつたった。
「君をなんて呼ぼうか」
やんわりと、彼に言った
彼は流す涙を拭う事なくまっすぐに彼は私を見た。
「.....エル....」
小さな声であったが、はっきりとした口調で答えた。
正直私はドキリとした。
明るい緑。真すぐに向けられた素直な瞳。私が出会ったどんな物よりも純粋な物に射すくめられて、私は思わず目をそらさずにはいられなかった。
この出会いは、やがて私の人生に、彼が深く入り込んでくる事への、運命の予兆だったのかもしれない。
-信念-
名前以外、彼は何も話さなかった。
エルがここに来てからもう一週間が経とうとしていたが、どこに住み、どんな生活をしていたかまだ謎のままだった。
私も無理に聞く事はなかった。
「新聞を見ながら食事をしてはダメです」
一緒に暮らすようになって彼は結構世話やきだと言う事が分かった。
脱いだ物はつくねてはダメだ事の、飲んだカップはためこんではいけないとか
何かと私の世話をやく。
汚かったゴミ屋敷も今や新婚家庭のようにピカピカだ。仕事の電話にもきちんと応対し、私の生活はたちまち人間らしい生活をとりもどした。
私も助手の必要性を感じていたところだったので、別段彼を追い出す気持ちにもならなかった。
でも相手はまだ未成年だった。まさかずっとこのままと言う訳にもいかなかった。いつかは決着をつけねば.......。快適になった生活を見渡して憂鬱な気持ちになっていた。
意を決して私はエルに訪ねる事にした。
「そろそろ、話してくれないか...」
食事の支度をしている彼の後ろ姿に、一瞬ピッとした空気が走った。後ろ姿のままでも彼が今、どんな表情をしているのかなんとなく想像がついた。
「君の御両親も心配してる。学校だってあるんだろ?」
しばらく気まずい沈黙が続き、やっと彼が重い口を開いた。
「このままいたらダメですか.....。お料理も洗濯もお掃除も手を抜きません。なんなら公爵の仕事のお手伝いもします。絶対足手まといになるような事はしませんから...。」
くるりと振り向いた顔は苦渋な表情をうかべ、すがるような目が私にまとわりついて来くる。それを振払うように私も声を荒げた。
「そう言う事をいってるんじゃないんだ!家出少年の片棒は担げないといってるんだよ!もし君がここで働くと言うなら、家に帰って、きちんと両親に許可を貰ってくれないか。学校にも行って、その上でアルバイトとしてなら考えよう!」
社会常識からかけ離れている私が、今、これ以上無いと言うくらいの常識をぶっている。内心自分の言葉のおかしさに嫌気がさしていた。
エルは振り向きざまに私に訴えて来た。
「帰れる所なんてないんだ....!心配してくれる人なんて誰もいない....!僕は一人できちんと生きていきたいんだ! だから、お願いだから....僕をここに置いて下さい.....!」
真剣なその表情に、私は二の句が告げずにいた。
駄目だとスパッと言い放てない程、今の自分に自信の無い私がいた。信念を見比べるとエルの方がはるかに勝っているように思えた。
-愛に枯渇した子供-
彼の本名をエレイユ・カイアスと言った。
彼が生まれたのはスウェーデンの小さな街。オーデンセ。かの有名なアンデルセンの生まれ故郷だった。
学生で、陶芸家の卵だった両親は籍を入れる事なく結婚した。学生だったと言う事も、籍を入れる事の無い結婚をした事も、それは北欧ではありがちな愛の形だった。皆苦労して逞しく家庭を築いていくのだ。
彼等は共同で小さな工房を開き、やがてエルが生まれた。貧しいが暖かな家庭。どこにでもある平凡で幸せな日々。
けれどもそんな幸福は、彼が三才になった時に突然終わりを告げた。
父は何の前触れもなく、突然、母とその幼子を残して、ふらりと何処かへ姿を消してしまったのだ。
父の失踪は彼の母にも何一つ理由が見つからなかった。家庭内がうまくいっていない訳でもなく、工房もやっと軌道に乗りつつあり、他に女がいた訳でもなかった。
事故にあったのでは....事件にでも巻き込まれたのか、捜索願いを出して、その行方を探したが、とうとう父は見つからなかった。
その姿、その理由を探して探して、彼の母は精神を病むまでになっていた。タバコや酒の量も増え、乱れた暮らしの中でいつしか母性は失われて行った。
陶芸家として認められるようになりたいと言う意欲も無くし、毎日自分を支えてくれる男性の影を追い求めるようになって行った。
沢山の恋とは言えない恋に溺れ、時に真夜中に泣きわめき、それでもエルをかろうじて育てていた。
エルは懸命に良い子供になろうと努力した。母に嫌われないように、母に叱られないように。母に捨てられるかもしれない恐怖がいつも彼の中にあった。
それは半分は病のせいだったのかもしれないが、母の愛に必死に縋る5才の子供心が痛ましかった。
そしてそんな日々の中。彼の母は再びイギリスの若い実業家と結婚する事になった。
母と子は、悲しい思い出の土地を離れ、ロンドンの大きな屋敷に引っ越す事になったのだった。
しかし新しい父はエルに厳格で、お世辞にも可愛がってくれるとは言えず、あたたかな愛情を注いで貰った事などなかった。ただ義務的に彼を養護しているに過ぎなかった。
母はすっかり女と言う生き物になってしまい。二度と彼の母になる事は無い。幼くはあったが、その事をなんとなくエルは感じ取っていた。
エルは冷たい屋敷の中でいつしかこの家を出たいと思うようになっていた。早く大人になりたい。大人になって自分の足で歩いていきたい。
結局、彼が求めた無償の愛は、この家のどこを探しても見つかりはしなかった。
-痛いほど愛に枯渇して育った子供-
それがエルだ。
16才の秋、愛を求める事に疲れた少年は、自ら母と子の絆を捨て去り、自分一人で歩く事を決意していた。
しかし、この話しを私が知る事になるには、まだ随分と先の事である。
取りあえず今は、そんな彼の事情など、私は知る由もなかった。
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