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従来の固定観念に囚われた定説に対抗したい気持ちを表したつもりです。歴史の解釈はそれこそ十人十色、色々な意見が有って当然のことです。でもそれでは歴史教育というものが成り立ちませんので、いわゆる標準的な歴史解釈といわれるものを小生たちは学校で学んで来ました。しかし日本史があまり好きではかった、すなわち学校教育であまり日本史を勉強しなかった(成績も悪かった) 小生にとって、古代史に興味を持ちはじめて新たに勉強をし直してみますと、結構納得のできないことに遭遇します。三角縁神獣鏡に関連する一連の「定説」などその最たるものではないでしょうか。ここではふとしたことで思い浮かんだ古代史に関する素直な疑問、そして「定説」に対してどうしても納得できない問題点などなど、自分で感じたままを素直に書いてみました。

 

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目 次

壱. 三角縁神獣鏡と倭鏡、何処が違うのだろう???

弐. 植山古墳と伊予の長方形

参. 獣帯鏡の「輪」

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三角縁神獣鏡と倭鏡、何処が違うのだろう???

やはり一発目は三角縁神獣鏡の話題になりましたね。しかしこれが古代史に興味を持って最初に感じた本当に素直な疑問です。先日、河合町の役場で「馬見丘陵の古墳」という冊子を購入することができました。この本の存在はかなり以前から知っていましたが、馬見丘陵の前期古墳から出土した豊富な青銅鏡の写真が掲載されているので前から欲しかったので、ようやく手に入れることができ非常に喜んでいます。久しぶりにこうした鏡の写真を見ると、新たに三角縁神獣鏡、そして古墳時代の倭鏡について色々と考えを巡らしてしまいます。

この冊子では佐味田宝塚古墳、佐味田貝吹山古墳、そして新山古墳から出土した鏡が紹介されていました。これらの鏡のほとんどは倭鏡とされていますが、中には画文帯神獣鏡や斜縁二神二獣鏡、神人車馬獣画像鏡、そして三角縁神獣鏡など舶載鏡とされている鏡も存在しています。鏡種やその文様で舶載鏡とされているものの中にも、色々な意味で舶載鏡とするには疑問のある鏡もあるようです。結論から言えばこれらの鏡は、全て倭国内で製造された倭鏡ではないかと考えています。これらの鏡が出土した古墳は4世紀前期から中期と考えられていますが、この時期倭国は、中国大陸との交渉は絶たれていたと推測しているからです。235年公孫子政権が倒され、遼東の楽浪郡は大陸の政権の支配下となり、魏から東晋へと受け継がれました。ヤマト政権はこの楽浪郡を通じて大陸文化を受容していたと考えられます。しかしこの楽浪郡は313年、高句麗により滅ぼされてしまいます。この高句麗による楽浪郡の占領によって、おそらくヤマト政権は大陸との交渉が絶たれてしまったと思われます。そして鏡を始めとする大陸からの文物の入手も困難となり、古墳の埋葬品の中からも舶載鏡は姿を消してしまったのでないかと考えています。これらの古墳から出土する一見舶載鏡と思われる鏡では、鋳上がりが不鮮明なものが多く、そのほとんどが復古鏡である可能性が高いといえます。こんなことを考えている内に、以前ある新聞記事で、関西在住の極めて著名な学者のコメントを読んだことを思い出しました。

(三角縁神獣鏡を作製する)それだけの技術が当時の倭国にあったのならば、なぜそれ以後の日本の鏡作りに反映しなかったのかわからないのである。それ以後の仿製鏡の類は全くその影響を受けてなく、依然として稚拙なのである。そこがわからない。」

それでは先の古墳から出土した倭鏡はいったい誰が作製したのでしょうか?古墳出土の偽銘帯二神二獣鏡では内区の文様は銘帯を有す鏡とほぼ同じですが銘帯の部分のみが異なっています、するとこの偽銘帯の存在からこの鏡は倭鏡とされ、銘文のある方は舶載鏡とされるのです。一方で魏鏡派も国産と認める一部の三角縁神獣鏡では銘文が存在しているのですが、あまりにも文様構成が稚拙で鋳上がりも悪いことから倭鏡であるとされてきました。これは漢字の有無のみでは、その制作地を特定することは困難であるということを魏鏡派自ら認めていることになります。ある資料によりますと、三角縁神獣鏡の銘文について、「魏の詩人が三角縁神獣鏡の銘文を見れば押韻の意識すら持たない拙劣さを笑うだろう。」稚拙な文章であることを指摘しています。また神仙思想を題材にした内区の文様構成も支離滅裂でたらめな配置で、真の中国鏡に比較すれば、同様に稚拙であることが魏鏡派の学者からも指摘されています。銘文、そして文様構成が題材に適ったものか否かは別として、鏡自体の鋳上がりの面から三角縁神獣鏡と他の倭鏡を比較した場合、両者の出来映えは変わりない様に思えますし、むしろ鼉龍鏡や直弧文鏡の方が優れている様にも思えます。何をもって三角縁神獣鏡に比較してその他の倭鏡が「稚拙」なのか理解できません。それに先のコメントは三角縁神獣鏡の製作期間が全く考慮されていないことに気が付きます。なぜなら古墳に埋葬されている三角縁神獣鏡は「3世紀中期に卑弥呼によって配布された鏡が伝世したもの」という前提から導き出されたもので、三角縁神獣鏡が出土した古墳の年代幅は全く考慮されていないからです。倭鏡である三角縁神獣鏡は3世紀末期から5世紀代に至るまで作製され続け、そして同時代の古墳へと埋葬され続けたのです。鏡の製作技術は100年以上も受け継がれているではないですか。なぜその様な考え方にならないか、それの方がわかりません。

 

三角縁神獣鏡が中国から発見されない理由、これも特需説という実にユニークな理由で説明されています。先の著名な学者先生も「特需鏡で説明するしかない」とコメントされていました。いったい特需説って何なんでしょうか。これがまた理解に苦しむ論説です。

小生の様な素人が考えると、

日本列島で大量に出土するが中国大陸からは一枚も出土しない鏡日本列島で作製された:他にも同様の鏡が存在する→当時の倭国では鏡製作技術は一定レベルに達していた:鼉龍鏡や直弧文鏡、勾玉文鏡の存在→漢字を理解できる人々が存在していた:銘文のある鏡の存在→古墳時代には既に漢字が一部の人たちに使用されていた

 

と極単純に考えてしまいます。でも専門家の先生方は、

三角縁神獣鏡は魏の皇帝から下賜された鏡である大前提中国大陸から一枚も出土しないのは倭のために特別に鋳造した鏡だからだ:当時の倭人には鏡などまともに造ることはできない。ましてや漢字の使用など論外。しかし魏の皇帝が特別に製作した鏡を与えるほど有力な国であった(でも漢字は読めない)→大型内行花文鏡や鼉龍鏡については良くわからん、銘文のある仿製三角縁神獣鏡それも良くわからん、例外だから無視無視→大多数の稚拙な鏡は倭の使者に急いで与えるために未熟な工人が突貫工事的に作製したからだ100年以上経って埋葬されたのは鏡は伝世されるものだからだ出土枚数が多いのは何度も使節を派遣してその都度大量に下賜してもらったからだ三角縁神獣鏡が全国に分布するのは大和の卑弥呼が隷属する地方首長に下賜したからだ一つの古墳から大量に出土するのは三角縁神獣鏡の配布を担当していた鏡大臣の墓であるからだ

 

などなど、小生には到底及びも着かない極めて想像力豊かな解釈が次々に産み出されてきました。そして根拠のない想像から導き出された解釈がいつの間にか定説となって世間一般に通用するのです。自然科学では過去の文献等で紹介された事例を引用したり、少なくとも類似した事例から結論を推定する方法が執られるのに対して、結構古代史って何でもありって世界なんですかね。それより魏鏡派の先生方って皆さん肩書きが立派で影響力が有りますから、そのご威光ですぐに定説になってしまうのでしょうか。「長い物には巻かれろ」ってな具合に。しかし従来の中国鏡に比べると文様構成も出来合いも劣る鏡を、なぜ倭国の為に、それも特別に、あれほど大量に造る必要があったのでしょうか。その様な事例が他の蛮夷の国々に対して有ったのでしょうか、それに魏の皇帝が倭国に対して特別な鏡を作製して与えた理由はいったい何だったのでしょうか。こんな出来の悪い鏡を国の威信をかけて大量に製作して、使者に下賜する様に魏の皇帝は愚かであったとは思えないのですが。この特需説は単に中国で生産されたとしたい三角縁神獣鏡が中国から出土しないことを正当化させるために勝手に想像し、魏の皇帝を愚弄した、何の根拠もない空想でしかないように思えてなりません。

結論を言えば三角縁神獣鏡は、縁の断面が三角で、神獣の意匠が従来の中国鏡とは異なる変形神獣鏡の一種で、本来は三角縁変形神獣鏡などと呼ばれるべきものであると考えています。馬見丘陵の古墳からは「変形」が頭に付加された鏡が他にも多く出土しています。それらの鏡と三角縁神獣鏡とは何処が異なるのでしょうか?なぜ三角縁神獣鏡のみが特別な扱いを受けるのかさっぱり理解できません。早く古墳時代に日本列島で作製された鏡とされて、古墳時代における鏡の存在価値というものを追求して欲しいと願っています。

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植山古墳と伊予の長方形

四国地方の古墳文化の特徴の一つに一墳丘二石室の古墳が上げられますが、特に四国中西部の瀬戸内海側に比較的多く分布しています。特に川之江市の向山古墳や愛媛県川内町の川上神社古墳などは、墳丘規模や横穴式石室の規模からすると、造営された時期では大型の部類に入る古墳で注目に値します。

 一つの墳丘に複数の横穴式石室を持つ古墳は、大和を中心とする畿内、そして紀伊、讃岐、伊予にかけての瀬戸内海沿岸の南海道地域にその多くが分布しています。なかでも伊予の松山平野周辺地域には、墳形、石室などの形態的な差異はありますが、特に多く分布することは注目されます。これらの古墳が出現した年代としては、横穴式石室の採用からして、大凡6世紀初頭から7世紀中期の間に築造されたものが大半を占めていると思われます。時期的な観点からみると前方後円墳や円墳、方墳など墳形による違いでは、その年代的特徴は認められないといわれています。一墳丘複数石室の古墳では、その石室配置にも形態な差異が認められています。円墳や方墳などでは同一方向に開口する並列の石室配置が大半を占めていますが、中には2基の石室の開口方向が直行するものが少数存在しています。香川県観音寺市の上母神8号墳や愛媛県川之江市のお姫山古墳などがその例ですが、前者では2基の石室が直角よりも若干鈍角に開き、後者では直角より鋭角に配置されていることが知られています。一方、前方後円()墳では、後円部に1基、前方部に1基の同一方向(主軸に直交・斜行が多い)に開口する例が多くみられ、3基あるものについては加えて括れ部や造出部に配置される例が多いようです。次に石室の構造を見てみますと、明らかに2基の石室間で規模や構造的な差があるものと、ほぼ同じ規模で同じ構造をもつものなどが認められます。前者では馬背塚古墳(長野県飯田市)、後者では夫婦塚古墳(大阪府東大阪市)が例として上げられますが、石室規模の大小は被葬者の生前の地位を反映すると推定されますので、規模の格差の有無は、その古墳の持つ性格を考える上で重要な要素であると言えます。また石室構造の違いでは両袖型と片袖型、片袖型と無袖型、両袖型と無袖型のセットなど、規模的な差異も含めて様々な組合せが認められますが、石室の形態的な相違は地域的な偏りを示すことが多いので特に重視すべき特徴であると捉えています。同一墳丘内に石室を構築し埋葬する場合、かなり近親関係にある被葬者が埋葬されているはずです。従って普通に考えれば石室構造も同形式のものが採用されると思われますが、実際にはこうした構造の異なる石室が同一墳丘に採用されている例が多く見られます。この構造の差異は工人集団の違いからのみで説明することは不可能であり、披葬者の生前の地位や出身地など、被葬者自身の性格を強く反映しているものと考えるべきでしょう。こうした一墳丘多複数石室墳の造営では、元々一墳丘一石室であったものに、墳丘と石室、あるいは石室のみを加えるパターン、または最初から複数の石室を一つの墳丘に構築するパターンが見られます。後者の場合では、複数の石室を同時に使用したとは考え難く、最初の披葬者が埋葬される時点では埋葬される石室以外は使用されなかったと見るべきでしょう。これは古墳を設計する段階で埋葬される人物がある程度決まっていたことと、被葬者の生前の意志がその造営に強く反映されていたことが想定されます。従って石室の配置や規模、構造などには特別な意味があり、その被葬者像を推理する上で極めて重要な要素であると言えます。横穴式石室は本来追想を基本とするものでありますが、こうした一墳丘多石室墳では、わざわざ別の埋葬空間を構築して複数の被葬者を埋葬している訳です。更に複数の石室に追葬している例も存在することは、単に追葬のみを目的に石室を複数構築したとは考えられず、思想的、文化的な違いが濃厚に影響していると考えられます。これは墳丘を一つの埋葬単位と考える場合と、石室を一つの埋葬単位と考える場合との、二つの概念が存在していたことを示すものではないでしょうか。

 最近、推古天皇・竹田皇子合葬陵ではないかと話題を呼んだ植山古墳(奈良県橿原市)では、2基の石室が同時に造営されたことが判明しました。従ってこの古墳が合葬陵であるとしたら、竹田皇子が死去した時点で、推古天皇は竹田皇子の陵墓に埋葬するよう意思表示をする必要があったわけです。しかし推古天皇は竹田皇子の死後、天皇として即位した上、竹田皇子の存命中に、天皇として皇子との合葬を指示したとは到底思えません。従って植山古墳が推古天皇・竹田皇子合葬陵であるという見解は疑わしいものであると考えざるを得ないのです。以前拙稿で植山古墳の被葬者像について私論を述べたことがありました。この時には、特にピンク石製家形石棺の存在から大伴氏との関係を提案いたしました。ここでは補足の意味も込めて、伊予地方を中心に多数分布する一墳丘二石室との関連から、再度この植山古墳の被葬者について考えてみたいと思います。

 大和では一墳丘複数石室墳が17基確認されていますが、そのほとんどは直径10m前後の円墳であり、横穴式石室も全長5m以下の小規模なもので、群集墳の一部を構成する小型の古墳です。比較的規模の大きいものとしては三室山1号、2号墳が上げられますが、この二つの古墳は21.5m×17.5mと墳丘規模が同一で、全長4m程の切石造りの無袖型横穴式石室が2基並列して存在しています。墳丘規模や石室は若干小型ですが、大和地方では数少ない一墳丘二石室の長方形墳であり、7世紀前期以降の築造年代は植山古墳との関連も示唆しているようで注目される存在であるといえます。しかし現状では植山古墳や三室山1号、2号墳の様な一墳丘二石室の長方形墳は大和地方では希な存在といえます。一方、愛媛県では一墳丘二石室墳が多く分布することは先に述べたとおりです。それも長方形墳がいくつか認められることや、石室の規模も全長10mを越す大規模のものが多く見られます。この様な一墳丘二石室の長方形墳は、北条市から松山市、そして川之江市と中予から東予にかけて広範囲に分布しています。北条市の新城古墳群では2基の横穴式石室を持つ長辺32.5mの長方形墳である新城3号墳が存在し、その内開口する石室は全長9.1mの両袖型の巨大な石室で、5号墳も2基の直交する横穴式石室を持つ長方形墳と思われています。また川之江市の向山古墳は、長辺40m、短辺29mの長方形墳で、南に開口する2基の横穴式石室有し、その石材には緑泥片岩が用いられています。西側の石室は全長11mの巨大な両袖型横穴式石室で、7世紀代の築造年代が考えられています。形状や規模的にも植山古墳とほぼ同等で、更に同時代に造営された古墳であることは非常に興味深いものがあります。単一の石室を持つ古墳でも直径1520mの円墳で全長12.2mの両袖型横穴式石室を持つ難波奧の谷古墳など、全長10mを越す石室を有す巨石墳が多く分布しています。これらの古墳は古墳時代後期、6世紀後半から7世紀代に築かれたものといわれていますが、古墳時代後期において、この地域に極めて有力な氏族が存在していたことを示すものといえます。また伊予地方には古墳後期の群集墳が多く、その内久米古墳群では基の古墳が確認されていますが、久米の地名が示す様にこの地は久米氏の勢力基盤であったようです。肥後の久米氏と並び久米一族の中でも、伊予に盤踞する久米氏は有力な一派であることが知られています。久米古墳群のある辺りは、松山市でも歴代の首長墓が築かれた地域で、三島神社古墳や二つ塚古墳など後期の前方後円墳が存在しています。そのうち三島神社古墳では、初期の横穴式石室が確認されていますので、比較的早い時期に北部九州より横穴式石室が導入されたと考えられます。前方後円墳の造営が中止された後は、巨石で構築された横穴式石室を有す長方形墳が連続して造営されたことは、畿内政権との密接な関係が構築されていたことを示し、更に畿内政権にとってこの地域が極めて重要であったことも伺うことができます。植山古墳の被葬者が久米一族を束ねた大伴氏の関係者では無かったにせよ、こうした一つの墳丘に二つの石室を有す有力古墳が伊予から讃岐に多く分布する事実からすれば、植山古墳の成立にはこの地域の勢力が関与していた可能性を示唆するものではないかと解釈することもできるのではないでしょうか。

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獣帯鏡の「輪」

最近入手した資料集で非常に面白い論文を見つけました。安土城考古博物館発行の「韓国より渡り来て」の中の「獣帯鏡がつなぐもの」という論文です。百済の武寧王陵から出土した獣帯鏡が群馬県綿貫観音山古墳と「三上山下古墳」より出土したものと、同型鏡であることは前から知られていましたが、この論文では場所は特定できていなかった三上山下古墳を、甲山古墳と推測していますもしそうであれば甲山古墳の被葬者は百済と、そして上毛野と非常に関係が深かったということになります。甲山古墳は6世紀中期の大型円墳で、埋葬主体の横穴式石室は全長14m、その規模からすれば当時の大王クラスの有力者と想定でき、ここではその被葬者を近淡海安国造・安直に当てています。「視点改第弐改」では、甲山古墳の被葬者について「近江毛野臣」を当て、更に毛野臣は上毛野臣と同族であると推察しました。こうした獣帯鏡の分有関係から類推すれば、この推測もあながち無謀なものとは思えない様な気がいたします。

更に「古鏡」によりますと、この獣帯鏡は半肉彫獣帯鏡と呼ばれ、同類の鏡が特に九州地方での出土が多く報告されています。興味あることに武寧王陵・観音山古墳・甲山(三上山下)古墳のものと酷似した鏡が熊本県の江田船山古墳からも出土していることです。船山古墳は全長約61mの前方後円墳で、古墳の所在する地域は肥後国葦北郡に比定されますが、ここを治めていたのが火葦北国造刑部阿利斯登で、大伴金村によって朝鮮半島に派遣された人物です。そしてその子日羅は百済の官位を持ち、大伴金村を「我君」と呼ぶくらいに大伴氏と関係が深く、そして百済にも仕えていたことは極めて興味深いものがあります。先の論文では、この古墳から出土した金銅製飾履は武寧陵出土のものから強い影響を受けていることが触れられていました。船山古墳の年代は5世紀後半から6世紀初頭、甲山古墳の一世代前、隣接する円山古墳と同時代に当たります。葦北郡は、甲山、円山古墳に採用されていた阿蘇ピンク石家形石棺の石材の産出地にも近く、これらの石材を採用した背景には、こうした獣帯鏡の分有関係と関連しているのかも知れません。

もう一つ気になるのが綿貫観音山古墳の被葬者です。この古墳は榛名山南麓の井野川下流域にある、綿貫古墳群の最北端に位置しています。古墳は6世紀後期に比定される全長100mの二段築成の前方後円墳で、埋葬主体は全長12.65mの横穴式石室、獣帯鏡の他にも非常に朝鮮半島色の濃い副葬品が豊富に出土していることで有名です。論文ではその被葬者について、東国において大きな勢力を持っていた上毛野氏の一族ないし有力な配下の豪族であった可能性を推測しています。綿貫周辺では、この観音山古墳を最後に有力な古墳の造営は終焉し、その後古墳の造営は総社周辺へと移行してゆきます。その総社周辺では観音山古墳とほぼ同時期と思われる総社二子塚古墳を最後に前方後円墳の終焉し、その後は愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇塚古墳と方墳が相次いで造営されます。前出の「視点改第弐改」では総社周辺の勢力は阿部氏との関連を考えましたが、観音山古墳の被葬者については、大伴氏と同様に百済との関係が深かった、物部氏との関連で捉えることも面白いかと考えています。

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