
従来の固定観念に囚われた定説に対抗したい気持ちを表したつもりです。歴史の解釈はそれこそ十人十色、色々な意見が有って当然のことです。でもそれでは歴史教育というものが成り立ちませんので、いわゆる標準的な歴史解釈といわれるものを小生たちは学校で学んで来ました。しかし日本史があまり好きではかった、すなわち学校教育であまり日本史を勉強しなかった(成績も悪かった) 小生にとって、古代史に興味を持ちはじめて新たに勉強をし直してみますと、結構納得のできないことに遭遇します。三角縁神獣鏡に関連する一連の「定説」などその最たるものではないでしょうか。ここではふとしたことで思い浮かんだ古代史に関する素直な疑問、そして「定説」に対してどうしても納得できない問題点などなど、自分で感じたままを素直に書いてみました。
目 次
2001年8月25日
やはり一発目は三角縁神獣鏡の話題になりましたね。しかしこれが古代史に興味を持って最初に感じた本当に素直な疑問です。先日、
この冊子では佐味田宝塚古墳、佐味田貝吹山古墳、そして新山古墳から出土した鏡が紹介されていました。これらの鏡のほとんどは倭鏡とされていますが、中には画文帯神獣鏡や斜縁二神二獣鏡、神人車馬獣画像鏡、そして三角縁神獣鏡など舶載鏡とされている鏡も存在しています。鏡種やその文様で舶載鏡とされているものの中にも、色々な意味で舶載鏡とするには疑問のある鏡もあるようです。結論から言えばこれらの鏡は、全て倭国内で製造された倭鏡ではないかと考えています。これらの鏡が出土した古墳は4世紀前期から中期と考えられていますが、この時期倭国は、中国大陸との交渉は絶たれていたと推測しているからです。235年公孫子政権が倒され、遼東の楽浪郡は大陸の政権の支配下となり、魏から東晋へと受け継がれました。ヤマト政権はこの楽浪郡を通じて大陸文化を受容していたと考えられます。しかしこの楽浪郡は313年、高句麗により滅ぼされてしまいます。この高句麗による楽浪郡の占領によって、おそらくヤマト政権は大陸との交渉が絶たれてしまったと思われます。そして鏡を始めとする大陸からの文物の入手も困難となり、古墳の埋葬品の中からも舶載鏡は姿を消してしまったのでないかと考えています。これらの古墳から出土する一見舶載鏡と思われる鏡では、鋳上がりが不鮮明なものが多く、そのほとんどが復古鏡である可能性が高いといえます。こんなことを考えている内に、以前ある新聞記事で、関西在住の極めて著名な学者のコメントを読んだことを思い出しました。
「(三角縁神獣鏡を作製する)それだけの技術が当時の倭国にあったのならば、なぜそれ以後の日本の鏡作りに反映しなかったのかわからないのである。それ以後の仿製鏡の類は全くその影響を受けてなく、依然として稚拙なのである。そこがわからない。」
それでは先の古墳から出土した倭鏡はいったい誰が作製したのでしょうか?古墳出土の偽銘帯二神二獣鏡では内区の文様は銘帯を有す鏡とほぼ同じですが銘帯の部分のみが異なっています、するとこの偽銘帯の存在からこの鏡は倭鏡とされ、銘文のある方は舶載鏡とされるのです。一方で魏鏡派も国産と認める一部の三角縁神獣鏡では銘文が存在しているのですが、あまりにも文様構成が稚拙で鋳上がりも悪いことから倭鏡であるとされてきました。これは漢字の有無のみでは、その制作地を特定することは困難であるということを魏鏡派自ら認めていることになります。ある資料によりますと、三角縁神獣鏡の銘文について、「魏の詩人が三角縁神獣鏡の銘文を見れば押韻の意識すら持たない拙劣さを笑うだろう。」と稚拙な文章であることを指摘しています。また神仙思想を題材にした内区の文様構成も支離滅裂でたらめな配置で、真の中国鏡に比較すれば、同様に稚拙であることが魏鏡派の学者からも指摘されています。銘文、そして文様構成が題材に適ったものか否かは別として、鏡自体の鋳上がりの面から三角縁神獣鏡と他の倭鏡を比較した場合、両者の出来映えは変わりない様に思えますし、むしろ鼉龍鏡や直弧文鏡の方が優れている様にも思えます。何をもって三角縁神獣鏡に比較してその他の倭鏡が「稚拙」なのか理解できません。それに先のコメントは三角縁神獣鏡の製作期間が全く考慮されていないことに気が付きます。なぜなら古墳に埋葬されている三角縁神獣鏡は「3世紀中期に卑弥呼によって配布された鏡が伝世したもの」という前提から導き出されたもので、三角縁神獣鏡が出土した古墳の年代幅は全く考慮されていないからです。倭鏡である三角縁神獣鏡は3世紀末期から5世紀代に至るまで作製され続け、そして同時代の古墳へと埋葬され続けたのです。鏡の製作技術は100年以上も受け継がれているではないですか。なぜその様な考え方にならないか、それの方がわかりません。
三角縁神獣鏡が中国から発見されない理由、これも特需説という実にユニークな理由で説明されています。先の著名な学者先生も「特需鏡で説明するしかない」とコメントされていました。いったい特需説って何なんでしょうか。これがまた理解に苦しむ論説です。
小生の様な素人が考えると、
日本列島で大量に出土するが中国大陸からは一枚も出土しない鏡→日本列島で作製された:他にも同様の鏡が存在する→当時の倭国では鏡製作技術は一定レベルに達していた:鼉龍鏡や直弧文鏡、勾玉文鏡の存在→漢字を理解できる人々が存在していた:銘文のある鏡の存在→古墳時代には既に漢字が一部の人たちに使用されていた。
と極単純に考えてしまいます。でも専門家の先生方は、
三角縁神獣鏡は魏の皇帝から下賜された鏡である:大前提→中国大陸から一枚も出土しないのは倭のために特別に鋳造した鏡だからだ:当時の倭人には鏡などまともに造ることはできない。ましてや漢字の使用など論外。しかし魏の皇帝が特別に製作した鏡を与えるほど有力な国であった(でも漢字は読めない)→大型内行花文鏡や鼉龍鏡については良くわからん、銘文のある仿製三角縁神獣鏡それも良くわからん、例外だから無視無視→大多数の稚拙な鏡は倭の使者に急いで与えるために未熟な工人が突貫工事的に作製したからだ→100年以上経って埋葬されたのは鏡は伝世されるものだからだ→出土枚数が多いのは何度も使節を派遣してその都度大量に下賜してもらったからだ→三角縁神獣鏡が全国に分布するのは大和の卑弥呼が隷属する地方首長に下賜したからだ→一つの古墳から大量に出土するのは三角縁神獣鏡の配布を担当していた鏡大臣の墓であるからだ。
などなど、小生には到底及びも着かない極めて想像力豊かな解釈が次々に産み出されてきました。そして根拠のない想像から導き出された解釈がいつの間にか定説となって世間一般に通用するのです。自然科学では過去の文献等で紹介された事例を引用したり、少なくとも類似した事例から結論を推定する方法が執られるのに対して、結構古代史って何でもありって世界なんですかね。それより魏鏡派の先生方って皆さん肩書きが立派で影響力が有りますから、そのご威光ですぐに定説になってしまうのでしょうか。「長い物には巻かれろ」ってな具合に。しかし従来の中国鏡に比べると文様構成も出来合いも劣る鏡を、なぜ倭国の為に、それも特別に、あれほど大量に造る必要があったのでしょうか。その様な事例が他の蛮夷の国々に対して有ったのでしょうか、それに魏の皇帝が倭国に対して特別な鏡を作製して与えた理由はいったい何だったのでしょうか。こんな出来の悪い鏡を国の威信をかけて大量に製作して、使者に下賜する様に魏の皇帝は愚かであったとは思えないのですが。この特需説は単に中国で生産されたとしたい三角縁神獣鏡が中国から出土しないことを正当化させるために勝手に想像し、魏の皇帝を愚弄した、何の根拠もない空想でしかないように思えてなりません。
結論を言えば三角縁神獣鏡は、縁の断面が三角で、神獣の意匠が従来の中国鏡とは異なる変形神獣鏡の一種で、本来は三角縁変形神獣鏡などと呼ばれるべきものであると考えています。馬見丘陵の古墳からは「変形」が頭に付加された鏡が他にも多く出土しています。それらの鏡と三角縁神獣鏡とは何処が異なるのでしょうか?なぜ三角縁神獣鏡のみが特別な扱いを受けるのかさっぱり理解できません。早く古墳時代に日本列島で作製された鏡とされて、古墳時代における鏡の存在価値というものを追求して欲しいと願っています。
2001年9月1日
2001年11月23日
四国地方の古墳文化の特徴の一つに一墳丘二石室の古墳が上げられますが、特に四国中西部の瀬戸内海側に比較的多く分布しています。特に
一つの墳丘に複数の横穴式石室を持つ古墳は、大和を中心とする畿内、そして紀伊、讃岐、伊予にかけての瀬戸内海沿岸の南海道地域にその多くが分布しています。なかでも伊予の松山平野周辺地域には、墳形、石室などの形態的な差異はありますが、特に多く分布することは注目されます。これらの古墳が出現した年代としては、横穴式石室の採用からして、大凡6世紀初頭から7世紀中期の間に築造されたものが大半を占めていると思われます。時期的な観点からみると前方後円墳や円墳、方墳など墳形による違いでは、その年代的特徴は認められないといわれています。一墳丘複数石室の古墳では、その石室配置にも形態な差異が認められています。円墳や方墳などでは同一方向に開口する並列の石室配置が大半を占めていますが、中には2基の石室の開口方向が直行するものが少数存在しています。
最近、推古天皇・竹田皇子合葬陵ではないかと話題を呼んだ植山古墳(
大和では一墳丘複数石室墳が17基確認されていますが、そのほとんどは直径10m前後の円墳であり、横穴式石室も全長5m以下の小規模なもので、群集墳の一部を構成する小型の古墳です。比較的規模の大きいものとしては三室山1号、2号墳が上げられますが、この二つの古墳は21.5m×17.5mと墳丘規模が同一で、全長4m程の切石造りの無袖型横穴式石室が2基並列して存在しています。墳丘規模や石室は若干小型ですが、大和地方では数少ない一墳丘二石室の長方形墳であり、7世紀前期以降の築造年代は植山古墳との関連も示唆しているようで注目される存在であるといえます。しかし現状では植山古墳や三室山1号、2号墳の様な一墳丘二石室の長方形墳は大和地方では希な存在といえます。一方、愛媛県では一墳丘二石室墳が多く分布することは先に述べたとおりです。それも長方形墳がいくつか認められることや、石室の規模も全長10mを越す大規模のものが多く見られます。この様な一墳丘二石室の長方形墳は、
2001年9月9日
最近入手した資料集で非常に面白い論文を見つけました。安土城考古博物館発行の「韓国より渡り来て」の中の「獣帯鏡がつなぐもの」という論文です。百済の武寧王陵から出土した獣帯鏡が群馬県綿貫観音山古墳と「三上山下古墳」より出土したものと、同型鏡であることは前から知られていましたが、この論文では場所は特定できていなかった三上山下古墳を、甲山古墳と推測しています。もしそうであれば甲山古墳の被葬者は百済と、そして上毛野と非常に関係が深かったということになります。甲山古墳は6世紀中期の大型円墳で、埋葬主体の横穴式石室は全長14m、その規模からすれば当時の大王クラスの有力者と想定でき、ここではその被葬者を近淡海安国造・安直に当てています。「視点改第弐改」では、甲山古墳の被葬者について「近江毛野臣」を当て、更に毛野臣は上毛野臣と同族であると推察しました。こうした獣帯鏡の分有関係から類推すれば、この推測もあながち無謀なものとは思えない様な気がいたします。
更に「古鏡」によりますと、この獣帯鏡は半肉彫獣帯鏡と呼ばれ、同類の鏡が特に九州地方での出土が多く報告されています。興味あることに武寧王陵・観音山古墳・甲山(三上山下)古墳のものと酷似した鏡が熊本県の江田船山古墳からも出土していることです。船山古墳は全長約61mの前方後円墳で、古墳の所在する地域は肥後国葦北郡に比定されますが、ここを治めていたのが火葦北国造刑部阿利斯登で、大伴金村によって朝鮮半島に派遣された人物です。そしてその子日羅は百済の官位を持ち、大伴金村を「我君」と呼ぶくらいに大伴氏と関係が深く、そして百済にも仕えていたことは極めて興味深いものがあります。先の論文では、この古墳から出土した金銅製飾履は武寧陵出土のものから強い影響を受けていることが触れられていました。船山古墳の年代は5世紀後半から6世紀初頭、甲山古墳の一世代前、隣接する円山古墳と同時代に当たります。葦北郡は、甲山、円山古墳に採用されていた阿蘇ピンク石家形石棺の石材の産出地にも近く、これらの石材を採用した背景には、こうした獣帯鏡の分有関係と関連しているのかも知れません。
もう一つ気になるのが綿貫観音山古墳の被葬者です。この古墳は榛名山南麓の井野川下流域にある、綿貫古墳群の最北端に位置しています。古墳は6世紀後期に比定される全長100mの二段築成の前方後円墳で、埋葬主体は全長12.65mの横穴式石室、獣帯鏡の他にも非常に朝鮮半島色の濃い副葬品が豊富に出土していることで有名です。論文ではその被葬者について、東国において大きな勢力を持っていた上毛野氏の一族ないし有力な配下の豪族であった可能性を推測しています。綿貫周辺では、この観音山古墳を最後に有力な古墳の造営は終焉し、その後古墳の造営は総社周辺へと移行してゆきます。その総社周辺では観音山古墳とほぼ同時期と思われる総社二子塚古墳を最後に前方後円墳の終焉し、その後は愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇塚古墳と方墳が相次いで造営されます。前出の「視点改第弐改」では総社周辺の勢力は阿部氏との関連を考えましたが、観音山古墳の被葬者については、大伴氏と同様に百済との関係が深かった、物部氏との関連で捉えることも面白いかと考えています。