邪馬台国と楽浪郡
ホケノ山古墳の楽浪鏡 画文帯神獣鏡と方格規矩鏡
*ホケノ山古墳の「石囲い木槨」
先にも触れましたが大和最古の古墳として注目されたホケノ山古墳からは非常に精巧な画文帯神獣鏡が出土しました。出土した画文帯神獣鏡は同向式のもので、興味あることに同型式の鏡は日本列島以外では楽浪郡にのみ出土例のある特殊な鏡種であると言われています。画文帯神獣鏡には大きく分けて重列式、三段式、そして同向式が存在すますが、重列式は長江下〜中流域に分布中心を持ち呉の年号鏡も多く、また三段式は出土件数は少ないが西安近郊付近からまとまった出土が見られ呉系の鏡として知られているのに対して、同向式では日本列島と楽浪地域以外には、中国での出土例はほとんど報告がないと言われています。画文帯同向式神獣鏡ではしばしば「吾作」で始まる銘文を有すものがありますので、同様に「吾作」銘を有する三角縁神獣鏡との関連を考える上で非常に興味深いものがありますが、同時に同向式鏡の出土が日本列島以外では楽浪郡でのみ確認されている事実は見逃しがたいといえます。また日本列島で出土した画文帯同向式神獣鏡の中に楽浪郡出土の画文帯神獣鏡と文様が完全に一致する、いわゆる兄弟鏡が存在することです。徳島県鳴門市萩原1号墳丘墓は3世紀中期の前方後円形積石塚で、この墳墓から一面の画文帯同向式神獣鏡が出土しており、この鏡の文様と寸分違わない鏡が楽浪郡から発見されています。これら2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、楽浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明しました。この事実により楽浪出土鏡を原鏡とした踏み返しの鋳型より萩原墳丘墓鏡が作製されたことが明白となり、更に3世紀代に造営された積石塚が楽浪郡と密接に関わっていることをも強く示唆するものとして注目に値するといえます。
画文帯同行式神獣鏡など、特に瀬戸内以東の日本列島と楽浪郡でのみ確認される特異な一連の鏡群は「楽浪鏡」と定義されています。それには画文帯同向式神獣鏡の他、飛禽鏡、「上方作」銘獣帯鏡、そして斜縁二神二獣鏡がそれに当たるとされています。そのなかでも斜縁二神二獣鏡は三角縁神獣鏡に最も類縁性の近い鏡として知られており、この鏡種にも「吾作」銘のあるものが多く存在しているのは偶然ではないと考えています。斜縁二神二獣鏡は神人龍虎画像鏡を母体により成立した鏡種であると言われていますが、神人龍虎画像鏡は長江下流域の浙江省北部の海岸地域で集中して発見される呉系の鏡とのこと、すなわち楽浪鏡の成立には呉系の鏡工人が深く関わっていたことが明確に示された訳です。
一方北部九州地方では、弥生時代に大量の方角規矩鏡や内行花文鏡などの漢式鏡が出土したにも関わらず、画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんど認められません。特にそれまでの鏡文化の中心であった伊都国の領域では、3世紀初期に位置づけられる平原墳丘墓を最後に鏡の埋納は終焉してしまいます。平原墳丘墓では、内行花文鏡と方格規矩鏡が出土していますが、この組み合わせが北部九州では一般的であったのに対し、やや遅れて造営されたホケノ山古墳では、内行花文鏡と画文帯神獣鏡の組み合わせに変化しています。すなわち瀬戸内以東では後漢鏡に加え楽浪鏡が墳墓に埋納され始めたのです。この背景には畿内を中心として興隆した新興勢力が、伊都国を経由しない独自の経路で、朝鮮半島や中国大陸と直接交流し始めたことを示しているのではないでしょうか。推論を重ねれば、瀬戸内以東の新興勢力は、宗像を拠点とした、沖の島を経由して対馬・朝鮮半島へと至る新たな大陸航路を獲得し、松浦から壱岐・対馬・朝鮮半島ルートを掌握していた北部九州勢力に対抗したものと考えています。このルートの重要な中継地点である沖の島での祭祀は、畿内で楽浪鏡が出現し始める時期、すなわちホケノ山古墳の造営された3世紀中期以降にその原型が成立したものと推測しています。ヤマト政権の大陸航路の獲得については、政権の成立過程において非常に重要であるので後ほど述べたいと思います。
ホケノ山古墳の画文帯同向式神獣鏡と内行花文鏡、この両鏡の組み合わせは非常に意味が深く、画文帯同向式神獣鏡が楽浪鏡であることは、この古墳の被葬者像を推理する上で非常に重要であると思います。内行花文鏡は「視点改四」で詳細に述べる様に祭祀的な目的で用いられた鏡と思われます。すなわち築造当時、他の墳墓とはその形状も規模も隔絶した位置にあったこの古墳の被葬者が、祭祀権をも兼ね備えた権力を保持していたのではないかと推察されるからです。想像を逞しくすれば、それまで北部九州が握っていた倭国の覇権と祭祀権がヤマトへと移行した結果であったとも考えられます。ホケノ山古墳の埋葬主体の積石木槨は楽浪郡に多く類例を見る形態で、この古墳の被葬者は楽浪郡との関わりが強く見いだされますし、先に紹介した萩原積石墓の例からもして、この新興勢力が楽浪郡からの渡来勢力である蓋然性は極めて高いといえるのではないでしょうか。
先に示したように平原墳丘墓では、内行花文鏡と方格規矩鏡の出土のみ認められました。政治の中心が大和へ移動する以前、すなわち北部九州では権力の象徴は方格規矩鏡であった可能性が強いと思われます。しかし政治の中心が大和へと移動し前方後円墳が造営されはじめますと、画文帯神獣鏡の出土が急激に増加します。この画文帯神獣鏡の出現は新たな支配体制が構築された結果によるものと考えられ、この鏡の分布中心が近畿地方にあることも、倭国の覇権が北部九州より近畿に移行したことを示していると考えられます。画文帯神獣鏡はそもそも呉の領域で成立したものですので、三国時代、呉と魏に対して両面外交を展開した公孫氏の支配する楽浪郡からは、先に示したように、この地域に特異的に存在する画文帯同向式神獣鏡が出土します。画文帯神獣鏡を権力の象徴として重要視したヤマト政権の支配者は、楽浪郡との深いつながりを有していたと考えることは数々の物的証拠から最早動かしがたい事実と言えるのではないでしょうか。
大和では三輪山の周辺に次々と巨大な前方後円墳が造営されます、黒塚古墳からはご存じのように、30数面の三角縁神獣鏡が出土していますが、棺内の被葬者の頭部付近に置かれていたのは画文帯神獣鏡のみでした。一方北部九州地方に出現した畿内的古墳の代表の一つである一貴山銚子山古墳では方角規矩鏡と内行花文鏡が出土しています。この古墳からは他に6面の三角縁神獣鏡が出土していますが、先の2面の鏡は被葬者の頭部付近に置かれていました。方格規矩鏡は北部九州勢力の伝統的な鏡種と推察していますが、この古墳の被葬者が、ホケノ山古墳と同様、祭祀権と地域の支配権を有す在地の宗教的権威者であったと考えられることも可能で、その卓越した墳丘規模からも伺い知ることができます。特に銚子山古墳は旧伊都国の領域に出現した典型的な畿内型古墳の代表例で、この古墳に埋葬された被葬者がヤマト政権と強いつながりを有していたことは容易に想像できます。
楽浪郡とプレヤマト政権 魏・邪馬台国 VS 楽浪郡・プレヤマト政権
後漢王朝末期の西暦190年、三国史で有名な菫卓が権力を握り中国は動乱の時代を迎えました。この時遼東の太守であった公孫度は、中原の乱れに乗じ、山東半島北岸の東莱郡を侵入し、また遼東郡を分割して遼西郡・中遼郡をつくり太守を任命し、自らは遼東侯と称して楽浪郡も支配下に置きます。204年公孫度が死ぬと、その子公孫康は楽浪郡の南に帯方郡を開き、楽浪の支配から脱していた韓や穢を討ち、『魏氏韓伝』にあるよう「これより後韓倭帯方に属す」と韓・倭を支配下に治め、また魏の曹操とも和親関係を結びました。公孫康の死後は弟の公孫恭が継ぎましたが、無能であったため、228年公孫康の子、公孫淵は恭の位を奪うことになります。
西暦229年、呉王孫権は帝位につき使を遼東へ送って公孫淵と提携を図り、蜀と同盟して魏に対する包囲作戦を始めます。この時、呉使は公孫淵に拒絶されましたが、その後淵は呉の要請を受け入れ、淵は魏と呉の両面外交を展開します。233年孫権は淵を燕王に封じ懐柔を図りますが、淵は呉使の首を切りそれを魏に送り魏への忠誠を誓うことになります。そして魏の明帝は淵の位を大司馬、楽浪公に昇進させました。しかし237年公孫淵は燕王となって再び魏に背きますが、238年魏の権臣司馬懿によって淵は滅ぼされ楽浪郡は魏の領域に復されました。魏ではその後司馬懿が249年クーデターを起こして魏の実権を握ります。その子司馬師の弟司馬昭は263年蜀を破り、その功績により晋王となりますが、昭の子、司馬炎(武帝)は265年、魏の元帝の禅譲で帝位につき西晋を建て、そして280年呉を併せて天下を統一したことは有名です。
中国大陸における一連の動き連動して、北部九州の邪馬台国を傘下に置いた魏に対抗して、公孫氏政権は瀬戸内以東の倭の要素を束ね、邪馬台国に対抗させたとの推察も可能です。公孫氏の滅亡により朝鮮半島情勢は混乱し、朝鮮半島を追われた楽浪遺民は、おそらく朝鮮半島東岸を経由して、対馬から沖の島、山口県響灘沿岸から瀬戸内へと移動したと推察されます。その時期は公孫氏が滅亡へ向かう時期、すなわち235年頃のことであったと考えています。
一方、北部九州の邪馬台国では、帯方郡が魏の支配下に置かれたことにより始めて、遼東・楽浪ルートを通過し、明帝へと使を遣わすことが可能となりました。しかし卑弥呼の死後、倭国は再び大乱の世になりますが、この時に勝利したのがプレヤマト政権ともいえる畿内の政権であった可能性が強いと思われます。平原墳丘墓の例からしますと、邪馬台国時代、鏡祭祀権は実は伊都国が握っていたと考えられます。鏡祭祀文化の中核であったともいえる伊都国は政治、外交、軍事を掌握したいわゆる幕府の様な役割を担っていたと考えられ、卑弥呼、邪馬台国の女王は祭祀権を担っていたと推察しています。そして卑弥呼の死後、伊都国王は政治、外交、軍事に加え、邪馬台国の所有する祭祀権をも掌握し、真の倭国王となる野望を抱きます。卑弥呼の死後即位した男王はもしかしたら伊都国王であったかも知れません。これが原因でいわゆる倭国争乱が勃発しますが、「祭祀権」の簒奪合戦であったと思われます。北部九州にはそもそも邪馬台国に敵対する狗奴国の存在がありまとまりを欠いていました。そして徐々に戦局はプレヤマト政権側へと傾いてゆき、形成不利とみた伊都国は、今まで通りに邪馬台国が祭祀権を握ることで和解案を示し争乱は収束、プレヤマト政権は台与を擁立し瀬戸内・東海地方のほぼ中間地点である大和盆地へその中心を移したものと考えています。この時点で政治の中核は北部九州でなく、ヤマトへと移行したと考えられます。魏志倭人伝の旅程は邪馬台国が最終的に落ちついた大和盆地までの旅程を記載したもので、不弥国以降の旅程が極めて曖昧なのは、邪馬台国が移動したためではないかと考えられます。おそらく魏使は当時政治の中心であった伊都国までしか行っておらず、不弥国以降の情報は現地の役人から得た情報であり、更に邪馬台国(政治の中心)が移動したことにより、その情報も著しく曖昧なものとなってしまったと推察しています。
ヤマト政権誕生初期では鏡祭祀の中心であった伊都国が政権参画に消極的、むしろ敵対していたと考えられますが、平原墳丘墓から出土した鏡が全て意図的に破壊されていることは、それまでの支配者、すなわち伊都国王の否定を示唆するものである解釈できます。ヤマト政権成立後も伊都国が存続し、北部九州地方における鏡祭祀の中心地であったとしたら、政権成立以降も伊都国の領域からもっと多くの鏡が出土しても良いはずです。しかし弥生時代にあれだけ多くの鏡を出土した伊都国地域では、古墳時代以降の鏡の出土は激減します。比較的大量の鏡を出土した一貴山銚子山古墳は4世紀後期の古墳であり全くの畿内型古墳です。従って伊都国はヤマト政権成立後、早い段階に征服されたか、もしくはその中核が大和に移動したと想定できます。糸島地域では御道具山古墳を初現に、前方後円墳が築造されますが、この地に前方後円墳が出現したことが非常に重要な意味を持つことだと考えています。纒向型前方後円墳の成立過程より推察すれば、前方後円墳が「大和政権の墓制」であるとの蓋然性は高く、その前提に立てばこうした前方後円墳の成立はその地域勢力がヤマト政権と同盟関係を築いたか、あるいは支配下に組み入れられたかとの見方が可能となります。前者の関係では少なくとも旧来の墓制が前方後円墳と併存することが必要条件であると考えています。同じ九州でも筑後川から有明海の地域には初期の前方後円墳は希有な存在で、また丹後でも出雲でも同様に初期前方後円墳は存在しません。更にこの地域では前方後円墳の造営が開始されても、弥生時代からの伝統的な墓制は消滅することなく造営され続けています。このことから肥後や丹後、そして出雲などがヤマト政権とは異なる文化を保有し、独自の勢力として存在していたことが想定できます。しかし「伊都国」では、鏡文化の中心であり弥生時代を通してあれだけ多くの鏡を出土したにも関わらず、ヤマト政権成立期(3世紀後期)以降それが激減してしまうことです。すなわち鏡祭祀権が伊都国からヤマト政権(旧邪馬台国)へと移動したと考えられることです。それが伊都国の「滅亡」によるものであったか、それとも「移動(大和政権への服属的は参加)」であったにせよ、伊都国の地位が失墜したことは明らかです。伊都国の中心地域であった三雲遺跡群では、4世紀前期から端山古墳(全長約99m)と築山古墳(全長約110m)と2基の前方後円墳が連続して築造されています。これらの伊都国の中心地域に出現した大型前方後円墳は、伊都国が大和政権の支配下に組み入れられたことを証明する一つの物証であると考えています。それまでの平原墳丘墓は方墳で、埋葬主体部は割竹形木棺です。いわば弥生時代の墓制といえますが、このタイプの墓制は平原墳丘墓以後築造されることはなかったのです。
また弥生時代を通じて鏡の大量副葬の習慣を有していた九州地方では、既に当地の発生期の前方後円墳で三角縁神獣鏡の副葬が認められ、近畿、吉備地方に先んじて古墳への鏡副葬が開始された可能性が示されます。これは後に近畿、瀬戸内地方を中心に盛行した鏡の大量副葬が、北部九州地方から導入されたことを示しているのかも知れません。またこの鏡の大量副葬が定形前方後円墳の出現以降に普遍化することからすれば、北部九州勢力がヤマト政権へ参画した時期が、政権基盤がある程度整った時期であった可能性を示していると思われます。弥生時代、北部九州地方では、玄界灘沿岸地域が大量副葬文化の中心地でしたが、この地域の発生期前方後円墳は旧奴国の領域、すなわち筑後北部から筑紫地域にあります。同地域の発生期前方後円墳である原口古墳や那珂八幡古墳は、3世紀末期から4世紀初期に位置づけられる纒向型前方後円墳ですが、その埋葬主体は在地的な特徴を有すことから、これらの古墳は新たにヤマト政権と関係を構築して台頭した在地の新興勢力のものである可能性が強いと思われます。興味あることにこれらの古墳では三角縁神獣鏡以外の鏡種は出土しておらず、それまで北部九州の主流であった方格規矩鏡や内行花文鏡などを含まないことからも、ヤマト政権との連携を基に台頭した新興勢力であったことを伺うことができます。また北部九州で最古の定形前方後円墳が見られる周防灘沿岸の発生期前方後円墳でも同様の傾向が認められます。例えば豊前地方最古の古墳といわれる大分県赤塚古墳の埋葬主体は、当地の弥生時代からの伝統である箱式石棺です。すなわち北部九州地方は、ヤマトの連合政権の標準的な墓制となった前方後円墳を採用しているにもかかわらず、細部にわたっては伝統的な形態を堅持しており、当時の墓制が非常に多様的であり、且つ地域的な特徴を有すものであったことが想定されます。各地に造営された初期の定形前方後円墳の規模を比較すれば、箸墓古墳や西殿塚古墳など大和地方の前方後円墳が、他地域と隔絶した規模であったことは明確で、当時のヤマト政権の中心地が同地方にあったことは疑う余地はありません。そして大和以外の各地に造営された、当時としては巨大な前方後円墳の存在と、先の墓制の多様性を勘案すれば、ヤマト政権が北部九州から瀬戸内、東海、関東へと広がる広域の連合政権であったことを示すものといえます。
ホケノ山古墳の被葬者が保有していた主権は隣接する箸墓古墳の被葬者へと受け継がれたと考えられますが、箸墓古墳にはかなりの高い確率で画文帯神獣鏡が埋納されていると予想できます。想像を逞しくすれば、天皇の象徴である三種の神器の鏡も画文帯神獣鏡であると考えたいのですが、これは憶測が過ぎるかも知れません。一方祭祀権はその後下池山古墳の被葬者へと受け継がれ、いわゆる政教分離体制が成立したと推察されます。下池山古墳の前方後方墳という東海的な墳形から類推すれば、後の伊勢神宮祭祀につながる被葬者の姿が思い浮かびます。
大陸航路の変遷 ヤマト政権と沖の島祭祀
弥生時代より響灘沿岸の綾羅木遺跡では、北部九州地方と共通する遺物が出土していますが、これらは北部九州の介在なしに沖の島を経由して直接もたらされたと考えることができます。おそらく綾羅木遺跡を中心とする響灘沿岸地域では、瀬戸内及び周防灘沿岸地域勢力の大陸への玄関口であったと想定されますが、大分県別府遺跡で出土した朝鮮式小銅鐸も、この経路を介してもたらされたと考えられます。更に大阪府柏原市大県遺跡や奈良県御所市長柄遺跡など、近畿地方で出土する多紐細文鏡などの舶載品も、響灘を経由し瀬戸内を東進してもたらされたと考えられます。しかし弥生時代中期になると、前漢の柵封下で勢力を拡大した奴国により大陸交易が一手に掌握され、大陸航路は壱岐を経由するルートのみとなり、沖の島を経由し響灘へと向かう航路は廃れたと推察されます。弥生前期に多紐細文鏡などの舶載品が出土する響灘沿岸地域や近畿地方では、それ以後北部九州で大量に出土する前漢鏡などの舶載品が皆無となることがその様に考える理由の一つです。
大陸文化の流入が制限された瀬戸内近畿地方では、前漢鏡などの新しい文物の入手が困難となり、瀬戸内以東では前代の祭祀用具であった銅鐸が祭祀用具として発達し巨大化します。大阪府茨木市の南茨木遺跡で日本的特徴の文様を有す朝鮮式小銅鐸が出土しました。この銅鐸の出土により朝鮮式小銅鐸から日本列島で盛んに生産された銅鐸へのミッシングリングが繋がった事になり、極めて重要な発見といえます。
その後漢帝国が衰退に向かい影響力が低下した弥生時代後期には、再び沖の島を経由し響灘へ向かう航路も復活したと思われ、後漢鏡などの文物が見られるようになります。しかし依然として主流は壱岐航路であり、奴国に代わり伊都国が大陸交易を掌握し、北部九州地方に多くの舶載品がもたらされたと考えられます。
壱岐ルート、沖の島ルートの中継地点である対馬では、弥生時代の遺跡が非常に多いのにも係わらず高塚古墳が極めて少ない島です。古墳時代前期、ヤマト政権は沖の島から対馬を経て釜山へとつながる大陸への交易ルートを確保したと思われますが、その重要な中継地点であった対馬に、ヤマト政権と関連する遺跡・遺物がほとんど見られないことは非常に不思議なことです。おそらく対馬は古墳時代を通して日本列島側の政権にも、また朝鮮半島側の政権にも属すことはなく独立した勢力として存在していたと考えることができます。それは古墳時代前期、中期を通して高塚古墳の造営が少なかった壱岐にもいえることで、壱岐が列島の政権に属すのは、郷ノ浦地区に巨石墳が爆発的に造営される古墳時代後期以降で、そのきっかけとなったのが磐井戦争であったと考えられます。そして古墳時代前期における前方後円墳の分布から推察すれば、プレヤマト政権成立期では、沖の島ルートの日本列島側の玄関口は宗像ではなく、響灘沿岸地区であったと考えられます。
伊都国を征服したヤマト政権は、玄界灘沿岸に進出し新たに宗像-沖の島という大陸への航路を獲得しました。これより釜山-対馬-沖の島-宗像航路は、ヤマト政権の重要な交易航路となり、玄界灘に浮かぶ沖の島では、航海の安全を祈願する祭祀が行われるようになります。この頃より北部九州の在地勢力は衰退しますが、一方で筑後川流域から有明海沿岸の地域勢力が台頭し壱岐から対馬そして馬韓へと繋がる交易ルートを利用し、勢力を拡大していったと考えられます。この勢力が後の磐井の勢力に成長したことは言うまでもありません。弥生時代大陸航路の重要な中継地であり、多くの弥生遺跡が見られる壱岐では、ヤマト政権下で成立した初期の前方後円墳の造営がみられないことは、壱岐がヤマト政権にとってそれほど重要でなかったことを示していると解釈できます。一方、沖の島では北部九州に造営された古墳の副葬品をも凌駕する優れた奉納品が認められますが、これらの品々は近畿地方を中心とするヤマト政権の中心地域の前期古墳に埋納された副葬品と一致するものですので、如何にヤマト政権にとって沖の島が重要なものであったかを如実に示すものといえます。しかし対馬では先に述べたようにヤマト政権的な文化は希で、4世紀後期となって漸く対馬南部に高塚古墳が造営されます。しかしこれらの古墳は規模も小さく、対馬一円を支配した地域首長のものとは到底言い難いのもです。
沖の島祭祀遺跡ではヤマト政権的な遺物に混じって、新羅的な遺物の出土が多く報告されています。同様に初期のヤマト政権では新羅的な遺物も散見されていますが、これはおそらく楽浪郡から朝鮮半島南端へと向かう通交ルートが新羅の地域を通っていたためと推察できます。想像を逞しくすれば従来の対馬から馬韓を経由し半島西側の海上を北上するルートは、伊都国に代わって台頭した筑後川・有明海勢力、すなわち旧狗奴国が掌握していたと考えることもできると思います。
ヤマト政権は楽浪郡を通じて大陸の先進文化を受容していました。しかし楽浪郡は313年に高句麗によって滅ぼされ、これによって倭国は中国大陸の政権と完全に隔絶されてしまいます。4世紀後半より倭国は盛んに高句麗と戦闘しますが、想像を逞しくすれば、高句麗によって国を追われ日本列島へと移住した楽浪移民にとって、故地を奪還するという目的もあったと考えることは些か想像を過ぎましょうか。初期の古墳に埋葬された小札鎧の存在から見ても、楽浪郡から物品の移動のみならず人の移動もあったのは間違いないと思われますし、古墳時代のはじめから出現する楽浪鏡や北部九州以外の地域での新たな楽浪鏡の副葬開始と、積石塚や竪穴式石室などの新しい墓制の出現がそれを明確に示していると考えています。
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