「考現学 現代若者気質」
(徳島新聞2002年1月朝刊)


 今年も成人式の季節となった。例年、成人式に出席する若者のマナーが悪くなったことが報道され、多くの大人の顰蹙を買っている。確かに、報道される若者の態度には憤慨させられるものがある。成人式の式典の真っ最中にクラッカーを鳴らしたり、酒を飲んで騒ぐなど、あまりに幼稚でひどすぎると思う。わたしは、『エッジの思想』(新曜社)その他の著作で、この根本原因は子どもが大人になってゆく時の内的・精神的かつ外的・社会的転換・成長としての「イニシエーション」(通過儀礼・成人式)が成立しなくなった社会にある、と再三指摘してきた。だから、儀式だけしてもまったく駄目なのである。儀式を支える精神的・身体的緊張や試練がなければ駄目なのだ。人格的に深く大きく転換するような、旅立ち・分離―冒険・試練―帰還・統合という体験に支えられて「成人」しなければ、「成人式」はただの形式だけとなる。そうした「イニシエーション」が必要なのだ。

 子どもが大人になるということは、20歳になったから酒やタバコが自由に飲めるようになるといった程度の変化にすぎないのではない。そこには、子どもとは違う深い大きな人格としての成長や自覚や社会的承認がなければならない。それが「イニシエーション」の意味である。そこには象徴的な意味での「旅」が必要なのである。若者の倫理意識の欠如のもう一つの大きな原因は、魅力ある大人が少なくなったことにある。つまり、大人になるという時のモデルや規範がまったく見つからないのだ。真に「師」とすべき人物に出会わない不幸。それゆえに、人格形成のモデルがない。まわりの大人を見わたしても尊敬できる人は少ない。どうかと思う人のほうが多い。

 要は、大人の人間形成ができていなくて、子どもたちだけにそれを要求するのは本末転倒なのである。まずは大人が「人格形成」に向けて自ら率先垂範しなくてはならないのだ。こう言うと、必ずしり込みする大人が出てくる。そして、自分のことは棚に上げてまわりの大人や子どもたちにだけ過剰な要求をする。そのような態度はもう止めにしよう。基本的に、自らできないことを人に要求すべきではない。どうしても要求したいなら、自分自身を担保にして、自分を賭けて要求しなければならない。自分だけ安全なところにいて、自分を変えないで、他人を変えることは不可能なのだ。

 昨年末の12月30日夜11時半頃に、わたしは交通事故にあった。大宮駅前の交差点を自転車で渡っていて、突然暴走してきた外車にはねられ、救急車で大宮日赤に運ばれた。幸い、骨折はなかったが、腰部を強く打撲したために、完全回復するまでにはおそらく半年以上かかるだろう。事故は、青信号を確認して横断歩道を横切ろうとしている時起こった。当然、赤信号で停車していなければならない車道から猛スピードで車が暴走してきたのである。後で聞くと、わたしをはねる前に2台の車とぶつかり、逃走していたという。最後にわたしをはね飛ばして、そのままスピードをゆるめず、逃げ去ったのだ。事故の確認義務、介助義務を怠ったことでその者の罪は軽くない。打ち所が悪かったり、後続車に引かれたりしていれば、わたしは即死していただろう。逃走していた車を運転していたのはどうやら二十代の若者らしい。

 しかし、倒れているわたしに「大丈夫ですか?」と言って声をかけ、倒れた自転車やわたしを歩道まで運んでくれ、救急車を呼んでくれた上、「寒くはないですか?」と気遣って自分のコートやジャンパーをかけてくれ、コンビニで温かいお茶を買って来てくれ飲ませてくれたのも、茶髪にしたりピアスをしたりしていた若者である。この若者の心遣いと優しさにはわたしはほんとうに感動した。それを思い出すだけで温かい気持ちになれる。勤務先の短大や非常勤をしている早稲田大学や国学院大学の学生にそのことを話すると、多くは介抱してくれた若者に強い共感と感動を示す。そして、事故にあったときには自分もそのような介助ができる人間になりたいと言う。今の若者はとても率直でストレートになっているとわたしはこの2、3年感じてきた。大人が自分の行動に責任を持ってぶつかっていけば、子どもも自分も共に成長してゆくことができるはずだとわたしは確信している。