そのアニメはオープニングからふるっていた。「プレゼント・デイ プレゼント・タイム」画面にタイプされると同時に電子的にひずんだ声で読み上げられ、高笑いがそれに続く。「現時点(プレゼント・タイム)」――わざわざ宣言されなくても当然のことである「いま」をアナウンスした直後に響く嘲笑は何を意味するのか? あえてカタカナで表示されているところに「『いま』というのは普遍的に存在するものではなく、メッセージの発信者による一方的な贈り物(プレゼント)でしかない」というダブル・ミーニングが込められていると見るべきかもしれない。
『lain』は、ネットワーク環境がめざましい進歩を遂げた近未来の東京が舞台になる。インターネットが現在のテレビなみに普及し、メディアとしてポピュラーかつ力を持つものになった社会といえば、およその察しがつくだろう。そのネット環境は「ワイヤード」と呼ばれ、各々がナビと呼ばれる端末でアクセスして情報をやり取りするのが常識になっている。1998年の女子高生がケータイを耳に当てて闊歩するように、だ。
主人公・岩倉玲音(れいん)は、そんな先端のグッズや流行りの遊びなどにはちょっと疎い感じの物静かな中学二年生。左側だけのばしてX字形のゴムで留めた髪がトレードマークの少女。物語の滑り出しは、冒頭で飛び降り自殺したはずの同じ学校の生徒、千砂からのEメールがクラスメートに届きはじめることから始まる。その不気味なうわさを耳にして帰り、普段あまり使っていないナビを起動させると、玲音にも死んだ千砂からのメールが届いていた。「……あたしは、ただ肉体を捨てただけ。私はこうしてまだ生きてるって説明できるの。それを教えたくて、玲音にこのメールを送ってるの」どうして死んだの?と、つぶやく玲音に答えるように、メールはこう締めくくられる「ここには神様がいるの」
――ここまで見せられた時に、オカルト少女もの?と判断するのはたやすい。だが、安易にそんな印象を与えない緻密な作り込みが、画面にテンションをみなぎらせて深読みを誘う。ことにナビの画面は、まるで来世紀まで進化したMac OSそのものを、このアニメのためにプログラミングしたかのような出来栄えで、ネットワーク・テクノロジーが、この怪現象と切り離せないものであることを予感させてならない。
では、テクノロジーが生じさせている現象とするならばどのような解釈が成り立つだろうか? すでに死んでいる人間からメッセージが発せられることの矛盾は、時間のずれの問題に集約される。「現時点」と思い込んでいるものが、じつはあいまいものであったとしたら――死者からのメールが突いてくるのはそのポイントである。
「現時点」をあいまいにしてしまうマシン。それはタイムマシンなどという古典SFの産物を持ち出すまでもなく、二十世紀末の現在、実際に数多く稼働している。 結論から言うと、それはコンピューターだ。コンピューターによる情報伝達時間と処理時間の、ほとんど瞬時(リアルタイム)に接近する圧縮は、人間のライブな時間感覚と組み合わされたときに、新しい遠近感を生む。しかし、一時話題になったヴァーチャル・リアリティも、技術的フォローが追い付いていないために、衆目には「こんなちゃちなテレビゲームみたいな画像の、どこが「リアル」なのか」という印象しか残せず、真のすごさをアピールすることができなかった。だが、考えていただきたい。CG技術の進化はそれこそ日進月歩で、『ジュラシック・パーク』などに見るように、自然界における光学的現象(影のつき方など)を実際には存在しないものに適用する技術は、すでに我々のものである。目の奥の網膜に直接画像を結ばせる技術さえ実現している。ただ惜しいことに、リアルなCGをつくるにはいまだ膨大な時間がかかるため、ヴァーチャル・リアリティに求められるインタラクティブな反応を、瞬時に作り出すことができないだけなのだ。もし、スピードをつきつめ、こちらの視界の動きに応じてリアルな映像を作りだすことができたなら、それはあなたが進むにしたがって完璧な映画のセットが一瞬のうちに組み上げられ、あなたから見えなくなってしまったセットが速やかに撤収されていくのと同じ効果を生む。同じ時間軸で行動する大道具さん小道具さんがいる現実世界では不可能なことだが、コンピューターが創る電脳空間では、処理時間の加速によって、人間の時間を疑似的に止めることができるのだ。世界はまばたきの間に創られ、変化する。
目に見えるものが事実
事実だから目に見える
――そんな前提がどちらも成り立たない世界が出現した時、「プレゼント・タイム」はなし崩しにあいまい化してしまうはずだ。事実や真実の概念さえ、組み換えられてしまうかもしれない。アニメ『シリアル・エクスぺリメンツ・レイン』の世界は、まさにそのタイトル通り、新しいリアルの基準を探る「serial experiments――連続的な実験」の場として、さまざまな示唆を我々に与えてくれる。
あらかじめ奪われた「恋愛」というデジタルな進化のためのフィールド
『lain』を観ていると、かつて読みふけり、その現実崩壊感覚に興奮しながらも、映像化はとても無理だろうと考えていたP・K・ディックや神林長平の何篇かのSF小説を思い起こさずにはいられない。『lain』においては、その絵柄、白い地面や白い空に代表される色使い、音楽に頼らない音響、シーンの間の取り方など、全てが効果的に「作り物の世界」を際立たせている。それは容易ならざることで、まず「アニメ自体がもともと作り物の世界なのだ」という視聴者の意識を漂白できない限り「作り物の世界」を作る行為は演出の空回りになってしまうが、『lain』は奇跡的にそのハードルを越えることができた。
いくつかの著作で「全ての人が全ての人の経験や記憶を共有している」という、ネットワークの最終進化形ともいえる世界を描き出している日本SFの旗手・神林長平の作品に、このように語る機械人が出てくる。「機械人は同じ姿で生まれ変わっていくんだ。人間のように親から子へ、というデジタルな進化じゃない。アナログ的なゆるやかな変化だ」(『帝王の殻』ハヤカワ文庫より)
デジタルなのは機械ではなく人間である。その見方を得て読み解けば、『lain』という作品が思春期の少女を主人公にしていながら「恋愛」という要素を注意深く排除していたことは興味深いポイントだ。確かに友人の恋心や自慰がからんだシーンは存在するし、ハプニング的なキスも経験する。が、主人公の玲音にとってそれは「手にしたもの」ではなく、「見えてしまったもの」という扱いでしかない。
神林長平が語るところの、人間の「親から子へ、というデジタルな進化」のポイントには「恋愛あるいはセックス」という接続アプリケーションが必要となる。人と人とは「つながっている」のではなく、積極的に「つなげていく」ものだ。この二つの表現の間には大きなレベルの違いがある。その基準で言うと、『lain』の物語のバックボーンだった「人はみんなつながっている」という幻想は、「ただ人は世界の前に等しく放り出されている」という事実と全く同じ意味であるということに気づかされる。みんな「何かを介して」世界に触れている、という条件でのみイコールなのだ。 何かを介している以上、連続ではなく、平行。なのになぜタイトルがパラレルではなくシリアルなのか?――それは、これから初めて『lain』を観るのかもしれないあなたに、預けておきたい。
///// 青木敬士