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 もらっぷフライヤー7号「就職」1999-1&2月号
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「就職」特集

1999年。世界が滅ぶという預言もあります。
最期の日がきてしまったら、とりあえずその日は何しましょうか?
恋人と、アンゴルモアの大王がよく見えそうな場所に
とりあえず缶ビールでもたずさえてお出掛けしましょうか?
それとも
いつもとと変わらず、仕事に出かけますか?
そんなあなたに幸あれかし。
稼がなくっちゃ、缶ビールも買えませんしね。
まあそんなわけで、
今月のお題は「就職」です。



本職もちのアーティストにジェラシー!
青木敬士

 

「無職」を「アーティスト」と読ませてしまう厚顔さを
 不景気になってもどこまで持ち続けられるか?

自分の中にそういうテーマを掲げてみたとき、やはりそのゲームに勝ち残るのは金持ち二世か、暴力的生命力の持ち主である――という結論が出る。案外判りきったつまらない結論。

だが、あきらめるのはまだ早い。そのルールのスキを突く裏技が「本職」という言葉だ! 見れば世の中気になるヤツは、かなりの確率で本職を持っている。
10年前、高校生だったころの僕は、当時、映画「帝都物語」に出演していた怪優・嶋田久作の本職が庭師というのはシブい!と妙に「シブい本職を持ったアーティスト」というのに憧れていた。ミュージシャン・サエキけんぞうの本職が歯科医だというのも意表を突く横顔だった(思えば彼が率いるバンド・パール兄弟には。バカボン鈴木という僧侶ベーシストもいた)。

最近でも、文学界を見渡すとパンクシンガー町田町蔵改め、文筆家・町田康がいるし、映画界では、イタリアでの授賞式で「また日伊いっしょに手を組んで戦争をしよう!」というギャグを滑らせてしまった、コメディアン・ビートたけしこと、映画監督・北野武がいる。
しかし、僕が憧れるのはあくまで「庭師」とか「歯科医」という、緻密系/熟練系の「職人」なのだ。なぜかというと、プラモデル小僧だったある少年の日に「モデラー」なる「模型を作って食っている人」の存在を知り、ほとんどトラウマ的な衝撃を受けてしまったからだ。そこに、就職とは「食うために、なるべく金を稼げるものを選ぶ」のではなく「好きなことを、なんとかメシの食いぶちにする」ものなのだ…という幸福なカタチの具体例を見せつけられて以来、僕は「おはなしを書いてメシを食う」という夢の一点買いを続けながら、プラモ少年の夢を敷延したような「職人的本業」を持つアーティストに対して、永遠の嫉妬を感じ続けているような気がする。

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天職とはなんぞや?
若林紀久子

 

 特にヘアケアのことに興味があるわけでもない私が家の近くの美容院にせっせと通っうのは、そこに職人肌の美容師のお姉さんがいるからで、髪を切りに行くというよりも彼女の仕事が見たくて通う気持ちがのほうが強い。理由は簡単で、彼女の仕事にはどこかしら才能のひらめきを感じているからだ。彼女の仕事は、例えるならば生け花の花を自由にあやつる華道家のようで、たとえば髪を耳にかけるという小さな仕草を、自然でなおかつ確実にこなす指先の器用さと集中力には思わず見入ってしまう。鏡の前で女性雑誌なんか読んでる場合ではないのだ。彼女の仕事を見ているのが楽しい。美容院にいってこんな気持ちになったのは初めてだ。

 向き不向きといってしまうのは簡単すぎるけれど、いわゆる才能のある人がその才能をいかせる仕事につくといわゆる「天職」ということになる。しかし果たして天職につくことができる人はこの世の中に何人いるのだろうか。環境、職場、チャンスなど、さまざまな要因が才能を埋もれさせていることもあるのだろう。

 天職も才能も何も見いだせないままに仕事をすることはできる。優れた仕事は才能のある人を必要とするかもしれないけれど、普通に仕事をするだけならば才能ではなく努力で補える部分もまた多い。へたに才能を持て余すぐらいならむしろその方がいい。むしろ私のような凡人にはその方が大切で、そうでなければ救われないし報われないではないか。けれども「才能」とよばれるものがこの世にあるのは確かで、その「才能」を生かせる仕事につくことができた人は幸いであるし、その仕事は人々をまた幸せにする。才能のない凡人でも、他人の才能を享受することができる幸せ。せめてその幸せを感じるだけの器量を持つ努力をしたいと凡人は思っています。

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家族  
木村友祐

 

 何かに所属することの安心感を用心深く回避してきた。大学の時も、卒業してからも。みんなと同じに、スーツにネクタイ締めて満員電車に揺られることで、自分が何者かであると錯覚する安っぽさなんかまっぴらだと、大学を出てすぐに築地の練物屋にバイトで入った。それで小説が書けなくなるならそれだけのものだったのだと、自分を試すつもりで。結局そこは丸一年いて、仕事の疲れと書けない焦りで辞めたのだが、それから約四年半たった今、おれはまた築地で、今度は魚の卸屋の社員として働いている。つっぱった割に、自分というものが実はどれ程サラリーマンに嫉妬を抱いていたか、どんなにみんなと同じ普通さに憧れていたのかを、それまでミもフタもなく思い知らされてきたのだが、今回初めて、自ら「所属」を選んだ築地では、そうした感情はどこかに行ってしまったようだ。

 T家族Uとは血のつながりのことを指すのではない。今のおれはそうハッキリと言えるようになった。それは、T家族的なるものUをめぐるT関係Uそれ自体のことを指すのだ。今年の正月は社長の家で、実家で過ごすよりも正月らしい正月を送った。昼すぎから夜までずっと酒を飲み、板前さんのつくったおせちを食べ、テレビを眺めながら寝転がり……。若い奥さんと小さな娘を連れてきた、探偵をやってたこともあるという沖縄生まれの番頭さんに向って、社長は「これが究極の幸せなんだよ」と、しみじみ言った。その思いを噛みしめられるということはつまり、そういうひと時に飢えていたということだ。ある望みを前に自分が乾いていると知る。そこから、ひとつの感受性がこぼれ落ちる――。

 擬態としてのおれ達T家族Uは、そうして身内だけの正月をしみじみと送った。

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「内向の世代」と会社について    
 
寳 洋平

 

 「内向の世代」の特徴として、勤めの経験があるということはよく知られている。

 1970年度に2度、古井由吉・後藤明生・黒井千次・坂上弘・阿部昭のメンバーで座談会を開いているが(「文藝」3・9月号)、とくに3月の座談会は興味深い。当時の新人作家といってよい5人のうち、後藤明生を除けばみな小説とは別に会社に勤めている。後藤明生も10年勤めた平凡出版(現マガジンハウス)を辞めてから2年しか経っていない。当時最年長の後藤明生が38歳、最年少の古井由吉が33歳である。

 その座談会のなかで非常に生々しい議論がある。会社に勤めることと、自己の文学とは、どう関係があるのか。坂上弘は、自分の客観化はできないと述べたうえで次のようにいう。

「十年勤めてみて思うのだけれども、十年間会社に勤めるという才能と、小説を書くという才能と、違うはずはないと思うのです」

 この考えでいくと会社員はみな小説家の資質があることになるが、1998年に『「内向の世代」論』を出した古屋健三によれば、坂上弘は人間を本質的に文学的な存在であると確信しているようである。「坂上弘にとって会社は非文学的な通俗社会ではなく、むしろ文学が尊ばれる人間的な場と受け止められている」。

 それに対し後藤明生は、会社と文学の価値は全く無縁であると述べ、次のようにいう。「価値観の違う世界(会社を指す)に、文学的な価値を持ち込んでサボってみたり、そういう文学青年というものは、いやだったのです。…中略…二つの価値観の世界に棲息せざるを得ない自分というものを、僕自身に運命づけていましたよ。…中略…一生懸命働いたから、その組織と人間と、あるいは、まったく自分の価値を無視される別の価値ある世界に生きながら、またもう一つの自分を見詰めるという認識の原型のようなものは、僕はもうできたという気がするわけです」

 つまり、会社での自己から見れば自己の文学は無価値であり、文学を書く自己から見れば会社での自己は無価値であるというような二重性を持った客観的立場を、どちらの世界に属している間も後藤明生は感じている。ということである。二人の考えが若い者の頭でっかちな理論であるならば何の興味も沸かない。が、どちらも実際に十年勤めの経験を持っている小説家の発言である。この三月の座談会のあと、みなたてつづけに会社を辞めていく。三月ちゅうに古井由吉が立教大学教授、黒井千次が富士重工業を辞める。阿部昭も次の年の四月にはTBSを退職する。会社と文学の価値は同じと答えた坂上弘だけが、定年まで会社(リコー)に勤める。

 さて、げんざい二十代の文学志望者の多くはむフリーターか無職であるときく。先の見えない時代、筆で一発当ててやろうというわけである。大いにけっこうだが、十年勤めて志を捨てなかった先人達が1999年のげんざいに至るまで、小説を書き続けている、しかもよい仕事をしているという事実を、少なくとも頭の片隅に入れておくべきではないだろうか。

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おそるべき男、ムッシュー
菅 瑞枝

 

 愛すべき主人公の名はムッシュー。トゥーサンのつくり出すお馴染みの世界に住む、まったくトゥーサン的な人物である。

 オフィスでの彼の様子は「いつでもまるで何もしていないような様子」なのだけれど。私が読んだ限りでは、(一般的な意味での仕事は)本当に何もしていない。それでいて、若いながらも営業課長という、高収入のエリートなのである。努力してかちとったポストなので今は何もしなくとも構わない、というのではなく、そもそも彼の人生におけるはじめからこの調子なのだろうことが伺える。

 淡々とした描写。とぼけたスタイル。

 オフィスは彼の日常であり、その他に何か特別な意味がある訳ではない。ただ彼は、オフィスでの毎日を(そして彼の毎日を)淡々と楽しんでいる。専用のコーヒーメーカーでいれた、あったかいコーヒー。

 やたらと意気込んでみたり、思い悩んでみたり、惚れてみたり卑屈になってみたり、何だかそうした「主人公は自分!」的な生き方が馬鹿らしくなってしまう。――おそるべき男、ムッシュー。(彼は何もしてはいないのに。)

『ムッシュー』ジャン=フィリップ・トゥーサン 野崎 歓・訳(集英社)

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