子供の頃、バターをたっぷり塗った食パンを甘いミルクティーに浸して食べるのが好きだった。そんな食べ方を教えてくれたのは父と母のどちらだったのだろう。白いカップに濃いベージュの持ち手のついたボーン・チャイナのティーカップは忘れ難かったが、それと再会したのは再婚する母親が処分しようとした荷物の中で、私はこっそり持ち帰ってみたもののとても使う気になれずにいまは物置に押し込めたままだ。あの人が好きだと言っていたスパイス・ティーの店は数年前に潰れて長崎ちゃんぽんの店になってしまったし、婆さんになったら縁側で玄米茶を飲みながらぽっくり死んでしまいたいと言っていたあの娘も去年結婚して、その話を脇で聞いたはずの友人は夫君の仕事で中国に渡り、彼女と円卓にセイロを山に積みながら菊茶やプーアル茶を注ぎつ注がれつしたのは去年の夏のことで、帰国の際に彼女はライチ紅茶を土産にくれた。中学校の三者面談で進路について教師からごたくを並べられたあとは、学校前の喫茶店で母親とアイスティーを飲むものと決まっていたけれど、同じ店に友人と入ったときはひたすらロイヤルミルクティーばかりを飲み倒し、それは進学してからはあちこちで“利き”ロイヤルミルクティーをするという癖になった。ビデオカメラを貸すため年上の美大生と駅前で待ち合わせ、スパゲッティー屋でお茶でもとなったときは、どぎまぎするあまりテーブルにあった粉チーズを砂糖と間違えてスプーンで山盛りに2杯も紅茶に入れてしまって、焦りながらも何事もなかったように飲み干したあとしばらくして「シーナ&ロケッツ」のライブがあるという学園祭につれていってもらい、初冬とはいえ底冷えのする多摩の山奥で震えつつも「レモンティー」を聞いた。そのころ私はまだいたいけな女子高生だったと懐かしく思いつつ、そのチーズ入り紅茶を飲んだ相手と毎朝ダンスクのカップでコーヒーを飲むようになるとは人生なにがあるかわからない。世の中、「紅茶とマドレーヌ」ばかりではないのです。
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●キームン...........................................菅 瑞枝
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中国はお茶の原産地です。中国といえばウーロン茶を連想しがちですが、実はウーロン茶はローカルな飲み物で、その生産量は緑茶、紅茶にはるか及ばずといったところなのだそうです。
私は中国紅茶のキームンを好んで飲んでいます。黒くて針のように黒い茶葉を見ると、これは本当に紅茶なのだろうかと思ってしまいますが、いざいれてみるととても明るい色が出ます。クセのある独特の香りは好みの分かれるところですが、私のようにハマる人も多い筈。ぜひ一度お試し下さい。
●キームンを注いでみたいカップ&ソーサー●
→アヴィランド(フランス)のクリオンブランシリーズ。綺麗な白磁にブルーとゴールドで象の絵が描いてあるのですが、シノワズリ的なその絵柄はまさにこの紅茶にぴったりのように思います。 お気に入りの紅茶を飲みつつ、自分好みの食器を揃えることができる日を夢見てカタログを眺めます。『WESTERN TABLEWERE CATALOGUE』(西東社)
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●茶を飲みながら................................寳 洋平
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辞めたアルバイト先で、二十歳過ぎの男の子が、僕のバイブルは望月峰太郎なんだよ、と女の子に話しているのを耳にしたことがあり、バイブルのずいぶんくだけた使い方に感心したからというわけでもなく、その後の二人の間柄がよい雰囲気に発展したからというわけでもないが、こないだつれあいと漫画喫茶という所に入ってみたとき、ぶどうジュースを注文し、試しに『ドラゴンヘッド』という作品を読んでみたらこれが面白く、何十分か延長し、出ているものは一気に読んでしまい、外に出た途端に頭がズキズキ痛みはじめたほどだった。同じ作者による『お茶の間』もよい作品で、まったりしきった場所としての郊外の茶の間を描いていて、その線でいえば茶の間ではないが松本大洋の『青い春』所収「ファミリーレストランはぼくらのパラダイスなのさ!」という短編も相当見事だったなと思いだしたりもするのだが、それにしても、それらの漫画を読んでも私は、くだけた言い方でもバイブルとは呼びはしないし、これからもそのつもりはないのはいったいなぜかと考えてみて、茶でいうなら岡倉天心、ではなく、帯に「5000人の読者へ」と記された島田雅彦のインタビュー集『茶の間の男』を真っ先に思い浮かべてしまうからだ、と思い当たった。別にバイブルというつもりもないが、読んでいるとテンションや口調が島田雅彦そのものになるという、島田の読者の多くが(5000人?)体験しているだろう「出来事」が、小説作品より手軽かつ強烈に訪れる本で、夜中に取りだして中上健次との喧嘩スレスレの対談や「女性作家」についての話の辺りを何度も読み返すことがある。
さて、「小説」とりわけ「純文学」は、読み手も書き手も消費する/されるということに驚きや戸惑いがあるし、その消費する/されることに書き手も読み手も慣れることの出来ないこと自体が魅力だったりもすると思うが、たぶん漫画にはそういう発想はあまりなく(『ガロ』はどうか? よく知らない)、消費されることが前提だとはっきり解っていて、その結果、よく読まれているものが質のよいもの、というあたりまえのことがけっこう成り立っているように見える。だからこの小説は……というような、事情に通じているわけでもないし、結論という結論が出るわけでもない漫画や小説の状況を、ぺらぺら話ながらつれあいと過ごす時間(実さいはつれあいは頷くばかりだ)、そこには必ずといってよいほど茶があるのだが、といっても香りのある紅茶などに凝っているでもなく、駅までの通り道にある近くの酒屋でねいっぱいもらっちゃってこんなの使わないんだけど、リサイクルショップに売っても二束三文だし、だったらタダでも喜んでもらったほうがいいでしょ、これ、埃かぶってるけどまだ使ってないから持っていきなさいよ、ね、ね、ね、などといわれていただいてきた急須を使って、抹茶入り玄米茶を飲んでいる。
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●街と喫茶店.......................................木村友祐
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気に入った喫茶店で一人でお茶を飲むのは、ボクの娯楽のようなもの。ボクの住む下北沢でも、嫌いじゃないけど居場所のない渋谷でも、それは、雑踏の中に一人あることの充足感に、透明な輪郭を与えてくれるのだ。ボクの中にはどうしようもなくローカルなものがあるようで、例えば何かの映画を見ていても、他の人が何とも思わないようなシーンで弾かれたように泣いてしまったりする。個人には多かれ少なかれ、そういった即座に説明不能な、感性の地域性みたいなものがあると思うのだけど、ボクのそれはどうも、かなり間口が狭くて深いらしいのだ。街を歩く、恐らくは言葉の位相が違う人と一秒の隙もなくすれ違うのは、それだけでとても刺激に満ちている。でもふと気が付くと、表面だけ火照った体の芯は、何となく疲労しているのだ。
ここは渋谷BUNKAMURAの地階、カフェ「ドゥマゴ」。吹き抜けとなった建物の底に、テラス風に緑の丸テーブルを並べている。石の壁や床に囲まれた、広く、木陰のようにひんやりとした空間である。かつてランボーや、ピカソやブルトンなど、フランスの芸術をにぎわし華麗に彩った文学者や画家の溜り場だった、パリの「ドゥマゴ」のスタイルの踏襲を試みているようだ。銀のお盆にのった白い陶製のコーヒーポッドに小さなカップ、そして必ず付く一片のブラックチョコ。脚を組んで椅子にもたれるボクは、テーブルにぶ厚い百枚綴りのツバメノートと、表紙も紙も茶色に変色した向田邦子の作品集「阿修羅のごとく」など出している。このアンバランス。
何者かたろうとしているボクの心は、この場所に程良く刺激を受けている。それは同時に所詮未だ何者でもないと常に意識されることなのだが、だからこそ、よし、いつかはオレも、などと思えるのだ。何者かであるポーズに軽く陶酔するボクは、語のそのままの意味で自分を「スノッブだなぁ」と思う。でも、それも含めて、喫茶店で過ごすこういうひとときが好きだ。
灰皿に煙草が三本程転がる頃には、街歩きで波立ち微熱を孕んだ心も静まり、ふと自分が、何か遠くを見る眼差しを得たことに気づくのだ。そしてまたボクは、ローカルな言葉を翻訳するフィクションのことを考え始めている。自分のローカルさを、ローカルなままで留めておかないぞと。
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