SFというジャンルのパワー
『戦闘妖精・雪風』
『グッドラック』神林長平
(早川書房 刊)
SFというジャンルが影をひそめた印象があるのは、現実のテクノロジーがSF作家の想像力に追いついてしまい、それを越えていくビジョンが打ち出せないでいるからだ、という意見がある。確かにサイエンス・フィクションとしてのSFには「未来予測」という側面があり、テクノロジーの進化と方向を予見しきれなかった感は否めない。
サイバースペース(電脳空間)という言葉を生み、サイバーパンクというSFの潮流をつくりだした『ニューロマンサー』ウイリアム・ギブスン著1984年――においても、そのサイバースペースは高度の集積度をもつ中央集権的コンピュータ――昔ながらの「マザーコンピュータ」という概念から脱しきれない――によって実現するものであり、1990年代に突然現実化した、インターネットという、中心となる実態は存在しない、分散された個々のコンピュータのネットワークによってなされるサイバースペースの出現は予期せぬ不意打ちだった。
しかもそれは一部のハッカーやナード(おたく)にしか関与できないものではなく、万人に開かれ、テキストによる自己表現の敷居を下げ、全世界への発信方法を一般人のものとし、「書き言葉のカラオケ化」さえ招くことになったのだ。
すなわち、Eメールとは一人ひとりが持てる「一瞬のうちに世界のどこからも届く電子私書箱」であり、BBSやチャットは、ふとした思いつきや、たわいないおしゃべりを、全国紙規模で配信させることができる。ホームページを作れば、それは24時間営業の、あなた自身の番組チャンネルである。インターネットがこれほどまでに手軽な人と人とのコミュニケートをうながし、自己意識の急速な拡大を補助することになろうとは、SFというジャンルには思いもよらないことだったのだ。
だがそれは、SFが「サイエンス・フィクション」であると同時に「スーパー・フィクション」でもあるという性質を忘れてしまったために、自らを不当におとしめている一側面でしかない。
この春出版された、神林長平の『グッドラック』は、『戦闘妖精・雪風』の続編として書かれたものである。十五年前に書かれた第一作は、こんな物語だった――
突如、南極大陸に、異星に通じる超空間通路が発生。そこからジャムと呼称される未知の戦闘機械が進攻してきたため、人類は地球防衛機構を設立、超空間通路の向こうに存在するフェアリィ星に、実践組織・フェアリィ空軍を派遣した。その「特殊戦」に所属する飛行機は、実際の格闘戦には参加せず、常に戦闘状況をモニタして情報を収集するのが任務である。よって、たとえ友軍機を見殺しにしてでも情報を持ち帰るのが使命で、特殊戦の人間は「機械のような」非情なタイプの者が集められていた。〈雪風〉は深井中尉によって操られる特殊戦の五番機だった。
特殊戦の人間たちを描写しながらつづられていく物語のなかで、異星体ジャムの理解不能度だけは不気味に増大し、やがて登場人物たちは認めたくない一つの事実に薄々気づき始める「ジャムは人間相手に戦争をしているわけではない」ということに。
深井中尉に「〈雪風〉がおれを離したがらない」とまで言わせた〈雪風〉をはじめとする、地球製の機械群こそがジャムの敵で、人間はこの戦いに消耗しながら、実はまったく蚊帳の外に置かれた存在なのではないか――それでも、ジャムに「人間の敵であって欲しい」という願いは、人間の甘い幻想に過ぎなかった。
ついにジャムに撃墜されて不時着した〈雪風〉の機内で、深井中尉は〈雪風〉とともに最期の時を迎えることを本望と思うが、別れを告げるように〈雪風〉のコクピットに響いた電子音は、この機体を捨てて、援護に飛来した新型の友軍機に自らの中枢機能データを転送する宣言だった……
小説『戦闘妖精・雪風』の最初の扉で、読者はこんなエピグラフを目にするだろう。
妖精を見るには
妖精の目がいる
『戦闘妖精・雪風』で追及された「絶対的他者とのコミュニケート」というテーマは、ここに集約されているような気がする。異なる存在を理解するためには、異なる存在の見方が必要なのだ。他者を理解したような気になることはできるが、他人の痛みを本当に理解することは絶対にできない。皮膚という境界線で囲まれた「自己」をもつ存在の永遠の孤独が、このエピグラフにはこめられているように思う。
読者としては、この『戦闘妖精・雪風』は完璧な小説で、続編などあり得ないと思っていた。しかし、神林長平はSFマガジンにその後のエピソードを発表し続け、それが一冊にまとまったのが、新作『グッドラック』である。新作にも、扉にエピグラフがしたためられている。
我は、我である。
これは話中で植物状態からたちなおり、新しい〈雪風〉に搭乗した深井が、〈雪風〉のコピー機をつかって接触を試みてきたジャムとの通信で、ジャムから受けた答えである。
「いったいおまえは何者だ? 生物なのか。知性や意志や情報だけの存在なのか。実体はあるのか。どこにいるんだ」
『例示された貴殿の概念では、われを説明することはできない。われは、われである』
言葉とは不思議なものだ。それは記号であり、指し示す記号内容を了解しているものとの間でなければコミュニケートできない。だから、ジャムの「われ」という言葉が示す内容を把握できない以上、理解は不可能だ。また、音声言語の表現機能の限界というものがあり、それ以外の「言葉」によって把握できる概念も確かに存在するのだ。
一つ例をあげると「自転車」というメカがそうだ。
奇異に感じられるかもしれないが、積極的にバランスをとらなくても倒れずに走れる「自転車」の存在自体が、宇宙に偏在する重力の法則を翻訳した「言語表現」であるからだ。
不完全ながら、さらに人語に翻訳するとこうなる。 自転車の前輪は斜めに取り付けられたフォークで支えられているため、車体が傾くと自然にそちら側にハンドルが切れる仕組みになっている。左に傾くと左にハンドルが切れ、カーブ半径が小さくなり、右側に遠心力が働く。するとハンドルをもとに戻そうとする力が自然に発生する。この繰り返しで自転車は進んでいるかぎり垂直な姿勢を保とうとする。(実際にはタイヤの接地点が摩擦によってその場にとどまろうとする力も利用してるのだが、説明が複雑になるので省略)
――このように、フォークを斜めにする、ということだけで、宇宙に偏在するが人間が普通ではかいま見ることのできない物理法則をとらえて体現することができているのだ。一種の「物質言語」であるとも言える。
『グッドラック』の中にこのような説明があるわけではないが、ジャムのコミュニケート方法には、自転車を見せて「重力の法則」を読め、というような感触がある。話中では、あくまで人間の側のドラマが描かれ、まるでラカンのいうところの「無意識とは、他者の言表である」(これは、人間は無意識を自覚できず、他人からの言葉に対する、自分の思いがけない反応の中にのみ見いだすことができる、といったような意味だと私は解釈している)という言葉のように、人間の反応と行動からジャムを浮かび上がらせようとしている。分かりやすく言えば、人間がジャムに試されているという図式だ。ジャムの思いもよらない戦法に、登場人物が次のように思うシーンがある。
少佐は、口を開けば「ばかな」とか「信じられない」とか、この場では無意味な声しか出せないだろうと思い、心にそのような言葉が渦巻いている自分を意識した。零(深井中尉・評者註)には、しかし、そのような心の渦がない
とんでもない事実を突きつけられたときに「そんなバカな」と言うのは、人間にとって思考停止のエクスキューズ(言い訳)だが、そんなばかな、という言葉には何の有効な意味も含まれていない。「ありがとう」を始めとする挨拶の言葉に、言葉としての意味内容が無いように(有り難う、は本来「めったにない」という意味)。しかし、価値観が全く違う者との一瞬を争う生死を賭けた戦いの場において、言葉は戦術を有効に働かせるものでなくてはならない。言葉は人間が作ったもの(過去の神林作品『言葉使い師』においては、その前提さえ疑われ検証を受けている)だが、人間以上に言葉を信じている存在として、戦闘機〈雪風〉などの機械群は、人間存在のよりどころを問うているような印象をうける。言葉を厳密に使用しなければ、生き残れない。そんな場で、人間は言葉の厳密さに耐えられるのか? という、おそろしくシビアな問題提起を神林長平の小説はやらかしてくれる。
そして驚くべきことだが、この『グッドラック』は、そのような状況下における「愛」の物語である。もちろん、凡百な男女の恋愛話などではない。このような形で愛を描く方法があろうとは……と、読者であり自ら文章をつづる人間として、私はいま、嫉妬とともに新たなフィールドの出現に歓喜しているところだ。
まさに、サイエンスフィクションであり、スーパーフィクションであるところのSF。『戦闘妖精・雪風』と合わせて、迷わずお読み下さい。