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もらっぷフライヤー9号「一年で出会った極私的ランキング1位」1999-9
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たとえば200年前に他界している人の作品だって
いま、はじめて出逢えば
自分にとっては「新作」なわけです

99年度ベスト作品……とかいうくくりはこの際やめて
今回のもらっぷフライヤーは
ここ一年で出会った極私的ランキング一位の
ブックレヴューをお届けします

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ぬくもり、について


干刈あがた『裸』
(『ワンルーム』収録)福武文庫

 

 たまに乗る満員電車で、ふと触れ合った人の湿った皮膚に、読みかけの漫画が、大腿のふとさが、携帯電話の電源が、がちゃんがちゃんと音を立てて崩れ落ちて、うつむいた。人の温みに、無条件に引かれてゆく弱い自分を見つけたのだった。わたしはわたしの悲劇的な弱さを嫌悪し、その対岸でわたしが叫ぶ。いまだけでいいから。
 いまだけでいいからあなたの体温の中にわたしを埋め込ませてください。

          *

 その一度のあたたかさだけで、一生、生きていけると思った。  (『裸』より)

 

 

「私」は複数の男と「寝る」、女たちは「男の人のこと」について語る。「私」は「裸身一つの中にある力と方向感覚だけ」でとらえた世界を静かに、言葉へとうつしとる。言葉は散文詩のようにちりばめられ、余白、余白。そうしてこの一文が浮かび上がるように、ある。しかしそこから何もはじまりはしない。「私」は男に逢う。女たちは語りつづける。

 ふいにわたしをさらっていくわたしではない生きものの感触、生身の「あたたかさ」が、例えば髪を少しだけ短く切らせたりする。救いは空から舞い降りるようには現れなくて、見逃してしまいそうな一点の繰り返しなのだと、わたしはこの小説を読んで、言葉でそう思った。

 

             *

 

古本屋で手に取ったこの本には、以前の持ち主のメモがはさまっていて一言「干刈さんはずるい」と書かれてあった。そうかもしれない。あの一点のことをこんなにも剥き出しに書かれてしまって、うっかり真正面から受けとめたわたしはうつむくしかない。そして今はもういないなんて。

・・・・・大塚真祐子

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『草野心平詩集』

 入沢泰夫編(岩波文庫)

 

 湿った土の中に埋もれ、ぬめぬめとした体を光らせるグロテスクでどす黒い生き物。彼らは低いうめき声を漏らしながら車に轢かれ、その濡れた内蔵を人の目に晒す。あるいはぴょんぴょんと元気に跳ねる、黄緑色の憎めない生き物。彼らはおどけた調子でうかれた歌を歌う。

ここ数年来、私は自他ともに認めるカエル好きである。はじめはカエルグッズの収集で満足していたのが、某水族館には世界のカエルコーナーがあると聞けば出かけて行き、赤と黒のまだら模様をした毒ガエルに見惚れ、友人の子供からカエルレター(すべて語尾に「〜だケロ」がついている)が届けば狂喜乱舞し、更には家の庭にばかでかいカエルが生息していることが判明したときには想いが通じたと感動するまでになった。(しかもそれは番いで、ささやかな池いっぱいにニョロニョロの卵を産んだ!)そんな私のカエルブームがピークを迎えた頃に出会ったのがこの作品。出会った、というよりは再会したと言った方が正しい。小学生の頃、国語の教科書に載っていた心平詩を覚えている人はどれだけいるだろうか。「蛙の詩人・草野心平」、まさにカエル好きには必須のアイテムだということに気づいたときの嬉しさ。そもそも私の世界におけるカエルとはあくまでもイメージなのであって(実際に触ることのできるのはせいぜいアマガエルぐらいである)、イメージのカエルといえば心平のカエルをおいて他にない、これはまさに必須アイテム、というわけなのだ。

めっかちのギケロは女の毛を呑み、ゲルは不浄期の女の体をあるき、るりだの腹は歓楽の声にしびれ、るるるは白い炎となる。るるり、りるると眠るカエル達の世界に私はすっかりはまりこんでしまった。地べたに住まうコミカルなものたち。そして生き物としての本能である生殖の喜びを謳うもの。また、気味の悪いほど擬人化され、エロくて青い汁をしたたらせるもの。そのイメージは幾重にもわたっているが、彼らの世界にはある種のせつなさが共通のものとして漂っている。カエル達はきっと人間が映し出されたものではあるけれど、昇華され純化された、あるいはその反対に醜く濁ったものとして示されているところはまるで、誰にでも体を許す白痴女と蔑まれると同時に気高く聖なるものとして崇められる女のような存在の仕方である。そこに漂うせつなさは、何故か多くの人の心に頷きを与えるものである。大事なことは、彼女(そしてカエルたち)は自らにそのような評価が下されているのを自覚していないということである。その本能のまま、感性のまま、欲望のまま、存在しているということである。

ある程度共通したイメージ(しかもそれは冒頭に挙げたように対極にあるもの両方について言える)を持つカエルという魅力的な生き物を題材として取り上げ完成させた草野心平のこれらの作品を、一人のカエルマニアとしては勿論のこと、ひとりの読み手としてもお薦めしたい。

ちなみに池の卵たちは無惨にも私の母によって取り除かれ、一匹たりとも日の目を見ることがなかった。母ガエル(だと思う)は今年も雨の降った日の夜には必ず庭にやって来るが、そんな時の彼女はじっと座ったままめったに動かない。そうして恨めしそうにこちらを見ているのだ。

 

・・・・・菅 瑞枝

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『スキップ』北村薫

 新潮社 2100円

 

 この小説のあらすじを簡単に言ってしまうならば、17歳の女子高校生が、42歳の自分にタイムスリップしてしまうという話で、設定だけならばサイエンス・フィクションなのだけれど、読後感はまるで良質の青春小説を読んだような…、いや、まさしく青春小説「ジュブナイル」なのだけれど。

歳を重ねることは、引き算なのか、それとも足し算なのか。

もう少し若かったころは、経験と知識を積みたがったけれど、今はそれもままならないまま、捨てたいけれど捨てられないものを身にまとってしまった気分で、年齢をこれからも重ねていくことをおもうと、私はうんざりした気分になります。

17歳の主人公、一ノ瀬真理子にとって25年の月日の経過は、両親の死や肉体の衰え、そして見たこともない夫や、自分と“同じ”歳の娘の出現などとして現れてくるが、彼女が目下立ち向かわなければならないものは、そんな状況におかれた彼女自身にほかならない。それは多分「タイム・スリップ」をしなくとも、彼女の人生がまったく別の方向へ向かったとしても、彼女が彼女の人生を生きるという意味では等価値なのだ。得るもの、失うものを見据えて、真理子はさらに先へ進もうとする。過去へもどろうとあがいてもおかしくはないのに、さらに“未来”から先へと生きようとするのだ。サイエンス・フィクションという形をとりながらも、鮮やかに生きる力の瑞々しさを突きつけられながら私は、真理子が好きな言葉として作中で挙げた「自尊心」という言葉を忘れられずにいる。

・・・・・若林紀久子

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  SFというジャンルのパワー


『戦闘妖精・雪風』
『グッドラック』神林長平

(早川書房 刊)

 

 

 SFというジャンルが影をひそめた印象があるのは、現実のテクノロジーがSF作家の想像力に追いついてしまい、それを越えていくビジョンが打ち出せないでいるからだ、という意見がある。確かにサイエンス・フィクションとしてのSFには「未来予測」という側面があり、テクノロジーの進化と方向を予見しきれなかった感は否めない。

 サイバースペース(電脳空間)という言葉を生み、サイバーパンクというSFの潮流をつくりだした『ニューロマンサー』ウイリアム・ギブスン著1984年――においても、そのサイバースペースは高度の集積度をもつ中央集権的コンピュータ――昔ながらの「マザーコンピュータ」という概念から脱しきれない――によって実現するものであり、1990年代に突然現実化した、インターネットという、中心となる実態は存在しない、分散された個々のコンピュータのネットワークによってなされるサイバースペースの出現は予期せぬ不意打ちだった。
 しかもそれは一部のハッカーやナード(おたく)にしか関与できないものではなく、万人に開かれ、テキストによる自己表現の敷居を下げ、全世界への発信方法を一般人のものとし、「書き言葉のカラオケ化」さえ招くことになったのだ。
 すなわち、Eメールとは一人ひとりが持てる「一瞬のうちに世界のどこからも届く電子私書箱」であり、BBSやチャットは、ふとした思いつきや、たわいないおしゃべりを、全国紙規模で配信させることができる。ホームページを作れば、それは24時間営業の、あなた自身の番組チャンネルである。インターネットがこれほどまでに手軽な人と人とのコミュニケートをうながし、自己意識の急速な拡大を補助することになろうとは、SFというジャンルには思いもよらないことだったのだ。

 だがそれは、SFが「サイエンス・フィクション」であると同時に「スーパー・フィクション」でもあるという性質を忘れてしまったために、自らを不当におとしめている一側面でしかない。

 この春出版された、神林長平の『グッドラック』は、『戦闘妖精・雪風』の続編として書かれたものである。十五年前に書かれた第一作は、こんな物語だった――

 

 突如、南極大陸に、異星に通じる超空間通路が発生。そこからジャムと呼称される未知の戦闘機械が進攻してきたため、人類は地球防衛機構を設立、超空間通路の向こうに存在するフェアリィ星に、実践組織・フェアリィ空軍を派遣した。その「特殊戦」に所属する飛行機は、実際の格闘戦には参加せず、常に戦闘状況をモニタして情報を収集するのが任務である。よって、たとえ友軍機を見殺しにしてでも情報を持ち帰るのが使命で、特殊戦の人間は「機械のような」非情なタイプの者が集められていた。〈雪風〉は深井中尉によって操られる特殊戦の五番機だった。

 特殊戦の人間たちを描写しながらつづられていく物語のなかで、異星体ジャムの理解不能度だけは不気味に増大し、やがて登場人物たちは認めたくない一つの事実に薄々気づき始める「ジャムは人間相手に戦争をしているわけではない」ということに。

 深井中尉に「〈雪風〉がおれを離したがらない」とまで言わせた〈雪風〉をはじめとする、地球製の機械群こそがジャムの敵で、人間はこの戦いに消耗しながら、実はまったく蚊帳の外に置かれた存在なのではないか――それでも、ジャムに「人間の敵であって欲しい」という願いは、人間の甘い幻想に過ぎなかった。

 ついにジャムに撃墜されて不時着した〈雪風〉の機内で、深井中尉は〈雪風〉とともに最期の時を迎えることを本望と思うが、別れを告げるように〈雪風〉のコクピットに響いた電子音は、この機体を捨てて、援護に飛来した新型の友軍機に自らの中枢機能データを転送する宣言だった……

 

 小説『戦闘妖精・雪風』の最初の扉で、読者はこんなエピグラフを目にするだろう。

 

   妖精を見るには

   妖精の目がいる

 

 『戦闘妖精・雪風』で追及された「絶対的他者とのコミュニケート」というテーマは、ここに集約されているような気がする。異なる存在を理解するためには、異なる存在の見方が必要なのだ。他者を理解したような気になることはできるが、他人の痛みを本当に理解することは絶対にできない。皮膚という境界線で囲まれた「自己」をもつ存在の永遠の孤独が、このエピグラフにはこめられているように思う。

 読者としては、この『戦闘妖精・雪風』は完璧な小説で、続編などあり得ないと思っていた。しかし、神林長平はSFマガジンにその後のエピソードを発表し続け、それが一冊にまとまったのが、新作『グッドラック』である。新作にも、扉にエピグラフがしたためられている。

 

  我は、我である。

 

 これは話中で植物状態からたちなおり、新しい〈雪風〉に搭乗した深井が、〈雪風〉のコピー機をつかって接触を試みてきたジャムとの通信で、ジャムから受けた答えである。

「いったいおまえは何者だ? 生物なのか。知性や意志や情報だけの存在なのか。実体はあるのか。どこにいるんだ」

『例示された貴殿の概念では、われを説明することはできない。われは、われである』

 

 言葉とは不思議なものだ。それは記号であり、指し示す記号内容を了解しているものとの間でなければコミュニケートできない。だから、ジャムの「われ」という言葉が示す内容を把握できない以上、理解は不可能だ。また、音声言語の表現機能の限界というものがあり、それ以外の「言葉」によって把握できる概念も確かに存在するのだ。

 一つ例をあげると「自転車」というメカがそうだ。

 奇異に感じられるかもしれないが、積極的にバランスをとらなくても倒れずに走れる「自転車」の存在自体が、宇宙に偏在する重力の法則を翻訳した「言語表現」であるからだ。

 不完全ながら、さらに人語に翻訳するとこうなる。 自転車の前輪は斜めに取り付けられたフォークで支えられているため、車体が傾くと自然にそちら側にハンドルが切れる仕組みになっている。左に傾くと左にハンドルが切れ、カーブ半径が小さくなり、右側に遠心力が働く。するとハンドルをもとに戻そうとする力が自然に発生する。この繰り返しで自転車は進んでいるかぎり垂直な姿勢を保とうとする。(実際にはタイヤの接地点が摩擦によってその場にとどまろうとする力も利用してるのだが、説明が複雑になるので省略)

 ――このように、フォークを斜めにする、ということだけで、宇宙に偏在するが人間が普通ではかいま見ることのできない物理法則をとらえて体現することができているのだ。一種の「物質言語」であるとも言える。

 『グッドラック』の中にこのような説明があるわけではないが、ジャムのコミュニケート方法には、自転車を見せて「重力の法則」を読め、というような感触がある。話中では、あくまで人間の側のドラマが描かれ、まるでラカンのいうところの「無意識とは、他者の言表である」(これは、人間は無意識を自覚できず、他人からの言葉に対する、自分の思いがけない反応の中にのみ見いだすことができる、といったような意味だと私は解釈している)という言葉のように、人間の反応と行動からジャムを浮かび上がらせようとしている。分かりやすく言えば、人間がジャムに試されているという図式だ。ジャムの思いもよらない戦法に、登場人物が次のように思うシーンがある。

 

 少佐は、口を開けば「ばかな」とか「信じられない」とか、この場では無意味な声しか出せないだろうと思い、心にそのような言葉が渦巻いている自分を意識した。零(深井中尉・評者註)には、しかし、そのような心の渦がない

 

 とんでもない事実を突きつけられたときに「そんなバカな」と言うのは、人間にとって思考停止のエクスキューズ(言い訳)だが、そんなばかな、という言葉には何の有効な意味も含まれていない。「ありがとう」を始めとする挨拶の言葉に、言葉としての意味内容が無いように(有り難う、は本来「めったにない」という意味)。しかし、価値観が全く違う者との一瞬を争う生死を賭けた戦いの場において、言葉は戦術を有効に働かせるものでなくてはならない。言葉は人間が作ったもの(過去の神林作品『言葉使い師』においては、その前提さえ疑われ検証を受けている)だが、人間以上に言葉を信じている存在として、戦闘機〈雪風〉などの機械群は、人間存在のよりどころを問うているような印象をうける。言葉を厳密に使用しなければ、生き残れない。そんな場で、人間は言葉の厳密さに耐えられるのか? という、おそろしくシビアな問題提起を神林長平の小説はやらかしてくれる。

 そして驚くべきことだが、この『グッドラック』は、そのような状況下における「愛」の物語である。もちろん、凡百な男女の恋愛話などではない。このような形で愛を描く方法があろうとは……と、読者であり自ら文章をつづる人間として、私はいま、嫉妬とともに新たなフィールドの出現に歓喜しているところだ。

 まさに、サイエンスフィクションであり、スーパーフィクションであるところのSF。『戦闘妖精・雪風』と合わせて、迷わずお読み下さい。

 

・・・・・青木敬士

 




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