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この本を、
映画「マトリックス」と
同時摂取せよ!
ウイリアム・ギブスン
「ニューロマンサー」
神林長平
「我語りて世界あり」「プリズム」
text by 青木KC
「なぜ、気づかない」
一九九九年のこの世界が、じつは機械知性の見せる夢で、現実のあなたの身体は、どこかの培養槽に胎児のように漬かり、一度もその目でものを見たこともなければ、その足で地面に立ったこともないのだとしたら……
映画「マトリックス」は、そんな二一九九年の機械知性支配と戦う人間のストーリーである。人間の肉体を生体発電所として利用しながら、それを人間たちに悟らせず、あたかも一九九九年の世界で暮らしているかのように錯覚させるため、機械知性によって創られたサイバースペース。そこが舞台だ。
映画では、わりとあっさりと、その世界の成り立ちの謎が明かされてしまう。謎を解いていくストーリーも選択できたはずだが、監督のウォシャウスキー兄弟はそれをしなかった。なじみの例でいえば「刑事コロンボ」シリーズに近いものがある。刑事物とSFという違いはあるが、見せたいのは「過程」だ、という点は共通している。私と友人の間では、ウォシャウスキー兄弟のことを、愛情をこめて「オタク兄弟監督」と呼び習わしているのだが、その過程を「魅せる」ためにオタク兄弟が引用してきたアイテムは、日本のアニメから香港映画のワイヤーアクションまで多岐にわたる。自分たちが面白い、カッコいいと感じたものを、ためらいなく自作に採り入れていく姿勢は、ある種のすがすがしさを覚えるほどだ。
い
サイバーパンクの古典とされるウイリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」(1984)。ここにもマトリックスは存在する。第一章の「千葉市憂愁」から引用しよう。
「その頃のケイスときたら、マトリックスと呼ばれる共感覚幻想の中に、肉体を離脱した意識を投じる特注電脳空間デッキに没入して――若さと技倆の副産物でもあったろうが――ほぼ恒常的なアドレナリン高揚状態で活動していたものだ。(早川文庫版 15頁)」
「ニューロマンサー」について私の個人的印象を言えば、混沌の未来と東洋趣味のアイテムをまぶした追跡ハードボイルドもの、という元型を、二年先立つ映画「ブレードランナー」から頂戴してきただけのファッションSF小説という辛口の評価しかできないのだが、マトリックスを観て、その出典を知りたいと思う方は、第一章の「千葉市憂愁」だけでも読んでみるといいだろう。確かにその文体は、日本語に訳されてもサイバーな香りに満ちた空気を引き連れてくる。しかし、「マトリックス」を観てしまったあなたには、少々退屈な読書体験に終わるのではないだろうか。それは「ニューロマンサー」が、映像的な小説として評価されたのと表裏一体の弱点のせいだ。そこには小説あるいは言葉でなければ不可能な仕掛けはどこにもなく、その世界が映像化できる技術が開発されてしまえば、映画のほうがエキサイティングなのはいたしかたないことであるから。
ならば、やはりブックレヴューを務めるものとして、言葉でなければできないサイバーパンクを紹介しなくてはならない。P・K・ディック(ブレードランナーの原作「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」などの著書があり、現実崩壊感覚を書かせたら一流だった)の流れの正当な後継者、と私が勝手に考えている、日本のSF作家・神林長平の「我語りて世界あり」(早川文庫)を一番に推したい。
「マトリックス」において人間を仮想現実の世界に幽閉したのは、全にして個の単一の意識に目覚めた機械群だった。しかし「我語りて世界あり」では、同じく共通の意識をもった機械群が出てくるが、すべてを単一の意識でくくったことにより「意識」そのものが消滅してしまうのではないか? という哲学的疑問が、エンターテイメントの筆致を崩さずに語られている。
ここでは、マトリックスにあたるものはオーバーカムと呼ばれている。
――オーバーカムはすべての意識を一つにする役目をもって造られたのかもしれない。それを、人間の無個性化に使おうとしたのは人間だ。だがもとはといえば、機械知性を、機械を機械のままにして意識などもたないものにしておくために造られたものだったと思う。それはまだ作動している。わたしを消そうとしている。」
――個性とはなんだ? みんなを、すべてを知らないから個性が生じるのだ。人間がそれぞれ全知なら、そのときはじめて、一人の仲間はずれもなく「われわれすべては納得する/しない」と言えるのだ。無知が個性を生む。「ちがう。そんなものが個性であるものか。あなたの考えはまちがっている」
「我語りて世界あり」では、二人の少年と一人の少女がオーバーカムのコントロールに対抗する。「マトリックス」において力を発揮するために必要だったのは「心を解き放て」ということだったが、そんな手垢のついた甘ったるい説明放棄を、神林長平は行わない。オーバーカムに対抗するために一番有効なのは個性を身につけること、すなわち「変わらない名前をつけること」なのだ。この発想は、小説の中にあって輝きを放ってくる。映像では表現不可能だ。映像といえば「エヴァンゲリオン」において神話的説明しかなされなかった「人類補完計画」―全ての人の魂を一つに―も、すでにこの小説において技術的解答と発動後の世界の有り様が書かれているといっても言い過ぎではない。
この小説を没入して読めたあなたには、つぎに神林長平の「プリズム」をお勧めしたい。そこには機械がシステムの中で個性と意識をもつ過程が描かれている。それは日本語で書かれていながら、もはやある種の「翻訳」といっていい。パソコンにおいて、二進法のプログラムを使いやすいインターフェイスにして画面表示するのも翻訳といえばそうなのだが、絶対に人間に感じることができない機械の一人称を、物語によってかいま見せてくれるものを、翻訳と呼ばずしてなんと呼ぼう? 神林長平の作品群は「マトリックス」が多くの観客に支持された今、まったく目が離せない状況にある。
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