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ペニスのある少女を描く
ヘンリー・ダーガーをめぐる2冊の書
ダーガー作品集「非現実の王国で」
斎藤環「戦闘美少女の精神分析」
text by 青木KC
7月5日付けの朝日新聞夕刊15面に「絵で現実と非現実が交じる・ゲーム機で長時間遊ぶ子」
という見出しの記事があった。絵を通じて子供の心理分析を続けてきたカウンセラーが、最近の調査から、平日4時間以上ゲームをする子供の絵には、空いっぱいにゲームキャラが飛んでいたりするなど、現実の風景にゲームのキャラクタが混在するものが半数以上を占めたと報告している。
この記事は、ビデオやゲーム漬けの生活の中で、子供たちの現実と非現実の境界があいまいになっていることに警鐘を鳴らす論調で書かれているが、はたして、それが子供たちへの危惧なのかと考えると、疑問を感じずにはいられない。むしろ、大人たち自身が作り出しながら、いまやそのコントロールを離れて若い世代によって加速されていく「多層構造的な現実のあり方」についていけなくなることへの不安を「それは好ましくないこと」とすることで安心しようとしている姿が感じられるのは勘ぐり過ぎだろうか?
皮肉にも、記事の見出しは「現実と非現実が交じる」であり、「混じる」ではない。パソコンやケータイなどの新たな情報ツールを、生まれたときからある「環境」として使いこなして、従来の枠を越えたメッセージの「交」換や「交」歓ができる世代の誕生を高らかに告げる事実の報告こそが、この記事の本質なのであり、古い視野しかもたない世代には、墨守すべき一面的な現実の「混」乱としか見えないことへの哀悼のメッセージを告げているのだ。
そして、翌7月6日の朝日夕刊には、どんよりと陰る街の空に、次のようなコピーが並ぶ、見開きカラーの巨大な広告が載っている。
『家族。学校。社会。 すべてが少しずつ壊れていくこの国で ただひとつ 壊れない世界がある。』
新作が出るたびに数百万本もの売り上げを誇るゲーム・『ファイナルファンタジー』最新版、9の広告である。前日の記事は、『ファイナルファンタジー9』の発売日を狙って掲載された意図が見えるが、この広告によって、見事な返り討ちにあったように思えるのは私だけだろうか?
もちろん「壊れていくこの国で ただひとつ 壊れない世界がある。」といっても、あくまでもゲームの画面の中に限定された物語世界なのであり、プレイステーションの電源を切って立ち上がれば、周囲は先行き不安な日本の現実社会であることに違いはない。しかし、現実の制約を才能と努力によって排除し、非現実の壊れない世界を永遠に継続させることが出来るなら、それは一つの生きざまとして認められるのではないだろうか?
アウトサイダー・アートという領域がある。正規の美術教育を受けておらず、美術界にも所属していないアーティスト(精神病患者も多い)による作品群のことをいうのだが、今回のブックレビューで取り上げる、ヘンリー・ダーガーの紹介者、ジョン・M・マクレガー氏は、アウトサイダー・アートを次のように定義する。
「広大で百科事典的に内容が豊富で、詳細な別の世界(現実世界に適合できない人が選んだ、奇妙な遠い世界)を、アートとしてではなく、人生を営む場所として作り上げていること」。
まさに「壊れていくこの国で ただひとつ 壊れない世界」を、もはや作品とはいえないようなディテールを備えた創作物の中に作ってしまう人間、それがアウトサイダー・アーティストである。アメリカのヘンリー・ダーガー(1892―1973)は、24歳から60年もの長きにわたって、誰にも知られることなく、発表することもなく、一人で黙々『非現実の王国で』という、タイプ原稿1万5000ページと長巻物のように巨大な大量の挿し絵からなる、壮大な作品を作り上げていた。晩年、身体の自由がきかなくなり、部屋を明け渡したときにその作品は発見されたのだった。それは、まさに彼が一人でグラフィックからプログラミングまでをこなした、ダーガー自身のためだけの『ファイナルファンタジー』のように感じられる。
私がヘンリー・ダーガーの作品と出会ったのは、1993年、世田谷美術館で開かれた「パラレル・ヴィジョン」と題したアウトサイダー・アート展でのことだ。『非現実の王国で』の絵巻は、子供奴隷に残虐な拷問を加える邪悪な大人たちと、文字通り血みどろの闘いを続ける、7人の少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズの姿を描きだしている。奇妙なことに、その筆致は、内臓が飛び出したりする生々しい場面でも、子供の塗り絵のようにポップで色彩豊かなものだ。そして、その奇妙さは、少女たちがなぜか、少年のようにペニスをもっていることに極まる。
日本でもついに発売となった作品集『非現実の王国で』(作品社刊 http://www5a.biglobe.ne.jp/~v-books/hp/)では、ダーガーの創作スタイルについて、ジョン・M・マクレガーによる検証がなされてる。それによると、絵を描く技術を持たなかったダーガーは、新聞雑誌の挿し絵や写真や広告から、少女のイメージを切り抜き、それをトレースして自分の絵巻のなかに登場させていたのである。優れたポップアート的な洗練をみせる理由の一つがここにあったわけだが、しかし、なぜかダーガーは、少女にペニスを描き加えることを欠かさなかった。なぜか? 極端に孤独な生涯を送ったダーガーは、男女の肉体的性差さえ知らなかったのかもしれない、という仮説もある。しかし、私の個人的見解では、それはありえないと思う。性差の認識が無いとするならば、彼の作品の登場人物が「少女」である必要はないからだ。彼は間違いなく男女の違いを知っていた。そのうえで、少女にペニスを描き加えるというところにダーガーの個人的なファンタジーがあり、彼が生きていくために創り上げた「壊れない世界」の必須条件だったに違いない。いずれこのことについては、私自身改めて考察してみたいが、そんなおり、ダーガーの少女戦士・ヴィヴィアン・ガールズを、日本のアニメやマンガに独特の「戦闘美少女」の氾濫(ナウシカしかりセーラームーンしかり綾波レイしかり)との関連から分析するという興味深い本が出た『戦闘美少女の精神分析』斎藤環著(太田出版刊)である。精神科医である著者の謎解きは刺激的だ。ダーガーの世界に魅せられたなら、この本も併読することをお薦めしたい。
さしずめ今ならば、ダーガーは「ひきこもり」と呼ばれて、それでおしまいの人間かもしれない。が、そのことは、逆に、現代社会にあふれる「ひきこもり」の人たちの内面にも、『非現実の王国』に匹敵する、彼らなりの壮大な想いや物語が存在するかもしれない、ということを示唆してはいないだろうか?
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