マンペイ
いきなり見たことの無い馬からの紹介になりますが、まずはこの馬を紹介しないわけにはいかないでしょう。
戦前から戦後にかけて、全国にたくさんあったいわゆる"草競馬"と言われるような競馬場がどんどんと姿を
消していきました。
その理由の一つに戦争そのものの影響と、あとは軍馬として大陸に行った馬達が帰ってこなかったという理由もあるでしょう。
そういう中で今の高知競馬が四国で唯一存続できた理由は"県内産馬"の存在があったという歴史もあるようです。
マンペイは昭和18年に国営(今の中央競馬)3歳戦で14戦12勝という成績を残し種牡馬となりました。
高知競馬との関わりは昭和24年になってからで、国有の種牡馬の貸し付けという形で毎年種付けに供用されました。
主に高知県の春野〜中村地区でのべ443頭に付けて200頭あまりの産駒を送り出し、土佐駒の改良に大きく貢献したようです。
その頃は競馬場で産駒のセリが行われるなどなかなか県内産馬は盛り上がっていたようです。
マンペイの名前は、その功績を称えて以前は県内産馬限定レースの名称に使われていましたが、、県内産の馬は平成7年まで走ったトサソダチ(サラブレッド)を最後に現在走っていないため(トサソダチは例外中の例外であって、すでにほとんど県内産馬は走っていなかったようです。)、新競馬場(長浜)ではアラブ系B級の特別戦にそして平成9年度からアラブ系4歳の重賞競走に名前を残す事となりました。
レース名以外でマンペイの名を残す物が他にもあります。
高知競馬のパドック沿いに左へ回っていくと、馬頭観音(ちなみにこの馬頭観音堂は、高知競馬でデビューし今は福山競馬へ移籍した佐原秀泰騎手のお父さんが作られました。佐原騎手のお父さんは宮大工で、この馬頭観音堂は釘を一本も使わずに作られたそうです。)があり、その横にマンペイの記念碑があります。碑には「国有種馬 マンペイ記念碑」と書かれており、この記念碑は高知競馬が桟橋から移転してきた時に移設されたようです。
写真は、高知競馬場にあったマンペイの写真です。

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