ミスター労働運動
明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた・・・
(アマゾン)
2009年、労働者の解雇があいついでいる。
まさに「蟹工船」の時代が、ふたたび来ようとしている。
「額に汗して働く者」たちの権利が、労働運動の弱体化とともに、
ますます軽んじられるようになっている。
そんな社会の閉塞感から抜け出すヒントのひとつは、
もう一度、運動の原点に帰ることではなかろうか・・・。
労働運動のパイオニア、城常太郎のメッセージをとおして、
「働く者のスピリット」を感じていただければ
幸いである。
(大原社会問題研究所所蔵)
ツネタロウ ユク
城 常太郎(28歳)
誰も知らなかった日本近代史の一齣!
★アメリカから日本へ労働運動を直輸入!
・・・日米両国を舞台にした壮大なスケールの労働闘争劇!・・・
明治25年春、城常太郎は社会運動不毛の地日本に
「近代的労働運動」の種を植えつけようと、
たった一人で一時帰国した。
帰国後、常太郎は、ただちに東京へと直行して、
迎えてくれた数名の同志とともに「職工義友会」東京支部を新設し、
アメリカで学んだ労働運動の知識と実体験を武器に
階級闘争の戦線に立った。
「靴工兵制度反対運動」決起!
「最下層労働者」 VS 「日本政府+陸軍省+資本家」
★明治25年暮、近代的労働運動の幕開けとなる一大事件が勃発!
東京の街々に緊急号外飛び交う!(明治労働運動史上、最初で最後の号外)
地方のローカル新聞や外国新聞も大きく報道!
労働運動史の源流・熱き靴職人たちの闘争劇
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今明かされる歴史の真実!
★労働運動黎明期の「台風の目」となって四大都市に
旋風を巻き起こした城常太郎!
靴工兵制度反対運動が失敗に終わるとともに、当時東京中に巻き起こっていた
労働運動ブームもまた急速に沈静化してしまった。
しかし、常太郎が先導したこの運動が、全国数百万労働者の魂を揺さぶり、
彼等の階級意識を目覚めさせるきっかけとなったことは
間違いないだろう。
時あたかも、世の中は日清戦争に向けてまっしぐらに突き進んでいたため、
この後、明治26年、27年、28年と
日本は労働運動空白時代をむかえることになる。
帰米した常太郎は、再度の決起を心に誓い、日清戦争が終結する日を待ち続けながら、
労働運動決行の日に向けて着々と準備を重ねていった。
やがて、日清戦争が日本の勝利で終わると、
日本の産業界は一気に活況を呈し、
労働争議も頻発し始めた。
いよいよ、常太郎にとっての大仕事、
祖国日本に労働運動の旋風を巻き起こす時節が到来した。
歴史には、逃してはならない「時」があるとよくいわれる。
この「時」こそ、常太郎がサンフランシスコで夢見続けてきた、日本での
近代的労働運動を再始するまたとないチャンスだった。
明治29年2月、絶好のタイミングで日本に本帰国した常太郎は、
国家の中心である帝国議事堂のあった同じ町に家を借りて、
そこに活動の拠点となる「職工義友会」を置き、
今度こそは明治25年の二の舞を踏まないようにと、
万全を期して運動を再スタートさせた。
その後、義友会の主要メンバーの一人沢田半之助が義友会の命を受けて
有能な理論派・高野房太郎を説得して組織に引き入れると、
メンバーたちは俄然勢いづき、全員が一丸となって組織拡大に奔走した結果、
義友会の発展的団体「労働組合期成会」が誕生した。
幹事長/高野房太郎(有識者・元新聞記者)
幹事/片山潜(有識者・キングスレー館館長) 沢田半之助(洋服店経営者)
ここに、常太郎が夢にまで見た日本における近代的労働運動の基盤が
ようやく築き上げられたのである。
★自分がやらねば誰がやる
仮に常太郎の胸中に歴史に名を残したいという名誉欲が少しでもあれば、
「労働組合期成会」が誕生した後も東京に居残りさえすれば、
その願望はいとも簡単に叶ったであろう。
しかし、そんなちっぽけな俗世の我欲のために労働運動に
のめりこんだのではないことは、写真の中の彼の
「なりふり構わず」の風貌をみれば
一目瞭然だ。
常太郎は“義”を重んじ、「国」を、「民」を想う気持ちで
一杯だったのだ。
そんな彼にとって、日本で最も過酷な労働状況下に
置かれていた関西の労働者のことが気がかりでならなかった。
彼らを何としてでも救わなければとの一念で一杯で、
自分の名を後の世に残そうなど
考えもしなかったのだ。
常太郎は、軌道に乗った「労働組合期成会」の運営を高野や片山に任せると、(注:1)
自分は関西に「労働組合運動」の種を植え付けようと、
たった一人、神戸へと赴いたのである。
「◎義を見て勇む・・・・・靴工、城、、、」
『金門日報』より
(注:1)
靴産業の古典的な文献『靴産業の先覚者西村勝三の生涯』には、
城常太郎がアメリカから本帰国した後、東京において労働運動に従事していた期間は
「労働運動に明け暮れした一年間、、、」と記載してある。
常太郎が東京において労働運動から完全に身を引いた時期は
明治30年7月下旬であったことが判明している。
そのことから逆算すると、
彼が帰国後、東京において労働運動をスタートさせた時期は
明治29年7月前後であったことになる。
であれば、既にその頃、常太郎により「職工義友会」が
再建されていた可能性が高い。
ところが、日本史の教科書には
「高野房太郎により明治30年、職工義友会が結成され、、、」
と記されているのだから、上記事実と明らかに
矛盾していることになる。
そもそも、「職工義友会」のメンバー高野、沢田、平野、木下等を「台風の目」のように
労働運動に巻き込んだ張本人は城常太郎だったではないか。
それなのに、「職工義友会」の主役中の主役が
まったく外に置かれているのだから、何ともいいようのない
違和感を覚える。
筆者は、 日本史の教科書には、
「城常太郎により明治29年、職工義友会が結成され、、、」
と記載されるのがベストではないかと考えている。
筆者がそう考える理由は、
それまで、絶えず先頭に立って「職工義友会」をリードしてきた常太郎の実践力が、
「いざ、勝負!」という時に、メンバーの中でも抜きん出て、いち早く
パワーを発揮するであろう、と確信しているからだ。
事実、実際の運動に当たって、先ず最初に常太郎がアクションを起こし、
その後、高野を呼び寄せて協力を依頼している
ケースが複数確認されている。
高野が労働運動をスタートさせる絶好の機会を前にして、
迷っていたことも事実である。
更には、常太郎と高野を取り巻く当時の状況から判断しても、
労働運動の最初の一歩を踏み出したのは城常太郎であると考えざるを得ない。
とにかく、サンフランシスコ(明治23年)、東京(明治25年)、
横浜(明治30年)、神戸(明治31年)、大阪(明治32年)の地に赴いて、
誰よりも先に近代的労働運動の火をつけて廻った「仕掛人」は
常太郎だった、という厳然たる事実があるのである。
最後に、いままで挙げた理由より、もっと決定的と思われる理由を一つ挙げておこう。
実は、常太郎が既に明治29年に労働運動に着手していたことを、
常太郎の自宅と同じ町内に本社が置かれていた
「都新聞」が報じていたのである。
歴史上は同じ労働運動家と言われていても、
学者肌の理論派・高野と根っからの実践派である常太郎では、
スタート時のダッシュ力におのずから差が出るのも
当然と言えば当然だろう。
常太郎にとって、実践家ゆえであろうが、文字を残していない不利は
あまりにも大きい。
幸い、下に挙げた二つの参考資料も、筆者の考えを
後押ししてくれている。
★Yahoo!百科事典「職工義友会」(執筆者 松尾洋)参照
★『日本之労働運動』(執筆者 片山潜・西川光次郎)参照
◆城常太郎は「関西労働組合期成会」誕生の影の立役者!
常太郎は、関西の労働者たちに新しい息吹を吹き込もうと、
十坪たらずの自宅を拠点にして、工場に出かけてはオルグ活動に精を出し、
賛同者を運動に引き入れながら一歩一歩組織作りを進めていった。
そうした地道な活動の中から「労働組合研究会」が生まれた。
この研究会は、関西における近代労働運動のさきがけとなった。
その後も、常太郎は「労働組合研究会」会員と「大阪砲兵工廠」の鉄工たちを合流させて
「関西労働組合期成会」を起さんと奔走し、
関西における近代的労働運動の基盤を着実に築き上げていった。
「神戸市にては城常太郎氏赴きて以来、労働組合研究会というを組織し、
同志者を集めて、該問題の研究に従事しおりしが、今度同志者の一人、
東京に出で、期成会の諸氏と打ち合わせおるがごとき、
関西地方労働界の暁鐘をもって期し、
大いに労働運動に従事せんとするよしにて、
近日、石工、木工百余名を糾合し労働組合期成会支部
設立の計画あり。」
『横浜毎日新聞』(明治32年3月31日付け)
「城常太郎、武田元貞〔九平?〕氏等は、大阪に関西労働組合期成会を起こさんと、
目下、おおいに奔走しつつあり。」
『横浜毎日新聞』(明治32年9月20日付け)
ところが、ここでも、常太郎は労働運動を軌道に乗せると、その後事は一切
労働者たちに打任せ、自分は裏方に徹して、
彼等が自主独立を勝ちとれるよう、
背後から手助けする側に
廻ったのだ。
・・・その一例・・・
間見江金太郎、「労働組合期成会」本部に宛て葉書を飛ばして曰く。
「、、、先般神戸の城君(城常太郎氏は期成会の創立者にして名誉会員なり)の紹介を
以って牧野氏に面会致し候。氏もなかなかの熱心家にて種々の高説を伺い申候、、、、」
『労働世界』(第五十号・明治三十二年十二月一日付け)
●明治34年夏、「関西労働組合期成会」誕生!
幹事/武田九平(大阪砲兵工廠の鉄工)
副幹事/牧野新一(労働組合研究会の鉄工)
会員数百余名
ここに、常太郎の長年の悲願であった、
有識者や政治家を長としない、
労働者による労働者のための自立した労働者団体が正式に誕生した。
常太郎は「関西労働組合期成会」誕生を見届けた後、
高野との兼ねてからの約束を果たすため、
明治34年秋、妻と生まれて七、八ヶ月になる長女を連れて、あわただしく
彼のいる満州へと旅立った。
「、、、、、この記事の中でも常太郎は、自分のことをただの「職工」と呼び、
病に倒れても後悔はしていないと結んでいる。一生を「職工諸君の友」として貫き通した彼は、
それまでの人生で数多くの歴史的団体を立ち上げたにもかかわらず、
組織の頂点である「会長」の席に付くことは
一度としてなかった。、、、、、」
『ミスター労働運動』より
明治時代と靴
労働運動史
小林多喜二
明治時代の貧しい人々の暮らし
明治時代と服装
歴史雑学
伊藤博文
明治時代の背景と人物
片山潜・幸徳秋水・田中正造
明治時代の格差社会
渋沢栄一
西村勝三・大倉喜八郎
徳富蘇峰
明治時代の心のやさしい人々
福沢諭吉
板垣退助
新渡戸稲造
金子堅太郎
明治時代の尺八演奏家
前島密
尾崎行雄
頭山満
犬養毅
安田善次郎
後藤新平
山縣有朋
東郷平八郎
星亨
北里柴三郎
寺内正毅
原敬
清水次郎長
乃木希典
陸奥宗光
大久保利通
中岡慎太郎
谷干城
近藤勇
土方歳三
(開始日:2006年11月8日)