片山潜・幸徳秋水・田中正造




片山潜





明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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◎片山潜氏、遂に露都で客死/老齢祖国を偲びつつ淋しく・・・・・【モスクワ五日発連合】日本プロレタリア運動の創始者の一人であるコミンテルン幹部会員片山潜氏は五日七十四歳の高齢を以って赤都モスクワに死去した。
・・・略歴・・・
氏は安政六年(一八五九)岡山県の寒村に生まれ明治十一年上京、明治十七年渡米してホプキンス大学メリーヴィル大学に苦学研鑽十二年の後、明治二十九年社会主義者として帰国、同志と共に神田にキングスレー館を開いて社会問題の講演会を開いたが明治三十一年遂に幸徳秋水と共に社会主義研究会を組織し、三十四年五月幸徳秋水、安部磯雄、木下尚江等と日本最初の無産党「社会民主党」を創立し当局の弾圧で一日にして解散した。六月更に「日本平民党」を組織せんとして再び解散を命ぜられて米国に亡命し三十九年再び帰国した。四十五年の東京市電罷業の教陵者として捕らえられ出獄後又もや米国に去りトロッキー、ブハーリン等と「階級闘争」を発行、一九二一年全米共産党委員長に推された。一九二二年ソヴィエト連邦に渡りコミンテルン第三回大会に幹部員に挙げられ以来モスクワに滞在して現在に及んだ。
◎奇しき異端の生涯・・・・・思想上の主義のために悪戦苦闘を重ね故国に足蹴にかけて居た片山潜氏もよる年波と共にその心境の動揺はどうする事も出来なかった。あれほどソヴィエトロシアから賓客の待遇を受け、時の権勢レーニンやスターリンからさへ至上の尊敬を受け革命の母ツエトキン女史の葬儀の時は其の棺に対し片棒をかつぐだけの特権と礼遇を與へられた程のセン・片山も、最近数年間は故国愛慕の情に迫られて帰心誠に矢の如きものがあった。殊に昨年血を分けた娘であるやす子嬢が、米国から入露してモスクワの旅舎で久方ぶりに顔を合わせ、親子二人がひしと身を合わせて肉親の血の温かみに触れ合った時、セン・片山はどうしても故国へ帰って故国の土になりたいとの熱情に燃え、僅かに残る故国東京の友人達に帰国の許されるよう其の筋へ奔走してくれぬかと哀情を細々と認めた手紙を送って来た程であった。もとよりそれらは此老いたる反逆者に許さるべくもあらずして彼はそのまま露国に留まることを余儀なくされたのであるが、深み行くモスクワの秋の憐れに、かたくなであった革命の老ゆう子も益々その心身の寂れ細り行くを感じて遂に七十四歳を定命として淋しくモスクワの旅舎にその最後を了へたのであろう。」

『都新聞』(昭和8年11月7日付け)





















片山潜














片山潜

明治45年、東京市電ストライキの指導で逮捕されたときの
市ヶ谷監獄内での写真

『近代百年史』より















片山潜(前列右端)




















◎片山潜氏遂に逝く(露国で盛大な国葬)・・・・・【モスコー特派員五日発】日本左翼運動の元老にてコミンテルン執行委員会幹部としてコミンテルンの中に重きをなしていた片山潜氏は兼ねて心臓を患い南露に保養し最近モスコーまで帰っていたが五日宿舎ルックスにおいて老衰を死因として死去した。享年七十五、コミンテルン及びロシア共産党は深甚なる弔意を表し近く盛んなる国葬が執行されるはずである
◎組合運動の父(昔は忠君愛国主義者)・・・・・◆氏は安政六年十二月岡山県久米郡弓前町に生まれた。小学校卒業後独学で小学校代用教員となり、間もなく上京して岡鹿門の塾に入った。氏の家は代々国学者で、このころの氏は熱心な忠君愛国主義者であった。明治十七年二十歳の時渡米、苦学しながら、エール大学等で社会問題を研究した。ここで社会主義思潮に触れ、キリスト教の洗礼をうけて帰朝。神田三崎町にキングスレー館を開きキリスト教の伝道と社会改良事業に着手。「職工義友会」を設け労働組合の創立をうながしたことが日本における組合運動のはじめであった。◆明治三十三年社会主義協会が生まれるに及び、その実務をとり、三十四年創立された社会民主党発起者も氏であった。三十七年、アムステルダムにおける万国社会党第六回大会に日本社会主義者代表として出席した。氏の国際舞台への乗り出しはこの時代からであったが尚穏健派議会主義社会改良主義をとったが四十四年市電大罷業のため下獄した外幾度か下獄。衣食に窮して大正二年三度渡米、この頃からその思想は飛躍的に極左へ走り皿洗いをしながら、ニューヨークで共産党に入党した。◆このころ、ロシアから亡命して来ていたトロッキー、ブハーリン等と相識り、トロッキーが革命遂行のため帰露した後をうけて「階級闘争」の編集に当たった。その頃「ロシア革命が確立したら、革命ロシアの全権大使として僕の生活を迫害した東京に乗り込んでみせる。」といっていたというが、革命後招かれてロシアに渡り、第二インター常任中央執行委員に挙げられた。◆共産党の極東委員としてカラハンの第一の相談役となっていたが、昭和五年甚だしく健康を害し、寄る年波と寂寞感のため、或は日本へ帰る運動をしたこともあると伝えられる。更に最近には、衰えた健康のため国際、極東共産党運動の責務も人選した某氏の手にまかして、日本における極左脱落の背信に老の傷心を深めていたとも伝えられる。◆夫人きよ子さんは、氏の入露後長らく青山?田に落莫たる生活を続けていたが、昭和六年郷里青森県八戸に帰り、長女安子さんは伯母原のぶ子女史についてアメリカからイタリーに舞踊生活をつづけ、次女千代子さんは昭和四年一人はるばる父を訪ねてモスコーへ赴きその後入露した安子さんと共に老いた父の生活を慰めていた。
◎明治三十三年頃(安部磯雄氏談)・・・・・はじめて片山君に会ったのは明治三十三年芝??の、今の総同盟のあるところ、ユニテリアン協会でした。私は早大の前身東京専門学校の教師をやってた時でこの協会には当時の急進主義者が集まったもので、私と片山君とは互いに相許したものです。日本の労働運動のはじめは何といっても同君です。三十四年、片山、私、幸徳、木下等で創めた社会民主党がすぐ禁止されて後、片山と私は幸徳等と別れたのです。同君は大正八九年渡米したのですが当時私に「君の生活は共産主義には合わぬからすすめられぬ」という長い手紙が来ましたがこれが片山君の最後の手紙になりました。?していた頃だったのです。非常にむこういきの強い、頑固すぎるといってもいい位ですが実に正直な、闘争的な信頼出来る男でした。
◎夫人の驚き・・・・・【八戸電話】異郷で逝った片山潜氏夫人のきよ子さん(五十九)は一昨年来親戚を頼り八戸番町にささやかな一戸を構え原清香の名で生花の師匠をしながらたった一人のさびしい暮らしを立てているが、潜氏の訃報をもたらすとさっと顔をくもらせ「やはりとうとう・・・・・」とさすがあきらめながら語る。・・・片山とは五年ばかり前から全くの音信不通で病気のこともあちらに行って居る娘の千代から一年ばかり前簡単にはがきで父の病気は良い方だから安心してくれとありました。それにこの夏でしたか、片山が帰国したいといって居るとか新聞にも見えていたので万一を楽しんでいたのですが・・・」

『東京朝日新聞』(昭和8年11月7日付け)









◎非常時日本を見ずセン片山逝く・・・・・時あたかも革命記念祭の前夕・・・・・夢佗しモスコーにて・・・・・モスコー電通五日発・・・・・日本における共産主義革命運動の先駆者であり、大正三年米国で革命運動に参加して追放に処せられ各国流浪後露国に入りソビエト連邦成立後は第三インターナショナル執行委員会の重鎮として世界的に有名だった老革命家片山潜氏は一昨年来??に悩まされ昨春一時軽快に向かったが、最近また悪化し五日恰も革命十六周年記念祭を明日にひかえてモスコー全市が沸きかえっている最中に寂しくその一生を終えた。享年七十?歳
◎異端の道・・・・・愛国青年・・・・・老い先短いセン・カタヤマのため幾度か故郷の土を踏ませようとした親戚旧友の努力も巧なく彼は遂にモスコーでその異端の生涯に終わりを告げた。彼は安政六年十二月七日?作国粂郡弓削村に生まれ、小学校卒業後独学で小学校助教員となった。片山家は代々国学者で勤王家だったので潜氏もこの頃は熱心な忠君愛国主義者だった。明治十七年二十歳の時渡米。非常な苦学をしながら各大学を転々し社会問題を研究しキリスト教信者になると共に社会主義思潮に触れてその洗礼を受けて明治二十六年エール大学を卒業して帰朝した。・・・・・組合運動・・・・・帰朝後東京専門学校で英語教師を半年ほどやり神田三崎町にキングスレー館を開き伝導と共に社会改良事業に着手。その後労働組合運動に手を延ばし、高野房太郎氏等と共に「職工義友会」を設けこれを「労働組合期成会」と改称、組合促進のため各地に遊説、工場法制定等に活躍した。これに刺激され鉄工組合、活版工組合、日本鉄道矯正会等が起こり日本に始めて政治運動から離れた組合運動をみるに至った。明治三十一年社会主義研究会に関係し三十三年これが社会主義協会となってから会長には安部磯雄氏が挙げられたが実務は彼一人で執った。翌三十四年創立の社会民主党もその最初の発議者は彼だった。
◎市電罷業・・・・・明治三十七年八月アムステルダムに開かれた万国社会党第六回大会に日本社会主義者を代表して出席。ロシア代議員ブレハノフと固い握手を交わした。帰朝後「万国社会党」の一著を世に送り三十九年日本社会党評議員に選ばれ四十年西川光二郎と共に「社会新聞」を発刊。四十四年十二月東京市電大罷業の参謀として指導に当たったので入獄し、その後は幾度となく入獄して就職口もさしつかえ衣食にも窮ずる状態となり遂に長女?子さんの手をとって大正二年米国に渡った。
◎米国にて・・・・・渡米後皿洗いをして娘と共に家庭労働に従いながら労働運動に専念し、この間マルキシストとなってニューヨークで共産党に入党したが、米国政府の共産党狩りにあって一時南米へ逃れた事もあった。この頃ロシアから亡命したトロッキーやブハーリン等と知り、トロッキーが革命?行にロシアに帰った後を引き受けて「階級闘争」の??にあたった。その頃彼は「ロシア革命が完成したら僕は革命ロシアの全権大使となって僕の生活を迫害した東京に乗り込んでみせる」と言っていた。
◎得意時代・・・・・革命後招かれてロシアに渡り第三インターナショナル常任中央執行委員に挙げられ??をなしていた。長女安子さんはドイツの舞踊家ガスベーに托してニューヨークで別れた。彼女はその後アメリカから満州方面まで?にかけ踊り廻っている。
◎「転向」記事に本社へ一書・・・・・昭和四年の八月、日本から六つの時に別れたきりの潜氏次女千代子さんが??に老いた父を訪ねて劇的な対面をし、それに絡まって昨年夏頃には「セン・片山」が年と共に増す??から右翼に転向が伝えられ、本紙がこれを報道したところ、遠くモスコーから「片山は??六年の老骨でありますが、未だ故郷病にも罹らず、又決して右翼にも転向せぬ。目下??な余命を送っております」との書信を寄せた?だった。
◎八戸に居る妻女(青森電話)・・・・・老革命家片山潜氏の妻女原清香さん(五十七)は現在八戸市下番町で生花の師匠をして生計を立ているが、夫潜氏の死去も知らずにいるらしく、今朝自宅表戸に固く鍵をかけて外出して八戸市八戸共進会の見物に出かけている。」

『時事新報』(昭和八年十一月七日付け)

































明治30年

明治31年

明治32年





◎東北通信(片山潜)・・・・・余が東北地方へ期成会の使命を帯びて来たりしは各地の組合員諸氏に遇ふて諸氏之現状を伺い其の労働運動に対する意見を探り本部今後の運動に対しての資料を供せんとするにあり。且つや期成会は昨年東北遊説員を送り各地職工諸氏の歓迎するところとなり遂に組合支部も盛大に赴くに至りつつあるに、其の後一度も諸支部員会交せざるは遺憾の次第なり。組合員の交情を温むるに向かっても一人の巡行者を出す必要ありとの意に賛成し、又近来日鉄矯正会員諸氏も漸々期成会の主意を洞察して賛成の意を表され続々入会せらるるに至りたれば、この際即我期成会が非常の決心を以って運動せんと思い立ちたる対工場法案運動、其の一部運動なる関西遊説等全国労働者の同情と賛助とを要する際に東北地方の組合員期成会矯正会員諸氏に会談して東西相応じて全国一致の労働運動に着手するはこの時にありと、東京横浜横須賀及び大宮諸組合員の希望を携えて東京市上野停車場において期成会書記桐谷鉄太郎氏に送られて奥羽に向かって出発せしは去月十日午前十一時にありき。
余は、大宮、宇都宮を看過ぎし黒磯駅に直行したり。日鉄同盟罷工の一英雄にして其の歴史の著者なる安居彦太郎氏及び鉄工組合支部幹事の横山喜作氏は黒磯組合員諸氏と停車場に在りて余を迎えられ直に諸氏の厚意によりて大美津屋に投宿す。時に午後四時五十分なり。当夜は黒磯在勤の組合員諸氏が余のために催されたる茶話会において諸氏に会合するを得たり。集会者四十一名。先ず安居氏は開会の辞を述べ、余は今度東北地方へ出かけたる目的を述べ、且つ矯正会員には当支部長白井富次氏を始め多数の出席ありたれば、余は期成会の性質及び目的を説明するに鉄工組合と期成会の関係の実際談を以ってし矯正会と期成会と提携するの便益を述べしに、安居氏曰く、黒磯支部は提携説賛成を決議して本部(矯正会)に通知したりと述べられ、現任当支部長白井氏も余が説明を以って充分の提携に賛成すと。又幸いに福島支部長宇野豊吉氏も出席ありて同氏の意向を叩くに氏云う。余が支部は期成会と提携の必要を感じ前日の矯正会支部長会議に提携議案を提出したる程なりと。当夜出席員の中に提携に反対を表する者一人なく却って提携後矯正会の拡張運動の方針等積極談を以って時を移し歓をうつして散会せしは十一時半なりき。黒磯の諸会員は組合事業に頗る熱心にして且つ会員間の交情至極親密なり。共働店の如きも鉄工及び機関手其の他日鉄諸駅員の合同によりて成立し矯正会の安居氏は店長に鉄工の横山氏は之を輔佐して大いに尽力せられ今日の盛大を来たすを得たる如き一美風を顕せり。安居氏は左の建議を期成会になしたしと余に託せられたり。この建議は氏一個のものといえども当地の期成会員は賛成したるものと見なすも可なり。ソワこの事は氏の宿論にして既に会員は嘗て賛同し居たればなり。其の逐条は

一、本年開会の議会に更に工場法案並びに完全な職工保護法案発布を請願すること。
一、日刊新聞を発行すること。
一、各地方に委員(期成会)を置くこと。
一、各種労働者を誘導して各々組合を設置せしむること。
一、会員相互の救済法を設くること。
一、毎年一回便宜の地において会員の大会を開会すること(但し組合は代表者を出席せしむること)。
一、会員中同職者五十名以上に達するときは之をして組合を組織せしむること。
一、会員に一定の記章を附与すること。

吾人はこれら議案中既に着手したるものあり。又将に実行せんとするものあり。吾人は氏の意見がかくも好く期成会の意見に符合したるを喜ぶ者なり。十一日午前九時安居、横山の諸氏安居氏宅に会し共働店の会計なる鈴木平三郎氏も来たり。組合の事情又将来の事業について談じ大いに得る所ありたり。余は午後十二時五十分の列車にて福島に向かえり。福島鉄工組合第二十三支部員諸氏は余を停車場に向かえ吾人が昨年投宿したる藤金支店に来る。佐藤音四郎氏は懇篤に余のために尽力せられ午後七時頃より野尻、吉野の諸氏を始め諸会員来会あり。藤金において茶話会の催しあり。当夜は矯正会員は汽車課派出員高橋寅太郎会員間の意向探査のため会員を藤金本店に集めたる故来会せらるる九時過ぎという事故、余は二十三支部員諸氏に向かって期成会が将に着手せんとする工場法案運動について述べあわせて東京地方の組合の実況を通じたり。九時過ぎにいたり矯正会員諸氏は宇野支部長を始め十数名の有志者来会せられ余は期成会が将になさんとする目的に向かって矯正会が賛成せらるは矯正会前途の利益なるのみならず全国労働者の福利なるを説きたり。宇野氏は云う吾人は今日既に期成会と我が矯正会と提携して居りしを望みたる故又全国運動をなすには是非共期成会と連絡するの必要を感じたる故我が支部は提携案を出して尽力したるも反対論のために其の目的を達せざりしなり。 吾々としては充分提携に賛成すと。余は期成会と矯正会と提携するも矯正会内部に向かっては少しも変動を与えず期成会は矯正会の規約は一点の指をさすを得ず。只合同せば矯正会が他の組合に連絡を通じ又其の内部に向かって拡張運動に非常の便利あるを述べ他は雑談に渉り別れを告げたるは十二時にありき。
福島の組合員も亦矯正会員とは至極好交情行なわれ共働店の如きも日鉄に関係ある者全体を以って組織せられ其の営業を汽車課の合宿所にてなし非番の人々之が担当をなし月々の売上げに一千五六百円もありて其の月々の純益は五六十円なりと。当地の労働者諸君は教育に熱心にして或る会員は福島商業学校の教師相良赳夫氏に就いて学芸を学び、機関手の藤田富太郎氏は近時大いに決心する所ありて是まで放蕩の生活を一新して謹直して組合に尽力せられ殊に近時は英語研究会を開き友人の長谷川氏が教師となり四十名計の会員は熱心に勉強せりと。又汽車課の合宿所に研究会を起こし斯道に付いて討査する所ありと。宇野氏の言によると行く行くはこの研究会を労働倶楽部となし新聞雑誌及び有益の書物を備え会員の知識を進め又其の快楽を得る機関とする目算なりと。第二十三支部員は近頃大いに感ずる所ありて各会員は毎月一日分の給金を積み置くことに決議したりという。(横山喜作氏の発議にて決す)
余は十二日午前九時福島組合員を辞して仙台市に来たる。鉄工組合員及び期成会員諸氏は余を停車場に迎え供に奥田屋という旅館に投宿す。午後は会員の有志者と談話し種々有益なる事をうかがいたり。当夜は在仙台の期成会員、鉄工組合、及び矯正会有志者の企てによって矯正会倶楽部において催されたる茶話会に出席して一場の演説をなす。会する者四十名。石田氏は開会の主意を述べ序て一二の有志者演説あり、余は諸氏の希望に従い労働問題の将来という題を以って将来労働問題は誰によって解釈すべきや政治家、学者、富豪の慈善家によってか又は労働問題は労働者自身が解釈すべきかを論究し、結局労働問題は労働者自己が解釈するが是なるを説き、之をなすには労働者は組合を組織し労働者に関係ある範囲内においては政治運動も必要なり。又社会問題を研究し最新の思想を応用するの必要あるを述べて結論す。其の他余が東北へ来たりたる期成会の使命及び矯正会諸氏に向かって期成会の何者たるを説明せしに福島黒磯におけるが如し。而して前両所においての如く当仙台にても充分の満足を得たり。石田氏は労働問題より社会主義を取り去れば眼子なき仏なりと。又社会主義は労働問題の理想なりと主張せられたり。当矯正会支部長浜田安富氏は支部全体を以って期成会に入会するの議案を提出せられ支部の多数は之に同意する傾向あり。故に仙台支部は期成会と矯正会が提携することは大賛成なり。当期成会員は今や鉄工組合員と合同して一大支部を組織し大いに組合事業を拡張せんとし其の支部開会式を挙行するも近きにありという。
当仙台市は殆んど百名に近き矯正会員あり。浜田、竹内、鈴木、石田の諸氏ありて矯正会の機関雑誌鉄道世界の編集部も此処に在りて労働運動の気焔頗る高騰せり。共働店は始め鉄工組合員のみにて組織せられしも三ヶ月斗前より之を拡張して日鉄役員全体を以って之を組織し昨日総会を開き前三ヶ月の決算をなせしに一割五分即年六割当たりの配当をなしたり。共働店は黒磯福島と共に非常の成功をなしつつあり。鉄工支部は中澤、鈴木、板垣諸氏の尽力により漸々進歩しつつあり。当地諸組合員も内地雑居の今日となりては英語の必要ありと英語の教師を得て英語研究会を開き会員四五十名も熱心に研究中なりと。又当地会員中には文学者もあり新聞記者として経験に富める者も議論家も経歴もありて倶楽部は頗る隆盛を来たせりという。
余は十三日午前鈴木氏等に誘われて市中を通観し石田氏役宅に至り談笑数時一ノ関の菊地由三郎来る。余は同氏乗り込みの列車にて十二時二十分仙台諸組合員を辞し一ノ関に向かう。一ノ関矯正会支部有志者諸氏は余のため其の倶楽部に茶話会を開かれ、余は期成会と鉄工組合との関係を述べて期矯両会の提携の利を示せり。一ノ関矯正会支部長中野氏を始め提携に頗る賛成せられたり。当夜は友人菊地氏の宅に泊まり深更遥かに過ぐるも労働問題の精神的ならざるを談じ意気投合相互いの熱情を吐露し歓を尽くしたり。十四日朝は支部長中野良吉氏宅において数氏に会し労働問題を談ず。中野氏は旧を談じ日鉄会社がが過日同盟罷工の解傭者十名を再び雇うに当たり新規採用となし平和の今日も尚其の待遇を貶し請求するも言を左右に托し頑として緩慢の態度を取るを慨嘆せられおれり。日鉄同盟罷工は会社の害にならず。之が原因となりて会社の腐敗を未可救の前に発見し株主全体を助けたり。而して日鉄会社は機関手の待遇を改善して其の非を改めたるに彼の十人の主任者を貶遇して旧に復せずとは其の処置穏当ならず。余は午後一時の列車に乗り平泉停車場まで菊地氏と来たり中尊寺の古堂を拝して再び乗車して盛岡に来りしは午後七時なり。当夜は陸奥館に止宿す。盛岡の鉄工及び期成会員諸氏は支部一周年記念会を兼ねて余のために鳥居館にて茶話会を催されたり。来会者は無論会員のみなりし故至極円満に行き、余は期成会が将に着手せんとする労働運動について説き延ひて労働者保護の必要を述べ当矯正会支部員機関手黒川延之助氏の惨死の追悼を以って結論となし後は懇談にて散せしは午後十二時なり。当地は反対者多きため組合事業甚だ困難なり。当工場は前日汽車課を離れ大宮の分工場となり職工は五百人もあること故組合の必要は明らかなれば他日必ず盛大を見るに至るべし。反対者の論は野蛮的且つ卑屈極まるものなれば盛岡工場在勤職工の目が醒め組合の正義正道により彼等の最も必要なるを悟るも遠きにあらざるべし。愚蒙の職工を煽動して利福ある組合より脱会せしめて喜ぶ悪漢職工は実に職工の悪賊にして敵なり。然りかかる職工は労働者の敵なり。吾人は彼等の処為を悪むも寧ろ彼等の悪根性と自暴自棄の馬鹿者なるを憐れむと一職工は語れり。十五日午前六時発の一番列車にて盛岡を去り会員諸氏に停車場にて其の厚意を謝し九時三十分尻内に着し、さがみ屋に休息して当地在勤の矯正会員に通じて面会を求めたるに矯正会幹事槇長十郎氏、宮川直介氏来り
余を槇氏役宅へ招待せられ余は親切を謝して之に応じ同氏宅にて非番の矯正会員十数名に面会し余が今度矯正会員諸氏に告げんとする所の事を述べ当地の高給機関手田畑新五郎氏の如きは大いに賛成の意を表せられたり。又諸氏は其の厚意を以って余を中等車にて青森に送り且つ田畑宮川及び槇の三氏は次の停車場まで送られたる親切等余は感佩の外なかりき。不幸にして千田氏に面会せず氏は兼ねてより期成会に賛成せられ熱心に尽力せられ居れり。当支部長大森寅吉氏には青森にて面会し翌日同氏は余を青森旅宿に訪問せられ充分会談するを得て仕合なりき。午後五時青森に達す。佐野荒川氏は余を停車場に迎え他の会員と共に支部に至る。此処に諸会員と面会し余は期成会の使命を告げ明日を期して去る。荒川佐野及び竹越氏に伴われて塩谷旅館に来る。当夜は三氏と会食して労働問題を談じ大いに得る処ありたり。十六日午後二時より塩谷の楼上にて当支部員及び期成会員と一週年祭を祝し懇親会を開かれ余は席上「労働者保護」演説を試む。来会者は当市同情を表せられたる医師八谷氏を始め新聞記者組合に同情ある諸商人等ほぼ百名あり。諸氏の熱心と同情は余をして二時余の長演説をなさしむ後酒肴の饗応あり。又談論歓を尽くして散会せしは午後九時半。当日は尻内の支部長大森氏も臨席せられ例の提携談を試みしに氏は大賛成にて種々運動の方針等も指示せられこの問題に好景気をあたえたり。これより前槇幹事も尻内よりわざわざ来青あり。懇ろに余に告ぐる所ありて去らる。余は黒磯駅を始め福島、仙台、一ノ関、盛岡、尻内、青森至る処において意外の歓迎と待遇を蒙り且つ余の説を容れて大いにこの問題に同情を表せらる。これ全く期成会の主義方針を賛成し期成会に向かって厚意を表せられるをと信じ、この厚き待遇を辞せざりき。余は本日午前十一時出帆の汽船にて北海道に向かう。
七月十七日   青森市塩谷旅館の楼上にて  片山潜


『労働世界』(明治32年8月1日付け)







◎東北遊説員片山潜氏・・・・・去月十日午前十一時上野より出向せられたりし片山潜氏は、期成会東北遊説の大任を全うしてめでたく帰京の途に付けりと。而して氏がもたらせし所を聞くに吾人に満足をあたえしむ。吾人は深く氏に謝せざるを得ざるなり。氏が遊説の状態は別項掲載の東北通信によって明らかに知り得たり。氏に希ふ。来る関西の大運動に当たって、一層吾人の欲する大満足をあたえられん事を(風外)。」

『労働世界』(明治32年8月1日付け)





◎養老保険の計画・・・・・片山潜氏は先に一ノ関に着き、一ノ関矯正会支部楼上において懇話会を開きたりし際に、同矯正会は基本金既に一万円以上に達し居れば、之を基本として養老保険の計画をなすは如何の問題出で、出席者ことごとく之に賛成せりという。」

『労働世界』(明治32年8月1日付け)





明治33年



◎片山潜氏の東北行・・・・・片山潜氏は鉄工組合の代表者として去月十一日上野発の列車で宇都宮より黒磯に一泊し福島、仙台、平、水戸の各所に一泊して鉄工組合員期成会員に本部の使命を通じたるに、彼等は皆一致して強固にて、矯正会員及び工夫組合員の重立ちたる人々に面会し、大宮事件に関して談ずる所あり。福島は矯正会本部の所在地の事なれば該本部に至り何か談ずる所ありしが、以心伝心片山潜氏は固より鉄工本部も大いに満足の結果を得たりという。同氏は去る十六日夕刻に帰郷せられたり。」

『労働世界』(明治33年1月1日付け 第五十二号)




山潜氏・・・・・は去月十一日に種々用事を帯びて東北地方を経て北海道に行かれたり。各地組合員諸氏に会談して組合のために尽くす所あらんとす。現に北海道にありて或る社会的運動をなしつつあり。其の情況は次号に詳報する所あるべし。氏の帰京は本月中旬にあるならんという。」

『労働世界』(明治33年8月1日付け)




◎森直吉氏を悼む 片山潜・・・・・嗚呼我がキングスレー館の良友、青年倶楽部創立者の一人にして敬愛する森直吉氏は逝けり。吾人は氏が刻苦勤勉英文学において又漢書子類において通暁せられたるを知る。又氏が朋友間の交際に努められ友人間に尊重せられたるを記憶す。氏が青年倶楽部の土曜日会において討論精義以って倶楽部員と其の学力と知能を戦かわし、又談笑歓語以って吾人と相楽しみたるも亦知覚する者なり。而し殊に氏がキリスト教に心を潜めて其の真理をたづね終に安心の道をキリストに認めたるを喜ぶ者他吾人は氏が其の練磨したる知能を社会のために応用せす其の高尚卓越せる抱負を実行するに至らすして去られたるを惜しむ者なり。吾人は特に氏の愛重せる慈親を残して遠国不帰の旅客となるを哀れむと同時に其の親戚に深く同情を表する者なり。氏や天命に従うてこの世を去るも既に現世において得る所あり。吾人は氏が大政治家とならず大富豪家とならず又大学者ともならずして逝くを惜しむ。氏は彼らの都になるべき資格を具備せり。しかれども氏は大政治家大学者大富豪家よりも尚大なる者を以って去れり。何ぞや。氏はキリスト信徒となり神の子となりて真の父の下に行きたればなり。吾人は氏の親族朋友と共に氏に死別せるを悲哀するも、退ては氏が苦痛なき零の体を得て其の天父の膝元に行くを喜ぶ。」

『労働世界』(明治33年9月1日付け)





◎キングスレー館小集会・・・・・去る二十五日晩は片山潜の帰省と青年倶楽部の名誉員なる札幌の森廣氏の来京を機として小集会を催し、来会者は万朝の幸徳秋水氏、東洋経済の植松考昭氏、香川県の田岡辰次郎氏及び青年倶楽部員等十数名なり。当夜は重に北海道が談論の問題にて頗る有益なる集まりなりき。」

『労働世界』(明治33年9月1日付け)







明治34年





明治35年







◎労働者懇親会・・・・・労働組合期成会の発起した労働者懇親会は又禁止の命にあった。昨日日本橋警察署長が片山潜と沢田半之助を呼び出しての話には、二六新報の後継者と見なし差し止めるとのことであったような。それ以上のことは幾ら聞いても言わないので、右の両人は警視庁の菅井主事を訪問した。菅井の言うところでは、必ずしも二六との関係のみではない。全体新聞社などが発起すると多数が集会するから困る。又各工場から来会すると矢張り多数になるから困るというにあった。何故多数の集会が悪いかと言うと警察の取締りが出来ぬと答えた。警察官の目には、労働者なるものは、集会すれば必ず警察の厄介になるものと誤解しておるのだ。否な、軽蔑しておるのだ。たとえ多数が集会すれば警察の厄介になる憂いがあるとした所で、それを取り締まるのは警察官の役目でないか。多数が来ては取り締まるのに困るというのは、明らかに彼等警官の無能を表白するものではないか。もし花見の会合を取り締まることが出来ないならば、もし他日労働者が大々的示威運動でも始めたら、彼等は如何かに処置するであろうか。馬鹿ばかしさの骨頂である。」

『万朝報』(明治35年3月29日付け)






◎労働者懇親会禁止の内諭・・・・・ニ六新報社が発起の労働者懇親会は先に禁止せられ、其の後別に片山潜等によりて同名の会の発企ありしが、日本橋警察署は昨日片山等を召喚して、其の会は二六新報発企の会の後継と見なさるるにより当日禁止すべきはずなる旨を申し渡したり。」

『万朝報』(明治35年3月29日付け)







◎労働者の内務省訪問・・・・・労働組合期成会員二十四名は昨日午前十時内務省に至り山縣総務長官に面会を求めしが、山縣差支えありとて久保田内務局長代わりて応接せしかば、彼等は同会発起の労働者懇親会に関し警視庁の処置につき陳情する所あり、且つ内務大臣の方針を質せしに、久保田は今回のことは一に警視総監の職権を以って禁止したるものにて内務省は之を如何ともする能はざれども、内務大臣は絶対に労働者の集会を禁ずるの方針にあらざる旨を答えたり。猶ほ期成会其の他各団体の労働者は現警視総監のために不法に集会の自由を剥奪せられたるを憤慨し其の回復の運動を始むるはずなりという。」

『万朝報』(明治35年3月30日付け)







◎机の塵・・・・・一昨夜青年会館に開いた社会主義協会例月の茶話会は、一寸興味ある会合であった。出席した会員は三十名ばかりで、各々其の身分経歴を物語ったが、之によって、日本の社会主義者の性質毛色を知ることができた。其の職業別は職工、中産の商人、学者、記者、書生等で其の殻がほとんど相等しい。而して既婚者と未婚者も殆んど相半ばしてる。四十九歳が最も年長で、二十歳ぐらいなのが最も若い。彼等が社会主義に悟入したのは耶蘇教の博愛説から来たのと、仏教の平等説から来たのと、フランス国革命時代の自由平等の思想から来たのと、自身の悲惨なる境遇から来たのとの別が有る。日本人が社会主義を耶蘇教の専有のように思うのは大きな間違いで、耶蘇教徒は仏教徒よりも寧ろ少ないのである。最も聴者の心を動かしたのは、一職工が元は五十石ばかりの武士の子で、高等小学を終えた時分に、父が士族の商法で破産して、自分は鉄工にまで落ちるに至ったのが、社会主義の書物を読んで、現社会制度の欠陥が一々に胸に徹へたということであった。書物で動機を得たのは、ヘンリージョージの著書、カールマルクスの資本論、其の他ラサールの伝記などが最も多い。兎に角いづれもこの社会に不満足で不満足で堪らなくて、如何なる道徳論にも経済策にも宗教にも政党にも感服しないで煩悶していたのが、一たび社会主義の理論を味はうと、豁然として夜が明けたような心地がしてるのは一致した。正義ということ、博愛ということ、進歩ということを重んずる人は、如何してもここへ落ち合うのだ。社会主義協会は単に学術的会合ではあるが、在京会員でも五十名以上もあるそうだ。」

『万朝報』(明治35年3月31日付け)






明治36年







◎労働者演説会の解散・・・・・昨日午後六時三十分より青年会館において労働者懇親会に関する演説会を開き西川、片山、阿部、堺、木下、斯波等の諸弁士出演するはずにて六時頃にはすでに三百余名の来会者ありしも、開会時刻に及び数十名の警官臨場し不穏の模様ありと認むる旨を以って解散を命じたり。来会者中には品川其の他の遠方より来たりたる労働者もありて不平を訴ふる者多く一時は中々の混雑なりし。」

『万朝報』(明治36年4月3日付け)







◎またまた労働者上野公園に繰り出す・・・・・上野公園の桜花は今を盛りと咲き乱れたれば、昨日の日曜日は朝未明より雑沓を極めたるが、先日追い返されたる労働者等は社会主義大会と記し、上に英語にて労働の意味を記したる大旗二旗を押し立て三十人ばかりの一隊竹の台へ来りしを巡査が認めて旗を取り上げ頭立ちたる者を引致して退散を命じたりと。又日本橋区鉄工商組合は手拭帽子の揃いにて竹の台に陣を取り種々なる余興を催したり。」

『万朝報』(明治36年4月6日付け)




◎机の塵・・・・・一昨夜の社会主義演説会は、またまた七名の弁士中、四名まで中止された。聞けば社会主義や労働問題の演説中にもし労働者の「一致」「団結」「同盟」等の言語があれば中止すべしとの内訓があったそうだ。是は政府が例の労働懇親会でオビエた結果である。馬鹿げたこともあるものだ。」

『万朝報』(明治36年5月3日付け)





◎「社会主義」の発売停止・・・・・雑誌社会主義第十三号は昨日発売停止を命ぜられたり。鉱毒問題に関する記事及び「労働軍歌」に就いてなりという。」

『万朝報』(明治36年6月6日付け)




◎「社会主義」に対する宣告・・・・・雑誌「社会主義」が其の鉱毒事件に関する記事及び労働軍歌に対して発売を禁止せられ、同時に告発せられたる事は既記の通りなるが、其の発行兼編集人たる片山潜は一昨日東京地方裁判所において罰金四十円(編集人として二十円、発行人として二十円)に処せられたり。」

『万朝報』(明治36年7月1日付け)



明治37年

明治38年

明治39年




明治40年

明治41年

明治42年

明治43年

明治44年

明治45年































◎與曽我日鉄社長書・・・・・日本鉄道株式会社社長曽我子爵閣下、潜閣下に刺を通ずる二回にして面会を得る一回なり。余は鉄工組合常任幹事として本組合参事会員と共に、閣下の代表せる大宮工場が八名の鍛冶工を解雇せし不当を陳情し閣下の英断を以って之が矯正を請求したり。閣下は取り調べの結果大宮工場の八名に対する処分を正当と認むるといい、吾人が其の理由を聞きしに閣下は激怒、テーブルを打って吾人を強談に来たれりといえり。ああ閣下我が帝国唯一の大会社の社長として立たるる人にして道理を以って来たり且つ二度以上刺を通じて会談し其の目的も金銭を請求するにあらず、政治上の事にあらず、唯組合員の不当に処分せられたるを矯正せんことを望み解雇者八名のため労働者のために閣下の裁決を希望せし極めて温妥なる手段に出でたる我々を目してかの壮士輩と同一視して強談と呼ばれたり。吾人は閣下を堂々たる大会社の社長として且つ紳士として会見を求め且つ紳士と談論するの心地を以ってせり。然るに閣下は吾人を蔑視して怒り顔を催し強談と呼び殆んど殴打に等しき打卓の振る舞いをなせしは如何にも感服せざる所なり。吾人は身平民にありといえども紳士に応対するの道を知る。余は他の二人と共に一家を持ち妻子を有する者。かの無頼壮士といささか異なる所の者なり。而してこの三カ年間労働問題のために一身を投じ彼等の改善に尽力せる者なり。吾人は不肖といえども聊か公共心を有す。又公共の事業に従事し現今労働者の実情憫察すべきものあるを知るなり。この大宮の一件の如き吾人はただ労働者の言のみ聞き之のみを以って閣下に陳情したるにあらず。工場内の職工監督如何より岡田主事の処置及び粟屋課長の方針と其の今度に関しての意見までも叩きたる後にして吾人は其の処分の不当なるを認めたるがゆえなり。然るに閣下は職工等のことは更に聞かず吾人を遇する斯くのごとし。吾人は解する能はざるなり。吾人は閣下が大会社の長として一万有二千の雇人を左右し得る閣下の明判英断に望みたるも吾人の言葉は聞き入れざるのみならず、吾人を誤認して吾人が強談を申し込みたりとなす。実に驚くに堪えたり。閣下既に然り。吾人は最早平和の手段を以ってこの不当処分を回復するの道なきを知り、只天下の高等裁判所なる公衆の輿論に訴えるの外なきを信じ今日に至りたり。吾人が大宮工場の監督者等が如何なる人物にして如何に残酷に其の職工を使役するかを示したるは他なし彼の八名の鍛冶工を解雇したるの不当を表白せんがためなり。悪木に善果を結ばず。かの八名が不当なる処分を受けたるも無理もなきことなり。閣下以って如何となすや。閣下の代表せる会社は一万二千余という多数の労役者を雇う。而して斯かる有様とは実に天下に向かって其の責務を尽くしたりというを得るや。余は先に面会して徐々に閣下に反省を望みたるも閣下は頑として聞き入れず。今や輿論の法廷において再び語を交えんと大宮工場の腐敗と其の証跡に至りては各新聞紙に報ずる所と我が労働世界に指摘する所を見は思い半ばに過ぐる者あらん。吾人はあくまで八名の不当処分を正し、彼らを復旧して不正なる監督者を廃して大宮工場の改良を断行せんことを望む。是れ職工のためといえども亦正に閣下の支配下にある会社のためなりと信ず。敬具」

『労働世界』(明治33年1月1日付け 第五十二号)

















◎労働者懇親会禁止の告示・・・・・ニ六新報社の発起せる労働者懇親会は神田警察署より禁止を命じたるが、同社は其の命令を受けずとて依然計画を継続し居れるより、警視庁は告示第五十九号を以って右禁止せし旨を一般に告示したり。警視庁が何ゆえに斯くまで労働者をイジむるやは不可思議千万というべし。」

『万朝報』(明治35年3月20日付け)






◎社会問題演説会・・・・・片山潜は来三日の夜神田青年会館にて社会問題に関する演説をなし、凡そ百余種の幻燈を観覧せしむるはず。」

『万朝報』(明治32年4月1日付け)






◎社会主義演説会・・・・・日本社会主義者の団体なる社会主義協会にては本日午後より神田美土代町青年会館にて演説会を開く。演題は社会主義の本領(河上清)社会主義と現社会制度(阿部磯雄)社会主義の実行(木下尚江)社会主義と都市問題(杉山??)社会主義の大勢(片山潜)。」

『万朝報』(明治34年3月2日付け)






◎靴工・・・・・靴工は米国において近来非常の有望となれり。是れ其の本場において、しかも他国のものが未熟ながらも、却って其のもうけをなし得るは、実に米国の有難き所にして、今や、桑港においては其の業いよいよ発達して、すでに日本靴工同盟会なるものあるを見るに至れり。是れ日本人は其の手間易くして且つ巧妙に之を出来し上ぐるの技能あるが故に、能く本場の優等者をも圧倒し得るなりけり。ことに古靴の修繕となれば、頗る其の需用多きものあり。彼れに在って個人が手間仕事などする事は少なき故、只一個の古靴を修繕したく思うも、一々之を会社に托するを得ず、且つ米人職工にては其の修繕費非常に高きが故に容易に之れを修復することを得ざるなり。ここにおいてか、邦人この機に乗じて廉価をもって其の妙技を振るう。誠に彼らの需用に応ずるもの強ち所以なきにあらず。是れ吾人が其の好望有利の業たるを説く次第なり。」

『渡米案内』(片山潜  明治34年 35年)











◎靴工・・・・・桑港の靴工同盟と云えば有名なる団体にして、二百有余軒の靴店は立派に一家を形成して斯業を営業せり。彼ら数百の組合員は同盟のために基本金を出金して今や優勢の組合を有し、其の利益を保護し得るなり。日本人にして組合を有するは靴工なりとす。そもそも北米の靴製造業は全て機械をもって行なう故に、其の職工は機械職工にして、旧来の如く一人で革を切りて靴を作り上ぐる如き者にあらず。何れも分業にして悉く機械製造なれば、個人としては靴直しをもなす能はず。然るに靴を用ゆる者は北米中八千万人ありて、今や靴工は工場で機械に造りたる靴を修繕せるに止まり、時に或は注文して自己の足に適する靴を欲する者もなきにしもあらざれども、是れ極めて少数にして、最大多数の彼らは皆仕入れ靴を使用するなり。然るに工場は新調の靴を造るも修繕する能はず。故に靴直し業は個人的仕事となり、所謂靴屋は靴直し屋なり。靴販売店は仕入物即ち機械製の靴を売りさばくなり。斯かる状態故に、我が同胞の靴工諸氏は重に靴の修繕をなし、以って独立の生計をなすなり。随分白人靴工組合の反対なきにしもあらざりしも、彼らは団結の下に今日の如き強固なる地位を作りたるなり。斯かる事業は桑港のみ必要なるのみならず、他の諸都市にも発展の余地あるなり。今日の靴直しを営める職工は多く外国人(北米人にあらず)イタリア人、ポルトガル人等なり。故に日本人に取りて拡張には容易なりとす。桑港の靴工組合が我が同胞の組合と聯合を拒むは、日本の靴工同盟会長が富豪西村某で、彼はダイヤモンドの指環をハメて居ると云うにありと。」

『渡米の秘訣』(片山潜  明治39年)











「一青年快活一番雄気太平洋を圧するの勢いを以って渡米せり。是れ六ヵ年前の事なり。彼は一有為の学生なりき。其の奉ずる者は社会主義なり。其の説く所は激烈なり。其の鋭鋒当たるべからず才あり。智あり。強情にして負ける事嫌い最も甚だしき者なり。彼が渡米するや桑港にありて労働するやや久し。而して其の堅骨を鍛冶してあらゆる労働に堪ゆる資格を築き、其の鬱勃たる雄気は抑圧するを得ず、所謂冒険的遠征を思い立ち、命知らずの荒武者例の桑港在留のナラズ者等の団中に入りてアラスカシャケ缶詰の労働者となり行けり。そもそも従来アラスカにおけるシャケ缶詰業をすべて白人労働者の手によって営なまれり。当時はスペイン人の手にありき。数千の白人労働者間に五六十人の日本労働者が始めて入り込みたる事故衝突を免れず、果たせるかな日ならずして一大衝突は日本人に十倍せる白人労働者との間に起こりしなり。この大衝突において優に勝利を得て日本労働者の地位をアラスカに基きたるはこの一青年の加われる団体なりき。在北米日本人が衝突して負けを取りたる事なし。白人と勝を争うて負けを取り恥を晒したるは早稲田大学のベースボールチーム位の者なり。そもそも彼は一期の労働において百余ドルを貯へ、帰航難船して九死に一生を得て桑港に着し大いに決する処あり。靴職工の徒弟となり働くこと年余、優に成功して靴店を開業してここに独立自営の業に就き、業務に勤勉せる一年余なり。既記の如く桑港にも独立の靴製造直し店二百余軒ありて皆立派に一家庭を形成せり。しかのみならず強固なる組合を組織して数万の基本財産を有せり。この青年は靴店の主人となり、進んで組合のために尽力し、其の熱心其の奮発は全組合員の認識る所となれり。彼は靴製造販売を以って貯財し得てここに始めて食料品の販売店を開き、日進組と称せり。彼は勤勉力行にして非凡の働き手なり。かの二百余軒の靴職組合員は無論彼の花客となり、彼は漸次業務を拡張して桑港大震前まで堅固なる一商店を形成し、桑港中小壮商人として有力なる者なりき。彼は才あると同時に技能あり。故に商売に勤むる上に桑港唯一の名産蒲鉾製造をなし好評判を得つつありき。彼は二台の馬車を有し、桑港日本料理店(十七軒)に「今日は如何!」の愛嬌を振りまわし盛んに営業をなしつつありき。固より日進組も犬飼某も桑港の商況より打算して立論せば微々たる者なりき。駒田、堂本等に比せば足軽にも及ばず。決して成功者にあらず。又彼らは吾人の筆頭に掛かるを快とするものにあらず。然れども吾人は信ず。彼らは成功の運命を有す否既に成功せる青年なり。吾人はかの「銭が出来れば名誉が欲しい」と云う何でも儲けたる者のみを賞賛するを好まず。かかる青年は性行潔白にして純粋の労働勤勉と忍耐とを以って今日に至る者、極めて有望の将来を持つ者なり。而して多数の後進渡米者が模範にすべき人物なる故に敢えて紹介するなり。もし吾人の言を疑はば、日進組に行きて其の主人を訪へ。彼は必ず青年の新来者を歓迎すべし。」

『渡米の秘訣』(片山潜  明治39年)



◎組合と同盟罷工の関係  片山潜・・・・・団結の勢力は益々進みつつあり。利益は中央に集合して益々その効験を増し、人力も之を集団して偉大の力となる。天然力を奪うが如き器械を使用するといい大組織を以って天下を振動するの大事業を営むといい、すべて団結の勢力にあらざるはなし。今日の
文明の進歩今日の社会の繁栄凡て是れ団結の賜なり。組合の如き同盟の如きは真に団結の真理に合し社会の大勢に従う者というべし。されど組合と同盟罷工とは全く別物なり。もし之を同一物なりと思惟し同盟罷工をなすがために組合を造る者なりなど思うに至っては大間違いといわざるべからず。同盟罷工は一の暴挙なり。非常手段なり。波乱の際暴圧の際百計尽き止むを得ずして之を発する場合に必ずしも不可なるに非ざれども、決して之を軽率に行なうべき者にあらず。組合に至りては正々堂々たり。あくまで平和にして、あくまで合理的の者なり。之によりて以って同胞の利益を発達せしめ、之によりて以って社会の利益を増進すべし。労働者は組合によりて以って労働者の地位を進め知識を高め道徳の程度を高くするを得べし。彼等は之を以って労働者自身の利益を計ると同時に国家の産業を進歩せしめ社会の繁栄を増進せしめ以って人類に平和と幸福とを与ふるものなり。又何ぞ社会の平和を破る同盟罷工の類と同視するを得んや。もしそれ自ら組合を作る者其の目的とする所同盟罷工に在らんか。是自ら組合の体面を汚損し組合の勢力を殺すものなり。同盟罷工は一つの武器なり。武器は非常の際に用ゆべし。平和の器械に非ず。君子は戦わず。戦えば必ず勝つ。労働者又須らく斯くの如くならざるべからず。近時日鉄同盟罷工あり。労働者は全勝を収めて帰る。然れども日鉄機関士がこの剣を振るって勝ちしがゆえに我等も亦この剣を振らんというは大いに不可なり。日鉄機関士は多年圧虐の下に苦しみたり。而して今や救われたり。労働者はすでに全勝を得たり。又再び起こつを要せざるなり。然るを勢いに乗じて濫りに軽はずみに出でんか戦うの要なきに戦う者にして所謂戦いを汚すものなり。聞く近来ある種の労働者は同盟罷工をなさんがために同盟すると。この風説果たして真ならんか。我ら労働世界は極力此の種の軽挙に反対せざるべからず。同盟罷工をなすがために同盟するというが如きは始めより非平和的の態度を取る者にして不条理是より甚だしきはなし。是れ寧ろ心の卑法を示し、主義の卑劣を告白するに同じく正々堂々たる労働運動を益せざるのみならず却って之を害する者なり。それ今の時は平和なり。労働者は全勝を得たり。又何ぞ同盟罷工をなすの要ならんや。同盟罷工は労働者の凶器なり。労働者の盛衰存亡の係わる所なり。断じて之を軽んずべからず。活発なる労働者よ。決して軽率なる同盟罷工を起こすなかれ。正々堂々公明正大の主義を以って明々白々の組合を組織せよ。平和の味方安寧の保護者として燦爛たる組合の模範を作れよ。組合は斯くまでも立派なる者なるかということを天下に表白せよ。決して悪先例を作りて正義の道を塞ぐなかれ。吾人労働世界は断乎として天下の労働者に向かいて軽挙を警むるなり。」

『労働世界』(明治31年4月1日付け 第九号)





◎新旧の労働問題  片山潜・・・・・、、、日本の労働者は自己自身に目覚めて、新たな組織化を目指して進み始めた。その一例を上げて新時代の産業下で進化しつつある労働者の存在を立証してみよう。今から四ヶ月前に、約三百人の横浜船大工たちが組合を立ち上げ、一週間後には無記名投票によって日給73銭への賃上げ要求を決議した。雇い主が拒否するやいなや、組合は直ちにストライキを決行し(注:城常太郎が中心となって指導)、現在も闘争中である。ストライキの手法は未経験の労働者にしては進境著しい。横浜の警察も労働者側に同情を寄せ、警官の介入したケースはまだ一度もない。また組合はスト以前に東京、神戸、大阪の船大工組合にスト解決までは職人が横浜に来ることがないように依頼してあった。この結果、多くの雇い主が労働者の要求をいれたのである。、、、」

『ザ・ファーイースト』(オクトーバー・1897年)






◎資本家に告ぐ  片山潜・・・・・余は資本家にも非ず。又実業家にも非ず。実業上においては毫も経験を有ぜざる者なり。斯くの如き身をもって敢えて資本家に対し有益なる助言を呈せんとするは到底為し能はざる所なり。よしや為し得たりとするも資本家は決して之を聞かざるべし。この明瞭なる事実あるにも係わらず、余は自ら進んで現今工業の主領たる若しくは主領たらんとする実際の資本家に対し一言を進せんと欲す。蓋し余が斯かる大胆なる事を企つるはそもそも故あり。余は先に米国にある時、一個の労働者にして同時に大学の一学生なりき。而して労働問題に関しては其の学理と実際とを研究するの好機会を有したり。又同国を漫遊して親しく労働運動の状態を観察し、更にこの問題に関する精密なる研究をなすの目的をもって英国に渡航したり。余は又昨冬以来東京に在りて社会事業に従事し且つ労働組合の運動のために多くの時間と労力とを費やしたり。これをもって余は英米の労働問題に関してはいささか其の実情を知るのみならず、我が国の労働問題に関して一身上の関係を有せり。今ここに資本家に対して進言せんと欲する所の者素より経験と責任とに基づけり。亦何ぞみだりに道聴途説の壮語を吐く者ならんや。今我が国の情態を見るに戦後物価にわかに騰貴し、労働者は賃金増加の急切なる必要を訴え、同盟罷工並びに労働に関する種々の苦情は全国処々に起これり。而して職工の状態は大阪神戸付近の紡績業並びにマッチ業において殊に惨状を極め、その実況は載せて各地新聞紙上にあり。加ふるに職工条例制定の議起こりて朝野の議論ようやくかまびしからんとす。これ等の事情はそもそも将に来たらんとする我が国の労働問題に関して大いに社会の耳目を従動せんとする者に非ずや。ここにおいてか、この問題に関して吾人の言うべき者千百にして足らず。余はかつてファーイーストにおいて日本は既に数百年来一種の労働組合を有し、よく其の目的を達し得たるの事実を示せり。蓋し彼の木挽組合並びに石工組合の如き其の一例として数ふるを得べし。而して余はこれ等の事例に徴しても、近代の工業の下に労働せる我が国の職工の決して組織的の能力を欠けるものに非ざるを信せり。且つ又余は自ら彼の工場内に労作せる熟練なる職工の多数と親しく近接して、よく彼らの間の実情を解せり。これ等の経験によりて見るも、彼ら労働者が自身の進歩改良を計るに熱心にして、且つ組合の目的を達するに毫も支障なき能力有せることは余の保障して憚らざる所なり。而して彼らは其の運動の結果により今回鉄工組合の発会式を挙げ、茲に漸く労働組合の設計運動に着手するの端緒を開けり。而して労働者の中、組合のために最も力を尽くせる者は皆多年の経験を有する職工にして、且つよく生計の道をわきまえ、よく妻子を養うの責任を有せり。而して其の多くは主領として朋輩の間に推され多少の勢力を有する者にして、これ等の輩はよく多数の職工を先導して其の確信を維持するに足れり。彼らの主義とする所は正当なり。彼らの目的とする所は高尚なり。彼らの組合は実に彼らの将来のため又社会全体の幸福のため多望なる者と謂うべし。然るに或る部分においては労働組合の将来に関して潜に恐怖心を抱く者あり。これ等の恐怖心の多くは外国における労働運動の過去の事蹟に鑑み我が国の労働者の性質及び其の実際の情態を顧慮したるに基づく者の如し。実に西洋において労働者を指導する者其の道を誤り、又資本家が濫りに暴圧の威を逞しくしたりしがため、激烈なる同盟罷工その他の紛擾を生じ、社会をしておそるべき不幸に沈淪せしめたるの実例は吾人之を争はず。然れども、この惨状を来たせる当時といへども全体の上より見る時は、労働組合が労働及び産業に対して平和並びに繁栄の恩沢を附与するの特性を失はざりしことを記憶せざるべからず。隆盛なる労働組合は繁栄なる工業と並び手を携えて進行せり。英国における信據すべき統計の示す所によれば、過去半世紀間において英国の生産費用大いに減じ、同時に生産の総額を増加し且つ労働者の賃金は上騰し、労働時間は減少し、而して事業の利潤の毫も減ずることなきの事実歴然として表現せり。ここにおいてか彼の高額賃金の経済論は多くの重要なる産業上の事実の上に験證せらるるに至り、所謂最も熟練なる職工は世界において最も低廉なる職工なりとの立言は争うべからざるの真理となれり。転じて日本の情態を見るに昨年に起これる同盟罷工並びに諸々の紛擾の如きは、単に工業の発達及び必要品の騰貴に基ずける必然の波動に過ぎずして、真正なる労働問題に関して何等の意味を有する者に非ず。そもそも組合の設備なき同盟罷工は例えば春の朝の雪の如し。恰も春の雪が温暖なる光線に遇うて忽ち消滅する如く、組合なき同盟罷工は工場主の計策によりて忽ち瓦解に属すべし。然らばすなわち、組合を組織すれば同盟罷工は増加すべきやと謂うに決して然らず。余は断じて言はんとす。組合の組織なる時は同盟罷工の必要は消滅せんと。何を以って之を謂うや、請う其の故を説かん。そもそも我が国の労働者は一種の美風を有せり。同僚に対しては信義を貴び友愛に篤し。亦同情の念に富めり。世人或は我が国の労働者を見て以って粗暴なる人民となすといえども、是れ大いなる誤見なり。彼らは正直勤勉にしてよく其の主人を愛す。もし資本家にして彼らを遇するに恩愛と同情とを以ってするあらば、彼らは忠実なる労働を以って之に報い、資本家を仰て以って自己の恩人となし、自ら楽しんで之が用をなすに至るべし。彼らは亦同僚の間に徳義の標準を維持し、以って自ら治制するの基礎を作れり。且つ義侠の精神に富み同僚の間に不幸あれば必ず争うて之がために醵金し以って救済の資を投ず。某工場の如きは此の種の醵金の額増積して往々五百金に達することありといふ。是れあに職工者間の一大美風に非らずや。そもそも斯くの如き相互同情の行為は現時職工者間の普通の習慣にして、この習慣は須らく彼のよく整頓せる組合組織の完美にして経済的なる保険機関の下に発達助長を計るものに非ずや。亦何を好んで濫りに争闘を醸すことを是れなさんや。我が国工業の過去の歴史は我が国の職工が如何に其の技術を愛し又如何に自己の技術のために熱心に労作せるかを証明する者なり。彼の刀鍛冶塗物陶器その他古代の多くの工芸において、諸職工が一身を忘れて其の技術を愛したるの事実は世人のよく知る所なり。斯くの如きは我が国職工の特徴にして古代の希?人を除くの外は恐らくは之に比すべき者なかるべし。然るに今日においてはこれ等の技術的慈愛心益々衰え、工芸の日に粗悪に流るるの傾向あるは老職のしばしば歎息する所なり。斯くの如き現象は是れ内外貿易にわかに発達したるの結果、狡猾なる資本家並びに商業家が狡猾なる生産を以って不当の利益を占めんことを務め、敢えて工芸の精否に意を注がざるの致す所なり。況や大学出身の教育あり知識ある所の技師にして、技工本来の特色を捨て金銭のために是技芸と名誉とを売りて憚らざるが如きに至ては、工芸の堕落も亦極まれりというべし。かの東京市鉄管事件の如きそもそも何たる醜状ぞや。吾人実に之を言うに忍びざるなり。ああ、邦家の繁栄を希望せらるる資本家諸氏よ、余は敢えて望む。請う諸子の使傭する所の労働者を遇するに少しく思慮を加え、且つ職工教育の機関たる労働組合に対しては熱心なる同情を表せられよ。そもそも労働組合は労働者教育の一機関なり。労働者をして其の労働を貴重し其の技芸を練磨せしむるの一大養成所なり。この教育機関たり養成所たる労働組合は亦何ぞ資本家諸氏を害する者ならんや。(以下次号)」

『労働世界』(第5号  明治31年2月1日)





◎資本家に告ぐ  片山潜・・・・・独り諸子を害せざるのみならず、必ずや諸子の正当なる待遇に酬い且つ我が国の商工業をして益々隆盛に赴かしむべし。職工にして知識を有し其の技術を愛し、職工は独り金銭のために工事を営むのみならず又この事業のために労作するに至らば、我が国の工芸如何に堕落せんとするも将た工事請負い者如何に兇悪を逞しふせんとするも、あに得んや。公平にして公共心に富める天下の資本家諸子よ、彼の将に隆盛に赴かんとする所の正直なる労働者の連合に対し反対の主義を取らんとするや。前に諸子は先ず熱心と精密とを以ってこの連合の性質を考究せよ。資本家諸子の福利と繁栄とは全く労働者の福利と繁栄とに随伴する者なることを理解せよ。諸子にして尚反対の見解を取り、労働組合を破砕せんことを試むるか。天下の不利亦之より甚だしき者なかるべし。試みに問え。労働組合は果たして如何なる者なるか。我輩少しく之を語らん。そもそも屈服、自由、及び共同、はヒューマニチーの進歩における自然の階梯に非ずや。奴隷の労働は厳格なる封建制度の下に久しく存在したりといえども、すでに其の跡を絶てり。自由契約制度の下における労働は資本労力の間に円満なる効果を生じ得る者に非ず。而して今やこの制度に代わりて経済社会を支配せんとする者は労働の合同及び協力の制度に非ずや。労働組合は労働者の教育法中最も良好にして且つ最も理想に近き者なり。労働組合は思想及び行為における多数労働者の調和的進歩を意味する者なり。彼らはこの組合によって必要の時機に同僚に同情たるの方法を解し、且つ其の得たる所の収入を如何に利用すべきかを教えられ、如何に其の業務を指導すべきやを訓練せらるる者なり。組合は実際生活の一大教育機関なり。組合は亦自ら作る所の規則の下に民主的自治政治の主義を教育する者なり。労働組合はかくのごとく各々労働者をして最良の国民たらしむる者なるが故に、国民として須らく之が隆盛を希望せざるべからず。又資本家諸子にして若し労働組合の是等の効験を疑はば、試みに一度鉄工組合を訪ふて其の事務経理の方法を一見せよ。是れ恐らくは数千万言の弁解に優らん。且つそれ労働組合は労働者に対する最良の経済機関なり。一個の貯蓄銀行にして同時に疾病死亡等の偶然の災厄に対する一種の保険組合なり。組合は各組合員の節倹を強制し、毎月其の収額の中より若干を醵金せしむ。是れ強制的の貯蓄なりといえども其の実各員の自由合意に基づく者なり。組合の行なう保険は極めて経済的なる者にして、之を彼の正直なる人民の利益を犠牲にして賭博的の方法を以って営業せる私立の会社に比すれば、利害素より霄壤の差あるなり。又組合の労働者は其の節約したる時間を有益なる目的に消費せり。其の得る所の収額亦決して之を不健康なる歓楽のために浪費することなきなり。是を以って一国の経済の上より見れば、労働組合は最も生産的なる制度なりといわざるべからず。若しそれ正当なる労働組合に反対する者あらば、是れ国家の富盛に反対する者と何ぞ撰ばん。凡そ同盟罷工若しくは労働苦情にして傭主の虐遇に原因せざる者果たして幾千かある。而して其の輿論の同情を得ざる者果たして幾千かある。近くは之をホームズテッド及びブルマンの例に徴するも資本の暴虐之が原因を成すに非ざるなし。且つそれ之を思へ。資本と労力との衝突は一般社会の恐怖する所なりといえどもこの衝突は工場、条例の賢良なる政略により又労働組合に対する公衆の同情により容易に之を避くるを得べし。すでに資本家の公平なる態度と労働組合の健全なる発達と相合するにおいては亦何れの処においてか労働上の紛擾を生ずるの理あらんや。余は一個の労働運動者として資本家及び傭主諸子に進言す。諸子自ら正当の道を踏んで敢えて替ゆることなく且つ又大いに興起せんとする所の労働組合に対して同情の態度を失はずんば、労働組合はも恐るるに足らずと。余がこの一片の忠言を諸子に呈するは独り労働者の利益を思うが故に非ず。実に資本家の利益を思い、又国家産業の利益を想えばなり。然れども資本家諸子にして毫も我輩の衷心を察せず、濫りに自ら頑強の躰を持して反対を試みんとするに至りては、余不肖といえども志す所あり。敢えて犠牲を顧みず、断然労働者の運命のために戦はんことを期す。将来において取らんとする方針は唯資本家諸子の決する所のみ。労働運動の味方はヒューマニチーの味方なり。是れ実に世界的宇宙的の大運動なり。資本家諸子よ自ら深く慮って現時の地位を秤量せよ。最も懇篤なる誠心を以って独り諸子の利益を慮るのみならず又工業的日本の全体の利福を考察せよ。若しそれいやしくも軽々しく思量して、今日僅かに一二千の職工より成る幼弱なる組合を一挙手一投足の労を以って破壊し得んと憶断するが如きに至りては、誤解も亦甚だしき者といわざるべからず。労働組合中に包含せる大主義と大勢力とは決して諸子の力を以って破砕し得る者に非ず。徒らに反対を試みて却って国家千歳の悔いを招くが如きは我輩諸子のために取らざる所なり。敢えて所信を陳ぶ。(完)」

『労働世界』(第6号  明治31年2月15日)






◎同盟罷工を論ず  片山潜・・・・・同盟罷工については労働世界はしばしば之を論じたり。そもそも同盟罷工は現時の社会の問題なり。労働問題を講ずるに当たりて必ず之を伴ふて現われ出づべきもの同盟罷工の問題なり。吾人労働世界は初号以来、口の酸くなる程労働問題の重要なることを説きたれども、社会は冷として耳を傾けざりし。想い見よ。今日起これる日本鉄道会社の同盟罷工は果たして如何ぞや。社会に交通機関を阻害し、一般公衆の損害を招きたるを驚き、今更の如く鉄道問題を喋々するは少しき時節遅れには非ずや。労働世界は決して同盟罷工が社会のために幸福なる者とはいわず。然れども亦決して同盟罷工を絶対的に悪しき者とは見なさざるなり。何となれば現在の如き世の有様にて、傭者が人を雇うも又被雇者が人に雇われて働くも全く自由契約に基づく者にして、私はもはや人はいらぬと言えば何時にも解雇するを得べく、又仕事がいやでございますと言えば何時でも業務を罷めること勝手たり。世の有様既に斯くの如しとせば、傭者に解雇の権利を認むると同時に、吾人は被傭者の罷工の権利を認めざるべからず。若しも同盟罷工が一般社会の公衆に驚くべき損害を興ふる者なるが故に、是非とも之を制限せざるべからずと云はば云へ。之を法律上にて制限せんことは到底成功を望むべからざるの難事なるべし。即ち公衆の利益のために被雇者は是非とも仕事せざるべからずとすれば、彼の要求する所は如何せんとするか。会社をして之を容れしむるか、会社にして之を容るる能はざりせば如何せんとするか。然らば是非とも社会がこの要求を容れざるべからざるべし。若しさもなくて要求はあくまで之をおさえつけし、而して強制的に仕事せよといはば、之れ被雇者を繋ぎて奴隷とするもの。天下あに之より不当不理なるものあらんや。且つそれ公衆の利益のために労働者は是非とも会社のために仕事せざるべからずといいて労働者を強制せんか。然らば之と反対の場合、即ち会社の都合によりて其の使傭する所の労働者を解雇して之をして不幸に陥らしむる場合においても尚会社を強制して其の解雇を妨げざるべからざるべし。斯くの如きは自由契約を基礎とする今日の社会の有様にて到底行なはるべきものに非ず。既に会社も労働者もこの事を行なう能はずとするも、仕事と会社全体の利害とは決して離るべからざるの深き関係あるが故に何とか処置せざるべからざることなるが、既に労働者においても又雇い主においても独力にて之を行なう能はずとせば、其の責任は当然社会自ら之を負うて起たざるべからず。労働問題は国家問題なりという所以の者即ちこの理にして我が労働世界の毎々読者諸君の前に論弁せしこともつまりこの一言に外ならず。そはさて置き、現在の如き社会制度の場合においては、同盟罷工も労働閉鎖も共に正当の権利に基づきて発生する者にして、又自然の勢いというべし。労働者乱暴にして他の制裁の道なき場合においては労働閉鎖を行なうも可なり。資本家圧制にして労働者を苦しむるに当たり之に反抗する唯一の武器として同盟罷工を実行するも素より可なり。現在の有様にては、資本の力をもって労働者を圧制し、労働者は凡ての方面において貧弱の地位に立ち、物の触れ事につけて傭者の虐待を被るは自然の勢いなれば、如何にしても労働者をしてこの大勢に反抗して自ら立つの途を得せしめざれば、労働者否平民の多数を挙げて牛馬に等しき奴隷の境遇に陥らしめざるべからず。労働者は資本家の圧制に対して其の真正の威力を発表すべき唯一の武器は実に同盟罷工なり。吾人又何ぞ労働者より、この必要なる武器を奪うを欲せんや。同盟罷工は労働者の示威運動なり。被傭者が傭者に対する威力なり。之なくして労働者又何れの処においてか身を立つるの道あらんや。同盟罷工は非常の懺害を社会に及ぼすと云わば云え。是れ実に労働の真正の価値を社会に証明したる者なり。若しも穀物運搬の労働者が同盟罷工して東京市民を餓死せしめ、鉄道機関の労働者が同盟休業して貨物を市場に腐らすも真に真に労働の威力に非ずや。近時日本鉄道会社の機関士は待遇に不服を抱きて同盟罷工す。其の範囲東北の一帯に止まるといえども気脈合い応じて事を発し団結頗る強固なれば、其の威力従って強大なるを得たり。其の成り行きの跡を考ふれば遺憾の点少なからずといえども兎に角我が国において是れぞ組織せる同盟罷工の嚆矢なり。吾人は今回の挙を見て労働者の地位を一歩進めたる者となし、社会問題の大勢のために之を祝す。彼らの要求する所の待遇云々誠に良し。労働者の地位を高め労働者の体面を維持する須らく斯くの如くならざるべからず。其の成敗の如何の如きは吾人むしろ之を問わず。何となれば事成りたる暁には労働者の権利は成る程斯くの如き者にあったかと悟るを得べく、事敗れたる場合には益々深く資本家の圧制を証明する者なればなり。吾人労働世界は濫りに同盟罷工を以って労働者を煽動するものに非ず。去れど同盟罷工に関して世の人様々の誤見を抱く者多ければ、茲に其の本義を解釈して世の注意を求むるなり。
★同盟罷工は成功なき者か★
時事新報は論じて曰く。同盟罷工は外国の事例に徴するも過半は成功せざる者なり。同盟罷工を以って必ず勝つ者と思惟するは誤りなりと。然り同盟罷工の失敗したる実例は頗る多し。然れども失敗したる同盟罷工はいかさま有形上において労働者の不利益となること勿論なれども労働運動の大勢に取りては少なくも無形の方面において偉大の成功あるを疑うべからず。同盟罷工が失敗せんか、其の原因は必ず団結の強固ならざるにあるか、資金の欠乏にあるか、然からざれば外部よりの横領に出づる者なるべし。何れにしても労働者をして益々団結の必要を感ぜしめ、益々圧抑の声を高め、以って進歩の原動力を養う者なるや明らかなり。是れ労働運動の歴史を見て明らかなる所なり。去れば同盟罷工が事発して後に生ずる枝葉事情においては、種々の惨劇を演じ社会の厭悪を招くべき者ありといえども、其の全体の主義綱領に至りては未だかって社会の同情を失いしことなかりき。世の軽薄なる論者一概に同盟罷工を不成功の者と論断し、之を蛇蝎視するは是れ資本家の味方となって事物を観察したるの結果にして、決して同盟罷工の真義を穿てる者に非ず。
★同盟罷工は軽々しく行なうべからず★
同盟罷工は労働運動の方面より見れば、決して有害なる者に非ざれども、其の害は何処にか之れ有り。貴重の労働を廃し社会の有益なる業務を妨げ事業に損害を掛け双方共に非常の損失を招くは是れあに一大不幸に非ずして何ぞや。吾人労働世界は決して労働者に向かい同盟罷工を行なえよとはいわざるなり。同盟罷工は最後の手段なり。最後の戦争なり。あくまで之を避け、あくまで之を警めざるべからず。決して軽々しく之を断行すべからず。吾人は労働者に向かい、決して同盟罷工を勧告せず。ただ極力団結を強くせよと主張す。労働者が己の地位を高め、己の権利を主張する第一の手段は平和的の商議にあり。商議は最も文明的の者にして且つ最も平和なる効果を収め得べき者なり。而してこの商議をなす第一の機関は組合なり。組合あって始めて労働者はその意志を正当に発表することを得、資本家も亦之に向かって其の意志を通ずることを得。試みに思え。労働者にして組織なく団結なく個々別々となりて同盟罷工を起こさば資本家は果たして如何とするぞ。社会は亦之を如何に処すべきぞや。今回の鉄道の同盟罷工の如き団結あり組織あればこそ、会社も之に向かいて仲裁をなし談判をなし事の落着を見るを得たるなれど、若し無組織無政府の暴挙に出でたらんには、台湾の土匪も同じく如何とも鎮定の道なかるべし。労働運動の歴史を見れば同盟罷工の数は誠に多いといえども将に同盟罷工を起こさんとする際において、組合が其の間に立ち入りて仲裁商議の労を取り、暴発を未然に防ぎたるの実例は更に之よりも多し。組合の組織成る時は同盟罷工無くなるとは、我が労働世界の毎々主張せし所、今更喋々するまでもなけれど、世の資本家が同盟罷工を恐れて組合の成立を妨げんとし、組合に加入せる主謀者を解雇するが如きはそもそも本末をわきまえざるの処置といわざるべからず。資本家にして真に同盟罷工の暴発を恐るるならば進んで組合の組織を歓迎して可なり。而して其の権利に関して正々堂々としてこの組合と商議すべし。この商議の結果不調となるも資本家の主張にして正当ならんか。組合又何ぞ同盟罷工の威を振るうを得んや。吾人労働世界は極力団結の組織を急呼す。
★日本の労働運動は一種の特性を有す★
日本の労働運動は西洋の労働運動に比して大いに其の趣を異にする者あり。西洋の労働者は雑種なり。個々各々国情を異にし、英国人もあれば米国人もあり、仏国人もあれば独逸人もあり、清国人もあれば黒人もありと云う訳にて、相互間頗る同情の念に薄く、団結甚だ微弱なるを免れず。之に反して日本の労働者は一種の義気に富み、仲間の義理頗る厚く、義侠の念盛んにして、一度団結する時は隠然の間に非常の勢力を有し、殆んど他より手の附け所なき程に強固なる者なり。我が国労働者の精神上の素養において既にこの土台あり。今之に文明の新空気を吹き込みたらんには果たして如何なる成跡を現すべきか。思えば思うほど我が国の労働運動は末頼もしき者というべし。彼の都下の木挽組合の如き、深川三業組合の如き、又横浜の大工組合の如き、既に業に強固なる団結の勢力を現はせるに非ずや。世人は今何とも思はずして労働運動を馬鹿にし居れど、遂には以外の結果に遭遇して驚嘆することあらん。吾人労働世界は深く之を世人に警告す。」

『労働世界』(第8号  明治31年3月15日)



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幸徳秋水





















































西川光次郎(右)

















平民新聞社

『平民新聞』は明治40年1月に幸徳秋水、石川三四郎、西川光次郎、
堺利彦等により創刊された日刊新聞

『近代百年史』より



















妻千代子

『近代百年史』より


















『近代百年史』より
















◎大逆事件の判決・・・・・△幸徳秋水等二十四名は死刑
△有期懲役は僅かに二名のみ

判決は下されり。有史以来の大事件として天下の耳目を?動したる無政府共産主義者幸徳伝次郎、菅野すが等二十六名に対する大逆罪の判決は下れり。
▲傍聴人の群集・・・・・この判決が如何に世の注目を惹いたるかは裁判所門外混雑の状に見るも思い半に過ぐるものあり。門外に群集して傍聴券の交付を受けたる者の中には徹宵表門外に立ち尽くしたる者十数名あり。第一番に駈け付けたる町家者らしき二人連の男は旧暦十七日の月霞ヶ関に寒き午前一時半既に裁判所門前に来たれりという。それより二時三時と夜の更るに従い続々と詰掛け、記者の駈け付けたる午前四時半頃には既に四五十人の人数門前の石畳より二列に長蛇の如く並びいたるが、いづれも夜寒の痛さにこらえ兼ねて地団太踏みつつ立てり。割引電車の桜田門を過ぐる頃より刻一刻長蛇の長さを増したるが、いづれも合言葉の如く口々に『まだ百五十枚にはなるまい』とつぶやく。或物好きな男が行列の一行の人数を数え突然に大声にて『五十四人あるぞ』と叫びたりとて一同どっと笑う。
▲角袖巡査尾行・・・・・かくて群集せる同勢約二百三四十人の中には洋装にて某社会主義者に尾行し来れる本郷署あたりの某探偵と一見会社員らしく装へる神田署管内の某探偵あり。勿論いづれも傍聴人中に混合し来れる被告の縁者に尾行し来れる者なれば正門の傍木戸を入りては出で出でては入り門衛二名警視庁より派遣されたる警官一名と『かの赤ッ茶けた帽子の男』『目の窪んだ小倉袴の男』などとささやき示す。かくて定刻七時に至り傍聴券を交付されたるが、立会いの警官約十四五名一々穴の開く程容貌と服装とを見返し見つめたる後、一先ず中庭に引き入れ数十名づつを一切りとして解散せしめ、更に又数十名を一切りとして交付す。この交付済となれる者の中にも勿論十数名の社会党関係者あり。これ等に尾行し来たれる探偵も亦数名を認めたるが警官は交付中三人をていよく行列よりはねのけ百枚を越ゆる十数枚を渡したる後、突然傍聴券出切を宣したり。▲未曾有の警戒・・・・・門前の混雑を見て所内に入るに当日の法廷と定められたる大審院内の警戒は最も厳重にして警官百九十名、憲兵五十六名を各要所に配置し、正門外に突き当たれば両傍に巡査、門内に入りても巡査、玄関前にも巡査、その又玄関扉の木蔭にも巡査という具合にて警官と憲兵とに殆んど鼻を衝くばかりなり。されば所内の前栽後庭は更にもいわず表門といわず横門、裏門といわず警官看守等毅然として立会いたるが、所内の空き地外廓等にも警官看守等右往左往に行き交い警戒厳重を極む。幸徳等の護送馬車は例によって覆布を被り正午先ず八台相連続して裏門より留置場に入る。馬車は引き返して午後一時再び残部の被告を護送し来たりしが、三階より大法廷に通ずる廊下には或は白布を垂れ、或は衝立を立廻らしその物々しさ一方ならず。▲森厳なる法廷・・・・・かくて午前十一時となるや百五十名を限れる傍聴人の中には多数の角袖巡査紛れ込み万一を警戒しつつ入廷せしが、例によりて田川麹町署長以下多数の警官は大法廷内に詰め切りて最も厳重なる警戒をなす。普通傍聴者に次いで裁判官席背後の高等官席には六十脚の椅子を二重にならべ特別傍聴席に備えたるが大審院控訴院東京地方裁判所及び司法省の高等官五十余名十二時過ぎより着席し、中に二名の外国人は一方ならず注意を惹きたり。かくて正一時新聞通信記者の入廷に次いで被告席の背後なる弁護士席には川島仟司、磯部、尾越、宮島、今村、花井、半田、吉田の各弁護人順次着席し(鵜澤安村二弁護士は不参加)その背後なる弁護士傍聴席には上原、塩谷、澤田、布施等十八名の弁護士着席し固唾を呑んで被告の入廷を待つ。この時寂として人語なく森厳の気満廷に漂う。▲各被告の入廷・・・・・時辰正一時を告ぐるや幸徳伝次郎以下二十六名の被告は木無瀬典獄及び佐瀬、逸見の第一、二課長以下一人に看守一名づつ付き添い厳重なる警戒の下に入廷し公判開廷中の如く第一列は左端の幸徳より右に新村まで七名、第二列は同じく奥宮より崎久保まで七名、第三列は成石より内山まで六名、第四列は武田より菅野すがまで六名づつ着席し、その間には看守一名づつ混入して一挙手一投足の末までも最も厳重に警戒なす。被告は幸徳以下概ね紋付羽織袴なるが、中には縞の羽織あり。既決囚内山愚童の赤衣と、すが子の総髪銀杏返しに紋羽二重薄紫色の羽織とは例によりて満廷の視線を惹きたり。第一回公判の日とは異なり今日は愈々その運命の定まるべき日なるにや。被告一同概ね粛然として襟を正し差し控えたるが、中に一人幸徳秋水は背後左右の新聞記者席を顧みて微笑み、菅野すがも亦横目にて弁護士席、普通傍聴席を左顧して物言いた気の風情に見えたり。▲判決書の朗読・・・・・被告等入廷し終わりて一時五分廷内寂として咳の響きだに聞こえざる折しもあれ静に入廷せるは裁判長鶴丈一郎氏以下陪席判事たる志方、鶴見、末弘、大倉、常松、遠藤の諸氏及び本件の検察官たる松室、平沼、板倉の三氏なり。一同起立するや望月書記長は幸徳以下順次被告の姓名を呼び上げ終わり、鶴裁判長は壮重なる音吐高からず『判決を言い渡すために公判を開く。それでこの判決は理由も主文も共に朗読する事に致す。唯証拠の説明だけは朗読を省略する。尤も被告が自分の費用を以ってこの判決書の写しもしくは抜書きをしたいという者があらばそれは出来るから予め申して置く。尚申して置くがこの理由は大分長いから理由を朗読する間は別に起ておらんでも宜しい。但し主文を朗読する時は一同起立すること。先ず理由を先に朗読し次に主文に及ぼすから左様に心得ろ』と申し渡し、百数十枚に渡れる判決書を朗読したるが一時十分に始まりて二時三分前に終る。この間正に四十七分。▲正二時の宣告・・・・・この理由の朗読終るや鶴裁判長は『主文』と一声高く呼びて被告一同を起立せしめ一層森厳に一層壮重なる音声を以って主文を朗読し何れも左の如き申し渡しありて閉廷す。時に午後二時零五分。さしも天下を驚倒したる大事件もこれにて大団円を告げたり。

左の二十四名は死刑

高知県幡多郡中村町大字中村町一七三平民著述業
幸徳伝次郎(四十一)

京都府葛野郡朱雀野村字?楽廻豊楽西町七八平民無職菅野事
菅野すが(三十一)

岡山県、、、平民農
森近軍平(三十一)

山梨県、、、平民機械職工
宮下太吉(三十七)

長野県、、、平民農
新村忠雄

福井県、、、平民草花栽培業古川事
古河力作(二十八)

東京市、、、平民無職
奥宮健之(五十五)

高知県、、、平民活版文選職
坂本清馬(二十七)

和歌山県、、、平民医業
大石誠之助(四十五)




『東京朝日新聞』(明治44年1月19日付け)




明治30年

明治31年

明治32年

明治33年

◎非社会主義者に誨ゆ(上)幸徳秋水・・・・・近時我が国の論客中、キッド及びマルクス等の所論を受け売りして、強いて我が社会主義を中傷せんと試むるものあり。予は我が国民が未だ社会主義の何たるを熟知せざる、或は為めに誤らるる有るを?る、乃ち一矢の以って酬ふる無かる可けんや。キッド謂らく『社会は生存競争に由て進歩す。而して社会主義は競争を杜絶せんとする者也。故に社会主義は社会の進歩を妨碍す』と。彼非社会主義者は即ち之を以って社会主義を攻撃するの金科玉条となせる也。然れども是れ其の一を知て未だ其の二を知らざる也。吾人も亦競争が社会進歩の一動機たりしを認む。唯だ原始の腕力体力の競争より、変じて武器の競争となり、弁舌の競争となり、学術智巧の競争となり、個人の競争より変じて部落の競争となり国家の競走となりしが如く、社会の一層進歩して其の状態を異にするに従って、之を刺激する所以の競争其の物も、亦其の性質、種類、方法を異にせざるを得ず。否異にせざることを得ず。是れ進化自然の大法也。社会主義が現時の経済的自由競争を廃せんとする所以の者は、実に此自然の大法に従って其の競争の種類、性質、方法を変じて、以って現在将来の社会に適合せしめんと欲するがためのみ。現時の経済的自由競争や、過去においては多少社会進化に資せしを疑わず、然れども此競争を必要とせし時代は既に現に過去れり。今や自由競争の意味する所、結果する所は資本家の横暴なり。労働者の窮苦なり。貧富の懸隔なり。不断の恐慌なり。財界の無政府なり。風俗の頽廃なり。貧者弱者の迫害なり。圧虐なり。奪掠なり。是れ実に社会の進化に益なきのみならず、却って社会を退化し堕落せしむる者に非ずや。而も彼れ非社会主義者は猶ほ其の保存を必要とするの理由ありや。試みに思え。如何かに暴力の争闘が、未開野蛮の社会に存て其の進化を助くるの功績ありしとするも、今日に存ては直ちに一個の罪悪に非ずや。文明の道徳は断じて之を禁ずるなり。文明の法律は断じて之を罪するなり。もし競争は進化に必要なるが故に、之を禁じ之を罪するは進化を妨碍する者なりと、結論せば、誰か之を笑はざらんや。非社会主義者の言う所あたかも之に類せずや。噴飯に堪えざるなり。而して彼非社会主義者の誤びょうの尤も甚だしきは、経済的自由競争の廃せらるる以上は、社会の競争は一切休止すべしと思惟するも是れなり。愚なる哉彼等は竟に物質以上を見る能はざるなり。彼等は各人競争の目的は一に衣食財貨に在りとなす。然れども是れ今日の如く、経済的自由競争の弊毒極まるの結果として、各人の衣食財貨を得るに困難なるがためのみ、この困難にして除かん乎、人は衣食以外、財貨以外に其の好む所に従って自由に高尚なる競争を開始すべきは勿論なり。スカツデル女史かつて論じて曰く。『社会主義は人間の競争をして物質的より精神的に転ぜしめ、汲々財貨を求むるの心をして、名誉、真理、献身的の行為に注意せしむるを期す』と。然り、社会主義は各人の権利を重んじ自由を重んず。あに一切の競争を禁ずると謂はんや。否な実に?劣なる競争を変じて高尚なる競争となす者なり。衣食と財貨の争奪を変じて、学術、技芸、義勇、名誉の競争をなすものなり。キリストが十字架に磔せられしは、吾人のために霊魂の購ひを得んがためなり。社会主義は実に吾人が物質上の桎梏を救解して、其の霊魂の購ひを得せしむるものに非ずや。何者の狂愚ぞ。敢えて我が社会主義を以って社会の進化を妨碍すというや(五月七日稿)。」

『労働世界』(明治33年9月1日付け)




◎キングスレー館小集会・・・・・去る二十五日晩は片山潜の帰省と青年倶楽部の名誉員なる札幌の森廣氏の来京を機として小集会を催し、来会者は万朝の幸徳秋水氏、東洋経済の植松考昭氏、香川県の田岡辰次郎氏及び青年倶楽部員等十数名なり。当夜は重に北海道が談論の問題にて頗る有益なる集まりなりき。」

『労働世界』(明治33年9月1日付け)




明治34年

明治35年


明治36年

明治37年

明治38年

明治39年

明治40年

◎平民新聞社及び社員の家宅捜索・・・・・昨日午後一時ごろより宇都宮地方裁判所嘱託を受け、東京区裁判所より小林判事、金子検事は警視庁刑事五名を引率し本郷区千駄木林町西川光二郎、同区駒込町同社会計員竹内兼七、豊多摩郡大久保町字南百人町幸徳伝次郎、同郡淀橋町字柏木堺利彦等の家宅捜索を行い書類を押収し、又午後四時京橋区新富町六の六平民新聞社に至り捜索を行い、南助松より送り越したる紙面、西川光二郎が日光より出だしたる紙面及び電報を押収し、同四時半ごろ引上げたり。」

『万朝報』(明治40年2月8日付け)

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