片山潜・幸徳秋水・田中正造
片山潜
明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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「◎片山潜氏、遂に露都で客死/老齢祖国を偲びつつ淋しく・・・・・【モスクワ五日発連合】日本プロレタリア運動の創始者の一人であるコミンテルン幹部会員片山潜氏は五日七十四歳の高齢を以って赤都モスクワに死去した。
・・・略歴・・・
氏は安政六年(一八五九)岡山県の寒村に生まれ明治十一年上京、明治十七年渡米してホプキンス大学メリーヴィル大学に苦学研鑽十二年の後、明治二十九年社会主義者として帰国、同志と共に神田にキングスレー館を開いて社会問題の講演会を開いたが明治三十一年遂に幸徳秋水と共に社会主義研究会を組織し、三十四年五月幸徳秋水、安部磯雄、木下尚江等と日本最初の無産党「社会民主党」を創立し当局の弾圧で一日にして解散した。六月更に「日本平民党」を組織せんとして再び解散を命ぜられて米国に亡命し三十九年再び帰国した。四十五年の東京市電罷業の教陵者として捕らえられ出獄後又もや米国に去りトロッキー、ブハーリン等と「階級闘争」を発行、一九二一年全米共産党委員長に推された。一九二二年ソヴィエト連邦に渡りコミンテルン第三回大会に幹部員に挙げられ以来モスクワに滞在して現在に及んだ。
◎奇しき異端の生涯・・・・・思想上の主義のために悪戦苦闘を重ね故国に足蹴にかけて居た片山潜氏もよる年波と共にその心境の動揺はどうする事も出来なかった。あれほどソヴィエトロシアから賓客の待遇を受け、時の権勢レーニンやスターリンからさへ至上の尊敬を受け革命の母ツエトキン女史の葬儀の時は其の棺に対し片棒をかつぐだけの特権と礼遇を與へられた程のセン・片山も、最近数年間は故国愛慕の情に迫られて帰心誠に矢の如きものがあった。殊に昨年血を分けた娘であるやす子嬢が、米国から入露してモスクワの旅舎で久方ぶりに顔を合わせ、親子二人がひしと身を合わせて肉親の血の温かみに触れ合った時、セン・片山はどうしても故国へ帰って故国の土になりたいとの熱情に燃え、僅かに残る故国東京の友人達に帰国の許されるよう其の筋へ奔走してくれぬかと哀情を細々と認めた手紙を送って来た程であった。もとよりそれらは此老いたる反逆者に許さるべくもあらずして彼はそのまま露国に留まることを余儀なくされたのであるが、深み行くモスクワの秋の憐れに、かたくなであった革命の老ゆう子も益々その心身の寂れ細り行くを感じて遂に七十四歳を定命として淋しくモスクワの旅舎にその最後を了へたのであろう。」
『都新聞』(昭和8年11月7日付け)