雑記帖2001年5月分
| ここでは、21世紀を記念して、このWebの管理人「にん2」の身の回りに起こったことを不定期更新お気楽日記風に書いていこうと思います。 |
| 蝸牛考
2001年5月31日
会社の裏と土手との隙間は半間ほどのアスファルトの通路になっている。土手と通路はフェンスで仕切られていて、その向こう側は夏を前に雑草が勢いを増すばかりだ。 昼食から昼寝までの僅かな時間、にん2はこの通路でぼんやりと空を見ながら缶コーヒーなどを飲むのが習慣なのだが、座ってあたりをじっくり見回すと、隣に雑草が繁茂するせいなのかどうか、この通路には実に色々な生き物が暮らしているのに気が付く。 まず圧倒されるのが大量のダンゴムシ。見えるだけでザッと2000匹はいるだろう。座っているアスファルトを良く見ると、奥の方に赤い小さなダニがいっぱい蠢いている。その上をアリ、カメムシ、ゴミムシ、ヤスデ、ムカデ、クモ、雑草から落ちたイモムシ名も知らぬ甲虫などそれぞれかなりの数が闊歩し、降雨直後のためか、2〜30匹の小さなカタツムリがノロノロと這い回っている。 中に特に大きなカタツムリが2匹。座ったすぐ横で、会社の壁を登ろうとしているので、久し振りにまじまじと見入ってしまった。 こいつらの歩いた跡って粘液で濡れているけど、常に相当な水分を消費するんだろうなぁ、どうやって補給しているのかしら・・・。考えてみれば殻が無ければナメクジと同じなんだよね。ナメクジはちょっと背筋がゾクゾクするけど、こいつらは見ていてもそうでもないな。やっぱり塩をかけると融けちゃうのかなぁ。だいたいこの殻はどういう仕組みで成長するのかねぇ。人の骨みたいに、全体が同時に大きくなるのかな。考えてみればこれは彼等の家なんだよね。でも、すごく柔な家だよなぁ。踏まれたら簡単にグチャっといっちゃいそう。もっとも我々の家だって巨人に踏まれたら簡単にグチャっといっちゃうだろうな。それにしてもゆっくりと歩く?ねぇ。毎時2mがいいとこでしょう。垂直の壁も登れるんだからいいのかな。そう言えば、そんな名前の山岳会があったな。こんなにゆっくり移動していて・・・こいつらに天敵はいるのかねぇ。猫とか鳥とかにたべられちゃうのかな。マイマイカブリっちゅう虫もいたなぁ。そう言えば人間が食べることもあるよな。ああ、エスカルゴは別の種類なのか。日本のカタツムリは食べられないのかなぁ。寄生虫がいるからって、保育園では子供に触らせないとか言ってたなぁ。まあ殻は持ってもいいけど、本体は触りたくないよな。これが肌の上を這ったらどんな感じだろう。ウネウネを感じるのかねぇ。でもこの速度じゃあ一生かかっても1km四方も移動できないね。まあでも、羽の無い虫ってのはダンゴムシもそうだけど10m?へたをしたら5m四方くらいの範囲で一生を過ごすんだろうな。そう考えると、人間は移動し過ぎだよなぁ。歩いて行ける範囲で生きるのが、実は自然なことなんじゃないのかね。飛行機なんかもっての他だなぁ。そう言えば、飛行機もしばらく乗ってないなぁ・・・・・・・。 なんてことを考えていたら、寝る時間がずいぶん少なくなってしまった。カタツムリの生活というのは、もしかしたら禅に通じるところがあるのかもしれない。無欲無心。ただ目の前の地面を啜りながらゆっくり歩く。俳句の人とか好きそうだし、なかなかに思考を喚起させる生き物ではある。 それにしても、もう6月。今年も半年たっちゃうんだなぁ。 |
| 誕生日
2001年5月28日
誕生日であった。生き延びたと思った。父の生きた年齢を越えたのだ。 以前、俳優の中井貴一が言っているのを聞いたことがあるのだが、父親を早く亡くした男というのは、往々にして似たように考えるのかもしれない。つまり、「自分は父より長くは生きられない。」 多分根拠は無い。ただ、身近にサンプルが存在しないために、そのあるべき姿がイメージできないのだろう。イメージの消失、イコール「自分は父より長くは生きられない。」なのだと思う。にん2もそれをずっと感じていたから、中井貴一の言葉に深く相づちを打った。2、3の同じ境遇の友に聞いたところ、彼等も一様にそれを感じていたという。改めて父性の欠落が及ぼす影響を垣間見せられる想いだが、その年齢を越えた今、根拠が無いながらもずっと抱えていた危惧を脱した思いで些かの安堵感があるのも紛れも無い事実だ。 前述の落語の「黄金餅」を聞くと強く感じるのだが、”死”は、自身が思う程尊厳があるものでは無いのかもしれない。実は日常どこにでも転がっていて、社会とか規律とか思いやりとか、そんなものに守られて比較的遠くにいるように思われる我々人間も、一歩その枠を出れば、鳥が虫をついばむように、あっけなくその事実に直面することになるもののような気がする。不謹慎ではあるが、駅のホームで殴られて命を落とすことも、人間が隠そうとしても隠し切れない、そんな死の枠の境界で起こった必然なのかもしれないな。 沢や岩、あるいは自然に向き合う遊びをするということは、その枠を自ら踏み越え、そこを行ったり来たりする快感を求める行為なのかもしれない。山をやる人がよく、「生の実感」と言うけれど、それは「死の予感」と同義とも取れるのではないのかな?考えてみれば、スピードを求めるスキーやスノボ、モータースポーツだって、それに近い感覚がある。 にん2は今日まで好んでこれらのことやってきた感じだけれど、それはもしかしたら、無意識のうちに「自分は父より長くは生きられない。」という宿題みたいなものをやりとげようとしていたのではないか?ふとそう思ったりする。打ち消しながらも、あの時もし・・・と振り返れば冷や汗が出る。悪運が強かったとしか言い様がない。 父の年齢を越えたからと言って、何かが急激に変わるわけではない。でも、昨日とは確実に違うんだ、とも思えるような気がする。それは、今まで持っていなかった往路の切符をもらえたような感じ、と言って言えなくもない。 どうやらこれで、キセルをしなくても済みそうだ。 |
| 星を見に行く
2001年5月27日
あいにくの雨の日曜日、娘を連れて八王子こども科学館へ星を見に行く。ここには入場料込み大人700円で見られるプラネタリウムがあったりする。天球直径21m。デートスポットで有名な池袋サンシャインプラネタリウムでさえ17mしかないのだから相当でかい部類だろう。繁華街から離れた路地の裏の方にあることもあり、なんだか八王子市には不釣り合いな施設にさえ思える。別に悪いことじゃないけどさ。 一回の上映時間は40分ほど。待ち時間があったので、いかにもこども科学館らしい体験型の実験施設で子供と遊ぶ。音とか光とか電気とか慣性の法則とかドップラー効果とか、この24日で3歳になったばかりの娘にはちょっと難しいかな。それでもそれなりに時間を潰せるんだから大したもんだと思う。 時間が来てドームに入る。うちの娘は暗い所がダメで、子供映画大会も日光江戸村も、始まってすぐ退場という前歴があるので如何なものかと思っていたのだが、案の定投影が始まる前に「怖い、帰る」で泣き出す始末。それでも、なだめたりすかしたりでなんとか投影まで漕ぎ着け、星が見え出すとそれなりに見入っていた。考えてみたら、夜のお散歩とかが好きだったりするので、ただ暗いのが怖いのではないらしい。よくよく聞くと大きな音がするのがコワイのだそうだ。確かに、映画も江戸村も大きな音がしていた。つまり、娘の中では、暗い→大きな音→怖い、という図式なのだろう。プラネタリウムなら静かだし、投影内容もそれなりに充実していて楽しんでいるようだった。
ところが、今は1球式と言われるものが主流だそうで、ここにあったのもミノルタ製のその方式の製品だった。2球式だったら娘と一緒に逃げ出しているところだが(笑)そうはならず、そのあまりの精巧かつ美しい機械美に投影終了後しばし見とれてしまった。その名はミノルタ・インフィニウム。直径1.5m程の白い球面に輝く無数のレンズ群。それが、音も無くグリグリ回る。発売から10年以上経過しているが、戦闘ロボットを思わせる現行機種のジェミニスターや、インフィニウムUシリーズより遥かにエレガントで美しい。こいつをじっくり鑑賞できただけでも来た甲斐があったような気がした。もちろん娘との休日もね。 ところで、こんなことを書くとメカフェチのように思われるかもしれないが、実はそういう所が無くもないにん2であった。でも男の子ならみんなそうでしょ? |
| 江戸を歩く
2001年5月26日
落語「黄金餅」はこんな話だ。 下谷の山崎町に住む乞食坊主の西念さんは大のケチンボ。ふとしたことから患い死期を悟った西念さんは、餅と一緒に貯め込んだ金を飲みこんで敢え無く往生してしまう。それを覗いていた隣に住む金山寺屋の金兵衛は自ら喪主を引き受け、麻布にある自分の寺で弔うついでに死体から金を取り出す算段をする。ことは急げと、長屋の連中を集めて夜の弔い。山崎町から麻布絶口釜無村の木蓮寺まで皆交替で早桶をかついで行き、弔いは適当に済まして皆を返した後、焼き場でまんまと金をせしめる。その金を元に”黄金餅”という餅屋を始めたら、これが大繁盛。特に祟りもおとがめも無し。 この噺の一番の聞き所は、下谷の山崎町から麻布絶口釜無村の木蓮寺までの道中を説明するところなのだが、こればかりは実際に聞いてみなければ面白さが解らない。興味ある人は、是非五代目古今亭志ん生氏のCDを、買うなり借りるなりして聞いてくれ。 でだ、前からすごく気になっていたこの道中を、今日試しに歩いてみることにした。下谷の山崎町というのは、今で言う東上野4四丁目界隈。バイク街のあたりだ。ちなみに、麻布絶口釜無村というのは架空の地名で、木蓮寺というのも存在しないらしい。それでも、夜の弔いの雰囲気を知るために、出発は夕方6時。電車で上野入する。 上野広小路から人ごみのアメ横を抜け、中央通りで秋葉原をやり過ごし、神田で山手線の外に出て日本橋三越前から日本橋へ。東京駅八重洲口を右に見ながら有楽町まで行ったところで、麻布まで行ってしまうと帰りが大変だろうなぁ、と何だか面倒になる。まあ、距離が同じならいいんじゃないの〜ということで、残りは次回に譲ることにして(そんなことあるんかいな)、日比谷公園の脇を通り、甲州街道を新宿まで歩いて帰って来た。 感想は、と言えば、昔の地名がすっかり消えてしまっていて、イメージがさっぱり湧かなかったということと、江戸は以外に狭い、というところ。電車で点と点を移動しているとなかなか気がつかないが、八王子感覚で歩くと秋葉原、上野間なんて目と鼻の先。銀座までだってお散歩コースだ。勢いで八王子まで歩いてやろうかしら・・・とも思ったけれど、さすがにこれは遠いかな。軽く30kmはあるだろう。下手をすると夜が明けてしまう。中央線に乗りながら、ああ、やらなくて良かった、と、つくづく思った。 それにしても夜のビル街は寂しい。江戸を歩くなら、あちこち覗いて歩いたり、おいしそうなものを食べながら行ける昼間に限るようだ。イメージが湧いて来ないのも夜歩いたせいかもしれないな。うん、今度は昼間やってみよう。そうしよう。 |
| 台風の夜
2001年5月25日
以前のこと。台風の夜、仕事帰り、午前0時。いつもの墓地の道を自転車で走っていると、一匹の小犬が鳴きながら佇んでいた。捨て犬なのは一目瞭然。この風雨の中では、おそらく朝まで生きてはいまい。 「お前の運命だ。あきらめろ。」 けれども、そう言い残して見捨てたことがある。 誰かを悲しませる。誰かを幸せにする。誰かの叱責を浴びる。誰かを助ける。誰かを見捨てる。ひとつの人生の中に、一見相反するものが幾重にも積み重なって行く。ひとつの人生。ひとつの入れ物。 喜びも悲しみも、反省も衝動も、罪を犯す心も償う心も、全ては同じ袋に仕舞われ、ひとつの重さになる。プラスもマイナスも無い。質量に対する重力は、分け隔て無くいつも等しい。 この重さは、自分の生を生きた証。人生の重み。自分が一個の物質になる瞬間まで、心を繋ぎとめておくための碇となるもの。そう信じて、今日も罪を重ね、善行を模索する。 あの夜見捨てた小犬は、まだ生きているだろうか。 ・・・・・・・。 何事も無く、平穏無事に生きた人より少しだけ、演歌の作詞者になる可能性くらいは増えるだろうな。 |
| 罪の意識
2001年5月24日
ワニに似た緑色の大きな動物に追いかけられて、誰だかわからない人と砂礫の大地を逃げた。ヤシの木のような大木があったので、これに攀じ登った。追いかけて来た動物も、後ろから登って来た。脚下に迫った一頭の頭を蹴ると、3頭まとめて木の下へ落ちて動かなくなった。どうやら気絶しているらしい。 今の内に止めを刺して不安を取り除こうと、木を下りて適当な大きさの石を拾い動物を見ると、何時の間にか蓑のようなものを着た坊主頭の、おじさん二人と中学生くらいの少年に姿が変わっていた。 巴に頭を寄せて倒れている3人の頭を石で打つ。まず右のおじさん。イヤな音がして鈍い感触が手に伝わる。1回、2回。それから、左。これも2回。最後に、うつ伏せに倒れている真ん中の少年。頭頂を打つと、うつ伏せなので一度顎が地面にめり込んで弾む。イヤな音。もう一度、と石を頭上に持ち上げて振り下ろそうとした刹那・・・部下に起こされた。 朝の10時休憩の15分間で見た夢。いや、寝過ごして部下に起こされたのだから20分間か。 胸がドキドキした。寝過ごしたことへのあせりもあったが、一番恐ろしかったのは、自分が少しの躊躇も無く、人の頭を石で打ってしまったこと。手に残るリアルな感触はいったいどうしたことだろう。白い少年の顔と閉じた長いまつげが、目の前をぐるぐる回る。 罪の意識が希薄になっているのかもしれない。いや、それとも元々こんなことが平気でできる人間だったのか。ここのところの数々の諸行はそれの成せる業なのか。自分の心の深淵を覗いたようで、恐ろしくもあり、うれしくもあり。 やっぱりにん2は怖い人なのだろう。 |
| スゴイぞIXY!
2001年5月20日
丹沢早戸川中ノ沢をまた登ってきました。3月19日に続いて今年2度目の訪問。目的はと言えば、もちろんカメラの回収です(雑記帖3月21日参照)。核心の2段滝の中段から滝下へ落としたらしいのだけれど、丹沢とは思えぬシェルンドに阻まれてとうとう見つけることができず、そのままになっていました。 あれからちょうど2ヶ月。雨も降ったし、雪解け増水もあっただろうから、まさか見つけられはしないやねと思いつつも気にはなっていたので、期待半分のまま、あの雪の沢から新緑への変化を愛でる沢登り!と別の大義名分を掲げての再訪でした。 結論を言えば・・・ありました!滝水に打たれすっかり水苔に覆われてはいましたが、どんぴしゃり、思った通りの2段滝の下に。その上、水苔を洗い落としてケースから取り出すと、何事も無かったように動くではありませんか!!すごいぞ、キヤノンIXY−D5! 雪に曝され、風に吹かれ、滝水に打たれて2ヶ月間。よくぞ待っていてくれました。カメラと言え、愛しささえ込み上げてきてしまいます。「ごめんよ。もう見捨てられたと思っていただろう?遅くなったけど、こうして君を迎えに来たんだよ。」 とか言いながら、実はGW前に新しいIXY−D5を買ってあったりしちゃいます。もう諦めていたからね。そう簡単に見つかるわけないよ、って。こうして我が家のIXYは2台になったわけだけれども、全く同じものとは言え、傷つき擦り切れた先代のIXYの方がやっぱり愛着はありますな。 一応目的は果たしたのでここから引き返しても良かったんだけれど、せっかくなのでロープを出して大滝の下(標高1300m)まで登ってきました。2段滝の上からは全く水流が無くなり、今年の大雪のせいか浮き石だらけで荒れ放題の涸れ沢でした。新緑と苔の緑のトンネルが美しいという噂だったけど、蛭ヶ岳への最短登路という以外の遡行価値は無いかもな。とは言っても、今にも岩雪崩が起きそうで、危険極まりない状況です。 ま、何にしても、良かった良かった。キヤノンIXY−D5。軽いし小さいし、おまけにタフだし、沢屋さんには絶対お勧めですよ。 |
| フルスロットルで
2001年5月18日
浜田省吾ではないけれど、午前3時、バイクで首都高を走る。半年振り位でエンジンをかけたのに、2ストロークはあっけなく目覚めた。ヤマハSDR。オフロード一筋に突き進んで来た中で、ただ一台だけ欲しいと思ったオンロードバイク。絶版車となって8年。バイク屋に探してもらって、去年やっと手に入れた極上の一台。 1000ccが当たり前の昨今のビックバイクブームにあって、たったの200ccだから特別速いわけではない。フルスロットルでもせいぜい160km。でも、実際に出せない300kmよりも、フルスロットルで走る160kmの方が断然面白いと思う。一目見て惚れ込んだメッキのトラスフレーム。わずか100kg強の車重と、原付と見紛う程のスリムな車体。乗り手とパワーに対して軽過ぎるきらいさえある。コイツで走る首都高の160kmは、まるで細い綱を渡るように繊細だ。 睡眠時間を削りに削って、欲望や、義務や、希望を満たそうと足掻く日々の暮らし。常にフルスロットルとも言えるのに、どうして今更そんなものを求めるのだろう。スリル? それもある。自暴自棄? 無くも無い。悦楽? 一理ある。言葉にできるくらいなら、きっとそんなことはしない。そんな時もあるさ、としか言い様がない。 なんだか最近のにん2を見ていると、長生きしそうもねぇよな。 |
| ゆっくり生きる
2001年5月17日
久し振りに娘(2歳)とお風呂に入った。30曲ほどの童謡が入った防水仕様の”お風呂でカラオケ”というおもちゃがあって、一緒に唄ったりした。スタンダードナンバーばかりのせいもあるが、殆どの歌詞を(2番まで!)諳んじていて自分でも些か驚く。わりと健全な幼少期を過ごしてきたんだねぇ。娘もびっくりだ。 歌詞を諳んじていたのにも驚いたが、自分の声の音域の高さにも改めて驚いた。裏声でなくとも、唄のお姉さん並みの高音で唄うことができちゃったりする。かなり童謡向けの声かもしれないなぁ。自分で言うのも奇妙な話しだけど・・・。 そう言えば、はっきりと声変わりをした記憶が無い。低い声もそれなりに出るので、まさか子供の声のままということはないが、かなり曖昧に通り過ぎたことは間違い無さそうだ。声のこともあるけれど、それは体全体に言えるようで、30歳を過ぎてから脚に毛が生えてきたりするんだから尋常ではない。そう言えば、最近少し髭が濃くなってきたような・・・。 なんだか気持ち悪い話しだけど、にん2はゆっくりと成長?しているらしい。それは多分、第2次成長期(性徴期?)に栄養が足りなかったせいだろうなぁ。本来ならお腹が空いて仕方ない中学から高校の頃にいつも朝ゴハンしか食べず、昼食と夕食の分のお金を貰って、それで美術研究所で使う画材を買ってたりしたからね。うん、きっとそのせいだ。最近になって、やっと栄養状態が良くなってきたから、またぞろ少しづつ動き出したのかもしれないな。 今はゆとりをもって生きることが叫ばれる時代だけれど、こういうのも「ゆっくり生きる」と言うのかも・・・・・んなわけないか。 それにしても、四十路も近いというのに人から情けなくも「学生さん?」などと言われるのはそのせいばかりではないだろうな。例えば言動とか、服装とか、きっとそう思われるような別な問題があるのに違いない。気をつけねばね。 |
| おさん
2001年5月16日
仕事が早く終わったので、ふらりとフリーの闇練にでかけた。なんだかえらく混んでいてろくろく登ることもできず、いまいちスッキリしない。例によって深夜に八王子に戻る。 急に太宰を読みたくなって、短編集「ヴィヨンの妻」(新潮文庫版)を引っ張り出し、「おさん」「家庭の幸福」「桜桃」の3編を読む。多分10回以上は読んでいるが、それは昔のこと。バイクのレースに明け暮れ、比較的平穏無事だったここ10年程は読んでいなかったから新鮮な発見が多い。無論、読み手としてのこちらの心情も大きく変わったせいもある。近付いている、と思う。共感しつつも、遠い物語として読んでいた頃とはだいぶ違う。50年余の昔話なのにも係わらず、現代に読んでも少しも色褪せない普遍性にも、改めて驚いたりする。 昔は、随筆的な「家庭の幸福」と「桜桃」に面白さを感じたが、今はむしろ、女性の一人称で語られる「おさん」の方が胸に染みてくる。一言一言に肯ける。顔が重なる。同じ結末になるとは思えないが、おそらく、似たような想いを抱きつつ、自分も家人も生きている。 以前山に行く前、心配のあまり強硬に阻止しようとする家人に「別に自殺しに山へ行くわけじゃない。人の葬式のことばかり考えやがって!」と、声を荒げたことがある。今でもそれは信じてもらえるか、そして自分自身、確証をもってそれを言えるのか、一抹の不安は拭い切れない。もっとも、そんな刹那が今まで全く無かったか、と言われれば、否とは言えないような気もする。ギリギリのバランスでトラバースしている途中で、「今手を離したら楽だろなぁ。」なんて考えたこともある。でも、クライマーなら誰だって、一度くらいそう思ったことがあるでしょ? 今自分は、悪いバンドを重荷を背負い、ロープも付けずトラバースしているのかもしれない。ただ「おさん」の亭主と違う所があるとすれば、その中にあって、自分でも驚くほどあっけらかんと明るく笑っている。だから、手を離そうとも思わない。このバンドの先がどうなっているのか、それは誰にもわからない。奈落の底かもしれない。けれど、きっと自分は笑いながら渡り切る。 遣る瀬無い「おさん」の結末を読みながら、家人の呆れた顔を思い浮かべた。泣いているでも、怒っているでもない、呆れた顔を・・・。でもそれは多分、身勝手な願望に過ぎない。それも良くわかっていた。 |
| てっぺんでおぎにり
2001年5月14日
土曜日の夜から、小川山廻り目平キャンプ場へフリークライミング合宿へ行ってきました。詳しいことは記録へ譲るとして(そんなもの書く暇があるんかいな。誰か書いてくれ〜)、以前から登ってみたかった、ガマスラブ上部のスラブ状岩塔の頂上を踏むことができて、春の快晴のもと、とても有意義な一日を過ごすことができました。変則的とは言え、計7ピッチのロングルートに5名という大パーティー。一時はどうなることかと思ったけれども、丸々一日費やしたこともあり、スッパリ切れた岩塔のてっぺんで、廻り目平を一望しながら食べたおぎにりの味は実にこたえられないものでした。 帰りには、いつもと趣向を変えて、須玉IC近くの「須玉の湯」で入浴しました。1000円のところ800円にしてもらったにも係わらず、広い露天風呂は我々だけの貸し切り状態。こんなんで経営が成り立つのかしら・・と心配しつつも、予期せぬおまけがついたような気分で、ゆったりと手足を伸ばすことができました。 入浴後は「須玉の湯」のすぐ下のラーメン屋で遅い夕食。ラーメンが380円、餃子が280円なのに、ラーメンに餃子と半ライスのセットになるとなぜか650円という値段に首を捻りながらも(餃子は同じ内容なのに・・・)、それじゃ、ということで半ライスまで平らげて、すっかり満足満足。味もなかなかのものです。 ただひとつ難を言えば、メンバーを送って行った帰り道のこと。あまりの眠さに耐えられなくなったにん2は、ちょっと一眠りのつもりでPAで仮眠モードに入ったのだけれど、ハッと気が付いたら午前4時!! なんだかんだ言って、やっぱり疲れていたんだねぇ。もっとも、PAに止めた車の中なんて、意識的には家に帰ったのと変わらない今日この頃。 |
| 郷土愛のひと
2001年5月11日
山形県の県北部あたりに行くと、田園風景の中に点在する部落の入り口や出口に部落名を書いたプレートがよく掲げられている。大抵は「明日へのびる○○町」とか、「緑と清流の××町」とか、日本中どこへ行っても聞くことができるようなありきたりの文句なのだが、八幡町から鳥海山中腹の湯ノ台温泉へ向かう途中にあったこのプレートには笑わされた。
「ここが下黒川だ!」なんていきなり言われても、「はぁ、そうなんですか。」としか返す言葉が無い。何があったか知らないけど、何だかヤケクソになった人が看板を立てる係りになっちゃたんだねぇ、なんて笑っていたら・・・・・・・
・・・・・この間わずか200mほど。車内が爆笑の渦に包まれたのは言うまでもない。これはかなりの確信犯と見た。見た所、この看板を立てるのにだって相当なお金がかかっているはずだ。もしかしたら、税金が使われちゃったりしているかもしれない。にも関わらずこの茶目っ気!周りの人が止めなかったのだろうか。ちょっち心配してしまった。 が、ちょっと待てよ・・・と考えた。もしかしたらものすごく郷土愛の強い人で、これはこの下黒川という部落を激しく愛する故の所業なのかもしれないぞ。あまりに愛し過ぎて、こうやって目に見える形で主張しなければいても立ってもいられなかったとしたらどうだろう。 う〜ん。なんだか哀れなような、やられちゃったような。あっそうか!つまり、こうやって話題に登らせることができた時点で、この看板を作ったひとの思惑は図に乗れリ、ということなんだろうな。 やれやれ。 |
| 手が回らない
2001年5月10日
クライアントにレポートの提出を依頼されて、この3日間はそれに腐心しておりました。11日にドイツのメーカーに持って行くということで、10日が締め切りとなっていたのだけれども、実は日にちを一日勘違いしていて、10日の今日をすっかり9日だと思い込んだまま、昼になってそれと気がつくお間抜け振り。久し振りに半日の間集中して仕事をして、ぎりぎり5時半にメールで送ることができました。 それにしても、人間ひとつの文章に掛かりっきりの時は、なかなか他の文章は書けないものですね。もっとも、時間的な余裕も無かったので、「ああ、雑記帖を書く暇があったら、その前にレポートを書き上げなくちゃ〜。」とずっと追い立てられていたこともありそれどころではありませんでしたが・・・。まあ、根が小心者なのでしょう。特に文章となると、いい加減には済まされないたちなのかもしれません。 ま、とにかくやっと社会復帰?できたようですので、またよろしくお願いします。今週末は小川山合宿ということで、できれば行きたいと思っておりますが、加工の仕事や見積もりもたまっているし、義妹の出産なんかがありそうでそちらも放ってはおけないし、果たしてどうなることやら。今時ではないけれど、つまじき者は宮仕え、ですな。 |
| 春の幸
2001年5月7日
ゴールデンウイーク後半は、以前豪雨のために撤退した山形の弁慶山塊中野俣川を再訪した。この名はなかなか耳にすることはないかもしれないが、それも致し方ない。名峰鳥海山を取り巻く1000メートルにも満たない小さな山塊のひとつであり、登山道もろくに無い。文献で目にするとしたら「山形100名山」という本に、積雪期の篤志家向けルートとして紹介されているくらいであろう(沢のルートとして地元の山岳会ではメジャーらしいが・・・)。 本当は、前回敗退した23個の滝を列ねるという支流のヤビツ沢を目当てに入ったのだが、ベースの三崎海岸キャンプ場があまりに快適で、前夜の深酒も手伝い出発が大幅に遅れてしまった。メンバーがメンバー(にゃんちゅうさん、その友人のEさん、にん2、しんちゃん)だけに「今更ハードな滝登りもねぇ・・・。」と言った案配で、入渓点に着いた時には完全に日和見ムード。んじゃま、焚き火で山菜パーティー山行ということにしましょうか、ということで、本流の中野俣川を歩くことにした。 ところがこの中野俣川、滝は無いのだが、行けども行けども水路状のU字谷が続くばかりで河原というものが全く存在しない。側壁も急峻で高く、テン場になりそうな台地も皆無なのだ。弱点をつきながら徒渉したりへつったりの連続にいいかげん疲れた頃、とうとう面倒くさそうなゴルジュに行き当たってしまった。地形図を見る限り、この状態はまだまだ続きそうだし、雪しろが入って痺れるように冷たい水で泳ぐ気などまるで起こらない。早めにテン場を設営し山菜パーティーという目的を完遂するためにそんなことにはかまっていられないので、勇躍・・・後戻りとあいなった。 というわけで、結局テン場を設営したのは車を止めた林道終点からわずか15分の造林小屋跡の台地。ロケーシュンは最高だし、乾いた薪もふんだんにある。ただひとつ難を言えば、林道からあまりに近いため採り易い場所にある山菜はほとんど採り尽くされてしまっていることか・・。それでも、釣りをしながら1時間もうろうろすると、芽を出したばかりの柔らかいミズナとウルイがどっさり採れた。何の事はない。他の山菜を求めて、沢筋を外れて薮を分けるほどマメな顔ぶれではないのである。釣りの方はと言えば、型の良いヤマメを何匹も網に入れてぶら下げている釣り師とすれ違ったっけなぁ。ここへ下って来る途中で・・・・・トホホ。 まず、ミズナの根をかつお節と叩いてミズトロロにしてビールで乾杯。エノキとチーズとミズナの炒めもの、ウルイのバターソテー、御浸し、味噌汁と続きすっかり満腹。フキとミズナの芽の天ぷらは、誰にもどこにも入らないので行き場を失い、明朝の味噌汁の具になった。 イワナ寿司用に準備した寿司太郎は無駄になったけれども、豪勢な焚き火にお腹いっぱい山菜を食べて、満足満足の良い山行?になりました。山を下りて体重が増えていたのは初めてだ。それにしても、この時期の東北の山はスーパー並みに食材がいっぱい。行きがけの駄賃に林道わきで採った蕗の塔とコゴミも最高で、フキミソをお湯に溶くと風味豊かな味噌汁になることも新発見。やっぱり春の東北は幸に溢れておりました。何度宴会をしても足りませんな。 |
| 悔い無き終末
2001年5月2日
GW前半の放浪から帰京すると思わぬ訃報が飛び込んで来た。噺家の古今亭右朝氏(52)が、肺ガンのために亡くなったとのこと。これから華やかな口調に歳を重ねた涸れが加わり、どんどん良くなって行くと思っていたのに、残念でならない。 以前山行記録にも書いたが、八王子で定期的に開かれる新聞販売店主催の寄席で右朝氏は常に主任を務めており、にん2は幾度となくその話芸に触れている。当世の大名人古今亭志ん朝氏の弟子らしく、淀みない滑らかな語り口と端正で若々しい声、ダンディな風貌、そして確かな古典への取り組みと、どれを取っても第一級の芸であることに間違いなかったし、それだけに今後の期待も大きかった。追っかけに近い熱烈なファンもいるらしく、都内からやって来たという妙齢の美女が、舞台正面の中央に背筋を伸ばして正座し、目を潤ませて噺に聞き入っていた姿が印象に残っている。 この人が噺家として遅い入門を果たした時の逸話に、こんな話しがある。落語家への道を諦め、寄席文字の書家として仕事を始めていた右朝氏が、師匠志ん朝氏への入門を決意したきっかけを語った言葉だ。「新劇俳優の小沢昭一さんが、『もし自分が死ぬときに悔いが残るとしたら、落語家・小沢昭一として死ねなかったことだろう』と仰っているのを聞いて、僕もこのままでは悔いが残ると思いましてね、親父は落語は好きでも、息子が芸人になるのには反対で、結局弟子入りしたのは27歳のとき。『10年遅い』と言われながら、師匠にようやくお許しを得たんです。」 悔いを残さず死ぬために選んだ噺家という道。本人さえ思いもしなかっただろう早過ぎる死に、果たして悔いは残らなかったのだろうか。 『”やった”しくじりは許される』 氏はいつも弟子達にそう語っていたという。何事もなさずにする後悔よりも、やって失敗してする後悔の方が数倍価値がある。多分、悔いの残らない人生などありはしないのだろうが、少なくとも、氏の残した悔いは、失敗を恐れて何もやらなかった人より、ずっと少なかったに違いない。 消えてしまった芸を惜しみつつも、一人の男の悔い無き終末に弥栄を。 合掌。 ps 今夜から、秋田山形県境の三崎海岸をベースに、鳥海山周辺の沢を探りに行って参ります。帰京は6日の予定。またしばらく雑記帖もお休みとなりますが、GW明けに元気にお会い致しましょう。では、良い休日を! |
Copyright (c)
2000 MSCC八王子通信. All rights reserved.
この文書の内容は予告なしに変更されることがあります。
ここで参照する製品名および著作物などは、各会社または著作者の商標または所有物です。
また、このホームページの内容を参考にして事故などが発生しても当方では責任を負いかねます。
あらかじめご了承の上、自己の責任で安全な登山を心がけて下さい。