60年代「思い出の学校」
60年代 懐かしの宝箱

ブログもご覧ください

はじめに

 自分の年齢の半分にもならない社員と話したら「だるまストーブ」を知りませんでした。「給食」にしても、教科書も、遊びも、文具も、今とは違っていた60年代。でもそうした具体的なものだけでなく、「学校」そのもの、雰囲気も今とは違っていたのかもしれません。
  そんな60年代の学校生活を少しづつ思い出したいと思います。
懐かしの小学校・長野県松本とちょっと不思議な話2007.3.18更新
■松本市立田町小学校のこと2007.3.21更新
■「さよならの季節」2007.3.28更新
60年代の学校と生活
■60年代の学校生活
■60年代の筆記具の研究
■60年代の筆記具補遺
■冬の日の学校生活〜ストーブ当番
■60年代の運動会 2006.10.29

●懐かしい物語ではほのぼの・しんみりしたお話を復刻掲載しました。
懐かしい物語
懐かしい物語
港区立神応小学校頃のこと
港区立神応小学校頃のこと
60年代 思い出の学校(続)
60年代 思い出の学校(続)

■懐かしの小学校・長野県松本とちょっと不思議な話 2007.3.18

 すでに、ブログやホームページのあちこちで展開しているように、自分は1960年頃、長野県松本にある小
学校に通っていた。
 松本には有名な小学校が、全国的に知られた「開智小学校」
がある。小学校としては全国でも最も古いものの1つとされ、重
要文化財「旧開智学校」として1964年より現在の場所で保存さ
れている。
 実は1963年3月までは女鳥羽川のほとりに有り、使用されてい
たものを移設したものである。そして開智小学校が新開智小学
校となるとき、実は古い小学校と合併している。それが松本市
立田町小学校であり、自分が1961年に入学した小学校であっ
た。松本地域の歴史書によれば、1963年校舎の老朽化により、
開智小学校と合併・廃校とある。
重要文化財「旧開智学校」
 同級生たちは開智小学校の生徒として卒業した訳である。自
分は合併する前の1962年に東京に転校してしまった。

 従って、当然開智小学校生徒であった訳でもなく、母校は永
遠に無くなってしまい、
 あの懐かしいTV番組のタイムトンネルのダグとトニーのように
時間の放浪者となってしまったのである。

 それだけに無くなってしまった松本市立田町小学校、あの古
い校舎が懐かしいのである。
  

 確かに当時校舎は老朽化していた。田町小学校の校歌に確か「♪赤いレンガの校門よ〜」とあったが、入
学式撮った写真にはボロボロの校門が写っている。
1961年当時の松本城
田町小学校レンガ南門
後ろは北側体操場

 1学年、2組か3組しかなかったが、校舎は大きかった、雨天体操場は校庭を挟んで南と北に1つづつあ
った。音楽室も2つあったと思うし、当時珍しかった今で言う視聴覚室で映画であったかスライドであったか
を見た記憶もあって、本来の教室以外の部屋もいろいろあったのかもしれない。
そして自分たち低学年は、南側の門から入って小さな庭から入いる南側の校舎で学んだ。昼時になると給
食の臭いがしたので給食室の近くであったのだろう。そして校舎の西になる裏側は中庭で、樹木が茂って沼
のような池があたように思う。校舎の東側の広い校庭小石がごろごろしていたが、体育は裸足で行ってい
て、体育が終わると足洗いを冷たい水道でして、教室に入ったものである。それにしてもあの古い校舎が懐
かしい。
校舎前で撮った入学時(1961)の写真
運動会が終わって
左が南側体操場

 写真は入学の時、そして運動会の時のものが残っていて、一部ではあるが懐かしい校舎が写っている。
 自分が転校してから友人の手紙で知った学校の合併であの懐かしい校舎も完全に消えた・・・と思ってい
た。アルバムの数少ない写真にその姿を残して。

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 それから40年以上たって、このホームページが出来て1年ほどたって
のことである。

 神奈川県の先生の方から1通のメールを頂いた。生徒さんに歌わせ
るために「みんなのうた」の「誰もしらない」「日本語のおけいこ」を検索
していて自分のホームページに行き当たったらしい。

 懐かしいと書いてあった。その中で「1961年に小学校1年で松本に住
んでいました。旧開智小学校出身で3年生になる時、田町小学校と合
併、新開智小学校を卒業しました」とあった。

 学校もタイミングもその方とは同じ時間は全く共有していない訳なの
で、仕方なく友人の名前を何人か書いて返信した。
 
 その方からは新開智小学校になって、小学3〜6年はクラス替えもなく、自分の友人2人と同級で有り、良く知っていると返事があった。

 世の中は狭いと思った。同窓会ネットの田町小学校のページに書き込んで10年はたつけど何もなかったのに、懐かしい「みんなのうた」がつないでくれたのである。

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 そんなことがあって、つい先日実家の母から片付けものをしたと言って昔の
手紙が送られてきたことを思い出した。その共通の友人のうちの一人である。
彼は自分が東京に来ても何度か松本の状況を手紙に書いて送ってきていた
のである。
 思い返して読んでみた。開智小学校といっしょになって友人が増えたとあっ
て・・・「今、Mさんと隣の席に並んでいる・・・」とあった。
 Mさん?、確かメールを頂いた方の旧姓と同じでは?
 早速メールをしたところ「Mはクラス一人だったのたぶん私のことでしょう」と
返事があった。
 つまり、自分が40年以上も前に貰った手紙に書いてあった友人の隣の席の
方、その方から「みんなのうた」のことでメールを頂いたのである。

 思いがけない発見はまだあったのである。
その旧姓Mさんからは、添付ファイル付きでメールを頂いた。

 第1回の新開智小学校の運動会の写真である。それを見て驚いた。田町小学校の校舎が写っている。
合併してすぐに壊されたのではなかったのである。新開智小学校の生徒は田町小学校の校舎で学んでい
たのである。
 自分は開智小出身の方からこんな写真を貰うとは全く予想もしていなかった。

 そして、もっと驚いたのは、その2枚の写真の1枚には共通のもう一人の友人であるKくんの後姿が写って
いたことである。
 Kくんは当時体が弱く、運動会も見学でひとり体操服を着ることなく一人写っていた。その後ろ姿の表情は
確かにKくんそのものであった。

 開智小第1回運動会は旧田町小の校庭校舎で開催(1963)  懐かしい校舎、そして見学者は友人K君 2枚ともMさん提供

 その運動会は、転校してしまった自分には到達できなった当時の未来であって、それを過去の1シーンと
して、ホームページが旧姓Mさんのメールでとりつないで見せてくれたのである。

 その後、旧姓Mさんからは、生徒さんの歌われた「誰も知らない」の音声ファイルで送られたきた。
小学1年と6年の交流会で歌われたのだそうだ。こうして「みんなのうた」は世代を超えて歌いつながれて行
く・・・
 そして最後の授業参観でも歌われたそうで、その時今回のホームページがつないだこの不思議な偶然の
お話を父兄の方にして頂いたそうだ。

 このホームページがタイムトンネルの入り口をあけてくれた・・・今更ながらホームページを作って良かった
と思った。

そして、時間の放浪から解き放ってくれた旧姓Mさんに感謝した。

 40年隔てて旧姓Mさんとは知り合うことになったが、もし自分が東京の小学校に転校しなければメールを
頂いたMさんとは同級生だったのかもしれない。

■松本市立田町小学校のこと  2007.321更新

 前項のように小生が小学1,2年通い、転校し、小3の1963年には合併して消えてしまった小学校である。

 続編 松本市立田町小学校の面影を求めて

 インターネット検索をして頂いてもわかるようにまず情報がない。大変有名な小学校と合併したため、歴史
も記憶も全て溶け込んでしまったということなのかもしれない。
 これまで松本市立田町小学校のことは、1963年までに田町小学校を卒業された諸兄だけにのものと勝手
に思っていたが、前掲のように合併・新校舎完成までに開智小学校の卒業生の中にも無くなったはずの旧
田町小学校校舎で学んだ方々がいることを知って、思い出に浸れる対象が増えたことを知った次第である。
ちなみに1964年から1967年頃までに開智小学校を卒業した方の中には田町小学校または廃校後の旧田町
小学校校舎で学んだ体験を持たれている可能性があると思っている。

 田町小学校の資料としてわかっているのは、松本の中央図書館に禁退出の冊子資料として、廃校になる
前につくられたと思われるものが2冊を図書目録に発見したことである。(2007年詳細内容は未確認)

 旧開智学校の移設によって付近の区画も変わっており、60年代初頭、その名のとおり田んぼの真ん中で
あった景観も一変しており、その所在の跡形もない。
 実際に自分でさえ、現在の地図を見た時困惑した。40数年前たった3年住んだ、それも5,6歳の小生にとっ
て記憶とは大変あいまいなものである。記憶や思い出というものは何かと過去を脚色したりする訳だ。住所
的には旧町名で「新田町」(現在の開智2丁目)であることが田町小学校の昔の封筒から判明している。
 
 自分が現在松本に在住していれば、図書館や郷土資料館などに日々通って、当時の記録を紐解くことも
可能かもしれないが。手元にあるのは時代はかなり遡るが1925年東京日日新聞社発行の「長野県交通地
図」というのが有り、ここに松本の市街地図が収録されている。幸い河川など地形は変化が少ないので、こ
れらを対照すると、現在の丸の内病院、健康センターなどがある区画が該当するかと思われる。

1925年東京日日新聞社発行の「長野県交通地図」より引用 現在の市街、松本城や河川の位置から赤枠の区画か

田町小学校の位置が判明しました 更新2008.2.17
  
松本市全図 樺゚林堂書店 より引用
 発行年は不明ですが1950年代中ごろと推定
 最新版松市街図 日米書院 より引用
  1965年発行
 
 田町小学校が記載された地図をはじめて発見しました。発行年は不明ですが、1960年頃の記憶や、消防署の櫓からの写真から、田町小学校の西側の信大の施設は移転後であったことから、その前の地図ということで1950年代、裏面に1953年のことが過去形で書いてありますのでそれ以降の状況と判断しています。
 なおこの地図裏面には発行当時の市内のデータが有り、田町小学校の児童数は男子664人、女子619人、学級数28、教師33人となっています。1学年4〜5クラスであったことが推定できます。引用の地図では枠外となりますが千歳橋の南西の一角には旧開智小学校が位置しています。

 そして、1965の地図では、旧姓Mさんからの情報どおり、東側の旧田町小学校校舎が開智小学校として表示されています。そして西側が建築中の新校舎、今の開智小学校が学校名が記載されることなく表されています。
 ただ、田町小学校の校舎の形が違っており、1965年のものには北部に延びており、合併によるスペース不足から仮増設をしたのか?それとも地図が不正確なのか、このあたりは当時在校した方に聞くしかないところでしょう。
 またこの地図には消防櫓となりあったプールも記載されております。 2008.2.17更新

 松本市の公式サイトには大変貴
重な資料が残されている。
 1950年代からの市内の画像デー
タである、その中に1960年のものが
ある。

 現在の松本神社の場所(右上図
の青丸印付近)には当時、建設され
たばかりの松本消防署のコンクリー
ト製望楼(右写真)があった。
 その望楼の上から全周囲に渡っ
て撮影された松本市内の写真が残
されている。
 その中の1枚は残念ながら解説からも、木々の茂みからも田町小学校を確認することはできないが、先
ほどの市街地図と望楼のあった場所の位置関係から、北北東方面を撮影した写真の木々茂みの一角か
ら見え隠れする建物群がそれではないかと推測している。なお北方向を撮影したものには現在開智小学
校がある場所が写っており、当時信大の診療所跡であったことがわかる。

中央上の木立に囲まれ見え隠れする建物が田町小学校かと
思われる。
 望楼真北の写真。中央が現在開智小学校がある場所

 なお、1960代初頭、松本には高い建物は少なかったので、変わった形の消防の望楼は遠くからも目立っ
たものだ。そしてこの東側に市営プールがあったのである。
(大変勝手ではありますが、松本市のホームページより画像を一部引用させて頂きました。)

 田町小学校の形態などについて資料を探していたのだが、意外にも自分のところにそれを偲ぶものが
あったのである。 

 1960年であるが、小学校入学前の児童を
対象に就学前健康診断が実施された。その
案内の中に構内の図面があるので、これを
掲載しよう。
 
 部屋割りと健康診断での検査項目が分か
るかと思う。自分はこの健康診断の日を覚
えており、大変古く、大変広い構内を記憶し
ている。検診項目を順路で回ったのであろう
が、何分幼稚園生が初めてまわるのである
から古い校舎の威圧感は大きい。今でも何
年かに1回その時の夢を見ることがある。し
かし、そうして記憶が変形していっている可
能性も有り、信憑性は何とも言えないところ
がある。はじめて見た色診の絵柄やクレゾ
ールの臭い、白いホーローの洗面器と支持
台などいろいろなものが交錯するのである。
 
 見て頂くと分かるように南北に体操場があ
る。北の体操場には壁に木製の横棒がある
など運動目的の運用が、南の体操場は演
壇などがあったように思う。雨天の体操は北
で、音楽会・学芸会などの行事は南で行っ
たように思う。
 さて構内図は一部しか描かれていないが、
学校全体としては校舎は平面で見て「ヨ」ま
た「コ」の形をしていたはずで、今見るとけっ
して大きな学校とも思えないが、全校で15ク
ラス前後(推定)としては施設的には大きか
ったのではないかと思う。

 その中で資料として残るのが音楽会のプ
ログラムである。低学年、高学年で分けて実
施していたことが今更ながら分かる。やは
り、1,2年は3クラス、3年はA,Bの2クラス
大変変わった学校である。
 校庭の正門は東門であるが、運動会の時は看板が付けられたことが1961年の運動会の写真からも分
かる。東門は南門に比べ背が低かったように思う。(旧姓Mさんの写真はこの2年後ながら正面から良く分
かる。)


 この東側については不明の部分が多いが校門を入って北側に、うんてい、登はん棒、砂場の順に並ん
でいてそれより北側はどうなっていたのか。


↑校庭東南の角の写真。南側の体操場が写っている。

 砂場付近には僕らにとっては異文化の世界であって、今では考えられないが部外のものが出没した記
憶がある。聖書の物語を持った伝道師、綺麗な砂を売る商人など。何分小学一年の記憶であるから不確
かではあるが、天国・地獄へ行く道を描いた地図や、桃色や金色の砂で描いた絵は子供の記憶には強く
残るのであるが、後者は後年知ることになる「型」であったのか?とも思う。親からは絶対近づいてはなら
ないと強く言い渡されてので魅力はあったが詳細は知らないが、しばしば未知への誘惑として鮮明に残っ
たのである。

↑東真側。背景の観衆の背後にかすかにうんていが見える  ↑うんていを練習する小生(1961年)
 検索をかけところ、校庭東側の北方については「沼や洋館」があったという情報もありますが、真偽のほ
どは分かりません。(実はこの付近はあの松本サリン事件現場の近傍で、無実ながら嫌疑をかけら方の
お宅なども近くにあって、2チャンネルなどで余談ながらあった書き込みと推察しております。すでに大元は
削除されキャッシュに残るのみの不確かな情報です。)

 これ以上の数々の思い出は、田町小学校と特定することなく、展開させて頂くことにして、とりあえずこの
項を終わりとしたいと思います。

「松本市立田町小学校」について情報をお持ちの方はメールにてお知らせください。

 ホームページでご紹介するには、あまりに固有のお話で、興味のおありの方は極小かと思います。いっ
たいこの拘りは?と思われるかと思いますが
 創作された推理小説を皆さん好まれて読むのであれば、私の探索は過去の事実、そんな解明にもお付
き合い頂ければと思います。

「さよならの季節」 2007.3.28 

 桜、卒業の3月、そして入学の4月、この季節は学校生活の中でも別れと出会いの
季節です。

 何も60年代とかでなくても、いつでも変わらない姿のように思いますが、でも今とは
少し違っていたようです。別れと言えば「あおげば尊し」。60年代はそうだったと思いま
す。しかし自分が中学卒業の時は少し変わっていて、その年のヒット曲であった「黒猫
のタンゴ」もなぜか歌いました。
 小学校卒業と違い、中学の卒業は皆進路がばらばらとなると言うこともありました
し、時代背景も60年代が終わり70年代になるということでも少し気持ちが違っていた
ように思います。
 いろいろな点で様変わりでしたが、でも友達と別れ別れになる・・・というのはとても
大きな変化でした。公立高校へ行くもの私立高校に行くもの、進学する学校の所在置
も近くから遠方まで。その前には受験があって、志望校に入れた、入れなかった・・・明
暗いろいろあってからの別れです。

 自分の卒業は60年代の末、木造校舎でしたが、以後の学校はみな鉄筋校舎でした
し、卒業の思い出はやはり懐かしい木造校舎との別れというのが強い印象です。
 開設のコーナーにも少し書きましたし、以前「60年代通信」でも書きましたが、自分
には卒業の日には今でも心に残るシーンがあります。

「卒業の日」の思い出

 卒業式が終わって、「仰げば尊し」の余韻がまだ耳に残っている感じで、なごり惜し
い学校のいろいろにお別れを言う。たとえば部活の顧問に、クラブの部屋にさよなら
の挨拶をして、もうこれで全てにお別れと教室に戻る・・・と教室は春休みを迎えるべく
奇麗に片付けられていました。

 そんな空っぽの教室には自分でも信じられないことが起ってました。別のクラスであ
ったかねてから憧れていた人とその女友達の二人だけが、何故自分のクラスの教室
にいたのです。夢や空想の世界ではそんなありえないことが描かれたことはあったで
しょうが。
その人は2階の教室の窓からは穏やかな春の風景を惜しむように眺めていました。

 そんなチャンスになんと声をかけたものなのか?、そんなシミュレーションはしたこと
もなく、その場で凄く早く頭が回転したようにも思いますが、やはり頭は真っ白で。

 別々の学校に行くのですから、これが彼女の一生の見納めになることは確実で、神
様が用意してくれた別れの瞬間でした。その最後に何か気の利いた一言でも思って
も。白日にさらされたゴキブリのごとくのじたばたと。え〜〜いと思いながらも高鳴る鼓
動を抑えて意を決めて、無言で部屋を出ました。目を合わせることなく。

 何度戻って「さよなら」を言おうと思いながらも自分の足は1歩1歩教室から離れて行
くのです。見上げると春の眩しい日差しがボロ校舎を照らしていました。あの短くも長
かった瞬間。その後の人生で何度あの瞬間に戻って「さよなら」を言いたかったか。
 今考えるとあのとき「さよなら」を言っても、変な男子と思われるはずで。というのも
入学したころはその人と毎日のように話したこともあったのですが2年間以上は話は
していませんでしたから。

 その卒業の風景の不思議さは、間違いなく中学の最後のページを飾っているので
すが、中学の最初のページである入学式の日にもその人がとなりの席にいた・・・  
という、運命の不思議さもあったのです。

 あのシーンは今でもビデオテープのように何度もリプレイできます。あの日の髪型と
髪飾り、制服の胸のポケットから覗いた生徒手帳のカバーが赤く・・そんなこまかな事
でさえ、タイムトンネルのようにその場に行って今でも新しい発見ができるとしたら、そ
れは人間の記憶の不思議というものでしょう。

 学校からの帰り道はもう全くの春の日であって、もし「あの時に、」とくりかえしなが
ら、振り返って戻りたい気持ちと戦いながら、やがて来るだろうその人の幸福な高校
生活を祈り、去り行く中学生活に「さよなら」を言うのでありました。

 あの日「さよなら」を言わなかったのは、きっとまた会えるということであって、あの別
れで変に中学の3年間の思いを語っていたら、再会してもすごく気まずいのかもしれ
ません。

 何もはじまることもなくそして終わることない関係だからこそ、遥かにそして穏やかに
いつまでも心に響く春の思い出なのです。

 どこからともなく、春のかおりが漂ってくるような微かな「さよなら」の思い出です。

 いつか、もしふたたび出会うことがあるのなら、あのとき、あの窓からは何が見えて
いたのか・・・たのしく語れるそんな瞬間も来るのかもしれませんね。

あのシーンをもし映画で撮るなら、最後のシーンはクレーンカメラを使って視点をアッ
プさせ桃の花越しに霞む街並み遠景で、弦で奏でる曲「花の街」で(ストリングス・エマ
ノンの演奏あたりかな)そしてエンディング・ロールと言ったところでしょうか。

 こうした思い出も、華々しい学生時代を過ごした方々にはまず意味の判らない事か
もしれません。

(諸般の事情から、このお話はしばらく非公開にしておりましたが、修正の上、再掲載
しました。)


60年代の運動会2006.10.29
1966年頃の校庭
2006年の校庭
 この項目は開設し久々の更新になります。一時拡大したこのコーナーも、訳あって整理させて頂きました。再出発と言うことになります。

 自分の場合、小学校1年〜6年=1961〜6年、中学校1年〜3年=1967〜9年ということで、まさに1960年代の運動会を体験した世代であります。

 また転校で小学校を3校経験していることも有り、都内・都下・地方といろいろな学校でもありました。

 運動会もやはり時代をいろいろ反映したものであった・・・ように思いますがいかがでしょうか?
<場所と服装>
これは、もちろん、学校の校庭。しかしそこからは違うんですね。
 長野県松本市の小学校(1961年頃)の校庭は土で、はだしで「体育」をしてましたので、運動会もはだしだった思います。小石がゴロゴロしていましたので、走ると痛く、終わると足洗い場があって、水道水で洗う・・・冬の体育の時間などは辛かった。
 東京港区での場合(1962〜1963年)は、校庭がコンクリートで体育は運動靴でしたが、運動会の時は地下足袋でした。転校して最初の運動会はそれを知らずに、母が近所の人に聞いて届けてくれたのを覚えています。松本に比べれば校舎に囲まれた小さな校庭でした。
 東京三鷹市の場合(1964年〜1966年)は土の運動場(懐かしい響き)で運動靴、中学校(1967年〜1969年)も同じでした。
 ブログでも書きましたが幼稚園に通う姪が自分の卒業した小学校のグランドで運動会をやりまして、久々に行って昔を思い出しました。
 服装は短パン、松本は寒かったのでトレパンでしょうか
<運営>
 自分が学級委員などしていたためか、係りは良く回ってきた感じがします。当時を思い出すと、生徒がやっていたのは、会場係(美化委員)、集合係(運動部員)、応援(クラス有志)。放送委員はテントの中でレコードをかけ、マイクで競技や集合のアナウンスをしていたのでしょうか。また競技で使う道具の入出や、消えたラインの整備などの仕事もやはり運動部員の仕事だったのか?保健委員は救護班?
 その中でこんな係りがあるのか?と思ったものを小学校5年の時にやらされました。それが「進行係」。本来記録係と言って良いと思います。大会本部のテントの横に机を1つ置き、そこに6年の女子1名、5年の自分が座り、全競技の所要時間をストップウォッチで計り記録する。生徒たちと面して、女の子の並ぶので(6年なので名前は知らないが)少し恥ずかしい。でも腕章は空色で、5年ではたった一人。少し誇らしかった。このとき始めてストップ・ウォッチの使い方を知った・・・競技時間の計測は今でも思い出すと緊張感がありました。
運動会と賞品

最近は、学校で優劣をつけるというのはなにかとにきびしく・・・
赤白対抗の競技でも「赤が優勝、1位万歳!、白もがんばりました2位万歳!・・・という判ったような判ないことになります。
「かけっこ」も同じくらいのタイムの子と走らせる訳です。
あの頃、テープを切ると、高学年のお姉さんが数字の入った旗を持って入賞者を連れに来たものです。今も同じでしょうが並ばせる、そこまででしょうか。
あの頃は2等とかスタンプの入った安全ピン付きのリボンが貰えましたが、賞品もあったと思います。
 自分はまず運動は得意ではなかったのでびりかびりから2番目。縁遠い話でした。しかし、普通、6人くらいで走るところが欠席か何かで5人になり、一人が転んだのかラッキーで3位になった・・・そんなことがありました。
その時の賞品は薄いノートだったと思います。せいぜいびりから2番が通常の成績でした。1,2等は何を貰ったのでしょうか?足の速い子はきっと賞品が毎年貰えたのかと思うのですが。
運動会としては紅白対抗で得点を争い、最後に結果発表。
名誉にも全校白組代表で優勝カップを貰ったことがありました。
丁度、祖母が見にきていたので感激したこと・・・競技で輝かしいところは全くないのに晴れがましい優勝カップを貰っても。
 でも、あれは表彰直前に言われたこと。本当は誰かやるべき人がいたのでは?
<いろいろな運動会>
 秋の大運動会、春の小運動会、陸上競技会、球技大会などもありました。それに市連合の運動会。本番はほとんど記憶にないのですが、練習の記憶はあって、他の小学校に行って練習をした覚えがあります。あの時ほど自分の学校を意識したことはなかったですね。知らない他校の生徒に出会うというのも大変新鮮で、視野が広がったものでした。
そう、あの「若い力」を知ったのは連合運動会から。
自分の学校の誇らしさと、反面どことなく他校の生徒の骨格がしっかりしているように思いました。そして自分の知らないお友達が沢山いること・・・
それから、「若い力」と「万国旗」は運動会の象徴になったような気がします。自分の学校の校歌も誇らしく歌い・・・そう「ハレ」がましいという気持ちも、あの頃からもしれません。
<競技いろいろ>
 玉入れ、大玉ころがし、徒競争、リレーこのあたりは、低学年から定番。高学年になると障害物競走、機械体操。ダンス系とは皆さん思い出がいっぱいあるのではないでしょうか。意外にも自分は思い出が全然ないんです。
競技は時代や地域を反映するものかもしれません。

■選抜リレー
 これはクラスで足の速い子が選ばれていたので、僕は関係なかったですね。でもどうやって選んでいたのか。そのために走った覚えはないので、他薦・自薦だったのか・・・。
 他の組の名前も知らない決まった子が出たりする訳で、とにかくそれで名前を覚えたり。男の子も女の子も、とにかくリレーに出たりする元気でたくましい子の中には目立った子や人気のある子はやはりいたのでしょう。 
 うちの妻は思い出があるようです。妻は足が速かったようでリレーの選手に選ばれたようで、しかし練習で転び怪我をしたようです。顔まで擦りむいてしまい、それはひどい状況だったらしく、クラスでからかう子もいたらしい・・・そんな中で一人だけかばってくれた男の子がいたようで、それから何かと気になる子であったようです。後年、クラス会があって再会したようですが、その時の話は出なかった・・・とのことですが。
 いずれにしても、クラスを代表して走るということは、自分のクラスでもまた他のクラスでも衆目を集める訳で、その記録が抜群であっても、また残念な結果であっても見ているものに強く残るところでしょう。(自分の憧れの人がトップを走ったとか、転んだとか)

■格闘系競技
 騎馬戦、棒倒しなどそれにあたりますが、高学年になるとこうした競技が浮上して参ります。そして、ひどく誤解するものも現れる訳で、本番では大変な乱闘が起こったりで大変な惨状にもなる訳です。帽子や旗を取るという目的よりはそのプロセスに期待するもの出る訳で、日ごろの抑圧の爆発の場になったりすることもあるんですね。だから練習も少なく、本番も教師の監視がきびしく、競技時間も短い・・・そんな感じだったでしょうか。

■体操系競技
 これは、練習をやった記憶がかすかにあるような気もするのですが、本番の記憶がありません。倒立を組み合わせたり、人間ピラミッドを作ったり・崩したり。実際に自分にそんなことが出来たはずもないのですが。きっと高学年の先輩のものを見たとか・・・そんなんでしょうか

■ダンス
 小学生の時はフォークダンス、中学では女子だけであったのでしょうか。フォークダンスのパートナーについては逸話があったりします。自分はあまり記憶がありません。本当に。

■パン食い競争
 この競技ほど、イメージなものはないでしょう。だってやるにはお金がかかる。画に描いたようなのはTVなどに出てくるもの。自分は実際にこの競技がった・・・という経験をしていません。

■障害物競走
 跳び箱、平均台、ネットなどくぐり抜ける、これは今でも人気の競技でしょう。当時(今もあるかな)はお玉に、ボールを乗せて走るなんてのもあったけれど。
この競技は単に足が速いというだけでない要素があるので、小柄な子とかがんばったりで、僅かな望みがある競技でもありました。

■借り物競争
 70年代初頭になりますが、高校は男子校の話です。借り物はメモを拾って指示に従う訳ですが、応援に来ている女子の手をとって走る・・・あれって本当に紙に書いてあったんでしょうか?だってそれが本当に多いんです。それに女の子は自分で呼んであったのか?現場調達か?そういえば選んでいる男子もいたような・・・しかし自分らの学年の時はこの競技がなくなった・・・記憶がないのです。
 借り物競争の面白さはその早さよりは意外性。スタートのピストルを借りに戻ったり、PTAの会長と走ったりと。だからこれは記憶に残る、学年で名前の知らない生徒も「ほら、運動会の借り物競争でPTAの会長と走った男子」とか。
 意外性というこで記憶があるのは、体育の教師が引くリヤカーに乗る・・・というのもあった。それは早い、リヤカーに乗って一番でゴールを切った。そういえばあの女子は今どうしているのか?そんな設定にぴったりで可愛くお姫様のような子だったけれど。本人もそんな借り物競争のあった運動会をきっと今でも覚えているんだろう・・・そう思う。

 運動会はやはり秋、秋空が似合う訳で、あの清清しくも、暑い日。そして代休というおまけもついている。そう万国旗はなぜか、ブラジルやインドの旗が青空にはマッチしたように思う。


60年代の学校と生活

 この項目は開設してもなかなか展開されずご不満な方も多かったと思います。

  60年代の学校は形態的にも、内容的にも丁度変化があった時ではないでしょうか。実際には、その方、その地区によってずいぶんちがった経験をされているかもしれません。

  たとえば、皆さん学校の昼食の時間は給食だったでしょうか。その給食のパンがいつまでコッペパンであって、そして食パンに切り替わったのはいつごろだったでしょうか。脱脂粉乳が瓶の牛乳に変わったは何年生の時だったでしょうか。そして机はいつスチールに変わったでしょうか。そして校舎が木造から鉄筋に建て替えられたのはいつごろだったでしょうか。その時期はそれぞれ個人で絶妙な違いがあると思います。
  これは非常に形態的な話かもしれませんが、60年代の学校では確実にそんな変化が起こっていたはずかと思います。しかしこのような変化は雑誌やテレビなどの話題ほど簡単にすすめられない部分があります。多くは切り替わった時期やエピソードのようにその足跡を記憶だけに残すものが多いからです。
  そんな訳で、ここではあえて個人的な視点や思い出で、まず進めさせて頂こうと思います。

  <小生のご参考>コッペパン→食パン(小3:1963)、脱脂粉乳→牛乳(小6:1966)、机・椅子のスチール化(小5:1965)、校舎の鉄筋化(小4:1964)
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60年代の学校生活

 さすがに40年前のことになるとどんなだったか、はるかかなたです。
 ということでまず、思い出すためにデータを。これは60年代後半の三鷹の中学の1年間の行事です。1967年4月〜1970年3月の東京・三鷹の市立中学のものです。
  今見ても、良く判らないものもあります。これは、以文集にあったデータですが、全てが出ている訳ではありません。交通教室、生徒会演説会なんかもありました。
 行事
4月 入学式、対面式、性格テスト、生徒会役員選挙、同承認式
5月 開校記念日、球技大会、中間テスト、春の遠足
6月 虫歯予防講話、市連合球技大会、父親参観日、音楽鑑賞会、演劇教室、個人
面談、修学旅行
7月 健康診断、期末テスト、校内記録会、水泳初心者講習会、終業式(20日)、夏
季施設
8月 夏休み、登校日、プール、クラブ活動
9月 始業式、校内水泳大会、市連合水泳大会、運動会
10
生徒会役員選挙、連合陸上競技大会、同承認式、遠足、写生会、中間テスト
11
クラブ発表会、能見学、音楽会、父親参観日(*1)、駅伝大会、学力診断テス
ト、個人面談
12
期末テスト、映画教室、終業式、
1月 席所大会
2月 社会科見学、男子サッカー大会(球技大会)、創作ダンス発表会
3月 期末テスト、門出を祝う会、卒業式、修了式、

  これ自体はたいしたものではないんですが、野口悠紀雄さんの「超」自分史ガイドの記憶再現のテクニックから言えば、キーワードに当たるもの、こんな時期にあんなことということで他の事象を特定することができる・・ということがあります。
 *データには日にちも入っておりましたが、これは省略しました。
  こうしたデーターから記憶がよみがえる・・・季節という目盛りは結構大切だったりするのです。(挿絵は1960年代前半の小学図鑑からの引用です。)
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60年代の筆記具の研究

(鉛筆:ユニ、モノ、シャープペンシルなど)
  考えてみますと60年代小学生〜中学生であった小生の学生生活でその筆記具はまさに変化の時代であったと思います。カラフルで様々なバラエティーのあるものになっていったと思います。

(1960年)色鉛筆:
  幼稚園のとき「ヤマハ音楽教室」で赤と青の一体型の色鉛筆がお勉強用に配布されたものでした。角で太い、削るのが大変だった記憶があります。

(1961年)名入り鉛筆・かきかた鉛筆:
  小学1年入学祝いに叔父が名前入りの鉛筆を貰いました。その頃名前入りは珍しはずです。名前は漢字でした。授業の「かきかた」用なのか、「かきかた鉛筆」丸タイプで外皮は青、堅さは2Bでした。硬い鉛筆は「いけない」鉛筆で、でも大人の感じもありました。母は硬い鉛筆は「頭が痛くなる」と言っていたので「HB」もこの頃は使えなかったです。力の調節のできない子供にとって、2Bではノートも手も真っ黒でした。Bを「ビー」Hを「エッチ」と読め始めたのもこの頃だったのではないでしょうか。この当時、Fなんて鉛筆は全く知らなかった。

(1962年)多色色鉛筆:
  小学校3年。学校で栽培の担当となった小生は毎日(?)水栽培の絵日記をつけていました。家がお菓子屋のMさんは24色の色鉛筆を持っていたので、ヒヤシンスの球根は「えびちゃ色」で一塗り、羨ましかったです。でも百貨店(渋谷東横?)で36色の色鉛筆セットを見た時は腰を抜かしました。だって金、銀と言った色まであったのだから。

(1963年)ボールペン:
  始めてボールペンなるものを手にしました。いわゆる透明軸タイプの青。この当時は当然油性。インクが良く滲んだような気がします。鉛筆のように消せない筆記具は当時の小生には使い道が無く、思いあまって少年マガジンの巻頭カラー図解に落書きをしてしまいました。ボールぺんのすべりと硬さは「悪いこと」をしたという気持ちをいっそう強くさせるものでした。

(1964年)カラフルボールペン:
  カラーボールペン、多色ボールペンを知りました。つまり赤と青と黒、2色ボールペン、3色ボールペンであったような。メカニズムの難しさとノック式の楽しさは工学的志向を助長させるものでしたがすぐにロックが甘くなり実用には不便となりました。しかしその頃の小生には消せないのでは御絵描きにも使えず、字らしい字、絵らしい絵はボールペンでは書かなかったので全く問題がなかったのでした。しかし青一色の世界から夢は大きく広がりました。しかし、ボールペンは学校という世界からは逸脱した私的な世界にあり、そういった学用品の存在は小生らには新しい流れでした。そう言えばかわった色で字を書くO君ともこの頃から友達で、確か緑のボールペンで字を書いていたが、それは金属製でデカイ5色か6色のSFドラマに出て来そうな逸品でした。彼が「緑」に拘ったのは妹さんの名が「みどり」であったという説もあります。
  おさななじみのMIさんの誕生会には友人と共同出費で学研のトイで歯車が回って幾何学模様を書く玩具を買ってあげた記憶があります。歯車の組み合わせでいろいろな絵柄が出現するのですが、書く部分はボールペンをセットするようなっており、色は確か赤、青、緑であったような気がします。

(1965年)サインペン:
  ボールペンだけでなく、サインペンを知り、マジックも細字でカラフルとなり、学業の延長線上で摸造紙に研究発表の資料を書いた思い出があります。たしかスーパージェッターのマンガに色を塗った覚えがあるのです。この頃鉛筆削り機はそろそろ電動が出ていたのかもしれませんが小生2度目の購入も手回しを選択、そのまま電動タイプを使うことはありませんでした。

(1966年)鉛筆バラエティー:
  さて学校ではもっぱら鉛筆、そう中学を卒業する1970年の直前まで鉛筆派でした。色鉛筆の丸以外は角と決まっていましたが、時には「お結び型」のものなど特に景品類(薬とかのが多かった?)にはあったみたいです。赤と青がくっついた色鉛筆は懐かしいですね。今もあるのかな。

(1967年)ハイクラス鉛筆:
  高級鉛筆ブームというのがありまして、当時鉛筆は1本10円だった思いますが、「ユニ」(ブドウ色、三菱鉛筆)や「モノ」(黒?、トンボ鉛筆、ホモという名称もあった)と言った1本30円、50円、100円(価格はあやしい?)の高級鉛筆を知りました。当時鉛筆メーカーとしては三菱・トンボ・コーリンであったような気がしますが。クラスの中で一見勉強のできそうなYくんあたりからはやったような気がします。

(1968年)太いシャープ:
  鉛筆と同じ太さの芯をホールドするタイプのシャープがあったような気がします。太いので芯は削るんですね。小型の削るものがありました。木材の削りカスはでない訳ですね。勉強を楽しくするグッズがいつかファッション性の強いものになり、そして受験というところに至ってツールとしての性能高率の追求になっていったように思います。

(1969年)細いシャープ
  友人でエリートのHOくんはそのころ最新の0.5ミリにシャープを使っていました。鉛筆を削ることもなく、芯を削ることもなく、ノックすることで字を連続書けるのですから大変スマートなスタイルと思いました。プラ性ではなく、全金属性の半つや消しのメタリックは大変カッコウ良く、1000円の値段はその頃でかなりハイエンドのものであったと思います。確か入試とかは鉛筆が指定であったので、小生は本番で使えない筆記具の導入は控えていた(何かスポーツのよう)記憶があります。高校に入って700円の全金属のシャープを購入したときずっしりしたその重さに驚いた記憶があります。HOくんも大変だったんだ、運動部の鉄ゲタのようなもので本番は鉛筆が軽く動いたかもしれない・・エリートのHOくんはそこまで読んでいたとすると凄い!・・確かに高校も同じで成績も小生とどんぐりであったはずの彼は予備校を経
 て、慶応・横国・一ツ橋と受験の全てを成功させるという大業を果たしております。

■60年代の筆記用具 2007.5.25更新

     三菱鉛筆UNI(ユニ)50円:1958
1960 0.5mmの「ぺんてる鉛筆」
1962 トンボ鉛筆「MONO」(モノ)60円
1963 「油性ペン」輸入マジックに対しぺんてるの水性ペン「サインペン」
1964 ノック式、「パイロット・キャップレス」
     三菱鉛筆HiUNI(ハイ・ユニ)100円:
1965 万年筆と言えば、舶来(海外製)のパーカー、モンブラン。
     国産も「セーラーツイン」(ボールペンとペンが1本に)、
1967 輸入もののビッグに「見える、見える」のゼブラボールペン
     トンボ鉛筆「MONO100」100円
1968 「0.3mmぺんてるメカニカ」
1969 「みじかびの・・・」大橋巨泉のパイロット万年筆「エリート」

ハイクラス鉛筆  2007.6.15更新
 ある本によれば、ハイクラス鉛筆がヒットしたのは1964年前後という話もあけれど、自分の感覚ではもっと後の1967年でした。

クラスでも、高級鉛筆は自慢のタネであった。だからクラスは「ユニ派」と「モノ派」で2分された・・・いやそんなことはない、ユニ派がやはり多かったし、高級鉛筆競争に参加しないヤツの方がずっと多かったと思います。

そして、自分の記憶が正しいことを示す事実として1967年以前はモノはHOMO(ホモ)だったとする本もあります。この頃、自分は、HOMOを貰い、MONOを買った覚えがあります。

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60年代の筆記具補遺

 各社のホームページで筆記具の歴史を調べると製品の登場時期はかなり近いので知らず知らずに新製品を買わされていたのかしれません。
  下敷きや筆箱、消しゴム、学習帖、絵の具、クレパスなどいろいろなものに流行や技術の進化があって、60年代はその変化点であったように思いますが、それらが学校や学業の近傍でいろいろな思い出を残していったのでしょう。
  あの時期ひとそれぞれにお世話になった筆記具ですが、今は時空のあちこちに思い出とともに置き忘れられているのだと思います。我々の夢や希望とともに消えていった彼らは今どうしているのでしょうか。(ユニ、ハイユニは健在のようですが)

  みなさまの思い出は如何だったのでしょうか?
  何年前のことだったでしょうか、片付けをしていたところ「泉屋」のクッキーの缶の中からチビた鉛筆がどっさりと出て参りました。当時はサックなど使って短くなっても使っていたのですね。その中で1本見かけない鉛筆が・・パールグリーンの少し細めの丸い鉛筆、香水鉛筆というやつですね。さすがにもう匂いはしませんでした。

  何故そんなものがあったか・・

  タイムトンネルの入り口というやつですね。何か経緯でもあって忘れようとして忘れたのかそれとも本当に忘れてしまったのか?入り口はあっても昔に繋がっていないというケースですね。うっすらと誰さんに貰ったような、いつのまにか話が作られているかもしれません。
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冬の日の学校生活〜ストーブ当番

 電車の中で馬鹿に寒いなと思い冬空を見つめておりました。そう、あの頃、日直は朝、ダルマストーブを焚き付ける仕事があったなどと思い出しておりました。

  これは上手い下手があって、テクニックがあるんですね。新聞紙・マキ・石炭・コークスの順であったような気もします。うまくストーブが点火しなかった日はきっと用務員のおじさんの手助けとかもあったのでしょうか。1日寒く暮らした日はなかったですが、朝からストーブが温かかった日と、薄っすら寒かった日があったように記憶するのでそれは日直のストーブの点火のうまい下手であったのかもしれません。
  このあたりは微妙で紙から木、木から石炭への微妙な連携タイミングと、その日の木や紙の乾燥具合とかの偶然もあって、思いの他、うまく点火することもあった訳です。そんな日は早々だるまストーブの腰の部分には真っ赤輪が出来て、燃える音も轟々と力強く教室を暖めたものでした。そんな日の日直はどことなく誇らしくも有り、男の子の優越とでも言いましょうか、日直の相棒の女の子に対しても誇らしくもあった訳です。
  授業が終われば、他の日直の仕事に加え、ストーブのあと始末もある訳です。火を落としてバケツに小さなスコップで灰をつめて、灰捨て場に持って行くという作業は冬ならでは仕事でありました。校舎裏の灰捨て場には、硫黄の匂いも混じったような臭気が立ち込めていたと思います。灰は水を吸って必要以上に重くバケツはとても一人では運べるものではなかったのかもしれません。
  もうすでに、火は消えているので後片付けの水仕事は冷たくつらいはずでしたが、多くは今日もうまくストーブも燃えてくれた安心感が全てを開放してくれたように思います。空を見上げれば冬空。どこか空しく、寂しく、でも何か期待できそうな。
  次のストーブ当番は、そうもう春がやって来る、そんな冬の終わりもあったかと思います。

  だるまストーブと言えば、給食のときのお湯を沸かしたとか、お弁当を温めた、皆さんいろいろな思い出があったのではないでしょうか。
60年代 懐かしの宝箱

<番外>懐かしい高校時代

 今になってみると置かれている状況の説明は非常に難しいかもしれない。同世代で時代環
境をご存知の方でもどうだろうか。
1960年代末の受験や、深夜放送、・・・自分は1970年に高校生になった。高校は志望に行け
なかった。1ランク落としたというのに。
つまりここは3年苦労して大学で再挑戦ということであった。高校は私立の受験専門の男子
校であった。都立や県立の優秀高校のすべり止め、
公立に落ちたものばかりであった。今は東大受験では全国10校に入るそうだが、当時東大は
学校全体で年1人は入れるかどうか・・・という状況だった。

3年後こそ、大願成就という課題を背負った割には快活だったけれど、それは抑圧されている
反動であったかも知れない。
当時80年の歴史を持つ、とにかく先生は個性豊かな学校であった。成績で言うと後にも先に
もクラスで1番と言う光栄はこの学校で1年2学期一回である。
その時、中学のときどんどん成績が低落してランクを落としても志望校に入れないという状況
に歯止めがかかったという錯覚があった。
結果から言えば、大学も志望校には入れなったが、就職では入りたい会社に3つも入いり好
きな仕事をやった。いや志望校に入れなったから好きな会社に入れたと今でも核心してい
る。

ということは、あの高校に入ることが必要であったのだと思う、思い出深い教師や友人こそが
大切であったと思う。

初回ばかり面白く、あとはさっぱりであった地学の先生、早稲田のベルトが自慢であった数学
のK先生、
漫画に描けそうな数学のT先生は皆口調の真似をしていた。
生徒が描いたT先生の似顔絵を集めていた物理のS先生、授業はさっぱりで理系の自分は
受験では痛手だった。
生物のN先生は言葉も荒いが、厳しい授業が人気で、週刊誌や深夜放送でも話題の先生
で、校長室に呼ばれていた。
自分が好きだった先生、授業もあった。
野球部顧問で長身のK先生は漢文であったけれど、中国の古典が自分に合ったのか単純に
授業は面白かった。卒業して何十年後に妻の通院する病院に奥様と凝られいることを知っ
た。待ち時間にボールを磨いていたとか、残念ながら故人である。
歴史のK先生は、教科書から逸脱してばかり、でも論文形式のテストで100点を頂いた。予備
校でも再会したが、歴史の受験での成績は散々だった。でも好きな先生だった。
担任のK先生は化学で、試験がめっぽう難しかった。100点満点で20点でもクラスで上から3
番だった。化学だけは力がついた、予備校でも化学だけは必ずトップに入っていた。
体育M先生は本人の体力を分母にした成績をつけた。英語のM先生の話は海外でのヒッピ
ー的な経験や学生運動の話ばかりだったが面白かった。倫理社会のM先生は紳士的で、ひ
ょうたん島に出てきそうな穏やか感じ、でも授業はおもしろく、受験に関係ないせいか憩いの
ときだった。まだまだいろいろ個性的な先生がいた・・・
友人もいろいろいた。その中でも中途で編入してきたOくんから多くの影響を受けた。彼も音
楽やオーディオが好きで、FMをエアチェックしていた。夏休みにオープンデッキを持ち寄って
ダビング大会をした。デッキを運ぶのにダンボールに入れたがそれがストーブの箱だったた
め駅前の交番で警官に呼び止められた。丁度過激派が問題をおこしていた頃だった。
卒業しても、再会して、二人で雑誌社の編集の手伝いで取材や原稿をやったのは今でも楽し
い思い出だ。今でも自分で作った誌面が書店に並ぶ誇らしさは強く残っているし、このときの
糧で、以後も本や雑誌が書けたと思っている。

ほかでも書いたが、高校はクラブをやりたかった。しかし3年図書委員を命じられてそれを断
念した。コーラルのコアキシャルのスピーカーBOXを作っていた放送研究会、Nゲージのレイ
アウトを作って鉄道研究会。しかし高校でできなかったからこそ、以降いろいろやったのかも
しれない。
学園祭で文学研究の模造紙を書き、暇な番をするのはつらかった。自分の行きたかったクラ
ブはいろいろやっていたのに。1日学園祭を見学する日があったが、中学の友人で同じ高校
に入ったM君は朝礼が終わると見学をせず塀を越えて街に消えた。丁度人気の女子が行っ
た都立高校の文化祭の日だったのだ。後年、その人気の女子から学園祭の話を聞いたが、
それは男子校では想像もできない夢のような世界だったのだ。それを当時見ることはなかっ
たけれど、知らないだけ心穏やかに過ごせたのだと思う。

試験ばかりの学校、生活であった、そんな中でそれなりに楽しいことを見つけて過ごしたのだ
と思う。大学受験は高校での敗北を挽回するものではなかったけれど、今考えれば勉強をし
たうちには入らない、でも今日あるのはその延長線上で、あの頃はあんな時代だったのだと
思う。
70年代はメロディアスな名曲が溢れているが70年代の前半は、心の中にそんな曲と高校生
活の思い出とがあり、ともに生きている。
公立高校に行った友人たちのような見かけ華やかな高校生活の思い出はない。
いつも、前には今度こそという受験の壁があったから。抑圧されながらも古い校舎、同じよう
な友人と、当時の暖かい時代は見守ってくれて、
悲しさ、辛さだけでない思い出を作ってくれた。

たまにはあの頃の先生や友人と語りあってみたい。


ブログもご覧ください




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