「アリンヤウン」(ビルマ市民フォーラム ニュースレター 特別号 2002年10月発行)
−−−ドクター・シンシアに聞く−−−
文:山本宗補(ビルマ市民フォーラム運営委員)
 TOPへ戻る

昨年の12月、パキスタンとアフガニスタンとの国境地帯の両側で医療活動を18年間続けてきた
「ペシャワール会」の中村哲医師を現地で取材する機会があった。米軍によるアフガニスタン
報復攻撃の是非が問われ、一躍「時の人」となった人物だ。そんな中村医師を彷彿とさせる
女医がシンシア・マウンさん(43歳)ではないだろうか。

ビルマのカレン族であるシンシア医師の活動範囲はタイとビルマ国境地帯。二人に共通するの
は献身的で地道な医療活動を継続してきた点だが、違いがあるとすれば、中村医師の身分は
安定している一方で、シンシア医師の場合は、ビルマからの患者と同様に、彼女自身が政治
難民と変わらず不安定な身分な点だろう。中村医師は政治的な情勢についても発言が積極的
だが、一方のシンシア医師はあまり語らないタイプ。とはいえ、長年の医療奉仕活動が認められ、
ドクター・シンシアと「メータオ・クリニック」のスタッフは、これまでに欧米からいくつかの人権賞を
受賞してきた。昨年はアジア人権基金から「女性特別賞」を受賞。

ちなみに本賞の「アジア人権賞」を受賞したのはアフガニスタンの女性人権活動団体で、難民
キャンプで女性の教育や自立を支援する活動をする「RAWA(アフガニスタン女性革命協会)」に
送られた。
 
昨年末の授賞式には間に合わなかったものの、3月に講演のためにシンシア医師が初来日した。
ビルマ市民フォーラムとしては、以前から日本に招待しビルマの国境地帯の情勢や医療問題
などについてじっくりと語ってもらいたいと願っていた人物だ。

1989年のシンシア医師
シンシア医師と会うのは数年ぶりだった。1988年からタイ・ビルマ国境地帯を取材する度に診療所
に立ち寄り、彼女の話を聞いたり患者を取材したり泊めてもらっていた。初めて彼女に会ったのは
1989年のABSDF(全ビルマ学泉民主戦線)のティバボーキャンプだと思う。ビルマ国軍の攻撃で
キャンプが陥落後、彼女はタイ領のメーソット郊外で無料診療所「メータオ・クリニック」を開設する。
できて間もない、看板もない古い民家でドクター・シンシアに会った時、彼女が言った言葉が
印象的だった。その頃、ABSDFはカレン民族同盟などの少数民族反政府組織と共闘し、軍事
政権打倒の方針のひとつに武装闘争を選んでいた。

・写真ページへ

・週刊金曜日掲載「メータオ・クリニックに見るビルマの現実」本文へ

武装闘争だけで民主化革命は達成できません。政治的社会的、人道的な取り組みで軍事政権
と闘う必要があります。カレン族に限らず、ビルマ学生や他の少数民族のために医療の仕事に
励むつもりです」

きっぱりと彼女は言いきった。華奢でか弱そうな印象を受けたが、民主化闘争の指導者である
アウンサンスーチー同様、ビルマ女性独特の芯の太さも持ち合わせていたことは、その後に
証明された。10数年の間に多くの学生活動家たちが、様々な理由でタイ・ビルマ国境の現場を
離れ、欧米に活動拠点を移し移住していく中で、ドクター・シンシアはクリニックに留まった。
医療活動を通じてカレン族だけでなく民族や信仰、政治的な思惑の違いにとらわれず、軍事
政権下の圧制に翻弄されるビルマ人同胞に対する医療奉仕活動に専念してきた。言葉数は少
ないものの、言行一致を実践してきたシンシア医師と彼女を支えた多くのスタッフには頭が下が
る思いだ。

子ども時代
シンシア医師がタイ領で無料診療所を開くきっかけは、1988年の民主化運動が国軍により武力
弾圧され、タイ領に脱出したことだった。モン州モールメインで生まれ、男3人、女4人の7人兄弟
だった彼女の父は政府の保健職員。家族であちこちを転任したという。最後に家族が落ち着い
たのがモン州の州都モールメインだった。

ラングーン大学医学部を卒業後、一時はイラワジデルタの州都バセインにいたが、全国的な
民主化運動が起きた頃には、カレン州パアン郊外の村でクリニックを開業していた。都会で開業
しなかったのは、家族で暮らした時に都会生活とはあまり縁がなかったためのようだ。子どもの
頃の生活を振り返って、ドクター・シンシアは言った。

「父は私が医者になることを望んだ。大学での専攻は成績次第で決められるので医学部に進ん
だ。兄弟は教師、医師、農業教育者などになった。子どもに高等教育を与えるために両親は相当
苦労したと思う。どこの家庭でも同じように、子どもの頃の思い出で忘れられないのは水くみが
大変だったこと。雨期を除いて毎晩、2時間かけてポンプで水を汲み運んだり、下校後に2時間
の水くみが当たり前だった。電気はなくケロシンランプやローソクの生活だった。勉強はローソク
の明かりでしたものです」

子ども時代の生活が、ドクター・シンシアの生き方の背骨になったようだ。
「最も影響を受けた人は」と聞くと、少々期待はずれの返答が返ってきた。

「家族で助け合った生活が一番影響を与えたと思う。特定の個人に影響を受けたことはない」
学生らとタイ領に脱出し、「三ヶ月で帰るつもりだった」と言って笑ったドクター・シンシアだが、
1988年いらい最も大切だった家族の絆を失った。故郷に帰ることも両親に会うこともできず、
この間に両親は故郷で死去し、弟の一人はカレン州内でマラリアで死亡した。

「医療駆け込み寺」の開設
シンシア医師が診療所を開いたメーソットは、タイとビルマの国境貿易で成長した辺境の町だ。
軍事政権の長期化に伴い、町にはビルマからの難民、民主化活動家、不法就労の労働者が
あふれた。タイ警察や入官の取り締まりを恐れるビルマ人にとり、クリニックは「医療駆け込み寺」
的存在となった。取材で立ち寄ると、深刻なマラリア患者と栄養失調児がいつも多かった。

通称シンシア・クリニックは、辺境での医療活動に医師代わりの役割を果たす看護士やヘルス
ワーカーを育てる場ともなったが、妊婦のエイズ検査の取り組みは早かった。2年前には独自の
血液センターを作り、献血、血液検査、輸血も自前でやっているという。

初めて会ってから10数年。3児の母親となったドクターは、長い髪の毛は後ろで束ね、口数は相
変わらず少ない。一般的に物静かなカレン族の特徴ともいえる。しかし、死にも直結するやっか
いなマラリア蔓延地域に腰をすえての長年の活動は、彼女の言動に一層の説得力を持たせて
いた。 

診療所の方は、当初は何もない民家が、60床を持つクリニックに大きく変身し、年間3万人に
医療を施す小規模病院に成長したという。3年前には医師の弟がスタッフとして働きはじめた。
5人の医師(一人はボランティアのイタリア人医師)と120名のヘルスワーカーが、一日平均
100人から150名の外来患者を無給で診察治療する。特に雨期は患者が増える。主な病気は
死亡の原因としても高いマラリア。慢性的疾患、呼吸器系、心臓疾患などが目立ちB型肝炎も
多い。危険な中絶方法による患者、事故やけんかによる負傷者が多いという。

こうした患者の8割はタイに出稼ぎに来た不法労働者、2割は無料医療を受ける目的で国境を
こえてやってくる患者。国内での医療費が高すぎたり、まともな医療を受ける施設がないから
来るという。交通費さえない患者が多く、基本的には無料だ。クリニックで手に負えないケース
は協力体制が密な公立のメーソット病院に紹介することも多い。その場合、医療費はNGOが
負担してくれる体制を整えてある。クリニックの運営費用や薬は海外のNGOの援助などでまか
なうが、日本人からの援助はわずかだ。

深刻な出稼ぎ労働者問題
軍政による経済政策の失政と欧米の厳しい経済制裁とで、国民はインフレが進行する経済苦
境に長年直面している。タイ領内にはビルマからの経済難民がさらに増える傾向にあり、最近
の不法労働者の問題についてはシンシア医師はこう言った。

「以前は出稼ぎ労働者の大半が若者だったが、最近は女性や子供連れも多く、老人を含めた
一家全員で越境するケースも増えている。子どもは学校を止め、夫婦の職場が異なる結果、
家族がバラバラとなり家庭崩壊も問題だ。また、タイ領内で生まれる子どもも増えている。毎年
1500人の妊婦がクリニックに登録するが、安全な出産をするのはその内500人くらい。残る
1000人の内500人は母体に危険な方法で妊娠中絶するので、妊婦の死亡率が高いことも
問題だ」

また、シンシア医師たちは、ビルマ山中を国軍の軍事作戦から逃げまどう国内避難民を対象に
した移動診療にも取り組んだ。最も基本的人権を奪われ、医療とも援助とも無縁の農民たちだ
からだ。4年前からは「バックパック診療活動チーム」を38チーム編成し、本格的活動を再開。
現在は60チーム200人がカレン、カレニ、モンの各州内で危険と隣り合わせの活動をしている。
カレン州タトンで薬などの半年分の補給物資を村人が移送中に国軍に捕まり略奪されたことも
ある。

「国内難民については、人々の動きはいつも流動的なので、どのグループが増え、どのクループ
が減っているのかを特定するのは難しい。戦闘は散発的に起きているが、出稼ぎ労働者が増え
ていることは確かだ」

クリニックの見えない役割
長年の医療活動を振り返り、クリニックが果たしてきた役割についてドクター・シンシアはこうも
語った。
「国境地帯には自由も機会もほとんどない。そうした困難な環境の中で意志が強く医療奉仕に
コミットするヘルスワーカーたちが大勢働いてきたことは見逃せない。彼らの経験はそれぞれの
共同体に生かされ、共同体の期待に添う活動を実践している」

「ビルマでは多民族が長い間引き離された生活をしてきた。そうした中で民族も宗教も政治的
背景も異なる組織に属する若者がクリニックに集まってきた。違いを分かち合い、助け合うまで
には時間がかかるが、私たちは若者にそうした機会を与えることが将来的に重要と信じてきた。
医療ボランティア活動を通じて共通の目標に向かって共に働き、目的を達成することは可能です。
保健医療に社会的、文化的、政治的側面も深く絡み合っていることが想像できるでしょう」
 
軍事政権がなぜ変わらないのか、という質問にはこう答えた。
「軍政を支援している国があるからです。ビルマでは紛争が続いていることをよく認識し、軍政を
通じて援助するにしろ、国境地帯でNGOを援助するにしろ、援助は政治的な目標を明確にする
必要がある。長期的な殊に受益者に力をつけさせる援助や慢性的な問題の解決策が肝心。
日本の医師やNGOの姿は難民支援の国際会議であまり見かけません。日本政府は問題の根源
をなくすために、権力を握る政権だけでなく、異なるグループとも協力する長期的視野に立った
支援策に配慮が足りないのでは」

最後に、多民族国家に生きる少数民族が自覚するアイデンティティについてのドクター・シンシア
の意識を、「カレン族を意識する時は」と尋ねてみた。

「どの民族も独自の文化や言葉を保つことを願うと同時に、他人の文化や言葉などの多様な
価値観も尊重し認める努力をすることが大切だと思う。そうしたことは多様な民族が生きる地球
上でとても素晴らしいことだと思う。もし、世界がひとつの文化や言葉に統一されたら飽きてしまう
でしょう」


多様な価値観を尊重する考え方は、アウンサンスーチーさんの強調する言い方に等しく、ヤンゴン
の将軍たちの思考回路とはぶつかりあうものだ。軍人的な思考で国民生活を抑えつけてきた結
果、「8888」からはすでに14年が過ぎようとしている。二度目の長期自宅軟禁が解除されたばか
りのアウンサンスーチーさんに国民や国際社会からの大きな期待がかかるのは当然だ。しかし、
辺境で母国の民主化のために地道な活動を続けるドクター・シンシアたちのことも忘れてはなら
ないし、より一層の民主化支援が求められているのだと感じた。

TOPへ戻る