先住民族・アエタ族の悲劇--ピナツボ大噴火から3ヶ月余--
(サンデー毎日1991年9月25日号掲載)

写真・文 山本宗補                 写真ページへ  TOPへ戻る

 600年を越える「休眠」から目覚めたフィリピンのピナツボ山が、今世紀最大の火山爆発を起こ
して3ヵ月が過ぎた。富める者も貧しい者を等しく被災民となり被災者数は100万人を優に越え、
20万人近い人々が食料も飲料水も不足した避難キャンプでの不自由な生活に耐えている。

 そんな中でもピナツボ山を神の山(アポ・ナ・マリヤーリ)と畏敬し、その山麓を生活基盤として
きた先住民族のアエタ族は、民族の存亡にかかわる危機に直面しつつある。その数3万5000人
余。4つの州の35を越える避難民センターに身を寄せているが、なかでも避難民キャンプ中
最大のパラウィグ・キャンプ(避難民総数1万7000人)は別名テントシティとも呼ばれ、その4割
がアエタ族だ。

 アエタ族は体格的に小柄で皮膚の色は暗褐色で深くちぢれた髪の毛を特徴とする。男性の
多くは日本人の愛用してきたふんどしひとつで、弓矢と空気銃による狩猟や採集と焼畑に依存
する伝統的な生活を山中で維持してきた。古くはベトナム戦争中からジャングルでのサーバイ
バル術をアメリカ軍特殊部隊に訓練したことでも知られるアエタ族だが、肥沃な土地から低地の
人々によって山深くへと追われた歴史的な背景から不信感も根強く、低地の人々との交流を
避け教育を受ける機会も少なく、差別の対象となってきた。

 そんな彼らの、最大の噴火が起きる前からの避難生活は5ヶ月目に入った。
8月に入ってからパラウィグ・キャンプで流行しはじめたハシカはアエタの子供たちの命を日々
奪っている。とりわけ山頂に近いベルベル村(ブルブル村が正しい呼び名)の出身者約200家族
600名のうち、8月中だけでも大人2名を含む30名が死んだ。

 中でもティップロック(35)一家は最悪のケースだ。8人の子供のうちの4人と妻が1ヵ月余で
たて続けに死んでしまったからだ。私が初めてティップロックのテントを訪ねたとき、竹で編んだ
畳2畳ほどの床に13歳になる長男の死体が毛布をかけられて横たわっていた。父親の顔は
無表情で一切の慰めの言葉を拒否していた。年少の2歳と4歳の女の子は肋骨が浮かび上が
るほど痩せ細り、残る二人の女の子も衰弱しきって力なく横たわっていた。父親を除いて全員
死ぬ運命にあるのかもしれないと身震いを感じたぐらいだ。

 その日の午後、長男の死体は棺桶に入れられてテントを出たが、直前には近くにある別の
テントから何の前触れもなく小さな棺桶がひとつ運びだされた。それは10日前にこのキャンプに
取材にきた時にやはりどこからともなくふたつの小さな棺桶がキャンプ内を横切った光景に似て
いた。テントシティで医療活動に従事するボランティアの医師や保健婦たちさえいつどのテント
で誰が死んだのか、正確に把握できない状態だった。パラウィグ・キャンプだけでも一日に最低
ひとりのアエタ族が亡くなっているとして、アエタ族の避難民全体では果たして何名になるのだ
ろうか?

 7月と8月の2ヵ月に約250名の新たな犠牲者が増えているが、大半は避難民キャンプで病気
で亡くなった先住民族の子供たちのようだ。日頃から薬草に頼ってきたアエタ族の一部が、注射
や薬の服用をかたくなに拒否したことで、犠牲者が集中したことは否定できない

 その晩、ボランティア医師の脅しに近い命令でティップロックは残る4人の子供がキャンプ外の
病院に入院することに同意した。数日前、妻の治療を彼が拒否した病院だ。ひとつのベッドで
我が子4人が一緒に点滴を受けはじめた傍らでティップロックは、

「病院には子供たちを連れてきたくなかったんだ。医者も薬も信頼できなかったからだよ。今と
なっては死んだ子供と妻に対しては申し訳ないことをしたと後悔している」
と、安堵の表情を浮かべながら小さな声でつぶやいた。

 貧しいなりにも民族独自の言語、文化、生活習慣を維持してきたアエタ族。そのの真の悲劇は、
海外へ出稼ぎにゆくしか一家のまともな生活が確保されないフィリピン人社会の厳しい現実に、
生き残る術も教育もなく放り出されてしまったことにある。ピナツボ山麓での生活環境に近い
移住先と当面の生活支援策・・・。それらが与えられない限り、先住民族アエタ族の将来に
明るい希望はない。

戻る