『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎 上(信濃毎日新聞2007年3月5日掲載)
 人生方向づけた「戦争」            中へ下へ       山本宗補

 江戸時代の白壁の商家が残る山口県柳井市。中心街から離れ、寂れた歓楽街の一角にある
アパートの一室で、八五歳の独居老人がワープロに向かっている。胃ガンの摘出や胆のうの
手術などで満身創痍の老人は、体重三七`。視力は落ち、耳も遠い。だが、小泉首相、安倍首相
と続く政治の流れが、老人の反骨心の残り火を燃え立たせる。六畳間の片隅では、愛犬のロク
が寝そべり、別の隅には、周防大島で暮らした時期に自作した棺桶が置かれている。

 報道写真家、福島菊次郎。一九六〇年代初頭から二〇年間、フォトジャーナリズムの第一線
で活躍し、学生運動、あさま山荘事件、三里塚闘争、被爆者、公害問題、若者の風俗など多岐
に渡るテーマをルポ。「文芸春秋」「現代の眼」などの月刊総合誌を中心に、一時は年間一五〇
ページ以上発表した。これまでに刊行した写真集は一二冊に上る。

 その反骨精神を物語るエピソードの最たるものは、六〇年代後半、防衛庁広報課を欺いて、
自衛隊と兵器産業の実態を撮影し、雑誌に発表したことだろう。「国家権力を相手に、取材に
モラル云々をいっていたら、権力に都合のいい写真しか撮れない」と福島さんはいう。暴漢に
襲われて重傷を負い、不審火で家が焼けたが、屈しなかった。

 写真集『原爆と人間の記録』を出版した七八年、テレビ番組「徹子の部屋」に出演した際には、
「『天皇制批判はしないで』と釘を刺されたので、『終戦』という言葉を使ったらその場で席を立つ
ことを約束させた」という。 

 その福島さんはここ何年か、写真で表現できなかったことを文章で補完しようと、自分史を追う
ように取材現場の記憶をたぐり、一人称で書き残している。『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』
(現代人文社、二〇〇三年)には、多くの被爆者が見捨てられ、死んでいった平和都市広島
の暗部を、『写らなかった戦後2 菊次郎の海』(同、二〇〇五年)では、六二歳で東京を捨て、
郷里に近い瀬戸内海の島に移り住んでからの生活を中心に綴った。

 「『菊次郎の海」』のあとがきには、こう書かれている。
「靖国神社こそは若者を死地にかりたて、ボロ布のように使い捨てた軍国主義の大量殺人
装置以外の何ものでもなかったのだ。ボクも何度か靖国の生け贄になりそうになった」。
その戦争体験が、福島さんの戦後の生き方を方向づけた。

 福島さんは一九二一(大正十)年、周防灘に面する山口県下松市の漁村の網元の家に生まれ
た。小学校の遠足で隣接する光市の伊藤博文の家を見学した後、一九二三年の虎ノ門事件
(摂政時代の昭和天皇の暗殺未遂事件)で処刑された難波大助の家を回り、「国家に背くと
死刑になる」という教師の説明に震え上がったそうだ。

 四四(唱和十九)年四月に召集され、広島西部第一〇部隊輜重(しちょう)部隊に入隊した
福島さんは、馬に蹴られ骨折し、そのおかげで死を免れる。入院中に沖縄へ向かった所属部隊
の輸送船は、米軍の攻撃を受けて沈んだ。沖縄戦終結後の二度目の召集では、原爆が投下さ
れる六日前、広島から貨物列車で宮崎の海岸に送られた。グラマンの空襲に脅えながら、米軍
上陸に備え、爆雷を抱えて戦車に飛び込む自爆訓練に明け暮れていたとき、広島に原爆が落と
され、原隊は全滅した。わずか「六日」が生死の運命を分けた。

「同級生の半分近くが戦死した。命は天皇陛下からいただいたものだから、天皇陛下にお返しし
なければいけないという固定観念があった。戦争で死ぬことと、敵を殺すしか考えなかった狂気
の青年時代だった」と福島さんは振り返る。

 小学生のとき、中国人五〇人は殺さないと、と思っていたという。「仲の良かった同級生は
上海戦、南京戦を戦い残虐行為をやった。もし戦争に行っていたら、僕も相当悪いことをした
だろう。戦争に行けば死ぬのはわかっていたから。戦後は、ほおかむりして反戦平和を唱えた
と思う」

 復員後、福島さんは郷里で時計店を営みながら広島に通い、行政に見捨てられた被爆者の
苦しみを撮り続けた。最初の写真集『ピカドン』を出版したのは六一年のことだった。

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