『カメラを武器として』報道写真家・福島菊次郎  下(信濃毎日新聞2007年3月7日掲載)
 
抵抗の一粒の種を蒔く                       山本宗補

 一九八二年、福島菊次郎さんは二〇年間の報道カメラマン生活と決別し、東京を離れた。
「メディアが自己規制を始めた。僕の写真は敬遠され、最後の二年は月刊誌にほとんど使われ
なくなった。ここにいたら、僕も一緒に腐ると思った」

 六十二歳。三人の子どもは自立し、親の務めは果たした。手元には一〇冊の写真集が残った。
写真学校などの講師の薦めもあったが断った。
 左手の指がニコチンに染まるほどのヘビースモーカーだった福島さんは、このときを境にタバコ
を止め、郷里に近い瀬戸内海の無人島へ渡った。「漁師の子、海に帰ろうという帰巣本能。
瀬戸内海で一番きれいな、関鯖がとれる海を探した」という。

 しかし、無人島での暮らしは、体を壊して一年余りで行きづまる。周防大島のミカン畑に囲まれた
借家に移り住んだ福島さんは、果樹を植え、野菜を育て、魚を釣る自給自足を目指した。私が
福島さんに初めて会った八六年頃、若い同居人の女性と暮らす福島さんは、人を寄せ付けない、
気難しそうな雰囲気が漂っていた。ミカン、ブドウ、キウイ、レモンなどの果樹を栽培し、野菜も
イチゴも人糞を肥料に育てていた。パンや豆腐、ハムも手作りし、ワインも自分で作った。

 「報道写真家・福島菊次郎」の闘いが再び始まるのは、六十九歳になった八八年だった。
その年の秋、福島さんはガンで胃の三分の二を摘出した。手術の五日後、六人部屋のテレビに
昭和天皇の顔が映し出された。下血報道が続いた。

「絶対に奴より先に死なんぞと思った」と福島さんは振り返る。著書にはこう書かれている。
「あの悲惨な戦争のなかで、殺す者≠ニ殺される者≠ニして遭遇した相手だけに、『このまま
トンズラされてたまるか』と思うと、じっとしておれない焦燥と危機感に追い込まれた。僕なりの
決着をつけなければならなかった」(『写らなかった戦後2 菊次郎の海』)

「マスコミは天皇の戦争責任の隠滅に加担している」と福島さんの目には映った。退院を早め、
ふらつく身体で二百五十枚の写真を引き伸ばして、「戦争責任展」の写真パネルを自費制作した。
パネルを無償で貸し出した巡回展は、各地で右翼の妨害に遭い、発砲事件も起きた。しかし、
それがマスコミで報道され、全国から申し込みが殺到した。家には、名を告げない脅迫電話が
かかってきた。

「夜道を歩くな」「そんなにこの国が嫌いなら日本から出ていけ」。

 万一に備えて福島さんは、自分の身体に合わせた棺桶をベニヤ板で作り、苦しまずに死ねる
ように、首から下げるペンダントには青酸カリを忍ばせた。「戦争責任展」は九十年から三年間で
百六十カ所を巡回した。
 
 十年間一緒に暮らした女性との関係が破局を迎えたその頃、福島さんは新たに、かつて取材
した全テーマの写真をパネル化する「写真で見る日本の戦後」に取りくんでいた。それを「遺作展」
にするつもりだった。

 原爆、自衛隊、天皇制、学生運動、公害、原発・・・。三千三百点に及ぶ膨大な写真パネルの
制作は完成するまで十一年かかった。年間五十−六十万円の制作費は、東京都写真美術館が
収蔵品として買い上げた写真代のほか、東京時代に自己流で始めた彫金で得る収入を充てた。
「彫金やっていなければ、あのパネルはできていない。島で生活をしていたから可能だった」と
福島さんは言う。

 戦後日本の暗部を照射する写真パネルは、全国を巡回し、九九年には下関に常設展示館が
開館した。翌年柳井に移した展示館は、福島さんの病気入院などで、その後閉館した。だが、
写真パネルの貸し出しは続いている。

「僕はこの国の主権者。憲法を守り表現の自由を行使してきた。言いたい放題やりたい放題
やってきた。これがボクの一番の財産。自己規制もしていない」。

 そう語る福島さんはいま、写真で伝えられなかったことを文章で補完する『写らなかった戦後』
シリーズの三作目を執筆している。仮タイトルは「殺されるな 殺すな」。六十−七十年代の
学生運動や市民運動が主題だ。執筆活動も福島さんにとっては、「一人の市民運動」だと
福島さんはいう。

「現代の市民運動に問われているのは、勝てなくても抵抗して未来のために一粒の種でもいい
から蒔こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのかの二者択一だけである」

 福島菊次郎さんはもうすぐ八十六歳になる。その生き様を見つめながら私は、命を粗末にする
政治や行政を目の前にして、「当事者」の一人であるお前はどうするのか、と自分が問われて
いることに気づかされていた。

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