:フィリピン 刻まれた記憶、下「遺骨収集を続ける元日本兵」
(信濃毎日新聞2006年6月23日掲載)
中古タイヤ店の裏から二階の住居へ上がる階段には、イス付きの昇降機が設置されていた。
埼玉県川口市に住む寺島芳彦さん(86)は、三年前の交通事故で複雑骨折した両脚に人工
金具が入り、歩行が困難だった。居間の書棚は、フィリピン戦線で死んだ日本人の遺骨収集に
関する資料で埋め尽くされていた。
私が寺島さんを知ったのは、一年ほど前にメディアをにぎわしたフィリピンの「旧日本兵生存」
騒動を通してだ。寺島さんはその「情報源」とされていた。だが、誰もその「旧日本兵」本人に
会ったわけではなく、生存を証明する写真や映像もないまま報じられた「誤報」だった。一連の
報道からは、寺嶋さんは「いい加減な人」にも見えたが、フィリピンで遺骨収集を続けていると
いうその人となりを確かめ、戦争体験を聞こうと思い、昨年末に自宅を訪ねた。
寺島さんの遺骨収集は三十年以上に及んでいた。一九七四年に小野田寛郎・元少尉がルバ
ング島から生還した頃から本腰を入れるようになり、交通事故で足が不自由になってからも続
けている。昨年十月、奥さんが過労で急死したが、その翌月はレイテ島に出かけ、七十柱あまり
を持ち帰ったそうだ。
その寺嶋さんから「読んでくれ」とばかりに手渡された戦争体験記、「ああ我が海軍 弟百三
軍需部 最後の奮戦記」。そこには生き残れたことが不思議に思えるような体験が記されていた。
滋賀県出身の寺嶋さんは、十七歳で海軍に志願入隊。乗組員だった軍艦「蒼鷹」は、米軍に
よるマニラ空襲が激化した一九四四年九月、マニラ湾を脱出したが、米軍の魚雷でボルネオ島
沖で沈没。無人島にたどり着いて命拾いする。日本の輸送船に救助され、ボルネオ島北部の港
を経てマニラに戻された。四五年三月のマニラ陥落後は、ルソン島北部山中を敗走。野ネズミ
なども食いつなぎ、餓死寸前で敗戦を迎えた。戦友の大半は戦病死した。
「死んだ仲間のことを思ったら、(遺骨収集は)一人になってもやる」「(フィリピン戦線では)
五十万人近い日本兵が死んだが、フィリピン人の犠牲者は百万人くらいだ」。
そう語る寺嶋さんは、遺骨収集を続ける傍ら、戦友会や遺族会からお金を募り、これまでにオル
ガン三百七十台を激戦地だった地域の小中学校に贈った。
「(戦後)いい会社の重役になったような軍隊の偉い人は、部下を殺しておいて、遺骨収集に
口は出すが金は出さない。こんな下級兵士が骨を拾いに行っている」と寺嶋さん。戦友会の会長
になったとき、あいさつ状を出したら、「君の部隊はどこだ」と軍隊時代の階級意識まる出しの
電話がかかってきたという。「いまだに洗脳され、階級を捨てられないんだ」
「A級(戦犯)はずるい。責任を取って一年早く戦争を止めておけば、広島も沖縄も、シベリア抑留
もフィリピンもない。何百万人も民間人を殺した犯罪者が、愛国者として(靖国神社)に祀られて
はならない」
ぶっきらぼうな物言いに、異郷の山野に野ざらしとなった戦友たちの骨を拾い集め鎮魂して
きた年月の重みを感じた。それは自分なりのやり方であの戦争の「後始末」をつけようとして
きた一人の元日本兵の、生き方の重みでもある。
寺嶋さんの戦争体験記は、こう締めくくられている。
「日本人だけでない夥しいフィリピン人の命と財産を奪う結果となった。この客観的認識なくして
戦争を語ることは出来ないし、語るべきでないと思う」
戦争のむごさを伝え残すことができない社会は、命が軽視され、平和が蝕まれることに鈍感な
社会だ。
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