7月27日(火) ハンセン病療養所、大島青松園を訪ねた
菅直人民主党前代表が四国で歩き遍路をしていたそうだが、先週たまたま香川県庵治(あじ)町での
撮影の仕事があり、このチャンスにハンセン病療養所の大島青松園を訪ねてきた。インターネットで
庵治町のホームページを見つけていたら運良く大島青松園が見つかったのだ。庵治町は四国最北に
位置し、庵治港の沖合いにある小さな島が大島で、そこに大島青松園があった。
私はこれまで草津楽泉園と多磨全生園の二ヶ所のハンセン病療養所を取材したことがあるだけで、
実は大島青松園のことは知らなかった。ともかく、東京を出発するまでに訪問の許可をとり、庵治町で
の撮影を片付けた翌日、半日だけの短い訪問をすることができた。
庵治町と大島青松園間は無料の専用フェリーが運航していた。付け加えると、帰りに利用した大島
青松園と高松港間もフェリーが専用運航しているが、こちらも無料だった。いわゆる官船なのだろう。
利用者はほとんどが青松園で働く看護や作業スタッフの人たちと外出した回復者の人たちだ。庵治港
からはわずか20分程度だが、当日は朝から風が一日中強く、途中の海面はかなり荒れた。数人乗り
の小さな漁船ならば転覆さえしかねないほどのうねりだった。狭い航路が風の通路になっていた。
冬場は強風でフェリーが1-2日運休することもあるという。
大島青松園は明治42年(1909年)に開所され、4月には95周年を迎えた。園内を案内してくれたのは
入所者自治会副会長の野村宏さん。16歳で入所した野村さんの園での人生はすでに50年を越えてい
た。片目の視力を失い、片手の指先が不自由なようだった。野村さんが入所した頃は700人近い患者
が暮らしていたというが、いま入所者は170人を切った。90歳以上が11人、平均年齢は76.5歳。68歳の
野村さんは若手だ。
瀬戸内海を挟んで高松市や庵治町が見える高台には、新設されたばかりの仏塔の形をした納骨堂
があり、昭和11年以降の死亡者が小さな小さな骨壷に入れられ、整然と並んでいた。開所以来の死亡
者数は2000人を越す。家族や親族との縁を断ち切られ、おそらく大半は引き取り手のない遺骨として、
大島青松園の納骨堂に収められてきたものだろう。昭和11年以前の遺骨は納骨堂のすぐ隣に立つ
「南無佛」と彫られた大きな墓石の下に眠るという。
納骨堂からの細い歩道の両脇には、仏教の様々な宗派の集会所やキリスト教教会が集まる地区
が続いていた。人間として生きる道を絶たれ、家族からも捨てられるように収容されたハンセン病患者
が、絶望の淵からすがりつくように救いを求めた宗教の集会所はどこの療養所でも見られる共通する
光景だ。しかし、私の目を引いたのは、四国八十八ヶ寺を模した石像が、「壱番霊山寺」から始まって
歩道に沿って順番に続いている光景だった。
野村さんの説明では、石像の八十八カ寺は明治時代に建てられ、園内の松林の奥深くまで、実在
の八十八カ寺を模したように置かれていた。野村さんが入所後、入所者が参拝し易いように歩道を整
備し、石像を順番に置きなおしたのだという。現在は、明治時代の味わい深い石像に亀裂が入ったりし
たため、新しい石像に建て替えしている最中だった。
四国出身の野村さんによると、大島青松園は四国と中国地方のハンセン病患者の収容のために建
てられ、四国遍路の最中に強制的に園に収容されたり、遍路の途中で諦めて入所する患者も多かっ
たそうだ。以前、四国遍路の取材で一部の遍路道を歩いたが、無縁仏は道の脇やあちこちの寺院境
内で見かけた。ハンセン病患者が、自ら家を出て、遍路になって八十八カ寺を何度となく巡拝し、途上
で力尽きた者が無縁仏となっていることを、野村さんから改めて教えられた。
高知県では戦後まもなく、橋の下で野宿していたお遍路が23人まとめて強制的に収容され、一両の
客車に隔離され高知駅から運ばれこともあるという。昔は伝馬船に患者を乗せ、ロープで引っ張って
大島まで運んだともいう。風の強い日は、患者はびしょ濡れになったまま収容されたそうだ。
人間扱いではない、ひどい話だ。初めての訪問で、大島青松園は瀬戸内海の孤島に人工的に作られ
た「隔離の島」だったことを痛感した。島で火葬され、島を二度と出ることはかなわなかったのだ。
フィリピンのハンセン病隔離の島「クリオン島」
それで思い出すのはフィリピンのハンセン病「隔離の島」、クリオン島だ。フィリピン南西部のパラワン
島沖の諸島のひとつであるクリオン島は、フィリピンでは唯一の隔離の島だった。しかし、8年前に取材
で訪れた時の印象は、南海の楽園のような島だった。
なぜなら、入院患者と通院治療患者を含めても350人程度。それに大勢の回復者と彼らの子どもや
孫にひ孫が、のんびりと普通に暮らす小さな町となっていたからだ。魚貝類で豊富な海に囲まれ、病院
から高校までの教育施設のある島では元患者の四世までが共生し、指が曲がって不自由な回復者が
町長に選出されていたほど日本のハンセン病療養所とは対照的だった。
クリオン島への強制隔離が始まったのは1906年。大島青松園と同時代の開所だ。戦前はフィリピン
各地から強制収容されたハンセン病患者たち7千人が収容されるアジア最大の隔離の島となった。
患者同志の結婚は戦前に認められ、島外への往来も40年前までにほぼ自由になったという。島の
人口は約1万5千人。島の中央部には陰性となった回復者たちが移り住み田畑を耕作して自活してき
た集落もあった。
「らい予防法」のもとに、断種や中絶手術が強制され、結婚も自由ではなかった日本のハンセン病
政策。「らい予防法」という世界的に見ても存在理由のない法律が廃止されたのは、わずか8年前だ。
いったい、この違いはどこから来るのだろう。日本人は非寛容な民族ということか。
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