3月6日  満州「棄民」の表現がふさわしい

 前回の雑記帳で、犠牲者数の具体例を列記し、アップデートしたものの、読み返してみると、
数字だけで国策の非道さを伝えようとする迂闊さに陥っていたことに気づいた。そこで私自身が
取材した二人の生還者のことに簡単に触れておきたい。

 長野市で「長野県満州開拓史」をお借りした須田ヨキ子さん(71歳)は、第十一次上高井開拓団
として、家族6人で昭和18年(1943)4月に入植。場所は最大の犠牲者を出した東安省だったが、
リストで紹介した開拓団ほど死者は桁外れに多くはなかった。しかし、204人中、死者・行方不明
者を合わせると103人が生還できなかった。二人に1人は亡くなったことを意味する。
 ヨキ子さんの家族では、40歳近い父親がソ連参戦直前に召集され、生還できなかった。30代
の母と兄弟5人で、林口、牡丹江、ハルピン、新京、奉天と逃避行する中で、満州生まれの末弟
が新京(いまの長春)で飢えと病気で死亡した。2歳寸前だった。

 野宿しながら避難する中で、「10歳以下の子どもは殺せ」という命令が団長からあったことを親
が話しているのを聞いたとヨキ子さんは言った。ヨキ子さんは当時10歳で、下に妹ひとりと弟が
二人いた。子どもに手をかけることができない母と、13歳を頭の四人の子どもは何とか奉天まで
たどり着き、越冬した。この間、赤ちゃんだけが生き延びることができず、母子五人が帰国でき
たのは昭和21年6月だった。
 須田ヨキ子さんは、実は4年前に急逝したジャーナリスト、須田治さんの母親である。

 もうひとりは、新潟県で在宅医療と老人医療に力を入れている黒岩卓夫医師(69歳)だ。拙著
「また、あした 日本列島老いの風景」で、往診風景を掲載させていただいた。黒岩先生は、
北アルプスを遠望する長野県北安曇郡美麻村の出身。母と4人の子どもが満州に渡ったのは
須田ヨキ子さんと同じ年だ。黒岩先生の父親は開拓団の医師(保険指導員)として一年前に単身
渡満していた。両親と四人兄弟の6人は、東安省の佐渡開拓団から耕野開拓団(宮城県出身の
開拓団)に移り、ソ連参戦後の避難生活が始まったときは8歳だった。勃利、林口、牡丹江、
ハルピン、新京と昭和21年12月まで難民生活が続き、年末にようやく帰国できた。

 一家は四人になっていた。この間、ハルピンの収容所生活で、6歳の妹と4歳の弟が栄養失調
で死んだ。父親も黒岩先生も発疹チフスにかかったが、運良く生き残った。黒岩先生の著書に
よると、耕野開拓団343人中、死者は約180人、残留者21人、生還者は143人にすぎない。
 黒岩先生の実姉も行方不明だ。戦前に朝鮮の青年と結婚した実姉は、敗戦を朝鮮で迎え、
朝鮮戦争の混乱で北朝鮮に取り残されたまま生死がわからないという。

 黒岩先生は自分のことを「子ども戦中派」と呼ぶ。満州開拓移民の呼び方を使わない。なぜ
なら、自分たちは日本軍によって開拓地に捨てられた「棄民」だからだ。日本軍はソ連が攻め入
ることを想定し、関東軍をいち早く朝鮮国境周辺まで移動させ、無防備のまま民間人を開拓地に
捨てた。しかも、日本という国は、敗戦後も満州大陸で流浪の逃避行を続ける膨大な民間人を
見て見ぬ振りをし、翌年に帰国事業が始まるまでに夥しい国民を見殺しにしたからだ。

 「国家は信用できない」という黒岩先生の反骨心は、満州棄民として生き残ったところからきて
いる。「満州開拓移民」という言葉は、国家の犯罪を隠す響きが確かにある。

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