5月23日  軍政首相による「被災者慰問」とは  

【ヤンゴン22日同行記者団】ミャンマーを訪問中の国連の潘基文事務総長は22日、最大都市
ヤンゴンでテイン・セイン首相と会談し、サイクロン被災者救援のため、人道援助の受け入れを
拡大するよう求めた。国連筋によると、同首相はこれに対し、「被災支援の局面は終了した」と
述べ、外国の援助をこれ以上受け入れない方針を改めて明確にした。
 同筋によると、潘事務総長は席上、人道支援の状況に懸念を表明。今回の災害が一国の
対処能力を超えているとして、「人道支援の受け入れにさらに柔軟であるべきだ」と訴えた。
テイン・セイン首相は「今は再建の段階に入る時だ」と主張、「両方とも同時に進めるべきだ」
とする事務総長とは一致しなかったという。
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 昨日のテレビニュースで報道された国連事務総長とビルマ軍政幹部のテインセイン首相との
会談内容に、驚かない視聴者や新聞の読者はいないだろう。しかし、この程度のことでいちいち
驚いていてはいけない。

 シンガポールのビルマ人救援グループからもらったサイクロン被害のビデオ映像をテレビ局に
提供したのだが、この中でテインセイン首相がサイクロン被害から三日後の5月5日に最大の
被災地の一つであるラプタを視察している映像がある。周辺の村人がボートや船でラプタに逃げ
込んで避難生活を送りはじめてまもない僧院に、トヨタの四輪駆動車で乗り付け、きれいな革靴
をはいたままのテインセイン首相は、身動きできないほど密集する避難民を見下ろすように
立ったまま、何やら指示する声が聞き取れる。
(24日午後5時半からのTBS報道特集NEXTでビデオ映像が少しはオンエアされるかもしれない)

 在日ビルマ人による要訳によると、家族も家も何もかも失った犠牲者に対し、首相はこう
のたまっている。(ちなみにビルマでは、寺院や僧院の敷地内は靴を脱ぐのが当前の慣習に
なっている。それを無視したかのような首相一行の態度を、撮影したビデオカメラマンは靴の
アップを執拗に撮っていた。)

「サイクロンは自然災害なので避けられない。死者も行方不明者も、定められた運命である
から仕方がない。そうした中で生き残ったあなたたちは幸運だ。ヤンゴンも被害がたくさん出て
いる。何が必要かわかり次第届けるから心配はない。」(テインセイン首相の話の要訳)

 そこで避難民の誰かが思わず問いかけた。「いつになるんですか?」
被災者最大の関心事である問いかけを無視するかのように首相一行は別の場所に移動した。
僧院内3カ所ほどで立ち止まって同様の指示を出した首相一行は、汚れていない四輪駆動車で
僧院を後にした。この後に援助物資が配給されることを私も期待したが、そうしたシーンはなかっ
た。つまり、サイクロン被害から三日後、軍政幹部は最悪の被災地の避難民を視察するものの
救援物資の配給はしないのだ。

 映像にあるのは、ラプタ市内のいくらか余裕のある者が、お粥を避難民に提供する姿や、
民間人グループと思われる人たちが、いくらかのミネラルウオーターや救援物資を配る映像
だけだ。

 5月6日の国営英字新聞「THE NEW LIGHT OF MYANMAR」の一面トップには、写真付きで
「Prime Minister consoles cyclone victims in Ayeyawady Division(首相がイラワディ管区で
サイクロン被災者を慰問)」とある。国営紙や国営テレビラジオ放送は、こうした報道内容で
明らかなように、かつての軍国主義時代の大本営発表をそのまま掲載するのが唯一の役割。
つまり、軍政のプロパガンダ・マシンである。

 加えて昨日会った来日中のカレン民族同盟の元中尉であるプドー・ロバード・ザン氏から
聞いた無視できない情報を紹介したい。サイクロンで約9万人のカレン民族が死亡し、300を
こえる教会が壊れ、14-15人の牧師も死亡したというのだ。というのも、カレン民族はシャン民族
と並んで少数民族としては人口が多く、そのうちデルタ地帯には全体の3分の2が集中している
というからだ。犠牲者9万人という数字は俄には信じがたいが、ヤンゴンには各地の被害状況が
集まりつつあるという。

ロバート・ザン
元カレン民族
解放戦線中尉
(67歳)
民主党の中川
正春議員に
陳情する在日
ビルマ少数
民族の代表
中川議員に
カレン民族の
窮状を訴える
ロバート・ザン氏


 ロバード・ザン元中尉(67歳)は、カレン民族同盟の第三代議長を務めたマン・バ・ザン氏の
息子でヤンゴン生まれ。1964年にカレン民族解放闘争にデルタ地帯で参加し、約20年前に
何度か解放区で会っているが、武装闘争を止め8年前にはアメリカに移住している。
ボーミャ議長時代には、議長を公然と批判したりして冷や飯を食わされた将校だった。

 偶然だが、カレン民族同盟のソー・バテイン議長が昨日82歳で病死したが、1949年に始まっ
カレン民族解放闘争の第一世代の指導者の大半は、イラワディ・デルタ出身のデルタ・カレン
である。国軍との闘いに敗れ、解放闘争の拠点は70年代初めまでにデルタ地帯からカレン州に
移った。そうした経緯からタイ領内にあるカレン難民キャンプにいるカレン民族の年配は、多くが
デルタやヤンゴン出身者で、通信は途絶えたものの数多くの親戚をデルタに持っている。

 ロバード・ザン氏も二人の親戚が心配だと話した。彼が入隊した頃の闘争の拠点はデルタ地帯
にあり、サイクロン被災地のラプタ、ボーガレー、ミャウンミャなど主要都市と重なるという。
当時はカレン民族のほとんどが村に住んでいたとロバート・ザン氏はいう。

 私自身の二度のデルタ取材行での印象は、クリスチャン・カレンと仏教徒カレンは分かれて
住むのが通常のパターンだ。イラワディ・デルタ管区の州都であるパテイン、ヘンザダー、
ミャウンミャ、ピャーポンなどを回ったが、どこも見渡す限りの穀倉地帯。農民が多く、軍政による
灌漑用水路建設のノルマで、各地で強制的に働かされている現場を取材したことを思い出す。

 ビデオの映像を見ていても、カレン民族と思われる風貌の避難民がた時折登場する。
20人ほどが建物の外壁に押しつぶされるように土砂に埋まったまま死亡している場面を見た
在日ビルマ人が、全員はカレン民族に思えたと話していた。

 今回のサイクロン犠牲者に相当な割合でカレン民族が含まれることは間違いないと思われる。
そして、過去の戦闘を根に持つ国軍が、カレン民族が集中する被災地に対して故意に救援物資
を送らないとカレン・コミュニティーが感じているという点も重要だ。

 明日の24日、軍政は10日の国民投票を延期したデルタ管区の被災地とヤンゴンで、茶番の
国民投票を再び強行する。だからこそ、救援物資を求めて大きな町に避難した着の身着のまま
の被災者を冷酷にも、元に村に追い返しているという報道がされている。

 何十万人が死のうと、何百万人が被災し、ケガが悪化しようと、食べるものも雨をしのシート
さえ無かろうと、ビルマ王朝の復活を体現したいタンシュエ議長ら軍政幹部にとっての最優先
事項は、新憲法案を強制的に賛成させる国民投票だ。彼らのやっていることは、狂気の沙汰だ
としか見えないが、「国民は軍隊に仕えるための奴隷に過ぎない」、と考えれば理解できるの
ではないか。

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