現代人の宗教的な気分を眺めてみますと、ほとんどの方々は宗教を、宗派として理解していることに気づきます。たとえば、法華経を読誦すれば日蓮宗、阿弥陀さまを拝んでいれば浄土宗系の宗派というようにです。
また伝統教団のお寺で出家し、所定のカリキュラムを経て正式な僧侶になったとしても、その人の友人などは「僧侶になってお葬式でもするの?」などと質問され、何とも言いようがなく閉口する場面に出くわすものです。
どうやら、現代の人々にとっては、宗派としての仏教とお葬式や法事が結びついているのです。つまり、現代的な意味合いでは、宗教と宗教的なこころとが結びついていないために、宗教が語られると、実際には宗派仏教が行っている葬儀法要とが結びついてしまうのです。
実際には宗教によって養われる情操が宗教的なこころであり、その宗教的なこころを養うために宗派としての仏教があるはずです。ふり返れば各宗派の祖師たちは、ご自身が選び取った信仰によって、宗教的なこころを養いそれを身につけて来たはずです。
ここで宗教的なこころとは何かと問えば、それは「悪いことは止めて、善いことはすすんでやろう」(止悪勧善)のごく当たり前のことであり、議論をはさむ余地はないないはずです。古来より伝わる七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)には、「悪いことは止めましょう。良いことは進んでしましょう。そのように努めますと、心が清浄になってきます。これがお釈迦さま教えです」とあるようにです。
これが宗教的なこころなのですが、近ごろはこの止悪勧善がすり替えられて、宗教というと、すぐにこのお経はこのように、このご本尊はこのように有り難いなどと、知識的な理解が先行して、そのことを知っていれさえいえいれば、「止悪勧善」などに思いを寄せることなく、それでことは足りてしまう。さしずめ現代仏教は知識の宗教になっており、宗教的なこころが身につかないのです。
また、近ごろの中央教育審議会の答申でも、学校教育においても宗教教育の必要性が叫ばれいる。その内容はといえば、ボランティアの奉仕活動を義務化して、宗教的なこころを養おうというものです。どうも中教審の識者には、宗教的なこころがお分かりではないように見える。
なぜかといえば、嫌なボランティアを無理矢理にさせることでは、たとえそれが善行であっても宗教的なこころは養われずに、かえってこころは腐ってしまうからです。まことに逆説的な言い方ですが、ボランティア活動をするためには、そこには宗教的なこころがなければならないのです。
この苦しく嫌なボランティア活動をすることは、人様に仕えること、神さまや仏さまにお仕えすること、それが「奉仕の浄行である」という所へと行き着かなければ、心は腐ってしまい、宗教的なこころは養えないのです。
もう気づかれた方もあると思う。現在の寺院僧侶のあり方を見れば明らかなように、いまボランティア活動、それも自分自身が生業的に営んでいる仏事全般を、奉仕の浄行としてのボランティア活動として実践する必要があるのです。
ひるがえって提言すれば、皆様が「坊主丸もうけ」「坊主にくけりゃ、袈裟まで憎い」と揶揄(やゆ)したいような寺院僧侶であっても、その寺院の庭掃きでも、お寺の年中行事の手伝いでも、ボランティア活動のつもりで参加し、その奉仕の浄行に導かれて、ご自身の霊性(spiritual)を高めていただきたいと思います。
もしそのような機会に恵まれない方がございましたら、ご連絡ください。なにかお役に立てると思います。是非ご協力をお願いたします。このボランティア・ネットの賛同される方がございましたら、お志は下記までお願いいたします。ボランティア・ネットの運営に充当させていただきます。
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