機動戦士ガンダム 逆襲のシャア



「ガンダム」という言葉を聞くと、心穏やかではいられなくなる。他の人がどうかは知らない。けれど、ぼくにとって「ガンダム」という言葉は心のどこかにしっかりと根を下ろしていて、その存在を主張してやまないのだ。
そう。九年前、ぼくはファンだった。そのことを認めないわけにはいかないだろう。ぼくは『機動戦士ガンダム』のファンだったのだ。

劇場の椅子に座りながら感じたことを正確な言葉にするのは難しい。幕が上がるまで、少なくともぼくが「死に水」を取るつもりだったことは確かだ。『Z』、『ZZ』という、余りに異質な作品を正当な続編と認めることの出来なかったぼくにとって、今回の劇場版は不安が高まることこそありはしても、期待に打ち震えることなど出来ようはずもなかった。TVで放映されたあの代物を続編と言われたときの哀しみを、ぼくはまだ忘れることができなかったのだ。わくわくする気になどとてもなれなかった。「ガンダムよ、おまえもか」という気分、判ってもらえるだろうか。『Z』、『ZZ』は断じて続編などではない。全く異なる独立した作品として捉えることは可能であっても、それは「ガンダム」の続きではない。何故なら、世界観が違うからだ。
スペースコロニーやモビルスーツ、ましてやガンダムが登場しようと、その動き回る場としての「世界」の位置づけが違っていたら、それはもう続編とは言えないはずだ。

「ガンダム」の世界観−つまり、作品の匂いを決定するもの−は「物はあくまでも物であり、人は哀しいほど人でしかない」というポリシーにほかならない。ファースト・ガンダムであれほど超人的な活躍を見せたアムロが、それでも他の登場人物から浮き上がらずに集団劇のなかの一人として存在し、かつ、等身大の主人公としてぼくらを共感させたのは、このポリシーが作品の隅から隅まで貫かれていたからだ。兵器(もの)としてしか描かれなかったからこそ、ガンダムという「ロボット」は『モビルスーツ』として存在することができたのだ。ぼくは、この基本的な約束事が「ガンダム」を一級のドラマに仕立て上げたのだと思っている。『Z』、『ZZ』ではその「約束事」が守られていなかった。ただ、恐竜的進化を遂げたモビルスーツ・デザインとカタルシスも何もないストーリーが、毎週ルーチンワークのごとくブラウン管から流れ出るだけ。これでは、「ガンダム」の続編かどうかという以前の問題である。何といっても面白くないのだから。

映画がこの点をクリアーしているかどうか、当初大いに不安だったが、どうやらこれは心配のしすぎだったようである。この作品は紛れもなく「ガンダム」であった。少なくともぼくには宇宙世紀0093という世界は間違いなく前作からの連続した時空間として存在していた。

内容について語るならば、ストーリーはまさしく「逆襲のシャア」であり、シンプルだが力強い展開で観る者を最後まであきさせない。が、なによりぼくを感心させたのは、物語そのものよりも、やはり、前作の微妙なニュアンスをよくぞここまで再現してくれた、という一点に尽きよう。『Z』より『ZZ』より、何よりこの『逆襲のシャア』が一作目の雰囲気を最も良く再現している。その点からすれば、水準以上の出来映えといっていい。

ストーリー的にみても、ロンド・ベル隊のアクシズ突入までが二重丸の出来であることは間違いない。連邦側のキャラクターもネオ・ジオン側のキャラクターも、作品世界の中で「生きた」存在として描かれている(一人ひとりの個性の書き分けが不充分なのは、時間的制約上ある程度やむを得ないことだろう)。特に、シャアは今回出色の出来である。
父親の遺志を継ぎ、宇宙移民のための政治体制を敷くために地球を滅ぼそうとする彼、シャア。しかし、アムロとの決着と前者とを秤にかけたとき、彼はアクシズ落としを理想のためではなく、私的な決着のために行おうとしてしまう。志ではなく自意識のため人類皆殺しを謀ろうとする。これが人間でなくてなんであろう。しかも、彼はそのためには部下も愛人も慕ってくる少女も道具にすることを厭わないのだ。ぼくは、シャアの「私はあこぎなことをやっている」という醒めた台詞に、人はどこまでいっても人でしかないのだという富野監督の人間観ともいえるものを感じた(『ニュータイプ』という概念が、それを越えるものとして設定されているにもかかわらず、である)。

さらにいえば、ハサウェイがチェーンを殺すという展開も、作劇上の必要性からと考えるには余りに不自然である。何故なら唐突に過ぎるからだ。あれはやはり作劇に破綻をきたしてでも主張したい何かがそこに存在していたのだと考えるのが妥当であろう。それは、『ニュータイプ』ですら人の「業」というメビウスの輪からは逃れられないというメタファーではないか。
だがここで、その考え方をそのまま無自覚に受け入れた場合、大きな問題が生じてくる。それはすなわち「より人間らしいのはアムロではなく、むしろシャアの方ではないのか」という疑問だ。いや、もしかしたら、この物語にははなから勧善懲悪的な観点など存在していないのかも知れない。

しかし、だ。いかにリアルな描写を積み重ねようと「ガンダム」は虚構(フィクション)であり、娯楽作品(エンターテイメント)なのだ。作り手はその点を忘れるべきではなかったし、又それを忘れてしまったことがこの映画の最大の弱点となっている。
理屈からすると、アクシズは地球に激突しなければならぬ。しかし、作品(エンターテイメント)としては地球は救われねばならない。このジレンマが、あのラストシーンを生んだ最大の原因であろう。それは判る。だが、そうはいってもνガンダムの機体一つでアクシズの針路を変えるというのはあまりに無茶だ。いくら「絵」というものの持つ力(納得力とでもいおうか)が強かろうと、それらしい説明(『サイコ・フレーム』云々)がなされようと、あのラストシーンで今まで積み重ねられてきたガンダム世界のリアリティは根底から破壊されてしまった。「ガンダム」はフィクションではあったがファンタジーではなかったはずなのに。

富野由悠季は、今回の映画でまだまだその実力が健在であることを証明した。だからこそ、よけいに「何故」と問いたい。それとも、続編はやはり一作目を越えることは出来ないのか。

答えは、未だ出ていない。



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