もくじへもどる
教材観の転換  教材から学習材へ

新しい教材論の試みです。それまで主張していた自身の教材論を大きく転換するものでした。
−『授業づくりネットワーク』−1996年2月号所収

1 教材論の常識
 私は前任の大学で一般教育「音楽」を担当していたことがある。大学の100分授業の準備をすることは、かなりきつい。だからたまに手抜きをする。音楽映画の授業を見せるのである。「アマデウス」という映画を見せたことがある。学生からはいろいろな感想が寄せられる。
 「モーツァルトの音楽をもっときいてみたくなった」
「人間の才能ということについて考えさせられた」等々である。教師が手抜きをしても学生はいろいろ考えてくれる。しかし中には批判的な感想もある。
 「この映画を見せて先生が私たちに何を感じてほしいのかがわからない」
 私には、手抜きをしている後ろめたさがある。だから、このような意見にはドキッとする。後ろめたさの背景には、教材についての次のような考え方がある。
教師は何らかのねらいをもって教材を選択すべきだ

 私を批判した学生も、このような考えをもっていたはずである。これは授業づくりの常識でもある。この常識を疑ってみる。

2.教育内容と教材

 藤岡信勝氏はかつて次のように述べていた。15年前の文章だから、現在の氏の主張とは違うかも知れない。しかし、右の常識を見事に説明したものになっているので取り上げる。
 授業は、教師の側から見れば、教師が一つの目標を立て、それを実現しようとする目的意識的行為である。
 教師はなんらかの文化的価値のある内容を子どもに習得させようとする。それは、たとえば、科学的な知識や概念、法則であり、技術の基礎、芸術的な感受と表現能力の初歩などである。それは「教育内容」と呼ぶことができる。教材は、実は一定の教育内容を前提とし、その価値を具体的にになう素材であることによってはじめて教材としての意味を有するのである。だから(A)の図式は次のように書き換えなければならない。
 (B)教師(教育内容教材)子ども
 ※吉田注(A)の図式は次のようなものである。
  (A)教師(教材)子ども
(「教材構成の理論と方法」『教育学講座7教育課程の理論と方法』学習研究社、1979、270頁)

 この主張は次の二点に整理できる。
 
 教育内容と教材を区別する。
 教材は教育内容を前提ににする。
 
 この主張から見れば、先のただ映画をみせるといった授業はとんでもない授業である。教育内容と教材を区別するどころか、教育内容そのものがどこにも存在しないのである。後ろめたさはそのせいである。
 一般的に言えば、映画を見ることは良いことである。いろいろなことが頭の中に残る。また考える材料がたくさんできる。それは、人それぞれによって違っているし、それも良いことである。ところが、映画を授業の教材にしようとすると、意味づけが必要になる。教師のねらい、すなわち教育内容との関連づけである。
 一般的には価値のある素材でも、授業で使うと価値が否定されるというのは、おかしな話である。そこで、次のような問いをたててみる。
 
 教材はつねに教育内容を前提にしなければならないか
 
3.授業づくりの二つの道

 教育内容と教材を区別することによるメリットはたくさんある。私にとっては、とくに授業づくりの方法が見えやすくなった。「教育内容」「教材」ということばを使うと、授業づくりの方法を次の二つに区別するこができる。
 教材先行型の授業づくり
 内容先行型の授業づくり

 「教材先行型の授業づくり」とは教材が先に決まっていて、その教材でどんな教育内容を教えるかを決める方法である。
 例えば、国語の教科書に「ごんぎつね」という教材がある。教師はこの「ごんぎつね」という教材をいろいろな角度から分析し解釈する。その結果、「ごんぎつね」によって「話者の視点」を教えたいと考える人がいるかも知れない。また、別の人は「ごんやの兵十の気持ち」といったいわば作品の伝えるメッセージを教えたいと考えるかも知れない。「話者の視点」や「作品の伝えるメッセージ」が教育内容になる。これが浮かび上がってくるような発問を考える。
 音楽科では、伝統的にほとんどこの方法が採用されてきた。6年生の教科書に「ふるさと」という教材曲がある。教師はこの教材曲をどのように表現させるかを考える。私なら、この教材曲を豊かに表現するには「レガートな唱法」や「強弱表現」が必要だと思う。この場合、「レガートな唱法」や「強弱表現」が教育内容になる。
 一方、「内容先行型の授業づくり」とは、教育内容を先に決めて、教える内容にもっとも適した教材を集めるという方法である。
 典型的な例は、算数の水道方式で使われる教材の「タイル」である。故遠山啓は、十進数の「繰り上がり」で多くの子どもがつまづくことに注目した。そして、タイル10枚を1列にまとめて「繰り上がり」をイメージさせる方法を考え出した。つまり、この場合「繰り上がり」が教育内容であり、「タイル」が教材である。そして「タイル」は「繰り上がり」を教えるのにピッタリ合う教材であった。
 社会科の場合にも、このような授業づくりは多い。例えば「戦争の恐ろしさ」を教えたいと思う。その場合「戦争の恐ろしさ」が実感できるような事実、東京大空襲の体験談を記した文書、被害の実態を記した統計資料、そして被害の実態が生々しく感じられるような写真を集める。それらを授業で使用できるように再構成する。つまり「戦争のおそろしさ」という教育内容にピッタリ合う教材が文書であり統計資料であり写真である。
 音楽科でもこのような授業は存在する。例えば、「強弱」という音楽の概念を教えたいと思う。この場合、教師は「強弱」の工夫の仕方で表現が大きく変わってくるような歌唱教材曲や器楽教材曲を探す。「とんび」という教材曲の三段目に、「ピンヨロー、ピンヨロー、ピンヨロー、ピンヨロー」という歌詞の部分がある。同じ歌詞が4回くりかえしながら、この部分への強弱のつけ方を考えさせる。「f、f、p、p」と歌う方がよいのか、「f、f、p、p」というのかといったことを考えさせる。また、ラベル作曲「ボレロ」という曲がある。この曲は同じ旋律をくりかえしながら、クレッシェンドしていく。この曲を強弱に注目させながら、鑑賞させる。「とんび」を歌ったり、「ボレロ」をきいたりする活動を通して、子どもたちは音楽における「強弱」を強く意識するようになる。「強弱」という教育内容に対して、「とんび」や「ボレロ」という教材がピッタリあっているのである。
 「教育内容」と「教材」を区別すると、このように授業づくりの方法をスッキリと説明できる。しかし、教育内容を先に決めようがあとに決めようが、最終的には教師の決めた教育内容へ収束していく授業になる。教材が教育内容を習得させるための手段であるという意味では、どちらも同じなのである。

4.教材から学習材へ
 ところが、「教育内容」と「教材」という概念で説明できない授業が最近注目されている。例えば、上條晴夫氏の「見たこと作文」の実践である。
 上條晴夫氏は、『見たこと作文で不思議発見』(学事出版、1990)においてネタの条件として次の三点をあげている。
(1)子どもが、興味・関心を持つ。
(2)次々とハテナが生まれる。
(3)追究が広がりと深まりを持つ。

 本誌連載中の「見たこと作文の探求」でも、「お金」「あめんぼ」「切手」等のネタが次々に紹介されている。ここでいう「ネタ」とは、教材である。では、これに対応する「教育内容」は何か。
 青山新吾氏(8月号NO・95)は「切手」をとりあげて子どもの追究の過程を紹介している。子どもは「切手の種類」「値段と手紙の重さとの関係」「郵便の経路」等に関心を持ち追究をはじめている。では、この「切手の種類」等が教育内容と呼べるのか。結果としてこれらに関心をもったのであって、教師がはじめから教育内容として設定したものではない。見たこと作文の実践には教材は存在するが、教育内容は存在しないのである。むしろ教育内容を教師があらかじめ設定しないからこそ、子どもの追究が可能になるのである。
 私も次のような授業を行った。
1 授業時にアンケートをとる。(そのクラスの生徒自身が対象である)
  ○一番最初に思いつく作曲家の名前
  ○一番好きな曲
2 アンケート結果について考察する。(自分たち自身の音楽観を見直すことになる)
   ○アンケートからどんなことが言えるか
  ○なぜ、このような結果が出たのか
○この結果についてどう考えるか

 生徒はよく考え、発言してくれた。この授業の教材は、アンケートの結果である。しかし教師はその結果をあらかじめ知らない。したがって教育内容を決めようがない。教師は、生徒に自分の音楽観について考えてほしいという願いは持っていた。そのことは実現した。これは教育内容とは言えない。
 この他、小西正雄氏の提唱する「提案する社会科」の実践や教室ディベート等、教育内容が明確に見えてこなくてもすぐれた実践は数多く生み出されているのである。
 これらの授業の特徴は、授業の結果子どもが習得するものよりも、授業の過程において発見したり、追究したり討論したりすることを重視していることである。もちろん従来の授業でも発見や追究や討論は重視されていた。しかし、それは教師の決めた教育内容に到達させるための手段に過ぎなかった。
 教師があらかじめ教育内容を設定しないと、授業は拡散しやすい。しかし、拡散は子どもの思考が自由で活発になていることのあらわれである。逆に教師が教育内容にこだわり過ぎると、すぐれた教材を見落としてしまうことがある。そして、授業中の教師の発問が、教育内容に収束させていくための誘導尋問になりやすい。
 教材を教育内容という束縛から解放する。そうした教材による授業づくりをもっと追求すべきである。
 こうなると、「教材」というより「学習材」である。

もくじへもどる