『感動の仕組み』
「あなたは合唱を聴いて感動したことがありますか?」

「あなたは観客の大きな感動を感じたことがありますか?」

「あなたはどのようなときに感動するのですか?」


●「マリオ・デル・モナコの感動大作戦!」

 20世紀を代表するテノール歌手として名高いマリオ・デル・モナコは,その輝かしい声を「黄金のトランペット」と称された名歌手でした。近年ドミンゴ/カレラス/パバロッティが三大テノールとして世界中の注目を集めています。Higumaは個人的にはパバロッティ派なのですが,ドミンゴの声と甘いマスクによるオペラはやはり捨てがたいし,カレラスの情熱的な歌曲にもシビレてしまいます。そして,聴くものをしゃにむに感動に追い込んでしまうパバロッティの「誰も寝てはならぬ」。3人の個性が明確に違うからこそ,一緒にコンサートができるのかもしれません。

 さて,デル・モナコ。こちらはたった一人でも三大テノールに匹敵するほどの魅力の持ち主です。Higumaは録音や録画でしかその声と風貌に接したことはありませんが,彼が「伝説のテノール」になるのも仕方がないと思います。「黄金のトランペット」とは言い得て妙。このコピーをひねり出した人にも拍手喝采です。

 このデル・モナコには数多くの逸話が残されていますが,その中に「モナコ・タイム」というのがあるそうです。テノールのアリアや歌曲には,高音域でフェルマータになるようなものが実に多いのはご存じの通りです。それもそのはず。テノールはその高音域での輝かしい音色にこそ存在意義を認められるわけですから。モナコ・タイムというのは,そのような高音域でのフェルマータの時間を指しています。通常の歌手ならば15秒で終えるところを,彼はもっと伸ばす。それも,観客のブレスのタイミングまで計算して。

 ほとんどの人は,緊張感の高いフェルマータの音を,息を止めているのに近い状態で聴きます。つまり,歌い手がブレス(息継ぎ)をするまで,一緒に待っているわけです。聴き手自身が余裕を持って息を吸える程度ならば,それは「言い声だな〜」というところで感心して終えられます。けれども,伸び続けている声が聴き手のブレスの限界を超えることがあります。その時点まで引っ張られると,聴き手は驚くだけでなく,歌い手がフェルマータを終えてブレスを取った瞬間に,思わず熱狂的な拍手を送ってしまうのです。「モナコ・タイム」は,そのような聴衆の生理的な反応を直感的に感じ取ることの出来たデル・モナコが,「サンタ・ルチア」や「帰れソレントへ」等に代表されるようなテノールの十八番において用いた「確実に感動させる時間のマジック」だったわけです。


●感動を生み出すための演奏

 人間の感動には様々な種類があります。十人十色の言葉通り,感動の仕方も千差万別。ある人が感動して涙しているような演奏に,隣の人は「どうしたの?」っていうことだってあります。ですから,基本的に感動をあらかじめ予想しておくということは,ほとんど不可能に近いことです。でも,もしもそれが計画的にできるとしたら…。

 演奏者として音楽に関わっているなら,誰でも「感動を与えたい」と思っているはずです。自分自身にも音楽による感動体験はたくさんあるでしょうから,「この気持ちを多くの人に体験して欲しい」という動機から演奏する側に関わり始めた方も多いでしょう。前述のように,感動を「計画的につくる」ということを考えること自体が邪道かも知れませんが,考えてみても損はなさそうです。それに,そもそも感動のメカニズムってどのようなものなのでしょうか?

 小学生や中学生に,「この歌をもっと聴いている人に伝えるには,どうしたらいいだろう?」と質問すると,ほとんど必ず「気持ちを込める!」と答えてくれます。そこで,「じゃあ,気持ちを込めて歌ってみよう!」と呼びかけて歌ってもらい,「聴いている人に伝わったかな?」と問うと,ほぼ完璧に「伝わらない」と答えます。このことからもわかるように,「心を(気持ちを)込めて歌う」ということは,「感動を伝える」ということの直接的な答えにはならないのです。これはおそらく大人の集団が同じようにやってみても,ほとんど結果は変わらないでしょう。つまり,感動には別の何かが必要なのです。これを解明していくためには,まず自分自身の感動体験を分析してみることが必要なようです。

 映画でもかまいません。音楽でもかまいません。絵画でも文学でもかまいません。私たちが涙するほどに感動するのは,どのような瞬間でしょうか。

 私たちが「感動した」と感じるとき,体の中ではいつも同じような現象が起きています。「動悸が速くなる」「血圧が上がる」「手のひらに汗をかく」「胸のあたりが熱くなってくる」などです。最後の「胸が熱く…」を除くと,急激な緊張感を強いられたときに非常に似かよった症状です。つまり,急激に日常的ではないことを強いられている状態なのです。これが,急激にではなく,ジワジワとやってきたときには,「胸が熱く…」という症状から始まって,他の症状が現れます。「美しいものを見た」とか,「悲しい話に出会った」ということが原因になったりするわけですが,実は私たちは「日常を大きく越える」という事柄でなければ,上記のように体の中に変調を来すような感動を体感することはないのです。映画でも,文学作品でも,私たちが一生忘れられないような感動を得るときには,自分の予想していた状況を,大きく越えているような事柄を体験しているのです。だから,予想以上のことに対応できなくなった体が,様々な形で反応するのです。


●まとめてみると

 デル・モナコのモナコ・タイムがそうであるように,「感動」というのは人間の予想を超えるということから起きることが多いようです。音楽の演奏で言えば,「予想をはるかに超えるような美しさだった」「思っていた何倍もの強い意志で訴えかけられた」「全く予期できなかったような声の響きに包まれた」というようなことが,聴き手の感動へとつながっているようです。中には,歌詞と曲の存在そのものが感動を与えてしまう場合もありますが,そのような曲はむしろ「まれ」と言っても良いでしょう。

 「予想を超えた表現の存在」が聴衆を感動へと導くのであれば,「過度に表現すれば…」と思いがちですが,実はそうではありません。曲の流れにふさわしくない表現は,逆に奇異な印象を与えてしまいます。ですから,演奏する曲の中で必然性が感じられる部分において,「こんな感じだろうな」と予想している聴衆に,予想を超えるような表現をプレゼントするわけです。結局は,しっかりとした曲の分析や構成を考え抜いた上でなければ実現しないことでもあるわけです。「大きな感動を」と思う余り,それを「声の大きさ」に頼った「予想以上」で表したとしても,おそらく感動は生まれないでしょう。そこには,平均以上の技能も必要なわけですし,「大きさ」だけではなく,「広がり」「奥行き」「伸び」と言ったニュアンスが加わっている「良質な大きさ」が存在しなければならないわけです。

 けれども,もう一つだけ「感動」へのヒントがあります。声の響きや美しさが十分ではなくても可能な「感動的演奏」への道筋。それは,「真剣である」ということではないでしょうか。私たちは,本気で何かを訴えようとするときに,お上品に語ったりはしないはずです。目も表情も必死になり,本当に心から真剣にひとつのことを願って,それを伝えようとするはずです。だから,相手は心を動かしてくれるわけです。これは「心を込める」と同じではないように思います。

 感動を与える素晴らしい演奏のためには,様々なアプローチがあります。ここで述べた方法はそのひとつに過ぎません。あるいは,このように考えることが邪道であるかもしれないのです。けれども,「感動的な演奏」は演奏するものにとって決して忘れてはならない目標です。少なくとも,演奏会直前に練習に参加して,一人で「気持ちよかった!」と言っているようでは実現できないことです。