■   名 残 月 (なごりのつき)

 幾日も降り続いた雨が、上がった。
 見下ろす海の、まだ立ちこめている靄のむこうで、いくつもの舟の灯りが揺らいでいる。
 気がつけば、東の山際は白く輝き始めて夜明けが近いこと告げ、西の空にはまだ色濃く夜が残り、月が静かに光る。
 青みを帯びた紺青を背にして、淡く輝く月は、夜のそれより美しい。
 あの人も、この月を眺めているだろうか。
 願望に塗れた独り思いに、男は自分を笑う。どこかで繋がっていたいと縋る哀れな気持ちが、その人を自分と同じ場所に置いてしまう。
 名も、住処も、知らない。
 ただ一度きりの逢瀬で、いたわりと指標を与えてくれた人。
 彼女の瞳は、現(うつつ)のものを映さない。
 映さないが故にこだわりなく、迷う心を捉えてくれてた。
 性別や、重ねた年齢、立場に関係なく人の本質は弱く、当人の志とそれを支える絆とが人を強くする。その二つも、強ければ強いほどに諸刃の剣となり、人の本来の弱さを露呈させることがある。
 守りたいものがある。そのために最善だと下した決断が、成就するまでの過程でそれを傷つけてしまった。人々を率いる立場において退くことは許されず、傷が大きくなるのを知りながら進むしかなかった。結果として、決断が正しい選択になっても、失ったものに対する哀惜は募り、事態を招いた己への自責は高まり、ついには逃げ出した。
 そんな時に出会った彼女が、天に浮かぶ月に喩えて添えた言の葉は、本来の立場に戻った後も幾度となく支えになった。
 胸の内でその言の葉を紡ぐとその時に得た安らぎが甦る。人の上に立つ者ゆえに味わう孤独の影が薄くなる。同時に、彼女に恥じぬようにありたいと背筋が伸びた。
 昼となく夜となく月を観ては言の葉を思い出し、その言の葉を紡いだ横顔を思い出す。人知れず、幾度もそんなことを繰り返すうちに言の葉と彼女は同義となり、いつしか、その面影が胸の内にあることは必然になっていた。
 三年が過ぎても記憶の中の風情が褪せることはなく、鮮やかに浮かび上がる。
 小柄で華奢な幼子のような人。
 病など患ってはいないだろうか。
 野の花のような慎ましい笑顔が、曇ってはいないだろうか。
 映さないということが信じられないほどにまっすぐな迷いのない瞳は美しく、据えられるのが心地よかった。
 今この場において、思いを馳せるべきことは限りなくある。これから挑む大事、共に進まんとすべてを託してくれた者たちのこと。彼等の家族のこと。自分の妻のこと。三人の息子の行く末のこと。そちらへ意識を向けようと試みても、浮かぶのはその人ばかり。立て直そうとすればするほど気持ちは昂り、呼吸が止まるほどあの人を想う。
 あの時は触れもしなかった。
 その後訪ねる機会はいくらでもあった。 無理にでも奪いに行けば良かった。
 逢いたかったと抱きしめたなら、なんと応えをくれたのだろう。
 共に生きてくれないかと告げたなら、どんな表情を返したのだろう。
 かき口説き、想いのすべてをぶつけて、心に身体に刻み付け――
 とどまる所を知らない妄想に男の表情は歪み、そうして自分をかき乱すものの正体が形を現す。
 あの人にとって、自分は音でしかない。
 音は記憶に留められない。響かなければ、蘇らない。

 あの人が偲んでくれることは、決してない。

 見上げた月は変わらぬ場所で、二重に霞む。
 志は息子たちが引き継ぎ、妻はそれを支えてくれる。これまで拙いながらも成してきたことも、関わった人たちが記憶して語り続けてくれる。
 しかし、あの人には何も残せない。
 今、すべてを無に返して彼女の元へ走り刹那の満足を得ても、一度掲げた志は消えることはない。命続く限りそこにあり続け、自身も、傍にいる女も、かつて慕ってくれた者たちをも苛む。それがわかり過ぎるほどにわかっているから、守りたいものたちと同じくらい、いや比べることが無意味であるほど大切な存在となった彼女を選ぶことができない。
 ――どこにいても、目指す場所がある人には、そこが見えてしまう。
 月に喩えたように、この手に納められるのは、たった一つだけ。
 込み上げて溢れた想いは風に散る。
 月は、一つに戻る。
 いつかあの人も、志と恋慕の間で惑うのだろうか。
 その理由が決して自分でないことがまた切なく、月は二重になった。


 1336年5月23日。合戦は始まった。
 主上方総大将新田義貞の軍は、現在の兵庫県神戸市和田岬の小松原通り付近に陣を構えていたが、海上から攻め上がる足利尊氏の軍に翻弄され、京へと敗走した。西から攻めてくる足利直義の軍と対峙していた楠木正成の軍は取り残され、善戦も虚しく追いつめられて残った僅かな者たちと湊川の北のとある民家に立て籠った。
 無傷な者はおらず、もはやこれまでと皆が覚悟を定めていた。足利軍に一矢報いることができなかったと嘆く者は多かったが、この結末を愁いる様子はなく、力を尽くしたことに満足した穏やかな表情をしていた。
「仏の教えによれば、人は最期の一念にて来世が決まるらしい。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩の九つの迷いの世界のうち、皆はどこに生まれ変わりたいか」
 誰かが口にした言葉に、
「ならば、七度生まれ変わっても同じ人間に生まれて戦い抜きたいものだ」
 という応えが人の数だけ返った。
「また皆で心行くまで生きられそうだ」
 弟、楠木正季に笑いかけられて、正成はその場にいる者すべての顔を見渡しながら、朗らかな声で言った。
「そうだな、同じように生まれ変わり、本願を果たそうぞ」
 いい終えて、対峙した弟だけに
「皆を、頼む」
 とつぶやき、そのまま互いに刺し違える。それを合図に周りの兵士も次々と倒れ伏した。
 口にした言葉は嘘ではない。ただ、真実でもなかった。
 地獄にも月はあることを願い、楠木正成は目を閉じた。






参考文献:新編日本古典文学全集 太平記2(小学館刊)

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2006.11
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