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「日本一短い法話」のコンセプトに基づき「かんたん仏教」「かんたん浄土真宗」「法話エッセイ」の三本柱でヘゴヘゴ住職がお送りします。 仏教って、こんな教えなんだ。浄土真宗(お念仏の教えって)そうなのか、と思っていただければ、とても嬉しいです。 |
仏さまの教えは、私たちの心を照らす灯火です。 |
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私のモノの見方 2000.5.29(月) もう2ヶ月ぐらい前になると思うけど、私のお寺に京都から、ある「念珠屋さん」がたずねて来られた。 念珠屋 : 「ご院さん。念珠いかがですか?色々ありまっせ!」 住 職 : 「ほう、ほう」 私が、念珠に興味ありそうに見えたのか、カモに見えたのか、なにやら鍵のついたカバンを開けていろいろと念珠を見せて下さった。 念珠屋 : ご院さん、これは菩提樹(ぼだいじゅ)の実でも千個に一個、こっちは一万 個に1個しかとれへんなかなか貴重なもんで…。これは、琥珀(こはく)いい まして…ハィ。 次から次へと、説明が立て板に水のごとく続けられた。貧乏性のこの私、値段を気にしながらも「ほう、ほう」と、念珠屋さんの説明を聞きながら、念珠を手に取ってみる。そこには、なんと10万円の値札が、ひぇ〜。でも、それは序の口であった。手にとって見るたび、20万、30万、いや50万80万と、さわるのが怖くなるほどの値段であった。そこで、… 住 職 : 「どれも、良い念珠ですな〜。」 余裕もないのに余裕をブチかます。でも、頭のなかは、どうやって上手いことケリつけようかということばかり。 念珠屋 : 少々値段が高い思うても、念珠は長いこともちます。良い念珠を住職さん から次代の住職さんに伝えていかれてもよろしい。そう思うたら、決して高 い買い物やありません!」 なかなか上手いこと言うな〜。冷や汗たらー。それでも、余裕をかませて… 住 職 : 「ほう、ほう」 結局、念珠は買わずに、いくらかあった切れた念珠を修理してもらって、念珠屋さんには帰ってもらった。「ふぅ〜」正直、少しため息が漏れた。 でも、後でよくよく考えてみると、「良い念珠」って言っていたのは、一体何だったんだろう。 お念珠そのものを見ていっていたのではなく、値札に付けられた値段の高さによって、良い、悪いを決めていたのではないか…? そう思うと、情けなくなるやら、うなずかされるやら。 すると、目の前にある決して値段的には高いとはいえない、修理してもらった念珠達が、急に愛おしく思えてきた。 決して、値段だけでは価値は計れないのだ。 みんな、そのままで良いのだ。だって、”いのち”に値段は付けられないもの。 仏さまは、「どれも、これも、みんな”いのち”あるものだ」と教えて下さった。 それぞれが、そのままで輝いているのだ。これから、修理してもらったお念珠を一つ一つ大切にして、仏さまに手を合わさせてもらおう。 「日本一短い法話」は、どうなった…。 ありゃ、りゃ!! |
早(はよ)う、参らさせてもらいたい! 2000.5.30(火) 3・4年ぐらい前、お盆でお参りさせていただいたときの、あるお婆ちゃんとの会話である。 「ご院さん。私ら、さえんようになりました。足は痛いし、腰は痛いし…。気がついたら、先に亡くなった主人の歳より多くなりました。長生きしとっても、あんまりええことはありゃしません」 足・腰が痛く、正座のできないお婆ちゃんは、伸ばした足を申し訳なさそうにさすりながら愚痴をこぼす。 この私に、このお婆ちゃんの気持ち分かるはずもなく、ただただ 「ふん。ふん」 と、うなずいて聞いていた。すると、お婆ちゃんが、 「はぁ〜。早(はよ)う、参らさせてもらいたい。のぉー、ご院さん。わしら、仕事いうたら病院に行くことぐらいじゃ。毎日、ご飯食べたらの、こんなに薬飲まんといけんのじゃ」 と言って、掌に5・6個の薬を乗せて見せて下さった。その薬は、色とりどりで綺麗だった。今思えば、要らないことを言ってしまったということであるが、つい軽い気持ちで、 「早う、参りたいんじゃったら、今日の昼からその薬飲まんかったらええじゃないの」 と言ってしまったのである。 「わしに、早う死ねちゅうことですか。もう…」 と、半分怒ったようにお婆ちゃんが言う。これはまずいと思ったが、もう後の祭り…。 今も、このお婆ちゃんは、お元気である。 こんな事があったけど、私との仲は良い。ご安心を!お参りさせていただく度に、私の子どもにと、お菓子を用意して待っていて下さる。 たけど、人のことばの裏には、ことばとは違う思いがある。悲しいかな、私にはそれが分かり兼ねることが多すぎる。そして、誤解を生じ、互いに傷つけ、傷つきながら…。辛いこともいっぱいある。 人の心の奥底にある本当の思いというものを、ちゃんと受けとめることができないと、人の淋しい思いを癒し、暖めることはできないのだろう。 仏さまの慈悲とは、私の心の奥底にある言葉にもならないやるせない気持ちを、ちゃんと分かって、優しく受けとめてくださる心をいうのだ。 |
何事も基礎が大事 2000.6.5(月) 先日、お参りに行った先のご主人との話である。 「この家もやっぱりご主人が建てられたんですか?」 と尋ねると、ご主人が、 「はい、そうです。でも、もう30年くらい前のことになりますか…」 とおしゃった。 何を隠そう、このご主人、今はリタイアされているものの元大工さんである。 「へぇ〜。30年たっているとは思えませんね。きれいですよね。それに、どの建具もずれているようにも見えませんし…。きっとご主人は、腕のいい大工さんだったんでしょうね!」 と私が言うと、ご主人が、少し照れくさそうに、 「へぇ、へぇ」 と少し笑みを浮かべながら、 「ありがとうございます。だけと、家がしっかり建っているのは、大工の腕ということも、もちろんありますが、なんといっても基礎が大事なんですよ。地盤がしっかりしていないとどんなに良いものを建ててもダメなんです。年数がたちますと、どうしてもずれてきますから…。やっぱり、なんといっても基礎ですよ」 と答えられた。 そうか、人間も同じなんだな〜。 経済的に豊かで、しかも健康で、表面的にいくら幸せそうに見えても、それだけでは本当の幸せにはなれないのではないだろうか? 現に、お金をもって悩み、健康でも愚痴が出る。悲しいかな、それが人間なのだ。 要は、自分が何をよりどころに、生きているかが大切なのだ。 それは、悩むなかで、愚痴をこぼすなかでも、私の生きる方向とをちゃんと示してくれるような教えに出遇うということ。 これからも、お念仏申しつつ、阿弥陀さまと生きていこう。 |
変わるものと、変わらないもの 2000. 6.21(水) あるコンピューターの雑誌を見ていると、ある漫画家が自分のホームページを作成するためホームページ作成ソフトを、あるお店に買いに行き、そのお店の店員さんと会話する場面が、マンガで書いてあった。(ホームページ作成ソフトを持った漫画家が、店員にたずねている) 漫画家 : あのー、これマックに使えますか? パワーマック4400/200なんですけど… 店 員 : 3年前のマック? 古いですねー。大丈夫だと思いますけど… 漫画家 : ……。(これ以下は、漫画家の心の声) パソコン業界では、3年前は大昔らしい。 だけど、だけどっ。 わたしなんか、母・キミコ(57)が大学のとき着てたセーター、まだ使って いるのにー!! もっと地球にやさしくしてー 『別冊宝島 ホームページ繁盛の鉄則』 p67より 私のパソコンも買って3年が過ぎた。パソコンの業界ではそうとうな骨董品の部類になるのだろう。それを証拠に、一生懸命データーを打ち込んで頑張っている最中に全く動かなくなって、今までの苦労が水の泡になることが時々、いや、よくある。 パソコンの世界は、日進月歩とは言わず、秒進分歩と言うのだということを、ある友人から聞いたことがある。目まぐるしい早さだ。 それに引き替え、私がおつとめし、読んでいる「お経」は、2500年も前にお釈迦さまがお説きくだされたものだ。それを未だに、昔と変わることなく、本堂でおつとめし、読んで耳にいただいている。この世には、どうやら変わるものと、変わらぬものがあるようだ。 「お経」は、どの時代にあっても、決して変わることのない私の心を問題にしているのだ。だから、2500年の時を超え、私の心をとらえて離さないのだ。 移り変わる目先のことばかり追いかけて、くたびれるよりも、変わらぬ仏さまの言葉に耳を傾け、静かに自らを見つめようではないか。 仏さまの教えをよりどころとし、仏さまと共に悟りに向いて歩む、そんな中に真の仏教(徒)の姿があるのだ。 怒りやすくて恨(うら)みを抱き、邪悪にして他人の美徳を隠し、誤った見解に固執し企(たくらみ)のある人−−かれを賤(いや)しい人であると知れ。 『スッタニパータ』 だれでも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにいようとも、他人を軽んじてはならない。悩まそうとし、怒りの想いを抱いて、たがいに他人に苦痛を与えることを望んではならない。 『スッタニパータ』 自分の友にも敵に対しても、慈しみの修習をなすべきである。慈しみの心をもって、全世界を満たすべきである。これは、仏たちの教えである。 『ミリンダ王の問い』 飲み友だちという者がいる。かれは「きみよ、きみよ」と呼びかけ、「きみの親友だ」と自称する。しかし、真の友とは、ことが生じた時に味方となってくれる人である。 『ディーカ・ニカーヤ』 自己こそ自己の主である。他のだれがまさに主であろうか。自己をよく制御されたならば、その人は得がたい主を得る。 『ダンマパダ』 普段「お経」というと、「漢字ばかりで分からない」という人も多いと思いますが、こうして訳してみると、何か深く感じるものがあって、自然と「自分を見つめる」ことになりませんか?そういう力が、「お経」にはあるのです。 ![]() |
「福の神」と「貧乏神」 2000. 8. 2(水) 『大般涅槃経』という「お経」の中に、次のような話が載っている。 ある老夫婦が住む一軒家があった。その家に、ある日、身なりの綺麗な美しい上品 な娘が訪ねてきた。 戸口に出たおじいさんに、その娘は、 「一夜の宿を貸して下さい」 と頼むと、おじいさんは、 「この付近では見かけないお方じゃが、あなたはどういうお方ですか」 と尋ねる。娘は 「私は旅をしているもので、福の神でございます」 と答えた。 すると、おじいさんは、おばあさんを呼び 「福の神さまが訪ねてこられたよ」 と言って、老夫婦の喜びようといったら大変なものであった。曲がった腰も伸びたかと 思われるほど、せわしなく家の中を行ったり来たりして、手厚くもてなした。 ややしばらくして、また戸口にだれか立っているのにおじいさんが気づいた。 「だれだろう…」 と出てみると、みすぼらしい身なりの醜い娘が立っていた。 「だれだね? 何の用かね!」 と追い払わんばかりに尋ねると 「私は貧乏神でございます。今晩一晩泊めていただきたいのですが…」 と、その娘はお願いをしたのである。 すると、おじいさんは 「貧乏神なんぞ真っ平ごめんだよ。うちには、さっきから福の神さまがおいでになって、 お泊まりいただいているんだよ。貧乏神なんてとんでもない。どうかすぐにでも立ち去 っておくれ」 と言った。すると娘は去り際に 「さっきからお邪魔している娘は、私の姉でございます。私たちは、いつでも二人で一緒 に旅をしております。私を追い出されますと娘(姉)も出ていきますよ」 と言い残して去った。 案の定、福の神も、いつの間にか姿を消してしまった。 田上 太秀著 『釈尊の比喩と説話』より 人間は、自分の思い通りに目の前の物事が運ぶか、運ばないかで、事の善し悪しを 決める。 つまり、自分の思い通りに事が運ぶことを「福の神」、運ばないことを「貧乏神」といって いるのだ。決して「福の神」や「貧乏神」がいるわけではない。自分の思いによって「福の 神」と「貧乏神」を作り出しているだけなのだ。 自分の思い通りにいくことも、いかないこともあるのだから、姉妹・兄弟というかたちで、 「福の神」がいれば「貧乏神」もいて当たり前なのだ。 なのに人間は、ただいたずらに「福の神」のみを求る。仮に「福の神」が来ても喜ぶのは はじめだけで、すぐに飽きてしまい、次の「福の神」を求めては、満たされる思いのもて ないまま愚痴をこぼしてしまう。 また、貧乏神が来れば、それを自分自身の思いで決めているのもかかわらず、いろん なもののせい(墓相、仏壇の位置、厄年、ご先祖、水子…)にし、現実逃避をして、なん でもないことに振り回され、大切な人生をいたずらに過ごしてしまう。 どこまでも人間は悲しい存在なのだ。 そんな私たちに向かって、仏さまは、「気づけよ。目覚めよ。私がいつも一緒にいるよ」 と教えを通して呼びかけていて下さる。 |
「あんたの手は、猿並じゃ!」 2000. 9. 6(水) 先日、坊守(ぼうもり)の友人から 「ちょっと右手見せて」 と言われたので、右手を見せると、その坊守の友人は、私の右手を見るなり、ゲラゲラ と大きな声で笑い出したのだ。 「なんと失礼なヤツ。プン、プン!」 おまけにその友人は、こう言ったのである。 「あんたの手は、猿並じゃ。全然シワがないじゃないの。私こんな手、初めて見たわ。。 知能線も、運命線もないし、それに全然お金の貯まらん手をしとる。取り柄といえば、 生命線が長いけえ長生きするくらいかねー。ホントそれくらいじゃね〜。。」 「ひどい、ひどいじゃないか!? そうか、私は猿か! どうせ私は…!」 さらに驚いたことには、横に座っていた坊守も反論するどころか、一緒になって笑って いるのである。 そう、私はひとりぼっちである。 誰も味方になってくれる者はいない。 でも、人間の人生なんて手のシワ(手相)で全てが決まるほど単純なものじゃない。 こう言ってしまえばなんであるが、手相で全てが決まるくらいに思って、それを気にし ている者の方がよっぽど単純である。 人間イヤでも、死ぬ時が来れば、死ぬのだ。 だから今を大切に生きる。 そうして大 切に生きた分だけ、色んなことに気づかされたり、学ばされたりと、生きるということ に深みが感じられるようになるのではないか。 私は、そう思う。 また、そこには手相 など全く気にならない人生がある。 でも、何かあると気にしてしまうのも人間なのだが…。。 ![]() これが、その私の手だ! |
「仏教がわからんようになる!」 2000.11.10(金) うちのお寺では、毎月第四土曜日に「明圓寺・土曜学校」と称して子供会をしている。 その土曜学校に子供を通わせている、あるお母さんから 「あなたの話を聞いていると、仏教というものがわからんようになる」 と言われたのである。 私は少し「ムッ」とした。なぜなら、私はいつも子供たちに分かってもらえるようにと気を つけて話しているからである。「あ〜、それなのに、それなのに…」である。 しかし、そのお母さんの話をずっと聞いてみると、それは私への批判ではなかったので 「ほっ」とした。つまり、 「今まで仏教の教えとは、ご先祖を供養する教えで、お寺は法事や葬式だけをするとこ ろだと思っていたんよ。実際に、小さい頃から親に、ご先祖を大切に供養せんとバチが 当たるんよ。そのかわり大切に供養するとちゃんと守ってもらえるんよと言われてきた し。 なのに、あんたの話をきいとったら、ご先祖という言葉も出てこんし、供養という言葉も 出てこん。どういう事ね。私は、あんたの話をきいとったら仏教いうもんがわからんよう になった」 と言うのだ。それで私は、 「あんたの疑問はもっともだ。あんたがそう言ってくれることは、とても嬉しい」 と言った。そして、私はそのお母さんに 「ご先祖を大切にするということは、もちろん大事だが、それによってバチが当たるとか、 守ってもらえるというのは仏さまの教えではない。 仏さまは、[お互いに大切な命をいただいたものどうし、みんなで仲良く思いやりをもって 助け合って生きていこう。自分中心に自分の得することだけ考えて、他人(ひと)のこと を思いやることを忘れていると、争いや苦しみが生じてくる]と教えてくださっているのだ。 この仏さまの教えを実践することは、とても難しいけど、いつも心がけて生きていくところ に安らぎが生まれてくるのだ」 と話した。 ちゃんと話せば、ちゃんと疑問をもって反応してくれる人もいるもんだ。これからも頑張っ ていこ〜っと!! |
「ほんわか」した。。 2000.12. 4(月) 今年の「報恩講」のお参りも、ほとんど終わった。 この度も、ご門徒さんといろいろお話をさせていただくなかで、いろんなことを感じさせて もらった。 そのひとつに、こういうことがあった。 そのお宅は、お母さんを亡くされたばかりでお墓がまだないので、お仏壇の前にお母 さんの遺骨が安置してある。 よく見ると、その遺骨の上に赤く紅葉したモミジの葉っぱがそえてあった。 その理由をたずねると、そこの息子さんが、 「先日、宮島に紅葉狩りに行きました。ご存じのように、今年は、いつまでも暖かいので、 紅葉してないモミジの方が多かったのですが、中にはこのようにきれいに紅葉している モミジもありました。そこで、お母さんにも見せてあげたいと思って、一枚その葉っぱを 持って帰ったのです。」 とおっしゃった。 うまく言葉で言えないが、私のこころが自然と「ほんわか」した。 それと同時に、「思いやり」とか、「優しさ」というものは、言葉ではなく、こういった「おこ ない」を通して伝わるものなのかなぁ、と感じた。 「おこない」を通してと偉そうなことを言ったけど、実際には難しいことだろう…。 でも、心に留(とど)めておきたい。そして、少しでもこのような「おこない」ができれば、 仏さまのこころもいくらか伝わっていくのではないか、と思う今日この頃だ。 ![]() |
ご院さん、人間って勝手なもんですよね! 2001. 4.10(火) 先日、お参り先の家の奥さんが、次のように言われた。 「私、普段は歩くんです。 すると、ここに横断歩道があればなぁーていうことよくあるんです。 だって、下を見れば30メートル向こうに、上を見れば50メートル向こうに横断歩道が あって…、特に買い物帰りで重たい荷物を持っているときなんかにそう思います。 でもねぇ、ご院さん、人間って勝手なもんですよね〜。。。 先日、主人の車に乗せてもらって街に出たんです。 すると今度は、なんてこんなに信号が多いんだろうって思いました。」 同じ人でありながら、歩くときと、車に乗るときとでは、まったく言うことが180度違って くる。 私もそうだが、人間って、何を基準に判断しているんだろう。 この話がよい例で、自分の置かれた立場からものを言い、判断をしているのではない だろうか。 どこまでも、自己中心的な損得にとらわれるなかでものを言い、判断している、それが 私なのだ。 仏さまは、自ら何ものにもとらわれることのない深い悟りの境地を体得し、自己中心的 な損得にとらわれるなかで、争いや、恨み、苦しみだ生まれてくると、私たちに教えて くださった。 仏さまの教えをいただき、仏さまと共に生きていくということは、仏さまの教えをいつも 心の中心において、教えにてらして自らを見つめ、反省しながら、本来あるべき姿を 見据えながら生きていくということだ。 これからも、こういう生き方を見失わないようにしたいと思う、今日この頃だ。 |
お墓マジック。。。 2001. 5. 2(水) 3月の芸予地震で、うちのお墓の塀が少し崩れてしまった。 先日やっと重たい腰を上げ、セメントを近くのホームセンターで買い修理をした。 しかし、全くの素人がすることであるから、とりあえずの応急処置である。近い将来、 本職さんにお願いせねばなるまい。 今日は、そのお墓での話。 本来、こうあるべきなのだろうが、お墓では、会う人、会う人みんな不思議に何のためら いもなく笑顔で挨拶するのである。 わたし :「おはようございます」 おばちゃん:「おはよう。あんたのところのお墓はどうもなかったね?」 わたし :「はい、ありがとうございます。塀がちょっと崩れただけで…」 おばちゃん:「そりゃ、良かった。これ、よかったら使いんさいや。 草抜くのに便利じゃけぇ」 一が万事これである。今まで一度も顔を会わせたことないはずなのに…、なんだか 昔から知っている近所の人と話しているみたいだった。 街中では、顔を会わせたことのない人同志が、笑顔で親しく挨拶をすることなんて考え られないことだ。 人がよく、「お墓にお参りすると、なんだか気分がいい。すがすがしい気持ちになる」と 言うのを聞く。 すがすがしい気持ちになるということは、いろんな効果をもたらものなのだろう。 これぞ「お墓マジック」とわたしは名づけたい。 わたしは、これから生きていく中で、何回すがすがしい気持ちになることができるだろう か? そのためにも、仏さまの教えを忘れずに生きていきたいと思う今日この頃である。 ![]() |