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「日本一短い法話」のコンセプトに基づき「かんたん仏教」「かんたん浄土真宗」「法話エッセイ」の三本柱でヘゴヘゴ住職がお送りします。 仏教って、こんな教えなんだ。浄土真宗(お念仏の教えって)そうなのか、と思っていただければ、とても嬉しいです。 |
仏さまの教えは、私たちの心を照らす灯火です。 |
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「仏教」の教えってなあに? 2000.4.27(木) 「仏教なんて全然わかんな〜い」っていう人も多いんじゃないかな? また仏教というと、ご先祖やお墓、葬式に法事という暗いイメージを持つ人も多い のではないでしょうか。 そこで、第1回目は「仏教」ということについて書いてみたいと思います。 「仏教」とは、「仏の教え」と書くように、この私が仏さまの教えをいただきながら、 仏さまと一緒に生きていく宗教ということです。 また、仏さまと一緒に生きていくということは、この私が仏に成っていくということで もあります。 |
「仏さまの教え」ってなあに?(その1) 2000.4.27(木) 「仏さまの教え」って、何て言ったらいいんだろう。 非常に乱暴な言い方になりますが、、一言でいえば「現実を現実のままに、素直 にちゃんと見ていこう」ということですかね…。 もう少し言うと「全てのものは移り変わって永遠にかわらないものはない。全ての ものは関係し合い、支え合って、それだけで成り立っているものはない」ということ を明らかに見るということです。 こんなことを言っても、「何のこっちゃ」という人も多いかもしれませんが、やっぱり これは大切なことです。 だって私たちは、現実を離れては生きていけないのだから…。 今、ここを除いては存在できないのだから…。 (その2)へ続く…。 |
「仏さまの教え」ってなあに?(その2) 2000.4.27(木) 「全てのものが移り変わる」ということは、私の”いのち”がそうなんだということ。 だから過ぎ去る今をどう生きるかを問う。また、向上、進歩することも移り変わるこ となんだと常に精一杯生きるということです。 「全てのものが、それだけでは成り立っていない」ということは、この私の”いのち” が他の多くの”いのち”に支えられ、生かされているということ。 それは、他の多くの”いのち”と共に生きていくということ。だから、思いやりをもっ て、優しさを分け合って、共に生きていくことです。 人を信じるとか、安心するということは、こんななかから生まれてくるのではないで しょうか。 |
「お経」ってなあに? 2000.5.3(水) よく「亡くなった者が喜びますけ〜、有り難いお経を入れてやってくださいや!」と いうことばを耳にします。 正直多くの方が、お経は死んだ人のものと思っておられるのではないでしょうか? お経の始めをよく見ると「仏説……経」となっているでしょう。 「仏説」も「経」も、お釈迦さまの真(まこと)のお説教という意味です。 前に「仏教の教えってなあに?」というところでお話しましたが、この私が、仏さま の教えをいただきながら仏さまと一緒に生きていく宗教、それが「仏教」です。 お経を読むということは、私がそのまま仏さま(お釈迦さま)の教えに出遇っている ということ。あんまり意識していないかもしれないけど、お経を読むということは、 実は大変なことなのです。。 でも、漢文で書いてあるところがネックなんですけど…。 |
「悟り」ってなあに? 2000.11.11(土) 久々の更新です。前回(「お経」ってなあに?)のが五月だから、半年ぶりか…。 そのぶん力んだというわけではないのだが、「悟り」という途方もない大きな題を掲げて しまいました。 どうなる事やら?? ぼちぼちいこ〜う! 「悟り」を一言でいうと、「すべての執着(しゅうじゃく)を離れた境地」ということになるの では…。 何ものにもとらわれない、偏らない、自在な境地といってもいいし…。 あまりにも大き過ぎてどう言っていいか難しい?? でも、こんな境地に至ると、自分に執着して自分の考えだけを正当化して、自分と考え の違う人を非難して争ったり、、自分の利益獲得のためだけに走って、人を裏切ったり 、騙(だま)したりということがなくなるのではないでしょうか。 みんな能力も違えば、個性も違う、それぞれが違うままでみんないい、なんて言える ような世界がもてる。 それは、自分は自分のまま、このまんまでいいのだと人と比較することなしに自分自身 を受け入れて、見栄を張らずに自分のままを精一杯生きるということにもつながります。 仏さまの悟りを通して、その教えに遇(あ)うということは、いろんなことを教えられ、自分 が生きる指針となるということです。 |
「救い」ってなあに?(その1) 2001.9.24(月) 「救い」ってなんだろう? よく「家内安全、無病息災、商売繁盛、子宝安産、学業成就」などなど、いろいろとお願 いして、願いがかなうと大喜びして「私は、あの神様に、あの仏様に救われた」とか言 われているのを時々聞きませんか。 誰しも不安なときは、何かに手を合わせて願いたくなる、そうですよね。それだけに願い ごとがかなうと本当にうれしくて、「救われた」って素直に思うものなんでしょうね。 でも、そのときの喜びは一生消えないものなのでしょうか? 誰でも、お金はないよりはあったほうがいいし、病気よりは健康を願うもの。 じゃあ、お金をたくさん手にして健康であれば、私たちはもう苦しまなくなるのだろうか? そこに本当の幸せがあるのだろうか…? そうではないですね。たくさんお金を持ったがゆえに苦しむことだってあるし、健康で あっても悩みは尽きません。 私たちをどこまでも苦しみに追いやる原因は何か、ここに焦点を当てて苦しみの解決 (救い)を図るのが仏教の救いなのです。 (その2)へ続く…。 |
「救い」ってなあに?(その2) 2001.9.24(月) 私たちをどこまでも苦しみに追いやる原因は何か? その答えを一言でいうと、「自分中心にしかものを見ることのできない私自身にある」 ということ。 仏教では、自分中心にものを見るということを、自分に執着するという意味で「我執(が しゅう)」という。また、それを身と心を煩わし悩ますものという意味で「煩悩(ぼんのう)」 ともいいます。 私たちは、いつも自分中心にものを見ては自分のみの利益を求め、自分の立場を 正当化し、なかなか他の人の立場を受け入れたり、認めたりしようとしない。 だから立場の違いから争いや、憎しみをつくっては怒りの炎を燃やして苦しみを抱えて いるのです。 また、自分を中心とした損得でものを見て、自分が得することばかりを求め、他人(ひと) と分かち合おうともせず、互いに奪い合うようにして我欲を満たすために貪(むさぼ)り 、争うを起こす、またそうする中で沢山のものを手に入れながらも満足する思いをもつ ことなしに不満を抱えては苦しんでいるのです。 つまり、私たちは自分に執着する余り、「思いやり」とか「優しさ」という心を忘れ、争いや 憎しみの炎を燃やし、また沢山のものに囲まれながらも満足するという心を失って苦し みをつくっているのです。 この醜い心に気づいて反省し、我執や煩悩から離れるべく正しく自分を保つことが大切。 でも、これがなかなか難しい…。 本当、本当…。 う〜ん、本当! そう自分が自覚する中で、お互い醜いものを抱えて生きているのだなぁ、だからお互い 許しあって、生かしあって、反省しあって生きていくことが大事だと気づかされるのです。 結論をいうと、仏教の「救い」とは、家内安全、無病息災などという事ではなく、私たちの 苦しみの原因(我執・煩悩)をしっかりと受け止めて、その原因を厭(いと)い離れるべく 厳しく自分を見つめながら、自分を正しく保って生きるということです。 いのちの本当のあり方に目覚めるということかなぁ…。。。 |
お釈迦さまの一番最初のお説教・四諦(その1) 2003.2.11(火) お釈迦さまは、具体的に何を説かれたのだろう? こういう思いを持っている人は少なくないんじゃないかな…。 実は私も昔はそうでした。(ポリ、ポリ。) そこで、お釈迦さまの一番最初のお説教といわれる「四諦・八正道(したい・はっしょう どう)」についてお話をしましょう。 諦とは、普通「諦(あきら)める」と読み、「断念する」という意味で使われることが多いと 思いますが、仏教では(辞書にもちゃんと載っているのですが…)、「ハッキリさせる。 物の真実をよく見る。明らか。くわしく。」という意味で使います。 つまり、お釈迦さまは自らの悟りの内容を、四諦(四つの明らかなこと)という話で お説教してくださったというわけです。 四諦とは、「苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)」という 四つをいいます。 苦諦 → 「生きるということは、思うようにならないこと(苦)が多いということ。」 集諦 → 「苦の原因は、自分勝手にものを見て、自分の欲望のみを満たそうする自分 自身の心(我執・煩悩)にあるということ。」 滅諦 → 「苦しみの原因を克服すると苦しみから解放された安らぎの世界(滅諦・悟り) に至ることができるということ。」 道諦 → 「安らぎの世界(滅諦・悟り)に至るには、八種類の正しい道(心・生活)がある ということ。」 |
お釈迦さまの一番最初のお説教・苦諦(その2) 2003.2.11(火) 苦諦の苦とは、インドの言葉で「ドゥークハ」といい、「思うようにならない」という意味で す。この苦の代表的なものを四つ、または八つあげて仏教では「四苦・八苦」といって います。 お釈迦さまは、「苦諦」という言葉で苦しみ(人生)の現実を明らかにしてくださいました。 四苦 → 「生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)」をいいます。 八苦 → 四苦に「愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふ とっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の四つを加えたものをいいます。 死にたいと思い、死を願いながら生きている人がいるでしょうか? これを読まれている、あなた自身どうですか? (といっても、年間3万人余りの方が自殺しておられることを思うと胸が痛みますが…。) 私が、よくお説教で年輩の方に「あなたにとっての幸せは何ですか?」と問うと、 ほとんどの方が「健康、お金…」と答えられます。 健康も、お金も、私たちが生きていくためには必ず必要なものです。 しかし、健康を強く願いながら、努力しながらも、日々「老・病・死」の方向へ向かってい るのが私たちの現実ではないでしょうか。 このどうしようもない現実をお釈迦さまは「苦」という言葉で明らかにしてくださったので す。これは、理屈ではなく、お釈迦さまの実感だったのだと思います。 愛別離苦 → 愛しいものとも別れなければならない苦しみ。 (子ども、夫、妻、両親などとの死別…。) 怨憎会苦 → イヤで嫌っているもの同士でも、同じ場所に居なくてはならない苦しみ。 (嫁姑問題。いじめ…。) 求不得苦 → 求めても思うように得ることが出来ない苦しみ。(家、財産…。) 五蘊盛苦 → 肉体を維持していくために生じる苦しみ。(食欲、性欲、睡眠欲…。) 四苦でピンとこなかった人も、八苦までくると思い当たることが2〜3は出てくるのでは ないでしょうか? |
お釈迦さまの一番最初のお説教・集諦(その3) 2003.2.11(火) 集諦の集とは、苦しみを集め招くものという意味で、苦の原因をいいます。 それを仏教では、我執(がしゅう)、煩悩(ぼんのう)、無明(むみょう)などといいます。 お釈迦さまは、「集諦」という言葉で苦しみの原因を明らかにしてくださいました。 全てものは無常(むじょう)であって、移り変わっていくものであるのに、自分の好むもの に執着し、いつまでも変わらずあって欲しいと思い込む。そして、移り変わり、崩れ去っ ていく現実の前で愚痴をこぼしては苦しみにかえていく。 自分中心に執着し(我執)、自分の欲望のみを満たそうとして、他を思いやり分かち合う ことをせず、互いに奪い合い憎しみをつくっては苦しみを招く。 自分のみの思いを正当化し、他人の思いを理解し、生かし合うことをしないで対立をして は争い苦しみを招く。 私たちは、我執があるから、この身を煩(わずら)い、この心を悩(なや)まさねばなら ない(煩悩)。また、明らかに(正しく)ものを見通すことが出来ない(無明)。 仏教では、「苦しみは自らの心(画集や煩悩)が起こすもので、決して外からやって来る ものではない」と教えます。 ですから、苦しみを封じ込めるために「お札」を張ったり、守ってもらうために「お守」を 身に付けたりということをしません。 あなたはどうですか? 「お札」を張ったり、「お守り」を身に付けたりする前に自分自身 の心のあり様をお念仏申しつつ問うてみませんか!! |
お釈迦さまの一番最初のお説教・滅諦(その4) 2003.2.11(火) 滅諦の滅とは、滅度(めつど)のことをいいます。 滅度とは、苦しみの根元である我執・煩悩を滅して、涅槃・悟りの世界に度(わた)る ことを意味します。 お釈迦さまは、「滅諦」という言葉で苦しみを越えた安らぎの世界を明らかにしてくださ いました。 お釈迦さまが明らかにしてくださった安らぎの世界は、自分中心にものを見たり、考え たりという世界を越え、互いが思いやり、支え合って生きていく世界です。 思いやるとは、他人の痛みを私自身の痛みと感じ、互いにに助け合うことです。 ですから、もちろん争いや憎しみを越えています。というより、争いや憎しみの本当の 愚かさを知っているから、争いや憎しみから永遠に離れているといっても良いでしょう。 この世界では、自分を中心(基準)に比べたりすることなく、互いに違いを認め合い、 生かし合うことの出来る世界です。それは、一人ひとりが大切にされる世界です。 だから、自分を嫌いにならないで、自分は自分のままでいいのだと、そのままを受け 入れることが出来るのです。 仏教とは、この仏さまの悟りの世界を大切にいただき、自分自身のあり様を常に問い、 反省しながら仏さまと共に滅度に向かって生きていく教えです。 |
お釈迦さまの一番最初のお説教・道諦(その5) 2003.2.11(火) お釈迦さまは、「道諦」という言葉で、滅諦(涅槃・悟り)に至る道を明らかにしてください ました。 すばらしい野球の打撃理論をいくら正しく理解していても、それを繰り返し、繰り返し 練習をしなければ、その選手の身には付きません。 それと同じで、いくらお釈迦さまの「滅諦」の世界を理論的に知っていても、自分の身 に付いたとはいえません。 つまり、「滅諦」の世界を大切にして、自分自身のあり様を常に問い、愚かな自分を反省 しながら滅度に向かってその道を歩むということを「道諦」といいます。 早速、「道諦」の話に移りましょう。この道には八種類あります。 正見(しょうけん) → 「正しくものを見る。あるがままにものを見る。」 正思惟(しょうしゆい) → 「正しく思うこと。貪りや怒りの心を離れる。」 正語(しょうご) → 「正しく語ること。嘘やおべんちゃら、二枚舌、悪口を言わない。」 正業(しょうごう) → 「正しい行い。殺生や盗み、不倫をしない。」 正命(しょうみょう) → 「正しい生活。正思惟、正語、正業を基本とした生活。」 正精進(しょうしょうじん) → 「悟りに向かって進む正しい努力」 正念(しょうねん) → 「悟りに向かって進む強い思い。また、その思いを見失わない こと。」 正定(しょうじょう) → 「心を一つにして惑わないこと。」 我執や煩悩を離れて正しくものを見ること(正見)を大切にして生活(正命)する。 それは、正思惟、正語、正業の三つを基本とする。 また同時に、悟りに向かう正しい努力(正精進)と悟りに至るという強い思い(正念)を 伴うことが必要となる。 すると何ものにも惑わない心(正定)が成就する。この心(正定)によって正見が実現 する。 |
「煩悩」とは? 2002.2.25(火) 煩悩(ぼんのう)って言葉よく聞きますよね。そんなことないかなぁ〜? 煩は、わずらう。脳は、なやむ。つまり、煩悩とは、「私のこの身を煩わせ、この心を悩 ますもの。」という意味です。また、私たちの苦しみの根元にある愚かな心と言い換える こともできます。 じゃあ、具体的にどういうことか? それを仏教では、「三毒の煩悩」として説明することが多いと思います。 ○三毒の煩悩→貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の三つをいいます。 ○貪欲→自分の好むものを貪(むさぼる)る心。 互いに思いやり、分け合う心がないために、自分の欲望のみを満たすこと に躍起になって互いに奪い合い、争い合っては苦しみをつくる。 ○瞋恚→自分が嫌いなものを怒りの対象にして排除する心。 自分の考えのみを正当化し、考えの異なる人と対立しては怒りの炎を 燃やし、争い合っては苦しみをつくる。 (他の人を思いやり、互いに生かし合うことを忘れると苦しみが起こってくる。) ○愚痴→互いに思いやり、生かし合って共に生きていくという本当の「いのち」のあり 方を知らない愚かな心。 この愚痴の心が元になって、貪欲や瞋恚の心を繰り返すようになる。 そして、際限なく苦しみを繰り返すのである。 なのに私たちは、この道理を如実に悟って、本当の「いのち」のあり方に目覚めて生き ようとしない。そんな私たちのことを、仏さまは「凡夫」というと教えてくださった。 「凡夫」、これが私の本当の姿だ。トホホ…。。。 |