親鸞聖人(しんらんしょうにん)の33回忌にあたる建仁2年(1294)に親鸞聖人のひ孫である覚如上人(かくにょしょうにん)が、親鸞聖人の遺徳を讃えた『報恩講式(ほうおんこうしき)』一巻をあらわされました 。
続いてその翌年の10月、親鸞聖人の遺徳を讃える気持ちをあらたに覚如上人は『親鸞伝絵(しんらんでんね)』をご制作になりました。
『親鸞伝絵』とは、親鸞聖人の伝記絵という意味で、詞書(ことばが
き)と絵とを交互に連ねた絵巻物です。
浄土真宗では、詞書きの部分だけを『御伝鈔(ごでんしょう)』(上巻・八段、下巻・七段)といい、絵の部分だけを縦型の四幅の掛軸にして『御絵伝(ごえでん)』といっています。
ここでは、『親鸞伝絵』のように詞書き(の部分)と絵(簡単な説明付き)を交互に示しながら親鸞聖人の御一生をご紹介いたしたいと思います。

  *『御伝鈔』の部分は、原文に基づく忠実な現代語訳ではなく
    大まかなあらずじを現代語であらわしています。


       ◇「本願寺聖人親鸞伝絵・上」
        第一段 「出家学道(しゅっけがくどう)」
        第二段 「吉水入室(よしみずにゅうしつ)」
        第三段 「六角夢想(ろっかくむそう)」
        第四段 「蓮位夢想(れんにむそう)」
        第五段 「選択付属(せんじゃくふぞく)」
        第六段 「信行両座(しんぎょうりょうざ)」
        第七段 「信心諍論(しんじんじょうろん)」
        第八段 「入西観察(にゅうさいかんざつ)」


       ◇「本願寺聖人親鸞伝絵・下」
        第一段 「師資遷謫(ししせんたく)」
        第二段 「稲田興法(いなだこうぼう)」
        第三段 「山伏済度(やまぶしさいど)」
        第四段 「箱根霊告(はこねれいこく)」
        第五段 「熊野霊告(くまのれいこく)」
        第六段 「洛陽遷化(らくようせんげ)」
        第七段 「廟堂創立(びょうどうそうりつ)」


   ○参考文献 
    『親鸞聖人絵伝』 平松 令三著 本願寺出版社
    『御伝鈔講讃』 鎌田 宗雲著 永田文昌堂


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           ◇「本願寺聖人親鸞伝絵・上」
         第一段 「出家学道(しゅっけがくどう)」

親鸞聖人は、藤原鎌足をはじめとする藤原氏の流れをくむ者です。
父親は、皇太后宮職の大進・日野有範(ひのありのり)です。
このような家系に生まれた方ですから、朝廷に仕えてさえいれば
高位まで出世もできたでありましょうが、親鸞聖人は正しく仏教の
教えを世にひろめたいと強く思われていました。
そこで9歳の春、伯父の日野範綱(ひののりつな)に連れられて、
青蓮院(しょうれいいん)の慈鎮(じちん)和尚のもとで得度をし、
出家をしました。
この時から名前を範宴(はんねん)とされました。
比叡山に登り、横川に住んでいた源信(げんしん)和尚の流れをくみ
つつ、天台宗の奥深い教え(四教円融 しきょうえんにゅう)を学んで
いかれました。
          第一軸・第一図 「出家学道」

親鸞聖人(幼名:若松丸)が9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)
につれられて出家得度のため京都・粟田口の青蓮院へ慈鎮和尚を
訪ねられたところが描かれています。
           第一軸・第二図 「出家学道」

青蓮院の客殿で、伯父の日野範綱とともに慈鎮和尚と対面している
ところ(左半分)、得度されているところ(右半分)が描かれていま
す。   〈得度:頭髪を剃り僧侶になること〉

           も ど る



      上巻・第二段 「吉水入室(よしみずにゅうしつ)」

建仁元年(1201)、親鸞聖人が29歳の春の頃です。
親鸞聖人は、比叡山で僧位のあがっていく栄達の道を捨てて、本来
の仏道修行の目的である「迷いをこえて悟りを開き仏になる道」を
求め、一生懸命に仏道修行を励まれました。
しかし、自らの力で、悟りを開き仏に成ることは大変難しく困難なこと
だ痛感した親鸞聖人は、思い切って「阿弥陀さまの本願念仏の教え」
を説かれていた吉水(よしみず)の法然(ほうねん)上人のもとを訪ね
られました。
法然上人の教えを聞いた親鸞聖人は、すぐに「阿弥陀さまの本願念
仏」の教えを深く理解され、迷いの凡夫がこの身のままで、お浄土に
往生し、仏になる真実の信心をいただいていかれました。
           第一軸・第三図 「吉水入室」

親鸞聖人(白衣姿)29歳の春、建仁元年(1201)3月15日、吉水
の禅房に法然上人(黒衣姿)を訪ねられたところが描かれていま
す。

           も ど る



       上巻・第三段 「六角夢想(ろっかくむそう)」

親鸞聖人は、31歳の建仁三年(1203)4月5日午前4時頃に夢を
見ました。
お弟子の真仏房が書写されたという『夢記』の記録が残っており、そ
『夢記』のは、次のようなことが記録されています。
六角堂の観音菩薩(かんのんぼさつ)が、おごそかな顔立ちをした
聖僧となり、白い衣にお袈裟(けさ)を付け、大きな白蓮華に正座して
親鸞聖人に仰った。

「いままで僧侶は妻帯してはいけないと禁止されてきましたが、もし
あなたが宿業によって妻帯をされるなら、私(観音菩薩)が玉のよう
な美しい女性の姿になって、あなたの妻となりましょう。そして、一生
の間、あなた(親鸞聖人)がお念仏の教えをひろめることを助け、
あなたの臨終の時には極楽に導き往生させましょう。」

さらに観音菩薩は、

「これは私の願いなのです。親鸞よ、この私の願いをみんなに説き
聞かせなさい。」

と仰った。
           第一軸・第四図 「六角夢想」

建仁三年(1203)4月5日の夜中の三時(寅の時)、岡崎の草庵で
臥せている親鸞聖人の夢の中に現れた六角堂救世観音菩薩の
お告げがあった情景です。

           も ど る



       上巻・第四段 「蓮位夢想(れんにむそう)」

建長八(1256)年2月9日の夜、親鸞聖人の身のまわりのお世話を
されていた蓮位房(れんにぼう)が夢の中で聖徳太子からお告げを
受けました。
それは、「尊い慈悲をおもちの阿弥陀さま」と聖徳太子が親鸞聖人に
仰られつつ、頭(こうべ)を垂れて次のように申されたというのです。

「親鸞聖人は尊い仏さまの教えによって、すべての人々を救うために
この世にお生まれになられた方である。」

これによって親鸞聖人は、阿弥陀さまの生まれ変わりの方であること
は明らかなことであります。
           第一軸・第五図 「蓮位夢想」

京都五条西洞院の草庵で、下間(しもつま)の蓮位房が不思議な夢
夢想を感得している情景を描いたものです。

           も ど る



       上巻・第五段 「選択付属(せんじゃくふぞく)」

法然上人が親鸞聖人に自らの著書『選択本願念仏集』を書写する
ことを許され、また書写した『選択本願念仏集』に綽空(しゃっくう)
と名前まで書き加えられました。
親鸞聖人は、これらのことを自らの著書『顕浄土真実教行証文類』
の『第六・化身土文類』のなかに

しかるに私は建仁元年(1201)、20年間比叡山で学んだ自力の
教えを捨てて、法然上人の弟子になり本願念仏(他力)の教えに
帰依しました。
そして、元久二年(1205)法然上人から『選択本願念仏集』の書写
を許可されました。
同じ年の4月14日、書写しものに『選択本願念仏集』という題名と
「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」という副題と釈綽空という
名前を法然上人自らが書いてくださいました。
また同じ日(4月14日)に法然上人の御真影(肖像画)をお借りする
ことができましたので、ありがたく描かせていただきました。
その年の閏(うるう)7月29日、描いた肖像画に法然上人が直筆で
「南無阿陀仏」の名号と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 
若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生
称念必得往生」 (もしわれ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を
称せん。下十声に至るまで、もし生まれずば正覚を取らじ。彼の仏
いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚し
からず、衆生称念すれば、必ず往生を得。)という善導大師の『往生
礼讃』に記されていたお言葉をお書きになられました。
しかも、夢のお告げによって綽空という私の名前を改めて、直筆で
別の名前を書いてくださいました。
その時、法然上人は73歳でした。
『選択本願念仏集』は、そのころ出家しておられた関白・九条兼実公
(くじょうかねざね)の命令によって著されたものです。
真宗の要点や、念仏の教えの奥深いところが、この著書の中には
よく述べられています。ですから、これを見るものは、念仏の教えを
理解しやすく、これ以上勝れた書物は他にありません。
しかし、法然上人のお弟子は数多かったのですが、実際に拝見し、
書写を許されたものは本当にわずかしかいません。
それなのに、私親鸞は、拝見並びに書写を許され、さらに御真影
(肖像画)まで描かせていただきました。
これはひとえに念仏を称えさせていただく身となった徳によるもの、
また浄土へ必ず往生できるというしるしであります。
ここに涙をおさえながら、これまでの経緯を記しておきます。

と書かれています。
           第二軸・第一図 「選択付属」

吉水の禅房の情景です。向かって右半分は親鸞聖人が、法然上人
から『選択本願念仏集』を授けられているところが描かれ、左半分は
吉水の禅房で、元久2年7月29日、法然上人がご真影に讃銘され、
それを親鸞聖人に授けているところが描かれています

           も ど る



      上巻・第六段 「信行両座(しんぎょうりょうざ)」

法然上人が生前に他力往生のみ教えをひろめられたところ、世間の
人々はみな上人に帰依しました。
朝廷をはじめ国中の人々が法然上人のみ教えを仰いだのでした。
そんなこんなで、法然上人の草庵には貴賤を問わず多くの人が
やって来ましたので、門前はまるで市場のようににぎやかでした。
法然上人の弟子・僧侶は380数人というこということでした。
しかし、本当に法然上人の教えをいただいて一生懸命にお念仏を
申しているものは大変少なく5、6人もないということでした。
そこで親鸞聖人が法然上人にあるとき申し上げました。

「私が難行の聖道門を捨てて、易行の浄土門に入れたのは全く法然
上人の教えに出遇えたのおかげです。これ以上の喜びはありませ
ん。ところが、本当に法然上人の教えをいただいて浄土へ参ること
ができる程の信心をいただいているものがどれだけいるでしょうか?
今度お弟子のみんなが参集するときに、私が質問をして、その心の
内を試してみたいと思いますが、いかがでしょう。」

と、すると法然上人は

「よろしい。明日みんながやって来たときに質問してみなさい。」

と仰いました。
そこで翌日、お弟子が参集している場で親鸞聖人が、

「阿弥陀仏の本願を信じて往生する(信不退)のか、それとも念仏を
多く称えたその功徳によって往生する(行不退)のか、どちらか態度
を明らかにするため二つに分かれてすわってください。」

と申されました。
それを聞いた300人余りのお弟子たちは、よく親鸞聖人の意図と
するところが分からない様子でしたが、聖覚法印(せいかくほういん)
と法蓮坊信空(ほうれんぼうしんくう)とが

「信不退の座にすわりましょう」

と申されました。
そこへ遅れてやって来た熊谷直実(くまがいなおざね)入道が

「何をしておられるのですか?」

と親鸞聖人に尋ねましたので、

「今、信不退と行不退とに分かれてすわってもらています。」

と親鸞聖人が答えましたところ、熊谷直実が

「私は信不退の座にすわりましょう。」

と申しました。しかし、後の沢山のお弟子はとるべき態度をなかなか
決めかねていました。
そこで、親鸞聖人自信は信不退の座にすわられました。
すると、しばらくして法然上人が仰いました。

「私も信不退の座の方にすわりましょう。」

その時、態度を決めかねていたお弟子たちは、敬いの様子をする
者もいれば、後悔をしてうつむく者もいました。 
           第二軸・第二図 「信行両座」

吉水の禅房で行信両座を分け、それぞれの所信を試みている情景
です。
右半分は信行両座に分けることについて内談しているところを描き
、左半分は内談の翌日、信行両座に分けて親鸞聖人が記帳してい
るところを描いている。

           も ど る



      上巻・第七段 「信心諍論(しんじんじょうろん)」

親鸞聖人が仰いました。
昔、法然上人の前に正信房(しょうしんぼう)、勢観房(せいかんぼう)
念仏房といった人たちといたときのことです。
親鸞聖人が、

「私の信心と、法然上人の信心とは全く同じものであります。」

と言われたところ、正信房たちが

「なぜそんなことが言えるのか、同じなどということはない。」

と言って親鸞聖人を咎(とが)めるように反論しました。
そこで親鸞聖人が

「法然上人の知識の深さや、そのお徳と同じといっているのではなく
信心について言っているのです。」

と言われましたが、なかなか正信房たちと決着がつかないので、
直接この是非を法然上人にたずねてみようということになりました。
そこで法然上人は、

「共に同じ阿弥陀さまのお救いをいただく信心であるから、私法然の
信心も親鸞の信心も同じものである。もし違うというのであるなら、
私(法然)と同じ浄土へは参れません。」

と仰ったので、反論していた者もとうとう口をつぐんでしまいました。
           第二軸・第三図 「信心諍論」

吉水の禅房で、親鸞聖人の信心も法然上人の信心も同一であると
いうことが問題になり、正信房以下の人々と論争されました。
そこで、法然上人の判決が信心に変わりがないとされたので、今更
ながら親鸞聖人の信心堅固に驚嘆された情景が描かれています。

            も ど る



      上巻・第八段 「入西鑑察(にゅうさいかんざつ)」

親鸞聖人は、お弟子の入西房の心を察し、ご自分の肖像画を描く
ことをお許しになって

「七条あたりに住んでいる禅定法橋(ぜんじょうほっきょう)の描か
せてははどうか。」

と仰いました。
入西房に招かれてやって来た禅定法橋が親鸞聖人を見てビックリ
し、また喜びの涙を流しながら申しました。

「昨夜、尊いお坊さんの夢を見ました。そのお坊さんのお顔はあなた
そっくりです。また、その尊いお坊さんはの正体は長野・善光寺の
阿弥陀如来さまであるということです。」

これは、親鸞聖人70歳の仁治三年(1242)9月20日の夜のこと
です。
つくづくとこの不思議なことを考えてみますと、親鸞聖人が阿弥陀
如来さまの化身であるということは間違いのないことです。
親鸞聖人の弘められた「本願念仏の教え」は、阿弥陀如来さまの
直説です。親鸞聖人のみ教えをみんなで仰いでいきましょう。
           第二軸・第四図 「入西鑑察」

五条西洞院の禅房で、弟子の入西房(にゅうさいぼう)に御真影を
写すことを許可されているところが描かれています。
右半分は入西房に御真影を写すことを許されているところ。
左半分は筆を持ち御真影を写している定禅法橋(じょうぜんほっきょ
う)の姿が描かれています。

            も ど る



            ◇「本願寺聖人親鸞伝絵・下」
         下巻・第一段 「師資遷謫(ししせんたく)」

浄土門(他力)の教えが盛んになり、聖道門(自力)の教えがすたれ
てきました。そこで奈良や比叡山の僧侶は、これは法然上人のせだ
と怒りを露(あら)わにし、処罰すべきと朝廷に訴えました。
このことを親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に

浄土門の教えに暗い奈良(興福寺)の僧侶は、怒りを露わにし、とう
とう天皇(後鳥羽院と土御門院)に訴えて出ました。
すると天皇やそれに仕える臣下たちは法律をはきちがえ、道理に
背いて、腹を立て、不実な行為をするに至りました。
そのため法然上人をはじめ幾人かのお弟子たちが、死罪になった
り、僧籍を奪われ遠国に流罪となりました。私、親鸞も流罪になった
一人であります。 (法然上人→土佐、親鸞聖人→越後)
これからは、僧でもありませんし、俗でもありません。なので、禿の字
をもって私の姓とすることにしました。
こうして辺鄙(へんぴ)な国に流されて5年の月日が経ちました。

と書かれています。
順徳天皇(佐渡院)の建暦元年(1211)11月17日に、岡崎中納言
範光(のりみつ)より赦免(しゃめん)の勅命(ちょくめい)がありまし
た。
親鸞聖人は、罪が許された後も、その土地の人々に教えを説き弘
めるために越後国(新潟県)にとどまっておられました。
           第三軸・第一図 「師資遷謫」

承元元年2月の念仏禁制の情景が描かれています。
           第三軸・第二図 「師資遷謫」

仁寿殿において公卿衆を召集し、法然上人などの罪科を詮議してい
る情景が描かれています。
           第三軸・第三図 「師資遷謫」

法然上人は土佐の国に流罪と決まり、承元元年3月16日、法性寺
の小御堂から出られるところが描かれています。
           第三軸・第四図 「師資遷謫」

親鸞聖人も法然上人と同じく16日、配所は越後の国府と定められ
出発します。
法然上人を見送るのは辛く、時を早めて朝早く岡崎の草庵を出発
されているところが描かれています。
右半分は親鸞聖人が輿に乗せられるところで、左半分は親鸞聖人
が乗られた輿が門を出たところが描かれています。

            も ど る



       下巻・第二段 「稲田興法(いなだこうぼう)」

親鸞聖人は流罪の地、越後(新潟県)から常陸(茨城県)に移って、
笠間郡稲田郷というところに秘かに隠居しておられました。
しかし、僧侶や在家の人々が次から次とやって来て、門前はいっぱい
になりました。
親鸞聖人の仏さまの教えを世に弘めたいという念願がここに達成さ
れたので、

「若い頃、京都・六角堂の観世音菩薩さまから聞かされた夢のお告げ
と一致したね。」

とつくづく申されました。
           第三軸・第五図 「稲田興法」

親鸞聖人が越後(えちご)の国より常陸(ひたち)の国を越えられ、
稲田の草庵にてご教化されているところが描かれています。
右半分は越後の居多が浜をお通りになっているところ、左半分は
稲田の草庵でご教化されているとこです。

            も ど る



        下巻・第三段 「弁円済度(べんねんさいど)」

親鸞聖人は、常陸の国で阿弥陀さまのお念仏の教えをたくさんの人
に弘められました。
それを山伏の弁円(べんねん)という男が嫉妬から怨みをいだき、
親鸞聖人を殺害しようと聖人がよく通られる板敷山(いたじきやま)
で待ち伏せをするようになりました。
しかし、なかなか思うようにならない弁円は、とうとう親鸞聖人の草庵
に直接乗り込んで行きました。
すると親鸞聖人は何のためらいもなく弁円の前に出て来られました。
その温和なお顔を拝した弁円は、たちまち聖人殺害の思いは消え
去り、自分の愚かな思いを後悔しました。
弁円は、その場で持っていた弓矢・刀を捨て、山伏の衣服を脱いで
親鸞聖人の説く阿弥陀さまの教えに帰依し、聖人のお弟子になりま
した。このとき聖人は、この弁円に明法房と名づけられました。
          第三軸・第六図 「弁円済度」

板敷山(いたじきやま)にて親鸞聖人を殺害しようとした山伏弁円
(やまぶし・べんねん)が、稲田の草庵に住んでいる親鸞聖人を襲お
うとしましたが、親鸞聖人の温顔に接して弓矢を捨てて帰依する情景
が描かれています。
右半分は板敷山の峠で弁円一味が、親鸞聖人を待ち伏せしている
ところです。
左半分は稲田の草庵での情景です。

           も ど る



        下巻・第四段 「箱根霊告(はこねれいこく)」

親鸞聖人が長年住まわれた関東の地を離れ京都に帰る旅に出られ
ました。
日が暮れてから箱根の山路にさしかかりましたので、やっとの思いで
それを越え、人里に降りて来た頃には夜明け近くになっていました。
そこで親鸞聖人が一軒の家に寄り声をかけてみたところ、立派な衣
装を着けた老人が出てきました。

「この地の習慣で、権現(神)さまに仕える者が夜を徹して遊んでおり
ます。私もその一人として遊んでおりましたが、ついうつらうつらと居
眠りをしてしまいました。
その時、夢か何かハッキリしませんが、権現さまが現れて 〈今から
私が尊敬している客人が来られる。失礼のないよう丁重にもてなす
ように〉 と仰いました。
それから直ぐにあなた(親鸞聖人)がお見えになったのです。
あなたはただの人ではありますまい。」

と言って、その老人は聖人に珍味を用意し、ご馳走をしてもてなして
くれたということです。
           第四軸・第一図 箱根霊告

親鸞聖人が箱根権現の翁の饗応(きょうおう)を受けられるところが
描かれています。(右半分)
  〈饗応:ごちそうする。酒食を用意して人をもてなす〉

第四軸・第二図(下巻・第五段 「熊野霊告」)
仁治元年2月、京都五条西洞院の御坊に親鸞聖人が住んでいた頃
、大部の平太郎が熊野権現参詣の途中に立ち寄り、教えをうけてい
るところが描かれています。(左半分)

           も ど る



        下巻・第五段 「熊野霊告(くまのれいこく)」

親鸞聖人が京都に帰られてからは一つ処に長く住むことをされずに
ある時は左京、ある時は右京と転々と移住しておられました。
聖人が五条西洞院のあたりに居られたときのことです。関東でご縁の
あった門徒たちがたくさん聖人のもとに尋ねてきました。そのうちの
一人に平太郎(常陸の国の人)という熱心な門徒がおりました。
平太郎は、地方の領主の命令で熊野権現に参詣しなければならなく
なりりました。そこで、その是非を親鸞聖人に尋ねると、聖人は

「この末法の世にあっては、阿弥陀さまの本願念仏の教えを信じ、念
仏を申すしか、仏に成り悟りを開くことはできません。道綽禅師(どう
しゃくぜんじ)が、 〈聖道門を捨てて浄土門に帰せよ〉 と仰ったのを
はじめ、それは七高僧の一致するところです。
また、浄土三部経ををいただいてみてもそれは明らかなことです。
また、熊野権現の本体は阿弥陀如来なのです。私たち衆生を救うた
めに、この日本に出現されたのです。
何も畏れる必要はありません。また、精進潔斎をする必要もありま
せん。そのままお参りをしなさい。」

と仰いました。
平太郎は、この親鸞聖人の言葉の通り熊野権現にお参りをし、無事
到着をしました。その夜のこと、この平太郎が次のような夢を見たの
です

熊野権現の証誠殿(しょうじょうでん)の扉が開いて、そこから正装を
した貴族が現れ、 〈何でおまえは精進潔斎もせず不浄の体で参詣
するのか〉 と平太郎は叱られました。
すると、その貴族の前に親鸞聖人が現れて 〈この男は私の導きに
よって阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を申しているのです。〉 と仰い
ました。
それを聞いた正装の貴族は姿勢を正し、敬礼の態度をとって、平太
郎に何も言わなくなりました。

平太郎は不思議な夢を見て感動し、それを言葉に表すことができま
せんでした。
熊野参詣からの帰り、親鸞聖人のところに立ち寄ってこのことを話し
ますと、聖人は

「うん、そうか、そうか」

と、すべててお分かりになっていたかのようなご様子でした。
誠に不思議なことでした。 
           第四軸・第三図 「熊野霊告」

熊野権現に参詣した平太郎が、社殿でうたた寝している中で霊夢
を感得しているところが描かれています。

           も ど る



        下巻・第六段 「洛陽遷化(らくようせんげ)」

親鸞聖人は、弘長二年(1262)11月下旬のころから、ちょっとした
病気になられました。それからは世間的なことは全く口にされず、た
だ阿弥陀さまのご恩の深いことを話され、絶え間なくお念仏を申して
おられました。
そして11月28日正午ごろ、お釈迦さまのご入滅にならわれて、頭を
北に、顔は西に、右脇腹を下にして臥(ふ)したまま、とうとうお念仏
の声が途絶え、ご往生されていかれました。享年90歳でした。
その時のお住まいは三条富小路でしたから、遠く賀茂川の東の道を
通って延仁寺で火葬に致しました。翌日、ご遺骨を東山の麓にある
大谷の地に納めました。
このとき親鸞聖人のご教化のご縁のあった人々は、みんな聖人の
ご遷化(せんげ)を悲しみ、涙を流したことでした。
          第四軸・第四図 「洛陽遷化」

親鸞聖人の御往生と御葬送の情景が描かれています。
向かって右下の右側は善法院でご病気中の親鸞聖人、右上は親鸞
聖人の御往生の様子。
左半分は親鸞聖人の御遺骸を輿(こし)に納め、延仁寺の荼毘所に
送ろうとしているところが描かれています。
 
  *善法院は、親鸞聖人の実弟、尋有(じんう)僧都のお寺です。
           第四軸・第五図 「洛陽遷化」

親鸞聖人の御遺骸を延仁寺で荼毘している情景が描かれています。

           も ど る



      下巻・第七段 「廟堂創立(びょうどうそうりつ)」

親鸞聖人のご往生から10年後の文永九年(1272)冬の頃、大谷に
あった聖人のお墓を改葬し、大谷より西にあたる吉水(よしみず)の
北のあたりにお堂を建て、ご遺骨をそこへ移して、お堂には聖人の
御影像を安置しました。
この頃になると聖人の弘めた本願念仏の教えは、益々盛んになり、
諸国に満ちあふれ、廟堂にたくさんの人が聖人のお徳を慕ってお参
りにやって来るようになりました。
以上、親鸞聖人については不思議なこと、心を打つ出来事がたくさん
ありますが、詳しく記す時間がございませんので、残念ながら省略い
たします。
          第四軸・第六図 「廟堂創立」

文永九年の冬、建立になった大谷本廟の様子が描かれています。

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