このころ、朝日新聞は放送の支柱をNETとする一方、昭和39年4月12日に開局した日本科学技術振興財団テレビ事業本部・通称東京12チャンネルの経営にも参加、ニュースも提供した。東京12チャンネルは現在のテレビ東京ではあるが、最初の9年半ほどは「財団法人日本科学技術振興財団」が運営していた科学技術専門教育テレビ局、つまり別物だった。
1957(昭和32)年1月。郵政当局が11チャンネル制を採用し、全国的にテレビ局を増やす構想を明らかにし、東京地区では、8・10の2つのチャンネルに新局が割当てられることになった。そして1959(昭和34)年2月1日に10チャンネルに日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日)が教育局として開局。そして翌月に8チャンネルにフジテレビジョンが開局した。今度こそ、もうこれ以上、東京にテレビ局は開局することは無いと思われていた。ところが1960(昭和35)年、米軍がレーダー用に使用していた、12チャンネル。東京最後のVHF電波が日本に返還されることなり、郵政省は12チャンネルにテレビ局を割り当てる。当時、UHFは未使用帯だったため、今度こそ、東京に割り当てられた、本当に最後のテレビ局ということになる。(のちにUHF帯に東京都域局・メトロポリタンテレビジョン(略称MX、愛称・TOKYO MX、14ch・JOMX−TV、平成5年11月1日開局)が開局するが、この時点ではかなり先のことである。)当然、いろいろな会社が申請をし、主なところでは、ラジオ関東※1、千代田テレビ、日本電波塔(東京タワーの運営会社)、日本科学技術振興財団などであった。基本的にはテレビ局の割当てに対して、申請が競合した場合、原則として調整し一本化を図り、一本化された申請に免許が下りる場合がほとんどで、フジテレビもNETもそうであった。しかし、大方の予想と異なり、12チャンネルの免許は、この中の1団体、しかも会社組織ではない、財団法人の日本科学技術振興財団に「はい免許」という形で認可が下りた。当然この結果に、免許申請の競合他社は怒り、1990年代まで裁判沙汰となった。実はこの12チャンネル、津野田知重という人物がアメリカに単身で乗り込み、返還させたチャンネルで、その津野田は、日本科学技術振興財団に関わっていた。つまり12チャンネルの免許争奪戦は、最初から結果の決まっていた戦い(つまり「出来レース」)だったわけだ。そして、「日本科学技術振興財団テレビ事業本部・東京12チャンネル」愛称「科学テレビ」は1964(昭和39)年4月12日に、東京最後のVHFテレビ局として開局した。すごく堅苦しい名前ではあるが、それは名前だけで無く、番組内容もそうで、国からは科学技術教育番組を60%、一般教養番組を15%、教養・報道番組を25%放送することというNETより厳しい条件が出されていた。
この「科学テレビ」の目的は、企業の技術者を育成し、日本の科学技術水準を向上させることであった。この頃は、中卒で集団就職というのが多かった時代で、企業内の職業訓練所を卒業すると、高卒扱いとなり給料が上がる。そのために、実務とスクーリングの場が求められていたため、国は当時、東京12チャンネルをそのスクーリングの場としようとしたのだ。
番組全体の60%は「学校法人科学技術学園」で学ぶ技術者のための『通信工高講座』を中心にした科学技術教育番組で、あとは『私の昭和史』に代表される高度な教育・教養番組を編成、22時には『朝日新聞ワイドニュース』という30分のニュース番組もお目見えし、叫ばれつつあった「テレビ低俗化」の声に応えようとしていた。ドラマなどの「娯楽」番組もあるにはあったが、免許条件から教養色のあるものばかりだった。
しかし理想だけでは飯が食えない。予想通りといわれた視聴率不振や東京オリンピック(昭和39年)後の不況(当初広告収入だけではなく、企業からの拠出金でも賄う事にしていたがそれが集まらなかった)で開局2年で24億円という巨額赤字。その結果大闘争となった180人の解雇などのリストラを進め、放送時間の大幅短縮(41年4月から一年間。一日5時間半)を余儀なくされた。
この事態を見かねた他のテレビ局、NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、NETが、1967(昭和42)年に「科学テレビ協力委員会」を結成し、少しでも番組を一般的なものに近づける工夫がなされた。各局の再放送番組や、プロ野球、映画を増やしたのだ。また、財団法人では番組制作事業の運営で、いろいろな制約や支障があったため、テレビ事業を円滑に進めるために、1968(昭和43)年7月「株式会社東京12チャンネルプロダクション」が設立され、社員のほとんどは財団のテレビ事業本部の職員が兼任し、財界各社の出資による資本金10億円の会社となった。
昭和43年4月からはカラー放送を開始し、また、娯楽番組が認められてから(昭和42年11月14日、郵政省が20%認める)は個性的な番組が生み出され、『プレイガール』(昭和44年4月〜 東映製作)と『ハレンチ学園』(昭和45年10月〜 日活製作)はきわどいシーンの連発に「これでも教育テレビか!」という罵声を浴びつつ(特に『ハレンチ学園』は教育評論家・カバゴンこと阿部進が関わっていた。番組のはじめには「児童憲章」が読み上げられるなど教育番組であるというアピールか?)、時代劇『大江戸捜査網』(昭和45年10月〜 日活製作)は江戸の剛(アクション)と華(お色気)を取り入れ高視聴率を獲得した。
ちなみに、『ハレンチ学園』は最高視聴率32%という数字を叩き出し、同局歴代ドラマ1位の座を未だに破る番組がない。
余談であるが、この『大江戸捜査網』、江戸にうごめく悪を「隠密同心」と呼ばれる秘密結社が挑むというアクション時代劇で人気があったが、スポンサーは日産自動車ただ1社。時代劇と自動車メーカー・・・。「?」と思われるかもしれないが、実はこれ、当時の日産自動車会長が「この時間(土曜21時枠)に時代劇が見たい」という要望があって、東京12チャンネルしか空いていなかったという「伝説」がある。お色気も取り入れた内容が青年層の支持を受け、視聴率や経営的に苦しんでいた東京12チャンネルの救世主となる。1社提供がテレビ局にも歓迎された好例であり、また日産は現在もこの時間のスポンサーを続けている(規模は縮小したが)。
一方、毎日放送(MBS)は第12チャンネルの免許で競合していた「中央教育放送」と少しだが関わっていた。MBSにとっては密かに「東京の拠点」を作ろうとしていたのだ。MBSはのちにこの免許問題で行政訴訟を起したが、財界きっての大物ながら12チャンネルの会長でもあった植村甲午郎・経団連会長サイドから買収話が持ち込まれたことがあるという(その額35億円ともいわれている)。しかし、仮にこれを手に入れて「東京毎日放送」とした場合、東阪のネットが出来るが全時間を埋める能力に問題があり、NETとのネットを解消すると名古屋などの系列局を失ってしまう。また、毎日新聞サイドからはMBSはTBS系列に入る可能性がまだ残されているということで「待った」がかかったこと等の諸問題があり実現せず、話を持ち込まれた日本経済新聞が「しぶしぶ」経営参加をすることになった(昭和44年10月27日)。
さて、問題の「科学テレビ・東京12チャンネル」と日本経済新聞(日経)の関係だが、1964(昭和39)年の開局の時点では、日経は科学技術振興財団への協力社の中の1社に過ぎず、NETテレビへの経営参加に力を入れていた。ところが先述のとおり、科学テレビは開局からたったの1年で、13億8千万円の赤字を出し、瀕死の状態となっていた。この状況を打開するために、政財界や、科学テレビの設立に関わった財界首脳から、日経に対して、「東京12チャンネルの経営引き受けと再建」の要請が繰り返し行われるようになる。日経としては既にNETテレビの経営に参加している立場であったので、当初は乗り気ではなかったようだが、要請が極めて強かったのと、NETテレビには朝日新聞も絡んでいたため、日経グループ独自でテレビ局を持ちたいという判断からか、1969(昭和44)年11月1日に、経営を引き受け、正式参加した。
同時に、MBSは日経の要請で東京12チャンネルを「救済」する目的でクロスネット状態になった。前述のとおり東京12チャンネルが巨額の赤字を出し経営危機に陥り、経営面でも株主に名を連ねるなどした(テレビ東京となった現在でもMBSは主要株主のひとつ)。昭和44年10月改編からのプライムタイム3時間のマイクロネットがそれで、最初は土曜22時30分からの『喜劇・花も嵐も』が12チャンネル、月曜21時から『プレイガール』と木曜20時から『巨人の惑星』(のちに『歌謡曲ただいまヒット中!』など)がMBSにお目見えし、ほかにNETで放送されていた『ヤングおー!おー!』が12チャンネルに移動(開始は44年7月3日、木曜20時→日曜18時)し、MBSでは12チャンネルの主要番組『世界ビックリアワー』『人に歴史あり』『なつかしの歌声』などが時間違いで登場した。また午後の帯ワイドショー『奥さん!2時です』もMBS主導で共同制作した。
しかし、MBSがクロスネットになったことで一部NET番組が独立UHF局で放送する羽目になり、サンテレビジョン(SUN・神戸)と近畿放送(現・京都放送;KBS京都)に番組を販売するしかなかった。ネット局は増えることにはなるが、放送エリアから見ると逆に狭いために苦虫を噛まされた格好となる。また番組内容から端を発した「『23時ショー』ネット拒否表明」(昭和46年12月3日放送分の23時ショー)もあって、MBSのネットワークの発言権も増すにつれNETとの関係は波風が立った向きもある。
話は脱線するが、「『23時ショー』ネット拒否表明」について少しだけ話をしよう。世間では、ユリ・ゲラーの「スプーン曲げ」などのいわゆる「超能力番組」をMBSが否定したためだとか諸説流れているようであるが、その真偽のほどははっきりしない。当時の新聞報道などもあるだろうが一つの社会問題となっていた。毎日放送の言い分として、昭和47年6月6日、第68国会逓信委員会放送に関する小委員会第2号(議題・放送に関する件(放送番組に関する問題。いわゆる「低俗番組」と言われる放送のあり方))で参考人として出席した吉村弘・毎日放送常務取締役(当時)がこの件について説明し、次のような内容であった。
「私、私の考え、わが社の社長高橋の考え、そしてわが社のいわゆる内容の制作態度そのものについて、やや具体的な問題に触れて述べたいと思います。
具体的な問題と申しますのは、私のほうが「23時ショー」、現在NETさんがやっておられますが、そのNETさんと一緒にやっておりました「23時ショー」を去年の十二月に打ち切ったわけなんです。なぜ打ち切ったかということ、これについて当時、十二月の五日、六日、七日と新聞にいろいろと報じられましたが、その新聞の内容についても、いわゆるそこの内容にタッチしておる者でないと非常にニュアンスが間違ってとられているものがあった。これはNETさんにもそのために非常に迷惑をかけたと思いますので、この機会をかりて、その説明と同時にわが社の、また私の番組内容に対する意見を述べたいと思います。
「23時ショー」を去年の四月からネットする前に、私のほう及びNETさんもそうだったのですが、この時間はネットワークタイムではなかった。「23時ショー」をオンエアしましたときもネットワークタイムではなくて、どちらもローカル、ローカルでやっておりましたが、それまでに私どもは三十分番組を十一時台にずっと並べまして、その中には「題名のない音楽会」「百万人のつり」これはNETさん、それから「人に歴史あり」十二チャンネルさん、「ポップヤング」、これは私のほうからという、非常に私のほうとして理想的な編成をやっておりまして、こういう番組の編成をぜひ続けてくれという声が、これは関西で単独にやっておりましたから、関西地区から非常に多かった。だから私たちは、この番組をさらに続けたかった。だからNETさんのほうから、夜のワイドショーをやりたいという御希望がありましたときに、ワイドショーということになりますと、現在のこの番組は続けたい。だからワイドショーをやりたくない。しかし、ネットワークの関係だとかいろいろなことで、ワイドショーをやる場合には、現在すでに夜のワイドショーというのは二つある。だから、そこへもう一つワイドショーをやるということになりますと、非常にエスカレートするおそれがあるので、その点十分に注意してほしいということでやったわけなんですが、やはりその内容について、私たちが考えました意図とは違っておりましたので、このワイドショーを中止するということになったわけです。これも去年の十二月をもって突然一方的に通告をして中止したわけでもなしに、私たちの考え方をいろいろ述べておりまして、その内容の変更についてもいろいろとNETさんとも相談をしたのですが、しかし、これは各局のいろいろな意見がございますし、また番組の制作態度についてもいろいろ主観的な問題、それから基本的な姿勢というものもございますので、やはり相手の基本的な姿勢も尊重しなくてはならない。そうすると無理やりにそういうものを強制してまでわれわれはネットする必要がないので、中止をしまして、とりあえず洋画を流したということであります。
この番組の内容について私たちが一番考えておりましたのは、これは高橋も非常に強調しておったわけなんですけれども、番組の低俗問題ということは一応さておきます。またセックスの問題ということについても一応おきましても、しかし、番組の内容の扱い方というものについて、やはり人間の尊厳ということを頭に入れなくちゃいけない。それから番組の内容の品位ということも考えなくてはいけない。なるほどわれわれはその番組を娯楽番組として、またテレビ媒体というものは、さっきも松本さん(松本幸輝久NTV放送本部長・当時)がおっしゃったように、国民に娯楽を提供するということも非常に大きなウエートを占めております。だから、その娯楽はどの辺に求められるかということについても、われわれはよくその内容を検討して、単にむずかしい、教養的な番組ばかりで人を退屈さすようなものであってはならない。また、夜の十一時台ということになれば、やはりおのずとその内容についても一つのカテゴリーがございましょう。しかし、その内容について、やはりそこに人権の尊重ということと、それから番組の品位ということを考えなくちゃいけない。これは現在では、もうすでに私たちが中止いたしましてから六カ月以上になりますので、そういうものではございませんが、当時若干そういう点が見られましたし、また当時は、これは生で、ライブの番組としてやっておりましたので、いつ、そういうハプニングが起こるかもわからない。だからワイドショーというものを、われわれは十一時台では、時間帯としてとるのはやめよう。そしてそこで一つの新しい行き方をやろうじゃないか。その新しい行き方は、十一時台で楽しんでももらうと同時に、やはり十一時台という一つの静かな時間、これは単に若者ばかりを対象にすべきではない、高年齢者の、十一時台を静かな時間として楽しみたいという人も対象にしたいということで、現在の番組を組んでおるわけなんです。
しかし、私たちがこれを大阪でやめました理由については、これは視聴者から外圧があったんじゃないかとか、それからまた他の方面から外圧があったんじゃないかとかいうような論調なり意見も出ておりますが、決してそういうことではなしに、単にわれわれはこの制作態度ということで一貫してこれをやったわけでありまして、やはり若干そこに不快な感が盛り込まれるということなれば、幾ら娯楽を提供する、またそれを楽しんでおる人があるといっても、これは茶の間に送られる映像でございますからやめたほうがいい、やめたほうが賢明である。われわれは放送に対する自主性を叫んだり、また偏向番組については、これは右寄りまたは左の偏向番組についていつも批判の目を持って、この放送内容について絶えず考えておるわけなんですが、同時にまた、放送の品性というものも、その当時の価値判断、それから良識―,―良識といいますと非常にばく然たる議論になるわけなんですが、やはり放送人としての良識という立場からこれを検討すればいいではないか。だからこれは、各局によっていろいろその良識の判断も違うでしょう。また各人によって良識の判断も違うでしょう。だから結局、毎日放送としての良識の判断というところで内容を変更するという自由は、われわれにあってもしかるべきである。それで、これについてはこれを継続すべきであるという意見ももちろんございました。しかし、それは私たちが、やはり放送人としてその良識に従って運営はしなくてはならない、また内容を検討していかなくてはならないという信念のもとに、そういう意見は、これは取り上げられません。
それから、セックスの問題ということにも関連いたしますが、私たちは何もセックスの問題が少しでも出たらそれは汚れた番組であると申しておるのでは決してございません。また、こういうセックスは絶対にタブーということでもなし、やはり正しい指導のもとに、正しい扱い方のもとに、テレビを通じてこれを放送していくということも一つの態度でありましょう。しかし、これに対してはたして日本の社会がどこまでついていっているか、そういう現在のいわゆる社会常識というものも考慮に入れてこの問題を扱いたい。だから、私たちが現在その番組について放送を中止したということは、何も、内容にセックスが過剰であったとか何だとかというものももちろんありましょうが、やはり私がただいま申し上げましたような、そういうもろもろの意見の総合したものとして私たちはこういう態度でやりたいということで出したわけです。
私たちのこの態度について、種々の批判がございました。あるいは低俗番組と称せられる番組の中には、権力を批判する目があるんじゃないか、だからそういうものを、単に自分のところの放送局の考え方だけでこれを抑圧するのかという意見もございました。しかし私たちは、そこにもしも権力に対する批判という目が、その番組の中にあるならば、あるいはそれをリファインしてもらって、そしてその内容を継続したでありましょう。しかし、そこに権力を批判する目というものよりも、むしろそのほかの弊害が多かった場合は、これは中止したほうがやはり一般視聴者に対する影響というものを考えた場合は、これは良策であろうと信じております。
また、批判の中には、これはこの番組を、いわゆる低俗番組と称せられるもの、これは一般の番組についてでございますが、低俗番組というものに対しての批判をしているのは、あるいは戦前派の五十歳以上のお年寄りじゃないか。若い者はこれを求めている。だからそれを無視して、単にお年寄りの御意見だけでこの低俗論をやるのかという意見もございましたが、しかしこれは、われわれは単に―,―その低俗論という問題もテレビがやはり大衆性という宿命を持っている、それをただ単に消極的にだけとらえるのではなしに、この大衆というものを積極的な面でとらえていかないと、単に消極的な面だけでテレビの持つ宿命の大衆性をとらえていきますと、やはり低俗または低級という番組に堕するおそれがある。だからわれわれはこの番組の内容を娯楽的に扱ってはいけないとか、またテレビは教育的であるべきだとか、そういうしちむずかしいことを決して申し上げているものではなしに、テレビはやはり娯楽というものも相当のウエートを占めて、そうして健全なる娯楽を与えていかなくてはならない。健全とは何かと、これまたその当時の良識というものについて判断をしなくちゃならないので、これは非常に抽象的な問題になりますので、この論については省かしていただきますが、私たちは、単にこういう種の番組がきらいだとか好きだとかいう、単なる嗜好の問題というのじゃなしに、もう少し根源的な問題にさかのぼってこれを考えたいという意思でいまでも私たちは、―私がこういうきれいごとを並べて、私どもが出している番組がすべてこんなきれいな番組かとおっしゃられますと、それはじくじたるものがありますけれども、やはり一つの信念というものを持って進んでいきたい、こういう考え方でおります。
簡単でございますが・・・。」
要するに、日本テレビ系の「11PM」やフジテレビ系の「テレビナイトショー」など他に先行するワイドショーの番組内容が若い世代向けに作られたもので、ただでさえ当時では深夜という時間帯とはいえ午後11時過ぎから過激な内容で競合しているのに、ここに新たなワイドショーの参入によって内容が更に過激化する恐れがあると判断、ここで一旦ネットを切ることにより、教養番組を主とした今までの編成に戻すことで若年層も含め中高年層にも楽しめる静かな時間を提供したいという、準教育テレビ局として出発し、番組作りに対して真摯なMBSの方針があったからだ。
あと、本文からもわかるように、高橋信三MBS社長はいわゆる「エログロ」路線を嫌い、さらに当時民放連の副会長職も兼務していたこともありこれ以上受け付けられないという高潔な性格もあったとする説もある。
話は飛ぶが、TBSで後年放送された深夜の帯番組「ワンダフル」をMBSがネットしなかったのは、23時ショーのような事態を恐れて敬遠していたのと、この時間帯の自社製作番組が好調だったからと言われている。
余談であるが、教育テレビとしてやっていたNETと東京12チャンネル。普通の番組も充実してきたものの、いざお役所に報告するとなると四苦八苦だったという。放送局の再免許(当時は3年ごと、現在は5年)にはその申請と放送内容の報告が必要だが、昭和45年頃の両局のタイムテーブルを見ると朝はともかく昼・夜はほとんど娯楽番組という有様・・・。例えば昭和45年4月4日(土)の場合、NETが『素浪人花山大吉』(近衛十四郎主演の純娯楽時代劇)、『夜のビッグ・ヒット』(歌番組。川崎敬三が出ていた)を編成すれば東京12チャンネルは『土曜競馬中継』(どう考えても娯楽、実況陣の一人に小倉智昭)、そして『バラエティーショー 夜の大作戦』(藤田まことが司会、アシスタントは辺見マリ。MBS発)を放送するといった具合に・・・。
そこでNETは『クイズ・タイムショック』『アップダウンクイズ』などクイズは教育、『ビッグスポーツ』『ワールドプロレスリング』などのスポーツは教養にして、東京12チャンネルではプロ野球は科学技術教育番組、奇術を見せる『世界ビックリアワー』は教育・教養番組に報告していたとか。視聴率の取れない、そして収入の見込みのない教育番組は「お荷物」になってしまっていて、両局とも規制緩和を求めていた。最高25社を数えたNETの学校教育番組のネット局もMBS、瀬戸内海放送のみとなっていた。
その後、昭和48年10月19日、NETと東京12チャンネルは教育局から一般局に転換することが認められた。そして、1973(昭和48)年10月31日、科学テレビ最後の日。放送終了時にこのようなテロップが表示された。「お知らせ−日本科学技術振興財団テレビ事業本部の放送はこれで終わります。長年のご愛顧ありがとうございました。あすから、株式会社東京12チャンネルが新しくスタートします。テレビは12チャンネルをどうぞ!」。「株式会社東京12チャンネルプロダクション」から社名を変更した「株式会社東京12チャンネル」は、11月1日、12チャンネルの経営を科学技術振興財団から引き継ぎ、免許もそれまでの教育局から、一般総合局へと変更され、名実共に一般総合テレビ局、「東京12チャンネル」の放送がスタートしたのだった。番組プロダクション会社がテレビ局を受け継ぐのは極めて稀な話でもある。しかし、表向きながらも娯楽一辺倒にならないためにも、自主的な判断で、「教育20%以上、教養30%以上」としていて、免許条件にもなっていた。
また、他局が行っている「センセーショナル的要素のあるワイドショー」などの情報娯楽番組は、自主規制や社是などでこういった内容の放送はしない、と定めている。
脚注
※1 ラジオ関東
略称RF、コールサインJORF、空中線電力(出力)1kWで1958(昭和33)年12月24日開局。現在の株式会社アール・エフ・ラジオ日本。昭和34年10月にそれまでの空中線電力1kWから10kWへの増力が認められる。昭和46年に再度出力を増力(空中線電力が従来の10kWから30kW)したため、本来のサービスエリアである神奈川県以外にも電波が届くため、多摩川のほとりにある送信所には西へ向けて指向性を持たせる改良工事を行ったが現実的にはあまり機能していない。また、昭和56年7月20日に小田原中継放送局・JORL、出力0.1kWを開局、さらに同年10月1日に親局の空中線電力・指向性西方向30kWから同50kWへ増力を行うが、登記上の本社が横浜にあるにもかかわらず、かつ神奈川県域放送局でありながら送出設備を除いて実質的な本社・スタジオ機能が東京にあること(一時は全社員の9割が東京支社に配属されたと言われる)や、30kW増力時に見られた区域外放送(関東のほぼ全域、特に東京都)が一層著しくなったため政治問題となり、さらに厳しい指向性を持たせるよう郵政省から行政指導されるが、逆に親局送信所近傍で不感地帯が拡大し、営業的にもこの頃から少しずつ悪影響をもたらしていた。
さらに50kW増力に伴い、商号を「ラジオ関東」から当初「ラジオ日本」という社名に変更する予定だったが、NHKの国際放送が同じ「ラジオ日本」を名乗っていたため、再三ラジオ関東に「ラジオ日本」の名称を使わないよう申し入れをしたものの、当時の社長がこれを拒否、NHKがこの名称を使えないようにするため、NHKが商標登録を出願し、使用禁止の処置を取り、さらにはニッポン放送も名称が紛らわしく聴取者が混乱する恐れがあると、不正競争防止法違反で告訴する事態に陥ったため、苦肉の策として頭にコールサインの「アール・エフ」を入れて一件落着した経緯がある。
また、当時のアール・エフ・ラジオ日本の社長が聴取者層を高齢者向けにすることや、反共色の濃い論説の放送という「社会の木鐸」宣言を行い、それまで比較的評判の良かった洋楽番組を始め、アイドル・ポップス路線番組を敵視、次々に一掃、更には社長に異を唱える者がいれば容赦なく左遷や解雇するという異常な独裁経営の状態に陥り最盛期には約130人いた従業員も最終的に30人台になるなど、これを境に聴取率、営業収入ともに下降を続け、苦しい経営がしばらく続くことになる。
1993(平成4)年3月からは読売新聞の意向で巨人戦のホームゲームの中継権が在京のTBS、ニッポン放送に開放され、更に聴取率、営業収入も減少し深刻な経営危機に陥り、もはや経営破綻寸前の同年12月21日、同社社長の経営方針に不満を募らせていた同社と協力関係にあった読売新聞の小林與三次主導のもと、反社長派幹部が諮って取締役会によるクーデターを起こし、「公共の電波を扱う経営者として相応しくない」と言う理由で全会一致で社長解任を決議、社長がその時点で電撃解任された。当の社長本人は取締役会は定時に開催するようにとの連絡をしたが、本人が遅刻したため、それに先立ち急遽緊急発議で実現したものだった。
その後、前社長の後に小林與三次の筋書き通り、やはり日本テレビ放送網株式会社の社長も務めた同じ読売出身の別の人物が就任、解任された前社長は、同局の乱脈経営の責任を問われる形で新社長が告訴、前社長の資産は差し押さえられ、前社長の一族が所有していた同局の株を、小林與三次が社長も務めた同じ読売系列の日本テレビ放送網株式会社に譲渡、同局は最終的に日本テレビの傘下に入ることになり、と同時にアール・エフ・ラジオ日本は日本テレビ放送網株式会社の持分法適用会社(日テレの子会社)となって、日本テレビ主導のもとで経営再建を行うことで一応の決着をみた。このため登記及び放送免許上の関係もあり、旧本社を横浜本社として(実質的には横浜支社扱いとなっている)、併せて東京支社を東京本社へ格上げ、2本社制としてスタート。実質的な本社はこの時点で東京に移る。また、送出設備を除き全てが東京本社に一本化された。
そのため、現在アール・エフ・ラジオ日本の番組に日本テレビのアナウンサーが番組パーソナリティーとして出演しているのはこの関係のためであり、一部社員は日本テレビから同社へ出向という形になっている。
(このケースは東京メトロポリタンテレビジョン(通称・TOKYO MX)やKBS京都でも同じことが言え、関西テレビもKBS京都へ出資している関係からKBS京都の番組に関西テレビのアナウンサーが出演したり、番組制作の協力や関西テレビのCS放送「京都チャンネル」は実質的に両社共同の制作で放送されている。また、フジテレビ制作の番組で関西テレビでネットしない番組をKBS京都やサンテレビなどに回しているのはこのためである。さらに、フジテレビ制作で京都を舞台に制作したドラマでは、KBS京都ラジオが実際に使用している周波数を用いカーラジオで大映しして(但し、放送内容や局名は全て架空のもの)場面構成することもあり、その場合は制作協力としてKBS京都のクレジットが入ることがある。
また、TOKYO MXの場合は経営危機の際にFM東京が救済に乗り出したこともあり、FM東京の一部のアナウンサーや社員がTOKYO MXに出向扱いとなり、TOKYO MX本社も2006(平成18)年に江東区にあるテレコムセンタービルからFM東京本社に程近い千代田区麹町にFM東京と東條会館とで共同で建設したビル(半蔵門メディアセンター)に移転した。)
2008(平成20)年12月24日には、同局開局50周年記念として12月23日より50時間に及ぶ連続特別記念放送番組を行った。
【この話を製作するに当たり、一部内容の転載許諾を頂きました】
(C)かわぐち まさし@愛媛県 様
[ この話の参考文献 ]
株式会社テレビ東京・テレビ東京史 20世紀のあゆみ,全国朝日放送株式会社・テレビ朝日社史,
株式会社毎日放送・毎日放送50年史
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