イタリア人マルコニーにより無線通信が発明されたのは1895年のことでした。その情報は
直ちに日本に伝えられ、2年後には早くも実験試作が行われました。
1896年に逓信省・電気試験所長の浅野応輔は無線電信の研究を所員の松代松之助に命
じ、松代は翌1897年に実験に成功しました。松代は僅かな資料を頼りに手探りで実験機材
を造り築地海岸で実験を行いました。
この一事は、その当時の日本社会の実力からすれば、驚嘆に値すると思われます。明治
政府が1868年に成立してから、近代国家の建設を目指して先進国に追付こうと諸制度や
産業を整えていた時代ですから、今日では日曜大工店等で容易に入手できる部品・材料
の類も総て自力で調達しなければならなかった筈です。
科学・技術を駆使できる技師の養成を目的に工部大学校が創立され、日本初の工学士が
誕生したのが1879年でした。開学当初の教授陣は総て英国人であり、実験機材は総て輸
入に頼っていました。松代が無線機の実験をしたのは、そんな時代から20年も経ていなか
ったのですから、先ず実験機材を準備する事が大仕事でした。
また、文献資料の類も手に入れるのが大変でした。複写機もフアックスもインターネットも無
い時代です。輸送手段にしても航空機は未だ出現せず、大洋航路の船舶しか有りませんで
した。そんな環境の下で、世界最先端の技術を独力で追随したのですから、その努力には
敬服します。
松代らは僅か2冊の冊子を頼りに精力的に研究を進め、1897年11月には早くも月島・金杉
沖間1.8kmの交信に成功しました。次いで1898年12月には月島・第5台場間3.4kmの実験
にも成功を収めました。マルコニーの発明が公表されてから、2年に満たずしてに独力で
追試に成功した例は世界的にも稀であったと思われます。
この成果は専門誌である、「電気学会雑誌」に発表しましたが、それだけに止まらず新聞社
や陸海軍を招いて公開実験を行いました。先端技術を広く一般に知らしめる広報活動は今
日では当たり前の事ですが、当時としては画期的な試みであったと思われます。この公開
実験は特に海軍の関心を高め、その開発を促進する結果を齎しました。
その頃、海軍は戦艦「敷島」を英国に発注していたので、無線機に関して英国マルコニー社
に打診しましたが、非常に高価であったので自主開発に方針を変えました。松代松之助の
移籍を要請し、同時に第二高等学校教授であり無線技術の研究をしていた木村駿吉を招
請して体制を整えました。組織としては外波内蔵吉少佐を委員長とする無線電信調査委員
会という形をとりました。
松代・木村を中心とする研究活動は着々と成果を上げ、1900年には海軍大臣臨席の下に
実験を行い、1901年には150kmの交信能力を持つ34式無線機を制式化するに至りまし
た。マルコニーの無線通信成功の報を得てから僅々6年にして、極東の一小国が独力で開
発し実用に供したのですから、担当者は超人的な努力を重ねたと思われます。
一方、逓信省における研究は佐伯美津留に引き継がれ、こちらも成果を上げて行きまし
た。1900年の交信距離は、18kmから50kmほどでしたが、1903年には長崎・台湾間の1200
kmに達しました。この時に夜間の交信は出来るが昼間は困難であるという現象を発見し
ました。電波伝搬データの第1号と見ることが出来ます。
海軍はさらに開発を進め1903年には、より高性能の36式無線電信機を完成し、370kmの
交信能力を備えるに至りました。この無線機には安中電機製作所(現在のアンリツ電気株
式会社)の開発したインダクション・コイルが組み込まれた事は特筆に価します。また電源
としては島津製作所の創案による蓄電池を使用しました。この事は幾つかの主要部品が民
間の企業により製造できる段階に達した事実を明示しています。
この36式無線機は直ちに連合艦隊の艦艇に装備されました。主要な艦から始め、日本海
海戦の直前には駆逐艦に至る殆どの艦に装備されました。すなわち1905年5月には、戦
艦・巡洋艦・哨戒艦は100%、海防艦・砲艦は88%、駆逐艦は85%という数字でした。
この装備率は世界最高の値であって、世界最強を呼号した大英帝国海軍でも80%程度で
したから当時の関係者が如何に先見の明があったか、果断な実行力があったかを如実に
物語っててます。
軍・官・民一体となつて開発・整備された36式無線機は、日本海海戦において期待に背か
ぬ働きをしました。欧州から回航して来るロシア・バルチック艦隊を迎撃すべく布陣した連
合艦隊は70余隻の艦艇を哨戒に当てましたが、その中の信濃丸が五島列島・白瀬島西方
海域でロシア艦隊を発見、直ちに「敵艦隊発見」の打電をしました。この時、連合艦隊の旗
艦・三笠との距離は185kmほどでした。逸早くロシア艦隊の位置・動向を知った日本艦隊
は優位の立場を占め、海戦史で最大かつ完璧の勝利を収めました。
この際に相手のロシア艦隊も無線設備は有りましたが、有効に使われることは有りません
でした。装備率は30%ほどと伝えられ、機材の能力も36式無線機よりも低く、将兵は操作
に熟達していなかったようです。真偽のほどは確かではありませんが、指導のために乗艦
した英国マルコニー社の技術者が待遇の悪さに怒って途中で退艦してしまい、遂に使いこ
なせるレベルに達しなかった、という珍談も有ります。
また、ロシア艦隊は信濃丸の発した電文を傍受はしたが、何らの対策を講じなかったと云う
話も伝えられています。その一つは、妨害電波を発して、その後の交信を不能にしようと艦
隊司令長官に進言したところ、「そのような卑劣な手段は光輝あるロシア艦隊として採るべ
きでない」と却下されたとの事です。その2は、既に日本海軍に位置・進路を発見され臨戦
態勢に入ったにも関らず、ロシア艦隊の無線封鎖を続けたために艦隊内の相互の連絡が
不十分であった事です。
大勝利を得た連合艦隊司令長官・東郷平八郎は哨戒艦信濃丸の功績に対して感状を授
け、そのを讃えました。また作戦計画を推進した主席参謀・秋山真之は36式無線機の開発
に尽くした木村駿吉技師に感謝の書簡を送っています。この事は開戦に先立ち開発整備し
た無線通信機が、実戦に於いて極めて有効に働いたとしての高い評価を示すものです。
世界の戦史上、初の電子情報戦であり、その成果は劇的と云えるものでした。以来、列強
は競って無線通信技術の軍事への導入を図りました。
当時は開発途上の東洋の一小国である日本が、殆ど独力で先端技術に追従し大量に整備
し、それを作戦に活用して勝利を収めたのですから、世界を驚倒させた事は想像に難く有り
ません。前記の秋山参謀は木村技師あての書簡で 「いかに威力の大きい大砲・魚雷など
の兵器を持ち、そして強大な軍艦、かつ高速の軍艦といえども無線機が無くてはその能力
を充分に発揮できない。したがってその重要性は・・・・」と記しています。
まことに歴史に燦然と輝く名参謀の至言と云うべきでしょう。

作家・司馬遼太郎は名作「坂上の雲」で明治政府を確立し、日清・日露戦争に勝利を収め
先進国入りを推進した多くの偉人・英傑を活写しています。その中でも日本海海戦を巡る
記述は圧巻と云えるでしょう。文中に幾つか目を引く記述が有りました。
ロシア艦隊も無線設備は備えており、傍受の態勢にありましたが、日本艦艇の発したらし
い電文が定時・定型的な交信から、非常事態を告げる連送に変った事を知り、日本軍に
発見されたと悟った場面です。これは既に無線傍受が軍事行動として一般化していた事
実を示していますが、さりげなく文中に書き入れた作家の博識には驚きます。
また、ロシア艦艇の煙突は黄色に塗装され、非常に目立つという報告を、信濃丸から引き
継いだ巡洋艦・和泉が発信し、この情報は砲撃戦で照準を定めるのに役立ったという記述
も有ります。この事例から、当時の開発早々の無線機でも、かなりの情報を扱える能力を
備えていたと推定されます。同時に、このような細かい情報も勝因の一つとして記した作
家の周到な観察と筆力には敬服します。
今回は36式無線電信機を中心に記しました。この一文を纏めるに際して多くの資料を参照
させて頂いたことに感謝します。
編者の所感を蛇足として加えます。明治政府が発足して40年に満たぬ短期間に世界最先
端の無線技術を開発し、国産の機器を揃え、かつ縦横に活用して勝機を掴んだ先覚者の
努力と先見性にはつくづく感心させられます。ところが、その後の推移を見ると、電子兵器
については驚くほどの停滞が生じました。第二次世界大戦の帰趨を決したのはレーダー
だと云われますが、その開発・実用化は英米に比して数年の遅れが有りました。もう一つ
は航空機搭載の無線電話機の能力の低さです、空中戦において指揮・連絡が不十分で苦
戦を強いられました。
つまり日露戦争では、質・量ともに世界一を誇った電子兵器は、約40年後の大東亜戦争で
は、英米の後塵を拝する惨状までに低下していたのです。それにはそれで種々の理由が
多くの方々により論じられていますから、詳述は避けますが、要は指導層に先見の明が無
く、今風に云えば「成功体験(それも表面的な)に固執した」、という事でしょう。
敗戦後、その反省に立って研鑽努力の結果、約40年にして民生機器を中核とする電子技
術立国日本が再現しました。ただし、その後のバブル経済崩壊により再び停滞を余儀なく
されているのが現状のようです。今後の約40年はどのように推移するでしょうか?
トップに移る・・・01に移る・・・
02に移る・・・03に移る・・・
04に移る・・・06に進む
発行人のプロフィルに進む